信重の生涯・信重を名乗るまで

ここでは七兵衛が 信重 を名乗るまで 主に と呼ばれた頃について解説を試みる。
信重の幼名 御坊は天正二年(1574)から天正三年(1575)には元服したと考えられており 通史に於ける初陣は天正三年(1575)夏に養父磯野員昌と共に出陣した越前一揆征伐であるとされる  
では信重が行動を開始したのはこの初陣が初なのだろうか。それは蘭奢待切り取り奉行を考えると否だ。では蘭奢待切り取り奉行として行動した天正二年(1574)か。同年であれば 岐阜城の茶会に名を連ねた二月がその人生の始まりだったのだろうか。これも否だ。
ただ信頼できる一次史料 という点では天正二年が正確と言えよう

調べていくとこれよりも前 元亀争乱下に 信澄 による高島郡攻撃の逸話 伝承が遺されている。身も蓋もないが こうした逸話は到底信じるに足りない。しかし彼の人生調べる上で せっかく拾遺したのだから怪しい話として収めるのである。
ところで以下の二年分の解説には 高島の地名や城が多く登場する。是非高島地図をチラ見しながら読んで頂きたい。

弘治元年(1555)~永禄元年(1558)

この四年の間に信重は織田信勝の子として誕生した。
残念ながら その正確な時期や母である和田氏が正室か側室が不詳であり わからない事が多い。

永禄元年(1558)

十一月二日・父信勝、殺害される

寛政重脩諸家譜では弘治三年(1557)を没年としているが 最近ではこの日を没年とするのが通説である。
ところで父の織田信勝とは かつて 織田信行 と呼ばれていた人物である。しかし それも現在では 信勝 とするのが通説で 細かくいけば信勝の次に 達成 信成 と改名していった事も通説となってきている。

信勝の遺児は生かされたらしい というのは本項の主人公織田信重であったり 徳島藩津田家の史料から知ることが出来る。

元亀二年(1571)・磯野員昌の高島入り

凡そ十六歳頃である。
この年の二月末に後の父 磯野員昌が高島に移送された。

ところで御坊が養子入りした時期を明確に示した史料は存在しない。
彼が高島に居た事を示す初出史料は 兼見卿記 にて天正四年(1576)一月十八日条の 高嶋七兵衛尉上洛 というものである。
つまり天正四年(1576)までには 確実に高島郡に入っていたと考えられる。

そうした部分で 近江の磯野氏 に面白い事が記されている。

織田七兵衛尉人質により小谷へ志さし来るに立ち入らず 磯野宏氏文書

つまり 御坊は当初小谷城の人質になる予定であった事を示している。そうなると浅井長政の養子と 相成るのだろうか。結局この話は破談したのか 結局彼は員昌の養子となったと続く。
この話は面白いが それだけだろう。特に気にとめる必要も無い逸話である。

ただ一つ思い当たる節はある。前年に行われた志賀の陣の終結に際して 織田信長と足利義昭は朝倉義景と人質を交わしているが 浅井長政に対しても同様に人質を交わした可能性もあるのではないか。そして人質には御坊が選ばれた と考えることも出来ようか。

ともあれ果たして 何故彼が養子に選ばれたのか。これはわからないことだ。史料に見られない中で 何かしら信長の目に叶う出来事があったのだろうか。
これもまた わからないことである。

元亀三年(1572)・高島に於ける伝承

この時期の高島に 信澄 が軍事行動を起こした伝承が存在する。
一つは三月十六日に 信澄配下森半兵衛為村 が打下の白鬚神社から北高島にある浅井方の寺社五ヶ所のうち今津の酒波寺を含む四つ 他に釈迦堂 角野社 を焼き払ったというもので 西島太郎氏は今津町史所収の 日吉神社集入雑記 を出典としている。
ご存じのように織田七兵衛尉信重は 信澄 と名乗った記録が見られない為に信憑性に欠ける。
しかし高島郡にはこの時代に燃やされたとする寺社の伝承が多いから 少しは見るに値するところはあるだろう。また森半兵衛為村については波爾布神社にも 由緒を新旭町史で確認 見る事が出来る為 此方も興味深い。

興味深い点で言えば 磯野員昌にはこうした伝承が存在しない。この時代であれば織田の兵といえば やはり磯野の兵である可能性が高いだろう。しかし実際に郷土史を読むと員昌の存在感は今一つであった。

さてこうした史料が紹介された論文が藤本孝一氏の 中世史料学叢論 に収まる 近江国高島郡河上荘 大江保の史料について―― 大江保河上往古中興近代集入雑記 の紹介 ―― である。
紹介の史料は酒波日置神社の社家 布留宮家に伝わるもので 文化十一年(1814)に荒谷組八ヶ村と角川村とで争われた山論の検分に際して角川村より往古からの古文書 由来等を書き上げて提出した記録の控えと思われるそうだ。また原文書は 江戸時代前期頃の写しと言われている。

主人信澄為武威 北之高島郡之内 信長公へ不恐之寺社有五ケ所 一時ニ可退転 請下知打立賀茂之面 馬上ゟ遠目鏡見渡せバ 山に四ケ所煙立 五ケ所不見 不審思郷来 四ケ所思之儘焼払 当社乗込 神罰之恐敷所也 命之礼此目鏡納帰者也
元亀酉三月                為村右衛門尉
 右者 元亀三年織田信澄当郡寺社ヲ焼払 岩剣宮ニテ降参之一通幷納物品々有之

これが同論文に掲載される元亀三年(1572)に纏わるものである。藤本氏は 仮名訓は雑記作製時に付けられたもの 仮名訓以外の所収文書は信頼できると思われる としているが まず以て 信澄 なる人物は存在しないし これが七兵衛であるならば元服以前の出来事であるから 為村右衛門尉 が斯様に表現することは有り得ないだろう。何よりも 為村右衛門尉 自体が存在の怪しい人物である。波爾布神社の伝承では 森半兵衛為村 日置神社の文書では 為村右衛門尉 全く以て曖昧な存在である。
もう一つ 八月には北仰の津野神社が 信澄が為に 焼かれ宝物記録を焼失 更に社領六十石が没収されたと伝わるが 此方も定かでは無い。

また伝承であれば能勢 岐尼神社の由緒は 元亀二年(1571)十二月 信澄 の乱入に遭ったと云う。
しかし元亀年間であれば その動向は不明であるから こうした由緒も定かでは無い。
近江では江戸時代の早くから歴史創作家が活動しており こうした由緒 信澄伝説も彼らによって 創造 されたのであろう。悲しいかな 全く以て信用するに値しない記述と断じるほかない。

天正元年(1573)

朝倉軍を壊滅させた信長は 八月十六日に逗留先の敦賀から多胡宗右衛門へ書状を送った。それは所領安堵に新知の事は磯野員昌から通知されること 併せて山々の破城を命じたものである。

霜月十日・横山親子の死

永禄以来年代記 とよると 霜月十日 江州高嶋ノ横山父子首京へ上 という。
つまり十一月十日に高島の横山父子の首が京に上った という話である。
高島で横山 というと西佐々木七人の横山氏が思い浮かぶ。
考えてみると 京へ上る ほどの身分の人物だ。やはり西佐々木同名中の横山氏だろう。
そうなると十一月に磯野員昌 御坊親子は横山とその息子を誅殺 処刑したのだろう。

また逸話として 海津之城私考 には天正の初めに七兵衛が 地頭 郷士を殺害し 城を破却させる 田屋淡路守を討ち という記述がある。
地頭 郷士の殺害については横山親子の死と合致するとみても良いし 城の破却は多胡宗右衛門宛の信長朱印状内にある 井山々破城之状如件 が合致するだろう。
無論これらは 信長の命令 信澄の手柄 として伝わったもので 実際には土地の国人 土豪に加え磯野員昌の家臣らが破却を実行したのだろう。

しかし殺害された筈の 田屋淡路守 は天正三年(1575)仲冬十五日 陰暦の十一月 現在の暦で十二月から一月 の大處神社棟札に見ることが出来る。これは大處神社というが西島太郎氏の 戦国期室町幕府と在地領主 によると 酒波大菩薩新玉殿の建立 に纏わる棟札らしい。
つまり田屋淡路守は生きていたのである。

天正二年(1574)

後の七兵衛尉信重 つまり御坊が表舞台に姿を見せるのは天正二年(1574)の事である。

二月三日・御坊の初見(宗及岐阜茶会)

二月三日 岐阜城で津田宗及を招いての茶会が開かれる。御坊は信長の子 茶筅丸 後の信雄 と共に給仕配膳を担当している。
その際に宗及は御坊について 御通 御坊様 殿様ノ御姪子様也 勘十郎殿御子息也 と記録している。これが彼の初見である。

三月二十七日・蘭奢待切り取り

これに続き三月の蘭奢待切り取りでも奉行として登場する。
天正二年截香記 大日本史料 によれば 三月 廿八日辰之刻二 信長為名代織田御房 信長兄ノ子 実際は弟の子である。信長兄弟の子 という意味合いかもしれない 并柴田 荒木信濃 島田但馬 塙九 菅屋 前田又左衛門 福富 矢部善七郎 此外五人 以下略 並み居る重臣らを押しのけて名代の筆頭に名を連ねている。更に 客殿ヘハ御房殿 筆者 柴田 信濃 島田 順慶 以上六人 とて客殿へ通されている。
東大寺薬師院文庫史料 大日本史料 では名代として 織田御法殿 とあり 蔵のなかへ入ることを許されている。

この二つの事柄からわかるのは 信重は当時元服前であったと云う事だ。また若くして織田の一門 更には塙直政 菅屋長頼 佐久間 柴田 丹羽 蜂屋といった織田家の主軸に名を連ねているのは 信長の期待の表れだろうか。はたまた 元亀争乱で養父磯野員昌が積み重ねた実績が 彼を押し上げたのだろうか。
なお奈良方の記録では 織田 であるのに 太田牛一は 津田坊 信長記 と書いている。これは牛一が 津田姓 と認識していたことに依るのだろう。

信長書状の「津田事」は御坊なのか

また御坊の動向とは別に 彼に纏わる書状が八月三日に信長より発行されている。宛ては長岡兵部 細川藤孝 である。
内容は 津田の事 粗々承った。次の上洛で相談したい。詳しいことは塙が申し上げる といったものである。塙とは織田家の出世頭 塙直政であろう。
この 津田事 について通説では御坊と光秀の娘の婚姻と考えられている。先に述べたとおり 確かに信重について 津田姓 との認識を持った人物がいたことも事実である。

しかしこの書状を考えてみると 津田事 は信重には当たらないと思うところがある。
津田事 は文末であるが この書状はそもそも 折紙披見候 仍河内三ヶ城へ去敵晦敵相働候処 及一戦 首少々討捕之 追散之由尤候 猶以由断御心懸可然候 とはじまる。この 河内三ヶ城 とは現在の大阪府大東市の 三箇城 を指すとみられているが つまり河内情勢に纏わる内容である。大日本史料を読むと藤孝が長島攻めの最中にあった信長に 都度河内 摂津の情勢を伝えていたようで五日付の書状には 尚以摂 河表手當等之事 御才覚専一候 不可有油断候 とある。
そうしたところで大阪府の地図を眺めると現在の枚方市に 津田 という地名が見える。この土地は江戸時代最大の偽文書 椿井文書 の影響を受けた舞台でもある。馬部隆弘氏によれば津田という土地は緩衝帯であり 松永久秀等が要衝として利用し 若江へ落ち延びる足利義昭も逗留した実績のある 津田城 が存在するらしい。また同地は土地の土豪が支配したとみえ 周辺地域 交野 同様に 一揆的集団 が存在した可能性もあるという。
更に現在の枚方市域には 天正年間に代官として津田重兼が招提寺内町を治めている。
藤孝が当時摂津 河内方面にあったことを考えれば 自ずと 津田事 というのは 津田重兼 もしくは 津田 地域 土豪集団 を指す可能性が高い。

また塙直政と藤孝は共に山城を治める立場にあったので 山城の 津田 との関連も考えられる。
果たして 津田 が姓氏か地名かは定かではないが 旧幕臣で明智光秀の家臣には山城伏見を出身とする 津田与三郎 重久 なる人物が存在する。その名からわかるように 馬部氏は先に出た津田重兼と津田重久が同族である可能性を指摘する。
そうなると 津田事 には 山城に屯していた旧幕臣の取り扱いを巡る沙汰の可能性も考えられるかもしれない。ただし現状では河内の津田に纏わるものを考えるのが自然であろう。
つまり本書状と七兵衛は概ね関わりがないと言えるのだ。

天正三年(1575)

この年も一次史料 二次史料ともに記録が残されている。特に記録上初陣を迎えたのがこの年である。ただその前に この年御坊は名を改めたと考えられることを明記しておきたい。

織田信忠の改名

さて信重襲名を考える前に 織田の次期当主 勘九郎の改名について考えてみよう。
彼は 信忠 という名前が広く知られているが 彼には初名が存在する。
それが 信重 という名である。
では彼が信忠に改めたのは何時になるのか。
インターネットで調べてみると 徳川林政史研究所の所蔵写真資料目録6という PDF に行き当たる。その中から目的の物を抜き出すと以下のようになる。
天正二年(1574)三月に 織田信重制札 岐阜 立政寺 天正三年(1575)十一月三日に 信忠掟書 愛知東郷村 祐福寺 とある。
他に DNP のアーカイブには掟書より四ヶ月早く七月二十三日の信忠書状が存在する。

つまりこの後継者は天正二年(1574)の三月から天正三年(1575)の七月までに改名したと考えられる。この事に詳しい論文に 織田信忠の文書と花押/渡辺江美子 古文書研究一九八五年九月 というものがある。その中に執筆当時で収拾できた信忠書状の一覧表があり 改名時期の検討に役立った。
なんと 天正二年(1574)の正月には信忠 を名乗っていたのである。
そうすると 信重 という名は空いている事となり 御坊の信重襲名は可能となるだろう。
天正三年(1575)九月の兼見卿記には 七兵衛 という名前が二度登場している。それを踏まえると 御坊から七兵衛信重に変わったのは 天正二年(1574)の正月以降から天正三年(1575)の夏頃の間 と考える事が出来る。

六月~七月・余部攻め考察

細川家の記録として有名な 綿考輯録 の藤孝編に 亀山城攻め が登場する。元々の出典は 織田軍記 で信憑性に欠けるが 信重の合戦歴を考える上で興味深いので少し考察してみよう。

曰く 天正六年(1578)の項に 去年の冬 亀山を攻めた。寄せ手には津田七兵衛や滝川 丹羽が居た という内容だ。
ただ亀山というのは 光秀の統治下で建築された城であり攻め落としたとするのは間違いだろう。しかし深く調べてみると どうも 余部城 なる城は攻め落とされたらしい。

ではこの余部攻めが何時行われたのか知る手立てはあるのか。亀岡市公式サイトを読むと 光秀は天正三年(1575)の八月二十一日に丹波の協力者小畠永明に対し書状を発行している事がわかる。その中には 馬路余部在城の衆 と記されており 同年の夏には既に余部を手中にしていたことが理解できる。
この天正三年(1575) 織田軍は五月に長篠 八月に越前を攻めている。そうなると 六月から七月にかけて行われたのだろうか。
さらに亀岡市史で調べてみると 小畠が織田へ転じたのは六月十日頃とある。

余部城は丸岡城とも言うそうだが 現地の案内看板写真を読むと落城年は 天正六年(1578) と記されているようだ。しかしながら ここまで記したように天正三年(1575)の六月から七月にかけ 攻め滅ぼされたと考えるのが自然だ。つまり 綿考輯録 織田軍記 の内容に対しても誤りを指摘できる。

落城後の余部城は亀山城が築城されるまでの間 光秀の丹波攻めの拠点として機能した。その要の地を落とすに 七兵衛が確かに従軍したとの一次史料記録は遺されていない。しかしながら軍記に 斯様に記されている事は興味深い。

八月~九月・越前制圧と打下掌握

さてその少し前の八月 越前一向一揆攻めが盛大に行われる。
信長公記を読むとここに 七兵衛信澄 ではあるが 伊勢の一門衆と並ぶ形で名前が記されている。
また十八日の鳥羽城攻めには柴田 丹羽の宿老に 信澄 の名前が続いている。この鳥羽城攻めで三将は五~六百の首を獲ったという これが凡そ信頼に足る史料に見える七兵衛の 初陣 である。

ところで直前の十四日 吉田兼見と勧修寺晴豊は 高島新城 に宿泊している。兼見卿記 にて 今夜高島一宿新城了 と記される。
これは戦地の信長を訪ねる道中のことで 坂本城の次に訪れたのである。
新城 という表記が気になるが これは 新庄 を指すのだろうか。

そうして越前の一向一揆は皆殺しという形で制圧され 北ノ庄に新たな城が築かれる事となる。その中で九月二日の項に 打下城の林与次左衛門が元亀元年の志賀の陣で敵方についたという咎から誅殺されている。

時に林は 舟手である一向門徒 一揆 との協働による力を有していた。
この処刑は舟手 水軍力 の直轄化にあるのではないかと考えるが 具体的な事例は皆無である。

もう一点 後に大溝城が築城された事を考えると この処刑は同地域の直轄化ありきと考えることも出来るだろう。
打下から大溝にかけては西近江路が通る陸地が狭く 水面が接近している。
古よりの荘園権利事細かな高島郡にあって 織田政権が自由に出来る土地は少なかったのではないか。西佐々木七人が居したとされる城は多くが山城で 唯一能登家の城が船木にあったが戦国時代末の同地は既に商人中の地であり これを自由に扱うことは出来ないだろう。
新庄城は西近江路から離れ 更に安曇川に面するとて琵琶湖からも遠い。
そうした中で織田政権の琵琶湖戦略に能う地は 打下から勝野の一帯にしか存在しなかったのである。

こうしたグランドデザインを描いたのは 員昌でも信重でもなく 他でもない織田信長その人ではないか。
彼は元亀元年(1570)の若狭 敦賀出兵 元亀三年(1572)の高島攻め 元亀四年(1573)の湖西攻めの計三回 高島を訪れている。
特に元亀四年(1573)の湖西攻めでは 高島攻略に際して打下に陣を構えている。すると彼の頭の中には 早くから同地の支配という構想が浮かんでいたかもしれない。

また林の本拠地である打下は長きにわたり志賀郡小松庄と 鵜川 を巡り争い続けてきた。この相論は打下の百姓が中心となっていたもので どこまで林が関与していたのか定かでは無いものの 志賀郡を治める明智光秀は対処に苦慮することになる。
この事態を重く見た信長に処断されたとも考えられようか。

九月二十五日、二十七日・信長に付き従う七兵衛

そして九月二十五日 兼見卿記に 七兵衛尉 村井専次馳走也 別而仕合了 として登場する。
この日 信長は山城の愛宕で鷹狩りを行っており どうやら吉田兼見が菓子を贈り振る舞ったようである。その際に七兵衛は村井専次 所司代の息子か と共に兼見と会ったらしい。

二十七日には吉田兼見が礼の為に七兵衛を訪ねた。しかし七兵衛は 出頭也 ということで 直ニ信長へ罷出 と直接信長を訪ねたようだ。そうして暫し広間に居たところ 七兵衛尉退出之砌申礼 という。どうやら兼見が七兵衛や信長を訪ねたのは信長へ 小皷徽 を五懸進上するためで 七兵衛がこれを披露したようである。更に読み進めると 二十五日の鷹狩りの際に信長方が御茶湯を持参したので その礼として進上したのだろう。信長は人が良いので兼見は 雁一 を賜った。これは鷹狩りの獲物だろうか。