織田信重の生涯・台頭の天正中期

織田七兵衛信重の台頭と丹波 播磨戦線について解説を試みる。

台頭の天正中期

さて七兵衛信重を名乗るようになった信重は徐々に織田家中で台頭していくのだが ここで扱う天正中期とは四年から七年の四年間である。この四年間というのは畿内から播磨にかけて戦火が拡がった時期であり 彼はそうした戦場で幾つかの戦功を挙げ台頭していった そういった認識が生まれる。しかし一次史料では戦功に纏わる史料は少なく 二次史料や逸話レベルでの史料と相成るのが残念なところだ。
更に書状や一次史料では 天正六~七年の時間でその名前を確認する事が出来ない つまり天正五年の書状一件を最後に空白の三年と相成る訳だ。

天正四年(1576)

この年 信重 の初見が見られることが重要である。
それまで磯野員昌が担っていた高島郡内の仕事を この年から彼も担うようになった。

一月十八日・丹波見舞い下向

兼見卿記によると 高島より七兵衛尉が上洛したという。これは今度の丹波に関して 見舞 の為に下向するらしい。彼が北白川に陣を取ったので 兼見は礼の為に陣へ罷り向かった。このとき兼見は ユカケ一具 を持参し 奏者又右衛門は五明二本を遣い面会したという。この 五明 とは 五明扇 という扇子を指すのだろう。
この出兵は先頃波多野氏の策により丹波で敗れた光秀を見舞う為の出兵である。ここで光秀の為に出兵している事は 二人が婿舅の関係であることを示唆するものだろう。

ところで藤堂家の二次史料である公室年譜 高山公実録には 天正二年(1574)の項で大山城 籾井城を攻め高虎 当時与吉 が活躍した旨が記されているが これは誤った記述である。それが天正四年(1576)の間違いだとしても 誤った記述だ。
そもそも兼見卿記には三日後の二十一日に帰国する舅 光秀が登場している。つまり今回の出兵というのは大掛かりな合戦に備えたものではなく 単に光秀を見舞う為に出兵し 戦闘行為が発生した可能性は薄いと考えるのが合理的であり 藤堂家の記録は間違いであると断言しても良いだろう。

安土築城と信重

この次に信重の動向が確認されるのは十月の商人に宛てた書状である。
さて信長公記ではこの年の四月から安土城の築城が始まっている。
その中で 近江周辺各地から石を集めたことが記されているが ここに 津田坊が蛇石という大石を持ってきたが 安土山の高くへ持ち上げるのに苦労した といった事が記されている。
無論 ここに登場する 津田坊 というのは信重のことだろう。その名前は気になるが 太田牛一が彼の改名を把握していなかった可能性が 表記の揺れを生んだのだろう。姓は牛一が 津田姓 との認識を持っていたことに依ると思われる。
この蛇石騒動の時期は不明である。しかし信長公記の流れ通りであれば四月の出来事なのだろうか。

十月十日・山本家文書と員昌隠居、高島割譲

十月十日に朽木 船木の商人に対し書状を発行している。高島町史では極月つまり十二月としている
内容は 材木の事は丹州が定めた法の如くなすべし もし背く者があれば堅く成敗する といった内容だ。山本家文書
御判があるので 判物といったものになるのか。
丹州というのは父 員昌の事であるが この文書には興味深い注釈が付いている。
右の者 磯野丹波守 左馬頭御養子にして高嶋郡之内今津より南を知行。今津より北丹波守御隠居に領す由
実に興味深い。左馬頭というのは員昌が晩年に称していた受領名 官位なのだろうか定かでは無い。また大溝城の絵図には 永田左馬 という名が見られる。高島で永田と言えば 高島七頭を想起するので 信重は永田と縁を結んだのかとも考えられる。しかし 永田左馬はどうやら 左馬助 であるようなので違うだろう。そうなると単に誤植か また別の 左馬頭 なのだろうか?
そして 今津を境に南を信重 北を員昌が隠居領とした という記述も興味深い。
この高島分割の時期は不明である。現状ではこの天正四年(1576)に信重判物が現れるところから この年を分割の年と考えるのが良いだろう。細かい時期の推定には更なる文書発掘が待たれるところだ。
今津町史を読むと 中ノ川 を境界にしたという見解が記されている。しかし残念ながら旧今津町域の中ノ川というのはよくわからなかった。

天正5年(1577)

この年 一次史料では僅か一件のみである。

閏七月三日・崇禅寺宛書状

横江村の崇善寺 今の高島市安曇川町横江の崇禅寺か 宛てに屋敷領有を承認する書状を発行している。名義は当然信重である。高島郡誌

さてこの年の動向はこれっきりであり 信長公記にも彼の名は出て来ない空白の 1 年間である。

逸話に見る信重

延享二年(1745)に記されたという 御家人由来伝記 には この年信重が川西の多田院を焼いた とある。また新修神戸市史の多田雪霜談を読むと 本願寺についたとして多田院の他に能勢の清山寺や三田の蓮華寺が焼かれたとある。
しかし新修神戸市史の続きを読むと 実際には天正六年の秋に起きた事で信重の関与は薄そうである。

十月・信重が登場しない逸話としての籾井城攻め

十月中旬頃から行われた丹波籾井城攻めで 家中の藤堂氏が先陣として天引峠に陣を張り 籾井城を制圧したという逸話が籾井には遺されている。ただ此方は年が天正四年(1576)で一年のズレが見られる 多紀郷土史
同様に籾井城を攻めたという記述は 藤堂家の二次史料である公室年譜略や高山公実録の天正二年(1574)の項に見ることが出来る。
逸話ベースでは年数がバラバラではある。

では一次史料ではどうだろう。

兼見卿記の天正五年(1577)十月二十九日条には 惟任日向守丹州モミヰ之館へ手遣云々 とある。また十一月七日条に 長兵 藤孝 来訪 八日未明に 長兵勝龍寺へ皈城 とある事から 天正五年(1577)の十月末に攻略したとするのが正しい。
この丹波攻めに信重の姿があったのか定かでは無い。

信長公記に見出す信重のニオイ

信長公記で何か信重が加わっていそうな出来事を考えてみると 二月の雑賀攻めは従っていた可能性があろう。この戦には近江や尾張 美濃をはじめとする各地の兵が集められ 伊勢の一門衆 北畠 神戸 長野 が加わっているようだ。そうなると信重は近江で更に一門であるから これに加わっていてもおかしくないだろう。
また籾井城攻めの直前に行われた 大和松永久秀征伐にも従っていた可能性も大いにあるだろう。

大溝城築城中?

ところで大溝城が出来たのは翌天正六年(1578)の事とされている。城というのは突然出来る訳では無く 一年は時を要すのが常だ。磯野員昌出奔と同時に大溝へ移ったのなら この空白の天正五年(1577)に築城していたとも考えられるが よくわからない事だ。

天正六年(1578)

この年 一次史料に彼の名を見ることは出来ない。しかし二次史料の信長公記にその名前が登場するのは この年が最多である。

二月三日・磯野員昌、隠居か

二月三日 養父 義父 たる磯野丹波守員昌が出奔した と信長公記ならびに通説には或る。理由は様々考えられているが 信長が脅したという説が有力だ。
この後 信重が高島一円を支配することとなる。古い言葉を使えば 高島郡司 織田七兵衛信重 となろう。
またこの時に大溝へ移ったとも この年に大溝の築城を始めたとも言われている。
しかし磯野家の説では この時に隠居領として五百石を受け自身のルーツ長浜の高月 磯野村に帰農隠居したとある。さてはて わからぬ事だ。
ところで海津には員昌の娘の家系が土地に残り 後々活躍している。彼女は朽木の一族を夫としたらしい。その婚姻の時期は不明だが 彼女は義理でも信重の姉か妹にあたる人だ。信重も少しは支援したのかもしれない。

四月の動向

四月四日 大坂本願寺攻めに名を連ねている。とはいえ特に大きな戦闘は起きず六日に終了している。
この直後 十日に丹波の細工所城城主 荒木氏綱攻めが行われているが 明智滝川丹羽の三将に信重が加わっていた可能性も考えられる。
また月末の二十九日より播州出兵 神吉攻め が開始される。信忠をはじめとする一門衆は五月一日に出兵しているので 信重もここに加わったのかと思うが 美濃尾張伊勢の三国兵だけのようであるから 薄いだろう。

六月末・砦造り

六月二十九日 信重は万見重元と共に山城衆を引き連れ明石方面へ派遣された。これは兵庫から明石 明石から高砂の間それぞれは水軍からの守りが薄く 守りを固める必要があるとした信長の命であった。二人は砦に適した山を見つけると迅速に砦を築き 軍勢を入れた。
この時報告に行ったのが万見であることを踏まえると 信重が直々に守備をしていたと思われる。

三木城合戦と信重一

ところでこの春から三木城攻めが始まっている。信重は跡部山下という地を陣したそうだが 三木市の発掘調査を読むと どうやらこの年の夏頃に一時的に陣を構えたのでは無いか と示されていた。陣自体が簡易的な物だったらしい
そうなると この時期に三木城攻めに顔を出していた可能性が考えられる。
ところでこの三木城の支城に衣笠氏が籠もる端谷城という城がある。当地の案内看板に信重の名前が登場する。曰く 秀吉は侍大将の七兵衛と明石与四郎らを以て攻めさせたらしい。
また城主衣笠氏についてが記された 赤松諸家大系図 衣笠系図 には次のように記されているようだ。要約

織田七兵衛 生駒甚介 浅井新八 明石与四郎の 500 騎で攻めたが 鉄砲の名手津村市助が浅井を打ち落とすなど弓鉄砲釣瓶打ちで撃退。
仕方ないので池田村 池谷 の番所に明石を 富畑山 高畑山 の番所に垣松新左衛門を配置して持久戦 別所一族の興亡 播州太平記 と三木合戦/橘川真一

この城は天然の要害で難攻不落 また城兵の奮戦もあり結局落城したのは二年後天正八年(1580)の二月であった。
信重にとっては手痛い敗北と言えよう。

八月十五日・安土相撲

八月十五日 安土城で相撲が行われ信重は奉行として参加している。一通り行事が終わった後 信長が奉行たちの取組を望んだので阿閉貞大が永田刑部と一番取ったのは有名な話だが 蒲生や堀 万見も相撲を取ったらしい。しかし信重についてはそのような記述が見られないことから 彼は相撲に自信が無かったのか遠慮したのだろう。
九月九日にも相撲が行われているが ここに信重が同席したのかは定かでは無い。

九月丹波大山城攻め

東大史料編纂所のデータベースを叩くと 九月 信澄 光秀 長岡等 小山城を攻め長澤義遠を殺す と出てくる。大山村史 の資料編にある 中道文書 大山古跡覚書 では八月十五日に落城と記されている。

一次史料で見てみよう。
兼見卿記を読むと九月十一日条にて 兼見が光秀を見舞う為に菓子を持参し坂本を訪ねたとある。その中で 入夜惟日書状磯谷小四郎使 鮭一到來 令下向丹州 と記されている。
明智光秀の書状を網羅した 明智光秀史料で読む戦国史 を読むと 光秀は九月十三日付書状で津田加賀守に対し 十四日に亀山に着陣する事 十八日に八上城攻めへ出陣する事を伝えている。
すなわち城攻めが行われたのは十三日以降である事は確かで 尚且つ十八日以降とも考える事が出来る。

ところでこの城の名前 正しくは丹波大山荘の大山城と言う。また長澤氏は中澤氏であるとする説もあるが これはよくわからない。
また小山城 大山城 に纏わる記述は 藤堂家の二次史料である公室年譜略や高山公実録にも登場している。ただしかし こちらも籾井城と同様に天正二年(1574)の項ではある。

そして土地の言い伝えなのか 郷土の城ものがたり丹有編 で藤堂の活躍が記されているので 大山城攻めに於ける藤堂の戦功は大いに考察の余地があろう。同書に於ける藤堂の活躍は今のところ出典不明で或る

時に 大山村史 の資料編に中道文書 大山古跡覚書には 日向守の舎弟 明智七兵衛 という名前が登場する。これは間違いなく信重のことだろう。
また細川家記として知られる 綿考輯録 の藤孝編を読むと 滝川左近と並んで織田七兵衛の名前が見られる。そうすると 信重も丹波まで出張っていたとも考えて良いだろう。

さて嶋記録の系図伝によると 嶋秀淳の嫡男新六が小山城攻めで亡くなるとある。これは大山城攻めの事だから ここに記すべきだろう。二十一歳という若さであった。
七兵衛の家臣が明確に亡くなったと示される史料は珍しい。

九月三十日・織田政権有力者のなかの信重

九月三十日 信長の津田宗及訪問に同道している。この時期 九鬼の大船が堺で披露されているのでその一環だろう。そうなると 信長公記には近衛前久や細川昭元も同行していたとあり 見物の後は今井宗久を訪問しているとある。
一連の信長の見物に信重も付き従っていたのだろうか。
これを裏付ける記録が津田宗及の 宗及自会記 に登場する。

天正六年九月卅日巳の刻
上様御成 近衛殿御同道
宮内法印 佐久間右衛門 滝川左近御供之衆。
御供衆各々
細川右京大夫 織田七兵衛 長岡兵部大夫 佐久間甚九郎 筒井順慶 荒木新五郎 万見仙千代 堀久太郎 矢部善七郎 菅屋玖右衛門 長谷川お竹 大津伝十郎 □□ 川後か 与兵衛 三好山城 笑岩 若江三人 諸国衆各々

つまり九月三十日の朝九時から十一時頃に信長は近衛前久や家臣を引き連れ津田宗及宅を訪問した。
御供の衆では宮内法印 松井有閑 や佐久間信盛 滝川一益の重臣が名を連ねる。
次に 御供衆各々 として細川右京大夫 昭元 の次点に信重が居る。

信重の姿がここに見えるという事は 九月末には丹波出兵に一区切りついていたと考えられよう。

果たしてこの並びは当日の席次なのか定かでは無い。
もし当日の席次であれば これは長岡兵部 藤孝 佐久間甚九郎 信栄 筒井 荒木 村次 信長の側近六人 三好笑岩といった織田家 政権の中枢を担う人材を差し置き 名門細川右京兆の当主に次ぐ位置となり 織田家中に於ける信重の高位を伺い知ることが出来よう。

十一月十八日・茨木城と信重

十一月十八日 信長の命を受けた信重は総持寺より兵を出すと茨木城の小口を押さえた。
これより一月前の十月 摂津の重鎮荒木村重は突如織田に反旗を翻しており 茨木城は与力の中川瀬兵衛清秀が治めていた。
小口を抑えられた中川は織田方の開城交渉に従い 二十四日の夜に織田勢を城内に引き入れ降伏した。
二十七日には中川は古池田の信長本陣に出向くと手厚く歓待され 信長と子息から馬などを拝領し 信重も腰物を贈ったらしい。

綿考輯録に見る信重

細川家記として知られる 綿考輯録 同書の忠興編に信重は二度登場する。
まず一度目が有岡城攻めである。時期は不明だが 天正六年の十一月の項に入れておく。
曰く 忠興と信重が畑に横になり休んでいると滝川勢がやって来たと云う逸話だ。戦中にありながら長閑な時間を過ごしている。
時に信重と忠興は室が姉妹同士の義兄弟にあたるから 昵懇の仲だったのだろう。

そして小山 大山 城攻めに忠興も加わっているのだが この時忠興は新婚ほやほやであった事も付け足しておこう。

十二月十一日・郡山在番

十二月十一日 参戦の諸将は各所に付城造りと在番を命じられる。
信重が配置されたのは郡山という土地で ここは四月末の播州出兵で宿陣として利用され 十一月十五日には信長の本陣として利用されている。そうなると信重は付城を一から造る必要も無く 改築増築で済んだことだろう。

翌年の章を読むと在番将は皆揃って摂津で越年したようなので 信重も例外なく陣中で越年したのだろう。

逸話に対する史実

さて天正五年(1577)の項で多田雪霜談について触れたが 新修神戸市史を読むと多田院が焼けたのは荒木村重の兵と摂津国人塩川長満配下の中村又兵衛直勝の戦いが原因とされている。時期は十月から十二月である。

多田院以外にも川西では栄根寺が荒木方により十月二十八日に焼かれ 宝塚の平井白山権現が織田方により十二月十三日に 西宮の広田社 池田の久安寺 箕面の勝尾寺 豊中の桜塚善光寺 東能勢の高代寺 大阪の惣禅寺など広範囲に渡り焼かれている。何れかに信重の関与を考えるが この時期は郡山に在番していた時期であるため関与したとは考えにくい。

天正七年(1579)

この年 一次史料では一件だけ信重の名を見ることが出来る。一件だけなので 他は信長公記より抜き出して補おう。

三月四日・七兵衛尉上洛、そして出陣

兼見卿記にて 七兵衛尉上洛 罷向之處今朝出陣也 忙しく洛中を後にした様子が記される。
さて信重は何方へ出兵したのだろうか。

信長公記を読むと この日に中将 北畠 織田上野守 織田三七が上洛した旨が記されている。
つまり信重は織田一門衆の一員として上洛した事となろう。

兼見卿記の翌五日条には 未明 信長出陣 山崎滞留 とある。
これに対応するように信長公記には 信長公父子が 播州伊丹表 動座 するべく山崎に陣取ったと記されている。

また翌六日条には天神馬塲から郡山砦への道中に 鷹つかい をしていたと記される。

つまり三月の出兵は織田本軍による摂津攻めと相成る。
また信重は何処から上洛したのかも興味深い。高島からの上洛であれば 一度郡山在番から帰国していたこととなる。

四月四日・播州出兵と三木城合戦と信重二

四月四日 播州へ出兵した将の中に信重の名前を見ることが出来る。前田や佐々金森不破といった越前衆に続き堀秀政と並んでの出兵だ。軍監的な役割だろうか。
さてこの播州出兵では後から出兵した信忠の軍勢が 三木表で敵方と交戦したと記されている。
そうなるとこの出兵の目的地が三木城であると読み解くことが出来 信重も再び跡部山下に陣を構えたのかと推察できるが 定かでは無い。

また前年に失敗した端谷城を再度攻め立てたとも考えられるが それだと二度目の敗戦が思い浮かぶ。こちらも史実定かならず。

四月二十六日「北郡征伐」

中西裕樹氏の 戦国摂津の下克上 には 岡藩中川家の編纂史料 中川年譜 を出典として四月二十六日より 北郡征伐 が行われたと記されている。
本文中にも記載されているが 信長公記 では次の通りだ。
二十六日に 信忠は三木表に砦を築き小寺氏の籠もる御着を放火を以て攻め 二十八日には有馬郡へ兵を進め能勢郡では田畑を薙ぎ捨てたとある。
一方で 中川年譜 中川氏御年譜 によれば二十六日より信忠と 信澄 を大将として 他に筒井順慶と丹羽長秀 中川清秀らの軍勢一万五千で能勢周辺を攻め込んだという。
それぞれの城について中川年譜と実際の城郭跡では名前が異なるようで ここでは現在の地名のみ示そう。
能勢町山辺 豊能町野間口 箕面市下止々呂美 宝塚市下佐曽利三蔵山 推定茨木市佐保 不明 を攻めたとされる。

また近世の地誌 摂陽史談 には 織田七兵衛力戦の處 として 来栖村の織田古戦場 が紹介されているようで 中西氏はこうしたところで 北郡征伐 の侵攻の主役を 信澄の軍勢 としている。
来栖村とは今の能勢町栗栖だろうか。地図で見ると山辺地区と近く その山城 年譜で鷹取城 比定で山辺城 の麓と言っても良いだろう。摂陽史談によると 大町右衛門尉平宗長 なる人物を攻めたとようで この人物について中西氏は 永禄年間に 能勢氏を称した大町氏 とし どうやら信重は能勢郡西郷とよばれた能勢町山辺周辺を攻めたことになるだろうか。

更に調べると 大阪府全志 巻之三 平通城 の七代城主 岡崎左衛門尉平宗盛 天正七年(1579)八月に 信澄 との戦いで敗死したとある。平通は能勢町で 栗栖の南側に位置している。
他に栗栖の北東に位置する 宿野 の城は 主の 田口頼亮 が此方も同年同月に 信澄 との戦いで敗れ廃城した と記されている。

整理すると四月の三木攻めから 転戦する形で荒木村重に与する摂津国人を攻めた となる。
このとき大町氏のように多くの摂津国人が村重に与したが 塩川氏だけは織田方に踏みとどまったようで その娘は信忠の側室となったとされる。
また北郡征伐を終えた軍勢が塩川氏の支配地域で休み 塩川氏の娘が嫁いだのはこの頃と考察しているのが此方のサイトである。非常に興味深い。

その後の信重はどのように動いたのか定かではない。信長公記には二十九日に古池田へ戻り 信長に播州表での働きを報告。ここで信長より帰国を許されると当日中に東福寺まで戻り 翌三十日に岐阜へ帰城したという。

また兼見卿記によれば四月三十日条に 信長自攝州御皈陣之由 とある。この時兼見は東寺まで迎えに出向いたようだ。
その後 信長はしばらく京に滞在したようで 同記の五月三日条に安土へ帰った旨が記されている。

恐らく信重は 信忠か信長のどちらかに従っていたものと考えられる。
その中で北郡征伐後に信忠が帰国した事を踏まえると 信重も三十日には帰国していたのだろうか。

五月二十七日・安土宗論

次に登場するのは五月の安土宗論である。
堀秀政や矢部家定 菅屋長頼と長谷川秀一という信長の代表的な側近奉行と共に名を連ねている。信重もまた 彼らと並ぶ信長側近の代表格ともいえよう。
浄土宗与日蓮義宗論之記録 という記録に依れば 信重は信長の名代を務めたようだ。

三木城合戦と信重三

ところで九月十日に三木城北方の大村という地で 別所氏と毛利の連合軍が織田方と交戦した。織田方では谷大膳が討死し連合軍側も淡河弾正が切腹したという逸話が残る壮絶な合戦だ。
この戦は三木城に補給を送り込む為の戦であり 市史や渡邊大門氏の 天正七 八年における三木合戦の展開について という論文では この兵糧搬入に端谷城の衣笠兵が関与した旨が記されている。
果たしてこの当時に端谷城が包囲されていたのか定かでは無いが もし包囲をしていたのならそれをかいくぐり補給に動いた端谷の兵は精強と言えるし 信重の失態とも考えられるが それを満たす証拠は皆無だ。

霜月朔日・信重書状

さて 頂妙寺文書 京都十六本山会合用書類第一巻 には某年霜月朔日付けの信重書状が収録されている。
これは 諸寺代大雄房 に宛てたもので 青銅千疋 と記されている事から 法華衆から信重への贈物に対する返礼状だろう。

織田と法華宗の関係では この 安土宗論 にて 法華宗が日蓮宗に敗れている。
河内将芳氏は 戦国期京都における法華教団の変容- 京都十六本山会合用書類 の成立をめぐって- 1997 9 仏教史学研究 に於いて 宗論後に織田政権の奉行矢部家定らが礼金礼物を法華宗から受け取っていたことを指摘している。
信重も矢部と同じ奉行の立場にあった事を踏まえると 件の書状もその一環と考えられよう。

なお年は不詳ながらも天野忠幸氏は 天正九年(1581)以前と記しているが論拠は不詳である。三好氏と戦国期の法華宗教団–永禄の規約をめぐって/2010 2
書状には 在陣の為 御音信 と記されている。
信重が十一月に在陣していたのは 天正六年(1578)と天正七年(1579)であり共に 有岡城攻め である。安土宗論が天正七年(1579)であることを踏まえると この信重書状は同年と推定できる。

十一月十九日・有岡城開城と信重

十一月十九日 遂に有岡城が開城した。これにより信重が警固として入城し 城の各所に兵を配置した。
この一月後 荒木村重の子女郎党は凄惨な死を遂げることとなる。
また 綿考輯録 によると 荒木村重に使えた郡主馬宗保の娘は乳母に匿われ一時期に信重のもとにも居たらしい。信重のもとを出た彼女は明智家を経て細川家に流れると どうやら忠興の側室となったというそうだ。
あくまでも逸話であるが興味深い話である。

嫡男誕生と朽木氏の代官罷免

ところでこの年に嫡男が誕生している。詳しい月日と幼名は不詳だが 後世 庄九郎 と伝わる彼である。
またこの年の四月 配下の朽木氏が三宝院からの訴え 非文を理由に久多郷の代官を罷免されている。
しかし 朽木村村史 や西島太郎氏の 戦国期室町幕府と在地領主 を読むと 罷免の四ヶ月後には三宝院からの訴えにより再び久多郷の代官に返り咲いたいう。つまり三宝院に久多郷を支配する力がなかった 朽木氏にはそれがあったという事のようだ。