織田七兵衛尉信重を支えた家臣たち(磯野員昌の家臣も添えて)

信重に纏わる史料は少ない。だからこそ信重の家臣や与力を見つけ出すのは至難の業だ。しかしながら皮肉なことに 信重と共に二人の家臣が堺で晒し首となった事で 宗及他会記 まずは二人を特定することが出来る。
それが堀田弥次左衛門と渡辺与右衛門の両名で或る。晒される程の家臣なら重臣 側近と解釈することが出来る。
しかし彼ら以外に誰が仕えていたのか 確実に書かれている史料は僅かで或る。今回はその僅かな史料の中から信重の家中を考えていきたい。
信重とは織田信澄の事です。現存書状 一次史料 を尊重し 信重としております

史料に見る家臣

家臣名備考
渡辺与右衛門重重臣か
堀田弥次左衛門秀勝重臣か
多胡左近兵衛御内衆
牛牧与二兵衛御内衆

堀田弥次左衛門

堀田弥次左衛門はわからないことが多い。
わかっている事は主と共に晒し首となるほどの 重臣 側近であるという点である。実際に書状や古記録を覗くと 七兵衛の最側近はまさしく堀田であると結論づけることが出来る。

さて堀田氏は津島の豪族として有名である。信重の出自を考えると その一族が仕えても不思議ではないだろう。
そして 彼の諱は 秀勝 らしい と云うツイートがあったので早速 堀田秀勝 で調べると どうやら 安土城考古博物館 に一通の書状が収蔵されていると出てきた。
秀勝 という諱を考えてみると 信秀 信勝 という線が思い浮かぶ。そうすると彼は貴重な信重譜代の家臣なのだろうか。(もちろん光"秀"や"勝"家の可能性も考えられるが)

書状に見える秀勝(山本家文書)

せっかくなので同博物館に問い合わせたところ 堀田秀勝とはその通り弥次左衛門の事であるという返答を戴いた。そして図録も紹介していただいたので 改めて返答感謝申し上げます。
紹介された書状が入った図録 安土城 織田信長関連文書調査報告11山本家文書 旧近江国高島郡南船木村 が居住県の図書館にあった為 借りて読んでみると堀田の書状三通を読むことが出来た。
何れも材木輸送に関しての書状である。家康が滞在することになる安土 大宝坊に関しての書状には 信重の諱が文中にあり非常に価値のある書状であり 堀秀政の屋敷に使用する材木云々の書状も興味深い。
何れも材木の差配に関する書状が三通遺されている事から考えるに やはり堀田秀勝という男は家臣の中でも重きを成す男で或ると言えよう。
この時代 材木を思うままに扱えるのは権力者の証であり 後年高虎が仕えた秀長は紀伊の材木で悪銭を稼いでいる。

書状に見える秀勝二(頂妙寺文書)

頂妙寺文書 京都十六本山会合用書類第一巻 には某年霜月朔日付けの信重書状が収録されているが その文末に 猶堀田弥次左衛門尉可申入候 と記されている。
それに付随した内容なのか 某年六月一日付の堀田秀勝書状も収録されている。
いずれも 諸寺代大雄房 に宛てたもので 信重書状には 青銅千疋 堀田秀勝書状には 鵞眼 弐千疋 と記されている事から 法華衆から信重への贈物に対する返礼状だろう。

織田と法華宗の関係では天正七年(1579)五月頃に行われた 安土宗論 にて 法華宗が日蓮宗に敗れている。なお その場に信重も参席している
河内将芳氏は 戦国期京都における法華教団の変容- 京都十六本山会合用書類 の成立をめぐって- 1997 9 仏教史学研究 に於いて 宗論後に織田政権の奉行矢部家定らが礼金礼物を法華宗から受け取っていたことを指摘している。
信重も矢部と同じ奉行の立場にあった事を踏まえると 二通の書状もその一環と考えられよう。

なお年は不詳ながらも天野忠幸氏は 天正九年(1581)以前と記しているが論拠は不詳である。三好氏と戦国期の法華宗教団–永禄の規約をめぐって/2010 2
二通共に 在陣の為 御音信 と記されている。
信重が十一月に在陣していたのは 天正六年(1578)と天正七年(1579)であり共に 有岡城攻め である。安土宗論が天正七年(1579)であることから この信重書状は同年と推定できる。
では堀田秀勝書状は何時だろう。
既に調べ掲載したとおり 六月に在陣していたのは天正十年(1582)のみである。天野氏の記述をもとにすると 天正十年(1582)は有り得ないだろう。
ただ天正八年(1580)の六月であれば 信重が前月に安土城下普請完了に伴い信長より休暇を賜っているので 休暇に溜まった書類を片付ける重臣の姿というのは容易に想像できる。

兼見卿記に見える堀田

兼見卿記 の天正九年(1581)二月二十五日条は 御馬揃え が近づく中での記録である。
兼見は信重に対して ユカケ二具 裏付也 を贈ったらしく 堀田弥次兵衛 が披露したと記される。
弥次兵衛 弥次左衛門 で表記の揺れはあるが これは秀勝と見て良かろう。奏者を務めた彼もまた 兼見より 五十疋遣之 とあるので 織物か銭でも贈られたものと思われる。

渡辺与右衛門

現状渡辺の発行した書状や 晒し首以外の動向記録は見当たらない。しかし意外なところで彼を知ることが出来る。

高野山浅井家過去帳

東浅井郡志の四巻は史料集である。その中に 浅井に纏わる面々の供養を記録した 高野山浅井家過去帳 高野山持明院蔵 が収まる。
文禄三年(1594)の六月五日 大坂城二之丸ノ内御タケ局 という人物の名で 松清禅定門霊位 の追善供養が行われた。生前の名は 渡辺与右衛門 その命日は天正十年(1582)六月五日。然様 信重と共にした渡辺与右衛門の事である。

では 大坂城二之丸ノ内御タケ局 は誰なのだろう。
同じ持明院の史料 近江国浅井殿御一門御過去帳 を読むと 浅井久政夫妻 長政夫妻 長政子息 柴田勝家の供養記録が見て取れる。その内 浅井家に纏わる供養は 大坂二丸様 の名で執り行われた。
浅井家 そして柴田勝家と縁のある 二の丸 を称する御仁とは 他ならぬ 茶々 の事である。
つまり渡辺与右衛門の縁者と見られる 御タケ 茶々に仕えた人物と言える。

しかし 御タケ の動向は過去帳以外に見られない。しかし渡辺家であれば 寛政重脩諸家譜 に数多く記録されているから 調べてみると良さそうだ。

渡辺与右衛門重

すると 丁度よく 渡辺与右衛門 から始まる家譜が第四百八十三巻に収録されていた。
寛政譜によると与右衛門の諱は 妻は速水甲斐守信之の妹。子は豊臣太閤に仕えた娘 二位局 筑後守 の二人。没年は元亀元年(1570) 法名は 宗貞 とある。
果たして彼が七兵衛の重臣なのか。

まず彼と七兵衛の重臣は没年と法名が異なる。
速水氏は浅井郡の土豪で黄母衣として名を馳せ 秀頼に殉じた甲斐守守久が高名である。信之はよく分からないが 後に記すように当時磯野家に 速水喜四郎 が居るが これは妻の一族である可能性もあるのだろうか。
渡辺も近江によく見られる姓なので 与右衛門もまた近江の土豪が出自なのだろう

さて 二位局 渡辺筑後守勝 の姉弟が出てきた。
詳しくは後に記すが 姉の二位局は茶々に仕えて活躍し 特に大坂の陣では大坂と幕府の折衝を担当した女房として知られる。既に 御タケ が茶々に仕えていたことは記したが このように 過去帳 家譜 を組み合わせることにより 渡辺与右衛門の縁者で茶々に仕えた御タケと 渡辺与右衛門の娘で茶々に仕えた二位局に関係性を見出すことが出来る。依って諸家譜に見える 渡辺与右衛門 とは 織田七兵衛尉信重や堀田秀勝と共に首が晒された渡辺与右衛門本人と見て宜しかろう。つまり諸家譜の没年と法名は誤りと指摘できる。

さてはて ここからは遺児の激動を見ていこう。

遺児の激動(一)

諸家譜によれば勝は父の死後 速水庄兵衛 を名乗ったとあり 母の実家である速水家に引き取られたのだろう。その後 同族速水守久の伝手で豊臣家に仕えたのだろうか。

そして文禄三年(1594)の六月五日 大坂城二之丸ノ内御タケ局 という人物の名で 松清禅定門霊位 の追善供養が行われた。果たしてこの 御タケ局 が与右衛門の妻なのか 二位局なのかは定かでは無い。
しかし二位局が活動を見せるのは文禄時代であるそうだ。豊臣方人物事典に依れば その時代に 兼見卿記 輝資卿記 といった公家の日記にその名を見ることが出来るようで 今後別に記事を起こしてみても良さそうだ。
東浅井郡志三巻 には慶長三年(1598)三月に行われた 醍醐の花見 に供奉したと記され 彼女が読んだ二つの詩が収録されている。
また国立公文書館デジタルアーカイブにある 略譜 諸家系譜 旗本 によると 彼女は秀吉の薨去に伴い剃髪したと記されている。また略譜の記述には 宗栄 を号したと書いてるように見える。

遺児の激動(二)幕臣兼豊臣家重臣

一方弟の勝の動向は一切不明である。家譜に従えば 慶長三(1598)年より家康を主とし 慶長の動乱では秀忠に従っている。こうして自然な成り行きで幕臣になると慶長十年(1605) 従五位下筑後守に任じられる。諸家譜では 後千姫君に附属 とある。時に千姫の輿入れは慶長八年(1603)である。
時に筑後守勝は幕臣なので徳川実紀にもその名前を見ることが出来る。
それによると どうやら慶長十六年(1611)の春には大坂に居たようである。二位局の弟と云うことで 幕府と大坂方のパイプとして送り込まれたのだろうか。

遺児の激動(三)豊臣家での地位

豊臣秀頼/福田千鶴より公家諸大夫帳の大坂衆 慶長の禁裏普請と家康之御代大名衆知行高辻/松尾美恵子 学習院女子大学紀要 によると大坂城へ入城した筑後守勝は千五百石の禄を食む立場であったとされ 更に國學院大學講師の種村威史先生のブログ投稿によれば 阿波の蜂須賀至鎮に炭を依頼し送らせているという。これは 阿波蜂須賀家文書 至鎮様御代草案 慶長十五年(1610)霜月十八日分として収録されている。また至鎮が勝へ宛てた書状は全部で七通収録されているが そのうち三通は慶長期つまり大坂時代分である。

話は逸れるが 慶長期の 至鎮様御代草案 で当該の書状は 後筑州様 後藤基次 と宛名が翻刻されている。しかし同書の素晴らしいところは原文画像 影印 も掲載されている事で 当該書状の宛名をよく読むと とされている部分が の字なのである。これは慶長十四年(1609)八月十七日の宛名 渡筑州様 と見比べてみると一目瞭然だ。

このように勝は秀頼生母茶々の重臣として活躍する二位局に負けず劣らず 立派に千姫附臣の仕事を熟していた事が推測できる。

遺児の激動(四)大坂の陣

さて慶長十九年(1614)八月 方広寺銘文事件片桐且元事件を巡り 弁明の為に常高院や大蔵卿と共に駿府へ下向した。
冬の陣が終わる十二月二十日には その和睦について常高院や饗庭局と共に家康の陣所を訪れている。

この和睦は脆くも崩れる。それを受け慶長二十年(1615)三月十三日 二位局は常高院と大蔵卿に青木一重や正栄尼 木村重成の母 を加えた面々と共に使者として駿府へ下向している。
四月には家康が尾張義直の祝言に合わせて上洛するので使者一行は先だって名古屋へ向かうも 十一日に常高院と二位局の二人のみが帰阪を命じられた。残る三名は十三日に上洛

そうして起きた夏の陣で大坂方は激戦を重ねるも 各地で敗退。天運尽き城を枕に主従相果てようとしていた。その最中 姉弟はどのように生き存えたのだろう。
豊臣方人物事典 によると五月八日に秀頼母子らと共に山里丸の糒蔵へと逃れた。同じ頃 家康は二位局を思い出したのか 不憫 という理由で間宮氏を派遣した。その表向きの理由は 秀頼母子に出城を薦めるため とも。
そうして救い出された二位局は本多正純に付き添われ茶臼山の家康本陣へ向かうと 秀頼 茶々の装束 糒蔵に残った男女の姓名を報告したとされる。

では筑後守勝はどうだろうか。徳川実紀 では 元和元年(1615)6 月に許され御家人復帰 と記されている。
許された とあるので彼もまた姉と同じように大坂方として 大戦を見届けたという事になる。
どのように大坂城を脱出したのかは定かでは無い。

その後

元和二年(1616) 至鎮は勝へ四通の書状を送っている。大坂時代の書状は勝に至鎮のパイプとしての役割を見出すことが出来たが 両者の繋がりは戦後も続いていたのである。そこから飛躍させると 至鎮と勝は慶長以前から親交があったのではないか。
勝は寛永三年(1626)六月七日に六十六歳で亡くなる。そこから逆算すると彼は永禄四年(1561)生まれとなるだろう。

二位局は高台院で主や同輩の御霊を弔いながら隠棲すると 寛永五年(1628)六月に亡くなったという。
乱世を逞しく生き抜いた二人が父と同じ月に亡くなったのは 不思議なものを感じざるをえない。
ちなみに親子の諱はそれぞれ SIGE KATSU である。

ところで 大坂の陣豊臣方人物事典/柏木輝久より では速水守久と速水信之を同一人物とするが その論拠は定かでは無い。
こうしたところで守久の生年を探りたいが その生年は不詳である。一方で彼の末裔を称するブログサイトに依れば 守久の生年は元亀元年(1570)であるという。これは傍証に欠けるが 信ずれば守久が生まれるより勝が生まれる方が早い為に 母が妹とする説は成立しない。
最も史料に欠ける現状では 渡辺与右衛門の妻は 速水氏 と曖昧にしておく事が最善となろう。

多胡左近兵衛

さて津田宗及の自会記 此方の天正九年(1581)六月三日の項に信重の御内衆として 多胡左近兵衛 の名前が見られる。
この左近兵衛という男は谷口克弘先生の織田信長家臣人名辞典にも記されている。また越州軍記にもその名が見られ 諱は 氏久 というようだが一次史料では不詳である。
果たして元亀騒乱で活躍した左近兵衛と 御内衆の左近兵衛が同一人物なのかは定かでは無い。

牛牧与二兵衛

彼の名前は津田宗及の自会記 天正九年(1581)六月三日の項に見ることが出来る。多胡と共に参会し 七兵衛の 御内衆 と記されている。それ以上は定かならず。
光秀の家臣に御牧氏という男が居る。もし与二兵衛が御牧氏であれば 信重の妻明智氏の附臣とも考えられるがよくわからない

磯野員昌の配下たち

元亀二年(1571)初頭 幕府方 織田 へ降った磯野員昌は家臣から配下の衆まで 纏めて高島へ移送されたと云う。
それ以前 浅井時代の主だった配下を小和田哲男氏の 浅井長政のすべて から紹介すると 今井氏 島宗朝 島新右衛門 岩脇氏 井戸村氏 雨宮藤六といった面々である。

島氏

嶋氏 とも書かれることが多い。元は今井氏の重臣筋である 有名なのは 嶋記録 を遺した嶋秀安だろう。
嶋記録については個人的に 中世城郭分布調査 がわかりやすかった。
秀安は子が多いが その中で磯野員昌 信重親子に仕えたと考えられるのが新右衛門秀淳と新六親子である。

嶋秀淳・新六親子

さて元亀四年(1573)二月二十八日 磯野員昌は新右衛門秀淳に対し次のような書状を送ると 知行を宛がった。
数年御届御忠節
伝達は田屋端介とある。御忠節というと 秀淳が長く員昌に付き従ったことが推測できる。
そして 嫡男の新六は 小山城攻め で死すと出てきた。これは天正六年(1578)秋の大山城攻めのことであり 既に員昌は隠居しているので信重の家臣に数えることが出来る。
二十二歳で亡くなったとなれば弘治三年(1557)生まれだろう。
なお嶋新六については 音那志甲斐守宛書状 にて名前が登場している。同書状の詳しい年は不詳だが 元亀二年(1571)説をとれば弱冠十五歳で磯野員昌の家臣として働いていた事になる。

父秀淳は慶長十六年(1611)八月十日に八十二歳で亡くなるとあるから 享禄三年(1530)の生まれとなるが 信重滅亡後の動向は不詳である。

書状に見る磯野配下

また天正三年(1575)八月に出された木津 善積両荘の山境相論についての書状には
赤尾新七郎と杉立町介 両名の連署が存在する。
二人が磯野の家臣なのか 信重の家臣として磯野の政治を支えたのか定かでは無いが ここに磯野の家臣として一応名前を記しておこう。

赤尾新七郎

既に記したが 特に赤尾新七郎は上の城郭図で渡辺与右衛門や堀田弥次左衛門と並ぶ位置に居を構えている。これを踏まえると重臣としても差し障りなかろう。

杉立町介

杉立氏で調べると愛知郡の矢守という城に杉立氏の姓が見える。
明応五年(1496)や弘治三年(1557)に金剛輪寺と六角氏のやり取りに出てくるようだ。名が残るのは天文二十年(1552)の 豊満神社氏人連署状 に登場する孫九郎高政と藤右衛門高秀だろう。戦国期六角氏の地域支配構造論文/新谷和之より
この矢守という地域は藤堂村と同様に六角と京極 浅井の勢力が混ざり合う地域であり 永禄三年(1560)の野良田合戦で浅井長政 新九郎 賢政とも に攻め落とされたという。
では町介は六角旧臣と数えるべきか 浅井旧臣と数えるべきか。
彦根市史資料編の某年九月三日磯野員昌発行書状に杉立町介は名を連ねている。この文書は普請に纏わる書状であるから 佐和山城に入った永禄四年(1561)頃だろうか。そうすると町介は員昌に長く従う家臣だと判断できると同時に 浅井旧臣に入れても良いだろう。

藤堂氏に見る杉立氏

後年藤堂氏には杉立氏が仕えて居る。杉立九郎左衛門 という男だ。果たしてこの者が町介と関わりがあるのか知る由もない。
佐伯朗氏の 藤堂高虎家臣逸聞 によると 彼は六角が滅びると柴田勝家の配下に加え入れられ 紆余曲折を経て藤堂家へ辿り着いたそうだ。

上坂伊予守と速水喜四郎、田屋端介

元亀二年(1571)五月に員昌が嶋宗朝へ送った書状には 速水喜四郎と上坂伊与守が申し含め候 と記されている。嶋記録
ここに上坂氏 上坂伊予守と速水喜四郎の存在を確認することが出来る。
速水は渡辺与右衛門の妻の生家でもあることから 関係者の可能性を見出すことが出来る。
また先に記したが 田屋端介の存在も重要だ。

その他の家臣

ここからは史料には見られない人物の中で 比較的信憑性の高そうな人物を紹介したい。

藤堂与吉

犬上郡甲良の有力者の次男で 後の藤堂高虎である。
実はこの藤堂氏というのは旧京極被官で 本拠地の甲良は周囲に尼子氏 多賀氏と名だたる名門に囲まれている。永禄年間には藤堂九郎左衛門が浅井長政から私領を安堵されているが 書状に見られる跡職の名前から類推するに愛知郡にも領知を持っていたらしい。
与吉と藤堂九郎左衛門の関係性は不明であるものの 没後に纏められた覚書などからわかるように浅井に従う立場としては共通している。また与吉の母親は多賀氏の生まれであり 早くから織田に従った多賀新左衛門との関わりも窺える。
このように藤堂与吉は広義では浅井旧臣に含まれるが 覚書などに依れば籠城中に輩を斬り殺し出奔しているため 元亀四年(1573)の落城と共に降伏した旧臣たちとは少し違うと理解されたい。

実際のところ彼がいつ頃高島の磯野員昌を頼ったのかは定かでは無い。しかし覚書には丹波籾井での武功が記されていることから 少なくとも天正五年(1577)には高島に移っていたと考えられる。後に武功から母衣衆に推挙されている点を考えると それよりも前に高島に入り頭角を現した可能性も考えられるが これも定かでは無い。
覚書によれば丹波の 小山城 を攻めた際にも活躍した。これは天正六年(1578)に起きた合戦とされているから 彼が高島を去ったのは同年以降となる。

時に通説として高虎は禄高八十石からの加増望めないことを理由に羽柴家へ転じたとされている。これは覚書が出典である。しかし後の編纂物では少し違った様子が見受けられる。それは 首を獲った者に百五十石の賞禄 宗国史 藤堂高壽 腰物給候 実録上 親筆留書 母衣を辞退すると二百石相当の黄金一枚を授かった 公室年譜略 幌十騎の中へ加わった時 公が勤まり難き由を仰せになったので 織田殿 信長 の差図によって三百石の俸禄並びに幌を免許した 視聴混雑録 といったもので 信重は高虎に対して加増の姿勢を見せているという異説だ。更に沢田家の家譜 視聴混雑録 信長が高虎を三百石にしたという説も載せるが 津藩の編纂者は 公が三百石を給うは秀長朝臣へ仕へられし時 として否定している。

何れにせよ明確な史料に欠けるため両者の関係はは定かでは無いものの 後年信重の遺族には高虎に保護されたという逸話が遺ることから 何かしらの恩義を抱いていたのは確かと思われる。

参考・藤堂新七郎

藤堂与吉のいとこ 父は高虎母の弟 彼も多賀の血筋である。
通説では信重との接点は皆無であるが 高山公実録に収まる新七郎家の家乗によれば 天正五年(1577)播磨に於いて高虎に従うとある。しかし同年の高虎は高島家中であることから便宜上本項目に記す。

さて天正六年(1578)に十四才の彼が初陣首を挙げた 摂津神崎合戦 の地名は有岡城に近く 津藩編纂史料に記されている三木城攻めではなく有岡城攻めの事だと容易に推測することが出来る。
この戦いについては他の史料の裏付けが定かでは無いものの 公室年譜略では 神崎川 高山公実録の新七郎家乗では同合戦に際し 川中 で敵と組み合い初陣首を挙げた と記されている。家乗に依れば どうやら水の心得があったらしい。

有岡城攻めで渡河を要したと思われる戦場を信長公記から抜き出すと 十一月十四日伊丹で起きた先鋒戦について滝川 明智 丹羽 美濃衆 羽柴 細川が名を連ね武藤舜秀の活躍が記される。また十一月十八日には信重が総持寺より出陣すると茨木城小口を押さえた活躍が記されている。
この中で明確に戦闘を示すのは十四日だけであり 十八日は戦闘の気配が見えない。しかし敵将中川清秀もそうやすやすと小口を占領されないだろう と思うと何かしら小競り合いが起きたのでは無いかと考えられるが市史を調べても 神崎や神崎川で何か戦いが起きたという記述が見られない。

斯くのごとく曖昧ながら 後の信重遺族保護に関わるところとして新七郎良勝を収めた。

中西若狭

彼は高島町史に記されている家臣である。元々父の中西藤左衛門が若狭国三方郡河原市村 いまの美浜町 から高島へ出て 土地の有力者で高島七頭の高島氏に与力として仕えたのだ という。若狭は藤左衛門の息子である。中西氏は分部氏の治世でも大溝に住まい 今に伝わるそうだ。高島氏というのは存在せず 厳密に言えば 越中氏 が正しいように思われる。そうなると元々は清水山の城下 新庄周辺で生活していたが 大溝移城に伴い移住したのかもしれない。
高島町史を読むと中西家の立派な住居が掲載されているが 現存するなら観に行ってみたいものだ。

福井某

こちらも高島町史に記されている家臣。信重にスカウトされたらしい。
中西氏と同じように分部藩の時代でも大溝に住まい 今でも城下町の地図を見ると福井姓の商家が見える。恐らく末裔諸氏なのではないか。
安土城考古博物館が実施した特別展 信長のプロフィール には福井家伝来 伝織田信澄所用鎖帷子が展示されたそうで 同展の図録に見ることができる。

友岡善清

近江尼子氏を調べる過程で西島太郎氏の 松江藩の基礎研究 忠高の出生 を閲覧したが その際に思わぬ出会いを果たした。
京極忠高は母が打下の出身で高島とは深い縁で結ばれた人物である。初めは父高次の正室に疎まれた彼を支えたのは 磯野氏をはじめとする高島の人間で 彼の馬術指南を務めた 友岡善清 喜信父子 もまた高島の人間であった。

友岡系譜略記によれば善清は 始織田七兵衛尉信澄二属ス という。友岡家は代々鴨の山徒 つまり比叡山延暦寺の衆徒であったが 善清の父正慶の代に還俗し六角定頼から 友岡 の姓を得たという。
善清は九歳の頃に土地の有力者永田氏に捕らえられたが家臣に救出された後は 朽木元綱のもとで養育されたという。その後 彼は七兵衛に仕え その滅亡後は京極高次に仕えたそうだ。
善清は寛永八年(1631)七月十七日に若狭で七十八歳で亡くなったとあるので 天文二十三年(1554)の生まれとなる。すなわち 永田氏に捕らえられたのは永禄五年(1562)の頃合いであろう。時節柄浅井長政の反乱と関わりがありそうだが 実際のところはわからない。
子息は江戸時代京極家に仕えながらも 分部氏から 野飼之馬 を許可されている。西島氏は放牧の存在を示唆するものであるとし 放牧地を管理する友岡家が騎術に通じ高次 忠高の馬術の師となったと論ずる。そうなると信重の時代から飼育を行っていた可能性もあるだろう。

参考・鹿野嘉左衛門

彼は高島町史が 大溝城築城前後の大溝湊の状況 として引用した居初家文書由緒書に登場する人物である。
この文書は文政九年(1826)と新しいものであり 彼の実態も定かでは無い。一応参考として紹介する。

天正六寅年 織田七兵衛様同郡新庄之城 大溝江引移 御座移城之節 別而船数多 役船被為仰付 御用等相勤申候 其後則御代官初鹿野嘉左衛門様御支配被為遊 船持共相続仕候。

はじめの代官 という事らしいが これが信重の時代を指すのか定かでは無いが興味深いものだ。

今も残る信重配下

中西氏も福井氏も有力家臣 町史の書き方では有力被官 として数えて良いだろう。特に両氏は信重滅亡後も大溝に残り 代々命脈を繋いできたというのだから立派である。
江戸時代 分部藩では両家ともに有力町人として藩を支えたそうで 本当に頭が下がる。彼らのお陰で信重との繋がりを絶やすこと無く続いていると言えるのだから。特に福井家に伝わる鎖帷子は興味深い。

さて両氏は 勝野古絵図 にも見られると高島町史は述べる。他に朽木氏 須田屋敷が見られるようだ。同図は 図説高島町の歴史 にて大きく掲載されているが 確かに記されている。しかし大溝城や打下城が描かれていない点など 想定された時期がよくわからない絵図である。

信重を支えた家臣たち

ここまで見てみると名前が残る信重の家臣のうち わかる範囲では近江の国人 土豪が大半を占める。
その中で実家たる織田家の人間が見えない事は特筆すべき特徴だ。
これには様々な理由があるだろう。
何より信重の生い立ちが関係するのではないだろうか。彼は御曹司と云えども その父は謀反人で滅ぼされた立場であるから 譜代の家臣というのは皆無に等しい。
ただ一人堀田弥次左衛門は その姓を考えると尾張の堀田氏とも解釈する事が出来る為 彼こそ譜代の臣ではないかとも考えられるが こちらもよくわからない。

家臣団の分類

ここで家臣団を特徴で分類してみよう。
便宜上磯野時代の家臣も含めている。

湖西・高島在地有力者

備考
多胡左近兵衛御内衆として実在。多胡宗右衛門の族か
田屋端介員昌の書状に登場 海津の田屋党だろう。元浅井旧臣とも言えようか
中西若狭越中家与力
友岡善清鴨の元山徒の家柄
福井氏高島町史曰く 高島の名家の先祖

浅井旧臣もしくは湖北周辺土豪

備考
赤尾新七郎員昌配下 山境相論書状にて実在
杉立町介員昌配下 山境相論書状にて実在
嶋秀淳員昌配下 島記録にて名が残る
嶋新六秀淳の子 員昌書状にて実在
速水喜四郎員昌書状にて実在
上坂伊予守員昌書状にて実在
渡辺与右衛門重臣 浅井旧臣か
藤堂与吉後の高虎

その他

備考
堀田弥次左衛門重臣
牛牧与二兵衛御内衆
鹿野嘉左衛門居初家由緒に伝わる代官

家臣団について雑記

ここでは家臣団に纏わる内容を書き連ねる。

大溝城織田城郭絵図面について

高島町史には 大溝城織田城郭絵図面 という信重当時を想定し江戸時代に描かれた絵図が紹介されている。この絵図に描かれる城の縄張りは細かく どの区画に誰が暮らしたのかも描かれており 高島町史には家臣の名が書き起こされている。

その中には渡辺 堀田 赤尾 多胡といった 史料に見られる人物も記されているが 大半は史料的裏付けに欠ける。果たしてこの作者がどのような意図を持って制作したのか定かでは無い。
確かに史料に見られる人物が記されている点は評価できるが 残りの家臣団については評価する判断材料すらも存在しない。依って今回は紹介を割愛する。

城郭の縄張りについては大凡現在の町割りとも一致しており この部分については高評価できるものの 各所に配置される家臣屋敷図というのは根拠に乏しい。

森半兵衛・為村

絵図に出てくるような存在の怪しい家臣でいけば 森半兵衛 為村 が存在する。もちろん実在の疑わしい人物であるが 西島太郎氏の 戦国期室町幕府と在地領主 で触れられているので軽く紹介したい。

彼らは元亀三年(1572)の湖西木戸 田中城攻めに於いて 信重の手として織田に抵抗する寺社を焼き払った者と伝わる。
今津町史の日吉神社文書を読むと 森には半兵衛という名があると確認することが出来た。
為村氏については 近江国高島郡河上荘 大江保の史料について―― 大江保河上往古中興近代集入雑記 の紹介 藤本孝一 中世史料学叢論 にて 元亀三年(1572)三月と伝わる書状を 為村右衛門尉 が発行している。これは酒波日置神社の社家 布留宮家に伝わるそうであるが 主人信澄為武威 から始まるこの書状は怪しい。何より七兵衛は信重であるし 元亀争乱下は元服以前である。これら集入雑記はは文化十一年(1814)の山論に際し提出されたもので 原文書は江戸時代前期頃の写しというが 殊に為村右衛門尉なる人物の書状は怪しいと疑わざるをえない。

つまり森半兵衛も 為村も その存在は疑問である。

海津と井関氏

さて絵図面には 井関源左衛門 というよくわからない人物が登場する。

そこで近江における井関氏を調べたところ 浅井旧臣で能面打で有名な井関氏が存在した事がわかった。
その中で 面打井関考/宮本圭造 法政大学能楽研究所 能楽研究史(2016) という論文は大いに参考となり 面打ちで名を馳せた井関氏が高島郡に縁ある旨が記されている。

時に浅井長政の一門にして重臣 三田村国定の遺児井関十兵衛家久 十六 三田村安右衛門重次 十二 三田村市左衛門吉介 の三名は 浅井滅亡後に海津西浜に暮らしたと 浅井三田村系図には記されているそうだ。また国定は井関氏の出身 井関親信の子とされているようだ。
石田家由緒書が曰く彼らが海津へ落ち延びたのは 長政の三歳になる遺児を守るためであったようだが 遺児は程なくして早逝してしまったらしい。
その後 秀吉が磯野員昌を通し三兄弟の京極高次への仕官を斡旋したが 重次のみ受けたようだ。

その後 十兵衛 備中守家久 は薬酒や馬鞍を造りつつ能面を打って暮らし 石田家由緒書 石田吉兵衛則継の項と同論文 石田則継の弟が酒造を志した際には酒株を分けたという。
この十兵衛の子が天正九年(1581)に生まれた 古今無類最上ノ名人 井関河内大掾 諱は家重 とされ 孫は井関玄説 諱は常甫 である。河内は生まれたから寛永八年(1631)頃までの長きにわたり海津西浜に暮らしていたと考えられているそうだ。

先に石田氏が登場したが 彼らは石田三成と同族の石田氏で 浅井滅亡後に海津へ逃れた一族と考えられている。井関家との関係では 河内の娘が吉兵衛善長に嫁いでいるようで その間に生まれた長得はおじに当たる井関作庵玄東 常立 に師事し医道を学び 後に井関姓を名乗ったようだ。

参考・藤堂家と井関氏

実は藤堂家にも井関氏は仕官しており 更には藤堂姓を賜っている。
慶長四年(1599) 井関少左衛門 諱は直方 は板島に於いて三百石で召し抱えられる。彼の息子は彦兵衛 諱は光利 といって 後年藤堂姓を賜ると藤堂彦兵衛家を立ち上げた。そうして藤堂家の重臣に名を連ねたのである。
この井関直方について私が存じているのは上記の井関氏と同じ坂田郡七条の元浅井臣 と云う事だけである。藤堂姓諸家等家譜集
宮本氏の論文に載る系図に井関少左衛門は見られず その関わりは定かでは無い。

参考・加納藤左衛門

また 浅井三田村系図 によれば十兵衛の娘は加納藤左衛門に嫁いでいる。どうやら加納氏というのは坂田郡で井関や三田村と並ぶ家であったらしい。宮崎氏の言葉を借りると 同族としての意識 を持っていたそうだ。加納藤左衛門は藤堂家にも見ることが出来る。藤堂家の加納藤左衛門は文禄元年(1592)に名護屋で仕官した加納直成の事であり 後年には伊賀加判奉行も務めた重臣となっている。果たして井関氏が嫁いだ加納藤左衛門と 藤堂家の加納藤左衛門は同一人物なのか定かでは無い。

領主の仕事

領主の仕事は 人材を集めることだ 藤堂高虎は言行したとされ 藤堂高虎家臣辞典の著者佐伯朗氏も HP で記している。
では信重はどうだろう。何よりも第一とするのは在地の有力者だろう。在地の彼らを厚遇することで それより下に位置する土豪 百姓 町人といったランクの人々をも取り込むことが出来るのでは無いか。
またそうした在地有力者と持ちつ持たれつの関係を築いてきたと思われる商人に対しても 信重は厚遇を与えたのである。(材木商人の独占を承認する文書を天正四年(1576)に出している)

信重の兵力

織田家はどのような陣立てになっていたのか これは記録が少ない。通説でいくと鉄砲を用いたこと 信長直属の馬廻りが機動力を発揮した というのが定着しているぐらいだ。
馬廻りというのは信長直属なので除外するとして 大溝にも鉄砲足軽や弓兵そして普通の足軽は居たことだろう。
当然侍組は欠かせないし 数が少なくても旗本組や小姓組もあったと推測する。そして母衣衆は藤堂家の史料を踏まえ 私は実在しただろうと断言する。数については高山公実録に異説として 18 人とも記されている。
兵力はどのくらいなのか。磯野のの引退でにより信重は高島一郡六万石程を支配したが 大体一万石の動員力が百~三五十人と言われているので 信重は六百~二千百人の動員が可能である。

かつての西佐々木同名中では天文十五年(1546)に行われた義輝宣下の場に越中氏が約千人 田中氏が約六百人を動員している。戦国期室町幕府と在地領主 西島太郎
やはり信重の動員力は千五百人程度だろうか。

信重の意志決定

藤堂家の二次史料である高山公実録には興味深い記述がある。

以上の記述である。
ここから理解できる事は 信重は家臣との合議の上で物事を決めていたのではないか というところだ。

消えた大溝家臣団

天正十年(1582)六月 突如勃発した動乱により高島の盟主織田七兵衛信重は散った。同時に彼を支えた渡辺 堀田の重臣二人も主に殉じた。

大溝の留守居は?

そしてこの時 大溝城の留守居を守っていたのは誰であったのか。
井関氏について細かく説明しているサイトを見ると 源左衛門の同族は主の滅亡を知ると 田屋城に近い西浜に退去したとある。そうなると井関と田屋は大溝に残っていたと考えられる。
また江戸時代に分部藩の有力町人として活躍した中西 福井両家も大溝に残っていたのだろう。同じ在地の有力者たる朽木氏の動向は不明だ。故に 軍記物で遊ばれてきた。