2020年5月分頃更新履歴
date: 2020-05-31
05 日 小説ページのデザイン変更。縦書き普及委員会準拠で 18 文字になるよう調整。
15 日 この頃再びデザインの変更をしたらしい。Multiple Themes を利用して小説ページのみ綴り、 後は wordpress 標準の twentytwenty を採用。
19 日 静的ページサイトへ切り替え。手始めに由緒書きを catalpa で制作。
20 日 由緒書きのデザイン変更。コラムページの静的化、 トップページを静的化
21 日 更新情報ブログを制作。
22 日 Netlify 移行計画始動。24 日 スターフリーサーバー閉鎖
25 日 多賀コラム移転,信澄コラム移転
26 日 コラムの URL や与堂さんの記事 URL を変更。
- odyssey
- historia(この中は連番になる)
- 多賀関連
- 芦田庄九郎の生涯
- historia(この中は連番になる)
- otro
-01.html (これが与堂さん記事)
この URL 変更は、 一々記事毎にディレクトリを増やすと私の管理が面倒くさくなるので、 通し番号化で管理の簡便化を図りました。
また与堂さん関連は非常にパーソナルでプレイベートな話題で、 冷静に考えると期間限定コンテンツもそうなるので、 通しで管理できるようにしよう、 と相成りました。
31 日
月末になって図書館が再開したので様々な書物を読み、 更なる理解を深めています。
そうしていくと信澄の動向を書き足す必要が発生しまして、 一気に原稿の一太郎化を進めました。やはりガッツリ書く分には一太郎が快適ですね。
信澄関係では一つ二つ、 これまでの考えを一変させる事がありました。
1 つ目は、 本人の書状では信重であり、 信澄という名前はいつ生まれた? と云う事。
2 つ目は、 丹波攻めに於ける高虎伝説と、 それによる高虎前半生への疑問点 と云うところ。
上については完全に一次史料ベースで個人的にも自信あり。対照的に下は、 後世の創作物がソースなのかも知れない、 と云う物なので非常に頭に?が浮かびます。
どちらにしろ史料を更に読み解く必要が出てきたので、 国会図書館で兼見卿記や丹波関連の史料を漁る必要があります。また町田に、 信孝 to 信重 (信澄) への書状が収蔵されているようなので、 問い合わせてから実物を見に行こうかなと。
また信澄の娘が嫁いだ時期と亡くなった時期の推定と、 そこから京極高知の名前変遷を理解できた事と、 付随して秀頼の官位呼び方や庄九郎の同僚に浅井旧臣が居た事を知れたのは良い収穫でした。
また光秀が某に宛てた 「藤堂兵庫の知行は御所料となるから、 代官の尼子によろしくね」 といった内容の書状。これも自分にとっては衝撃的な書状でした。
この書状の解釈としては奥野高寛翁が二つ出していますが (藤堂村が直轄化された、 坂本城周辺に藤堂氏が居た)、 まだまだ自分の中では上手く飲み込むことが出来ません。
この 「御所料」 を直轄領だとしても、
- 織田直轄領
- 佐和山城直轄領
- 坂本城直轄領
以上3つの解釈が出来る訳なのだが、 まとめ管理人氏のツイートを読むと犬上が織田直轄領だったのは永禄年間なんだな。
この書状が永禄年間のものであるならば、 土地の多賀常則が早期に織田へ転じ志賀の陣 ・ 穴太砦に名を連ねるまでになっておる事は非常にしっくりくる。
また、 権益を奪い取られた藤堂家が陣借りとして浅井に従う事も理解が出来る。
そういえば多賀関連のコラムで 「藤堂は武辺だから~」 と云う箇所を引用したが、 なるほど永禄年間にもそうやって織田へ奔る事が出来るんだなあと、 なんだか氷が溶けた感じがします。
と、 なればですよ。ここまで書いていた小説を (既に春先元亀争乱を学んで書き直している途上なんですが)、 姉川以前から更に書き足し書き直す必要が出てきた訳です。
これは骨の折れる事ですが、 結構楽しいので、 どうせなら姉川に磯野が参戦してなかった説もぶち込もうと思います。芸術は思い切りが大事。
ここからは雑録になりますが、 ようやくコロナも"収束"と云う事で (絶対ぶり返すだろ)、 プロ野球も J リーグも光が見えてきた。素晴らしいことです。
そしてカメラマンの広田泉先生が末期癌を公表されたのは衝撃で、 言葉を失いました。
先生本人の動画はとても気丈で、 何とか心が落ち着きました。
残された時間で広田泉というカメラマンが我々に何を遺してくださるのか、 私としてもしっかりと見届けたいと思います。