二〇二二年二月更新履歴と諸々

今月の更新履歴と雑録です。情勢から土曜日の夜に放映された BS11 偉人 素顔の履歴書 を視聴した感想 つっこみ です。

date: 2022-02-28

二十二日

藤堂高虎前史を仮公開しました!
誕生日なので!

概ね出来上がってますが まだ細かいところが製作途上なので仮公開です。
早く一挙に公開したいです。
また同時に 飽きたので 多賀記事のアップデートも行いながら 大和豊臣家についても幾つか 小説も! 書いてます。
いやそれなら早く前史公開しちゃいなさいよ という話なのですが。頑張ります。

雑録

ついに戦争が始まってしまいました。
私は学生時代お世話になった 迷惑をかけた 先生が 嫁いでモスクワに移住しているので かねてより憂慮していたのですが遂に現実のものとなってしまうとは。
ただただウクライナ国民が心配ですし 勝手に国主がはじめた戦争に巻き込まれ経済封鎖とテロとの脅威に怯える事となってしまったロシア国民も心配です。

ウラジミール プーチンという男は 国民を顧みない世界最悪の大統領である事は二十年前から言われている。今こそ彼奴を引きずり下ろし 真の自由文化をロシア国民は享受するチャンスでもあります。
頑張れウクライナ 頑張れロシア国民。

あと自分のことを書くと また脱毛症が再発してしまいました。
恐らくは先月のストレスによるものですが まあゆっくりのんびり治療していきます。

偉人・素顔の履歴書藤堂高虎編を視聴して

この番組は youtube でも配信しているので 気になる回は参考程度に見ています。
そうしたところで二月二十六日の放送が高虎公だという。
まあ加来氏だから そこまで新しい説も出ないだろうし 平成に築かれた高虎論だろうなあと 思っていました。結果的には予想していたとおりで 特に驚きは無かったです。
こういうのでも藤堂高虎を知ってもらえる切っ掛けになればね そこからどんどん深みにハマっていけば良いのです。

さてここからツッコみたいところを幾つか。

おべんちゃら

いやあ酷い言われようですね。そんなに高虎のイメージ酷かったのかと。

津田信澄

正しくは織田信重です 七兵衛尉信重。
まだ百歩譲って 織田信澄 なら許せた。彼は早くに織田を名乗っていますから 津田とするのは貶める行為です。

地侍

まあ農家と言われるよりはマシですね。
中郡の有力者の家なのですが。

天正四年(1576)仕官説

これは 公式 みたいになってるから致し方ないです。
私の説だと 天正八年(1580)頃仕官説 です。
いやそもそもね 与力先が変わっただけなのでは?

無学の猪武者

件の如く有力者の家で 更には臨済宗の煕春竜喜を招くくらいの教養人だから 無学という事ではなかったと思うぞ。要はやる気の問題だろう。

島津攻めスルー

いちばんええとこなのに!!何でや!!

どういう家に生まれたかもはっきりしていない

それをハッキリさせようと頑張っている訳です。

名のある家とは到底言えない

元京極配下で主家が終わってからは 気がついたら六角支配圏 次に気がついたら浅井支配圏に上手いこと収まりながら生き永らえてきた逞しく教養豊かな名家の一族に生まれる。
そもそも永正の御内書 饗応記に出てきた家の中で 戦国時代を生き長らえたのは多賀家と藤堂家だけだぞ!
だいたい広橋家の家宰を長らく務めた家を本家としているんだから 相当名のある家ですよ!!!!!
ということを 令和の新常識として定着させたいのです。

殿を務める????

高虎は先駆けばかりで 殿を務めたという記録は見られないですね

足軽よりは上

恐らく 馬に乗れる身分 という事を加来氏は仰るつもりであったと思われる。
これは高山公実録の記述にも見られるから 流石加来先生といったところ

浅井家は喧嘩で辞める

まあこれも 公式 ですな。自分としては 特に異論は無いです。

短期間で

これも 公式 になっているのだけれど 高山公実録や公室年譜略を検証すると少し違ったように感じる。
丹波小山 大山 攻めは 天正六年(1578)だから天正元年(1573)に高島の磯野 信重親子に仕えたとして 六年間という長さでっせ。
なぜこうしたところが検証されてこなかったのか 甚だ疑問。先達は興味なかったのかしら。

三百石

石高については別に記事を起こそうと考えていますが 信重時代に三百石を貰っていたという説もあるので それだと石高据え置きじゃん?
まあ信重時代は 俸禄 なんだけれどね

但馬時代、藤堂家覚書に見る鉄砲隊

ダイジェストでは但馬スルーなのかな~と思ったけど 藤堂家覚書を引っ張って 敵が立て籠もったので 鉄砲隊を与えた との説明。
まあ異論は無いですが その結果成否を言わなかったのは優しさですかね。
実は大して成功しなかった。高虎の苦い時代です。

兵站???水軍???

兵站は記録が無く 水軍を担当したのは秀長の没後。
まあ唐入りの準備は秀長時代からやっていたからあるかも知れないけど。要は詳しくない

和歌山城築城

諸説あります。
そもそも和歌山城築城は後世の記述によるから 実際のところはわからない。
ただ後世の記述にしても横浜 羽田両氏と共に担当しているので 高虎が一人で担当したわけでも無い。
ブラタモリではそうした曖昧なところをざっくりと 秀吉の築城 としたから 逆に潔い。

これらにより一万石

ざっくりしてんな~~~~。

秀保と唐入りスルー

いや!一番大事なところだろ!
史料も充実してるのになあ~。

出家

髻を落とすことを出家とするなら 出家なのかもしれない。
センゴクの宮下先生が描いた 丸坊主 の高虎は 藤堂家の記録とは異なるけど んまアレはアレでアリだと思う。

大坂の陣で活躍

そう 八尾若江の二番合戦を落としただけ。大局的には長宗我部を敗走せしめているので 勝ちです。
活躍です。

築城現場で人夫をしていた

高山公実録や公室年譜略には見られない謎逸話です。
一体誰が書いたのかね 本当に謎逸話。

居眠り足軽の話

これも謎逸話。
似た話は関ヶ原で池田新次郎という玄蕃家士の逸話があるけど これも元ネタが不明だ。
佐伯朗氏の家臣辞典にも見られないし。本当に謎。
高虎 良くも悪くも後世の作家にイメージを作られたように感じますね。

安土城の築城に関わる

これも謎逸話。
関わってないだろ。秀長家臣で穴太衆と出会っただぁ????
確かに安土城と信重では 蛇石の逸話が信長公記にはある。これなら出会えそう。
また大溝城築城で出会えそうだが 大溝城は大溝城で高島の石工に依るものだとも聞くしようわからん。

藤堂氏の関係で行くと 湖東三山の金剛輪寺には見事な石有りて 此方が穴太衆の石積みと伝わる。
また甲良地域は石塔の文化があったらしく 高虎も巨大な石塔を見て育ったとかつては囁かれていたらしい。
まあ石と高虎は縁があると言うことで

高虎は落としにくかった城から学んだ

城攻めが苦手と見るのは正しい。
いやまあ籾井城や大山城を落としたとは言われるけど 端谷城や小代一揆相手には苦戦を強いられているので。

層塔型は高虎が開発

高虎が開発したとは言い切れません。
層塔型天守の始まりは唐入りでの名護屋城や 倭城と言われ 更に今治に層塔型を立てる直前 加納城が国内初の層塔型と言われる。
何でもかんでも高虎の功績ってやるのも こそばゆいというか そういう過大 誇大にしてしまのうも些か感じるところがありますね。
もう少しフラットに見なければなりません。

貧しい地侍の次男

繰り返しになりますが藤堂氏はそれなりの家柄です。
むしろ貧しくなったのは小谷城籠城戦だったと思いますが いやしかし多賀氏が既に織田方についてるのに何故籠城しちゃったんでしょうね。
些細なことから喧嘩を起こし というのも 中郡陥落に関して嫌みとか むしろ内通者との疑いを向けられた末の惨劇であったのかも。

餅屋の話

此方も謎逸話で 当然放浪した居たなんて記録は残っていない。
後世の創作とみる。
結局のところ これが講談で大ヒットしてしまったもんだから 現在までの藤堂高虎を語る上では欠かせないエピソードになったという。
むしろ講談に引きずられているところがあります。

ただ高虎と餅の話は高山公実録にあって それは玉置覚書にて幼い頃に餅をたらふく食べていたというお話。
むしろそれ以外に存在しないが??
旗印が白くなったのは冬の陣からです。これは三重ふるさと新聞にて 出世の白餅 として考察が行われている。
最初は 黒餅 を用いていたんですね。
関ヶ原で白餅の旗印は大谷吉継隊と言われています。後々墓を建てた縁からすると 大谷の旗印を継いだ なんて見方も出来ます。

鉄砲隊の話

三成に言われての鉄砲頭の石高を上げた いや別の人にしたのかもしれない。この鋭い指摘は流石加来先生です。
まさしくその通りですね。

ブラタモリにに出なかった西嶋八兵衛

さてブラタモリは高松が舞台。
これは西嶋八兵衛チャンス!と思っていたのですが ついぞ出なかった。
私は彼こそ大河に相応しいと思うておるのですが これじゃあダメですね。
前も西嶋八兵衛チャンスがありました。二〇一七年の一月香川回でしたが ここでも出ませんでしたね。
なんというのかな NHK は極力高虎関係の名前を出さないように思います。
一体何の為?焦らしプレイなの???まったく。

とかくまあ こうした現状を少しでも打破する為に私は書き進めているわけですから エネルギーに変えて頑張ります。
それではまた来月。