2024年仙台旅行記
九月の内に旅行記の草案を書いていたが、 あまりにも私情だらけでアップするのも気が引けるなあと思ったが、 それでも需要はあるようなので改めて Bluesky に書いていた。
本記事は既に書いていた内容をしっかりとまとめ、 増補したものである。
私情としての仙台
中部地方に生まれ育った三重県人の自分にとって仙台は遠い遠い場所である。しかし元来の鉄道好きであれば線路は繋がっていると考えるのが自然であるし、 それに出生地名古屋と仙台は空で繋がっており、 父も仕事の出張で利用したことがあり土産と写真を楽しんだ記憶がある。
偶然にも 20 年前に一家 「東下り」 をしてからは、 最寄新幹線駅から仙台まで (便によるが) 一駅という立地で俄然仙台の地は近くなった。
そんな自分が仙台を身近に感じたのは、 仙台からの転校生が続いたこと、 地震があったことだろうか。級友にお見舞いの言葉をかけた記憶がある。(内陸地震で岸学芸員が亡くなったことも記憶に強く刻まれている)
またサンドウィッチマンや楽天イーグルス、 ベガルタ仙台などからも 「仙台」 という地名を脳裏に叩き込まれた。
鉄道好きとしても仙台空港線の開業、 仙台駅の発車メロディ、 新幹線だけではなく常磐線の特急スーパーひたちでも辿り着けるなど、 段々と 「興味」 から 「行きたい」 に変わるのは自然な話だった。
ちょうど 2011 年の春休みは落ち着いた時期であったので、 二月の誕生日前後から仙台空港もしくは新潟 (ノンストップの新幹線に乗りたかった) への計画を練り出していた。
時刻表を捲る、 ワクワクである。
父が当時山形に赴任していたので、 新潟から乗り継いで会いに行くプラン等も考えていたのだ。
東日本大震災
2011 年 3 月 11 日。
その数日前にも大きな地震が三陸を襲っていたが、 自分はそこまで大きなものに捉えては居なかった。楽観視だ。
季節柄学校は早く終わり、 帰宅後に昼飯を食べ終えラジオを聴いて寝転んでいた。もう少ししたら遊びにいく約束をしていた友人に電話をしなければ。
そうして 14:46 を迎えた。
関東の揺れも自分史上なかなか凄まじかったが、 もっと激しく揺れた地域を思えば殊更書く気は起きない。
それからの 3 時間、 私は NHK の中継で全てを見てしまった。
津波、 かつてスマトラ島では同じ愛知県人が犠牲になった災害であったが、 私は津波には無知であった。
一体、 これは何なのか。意味がわからなかった。
暫くしたら行こうと思っていた土地を襲う想定外の数々に、 ただただ淡々と生きるしかなかった。当時はインフラ不安で、 スーパーで品薄になっていたガスカセットを購入した記憶がある。幸いにしてそれを使うことは無かったので、 十数年経った今では期限も切れ処分に困っている。
級友や後輩が共に学校で揺れにあったとか、 校内に置かれた水バケツの数々とか、 停電で毛布にくるまるとか、 そんなこともあった。
辻褄合わせ、 消えた旅先の代わりに福井を旅したことが唯一の癒しだった。
まだこの当時は、 自分が仙台に行くことは毛頭無かった。
南三陸訪問
状況が変わったのは翌年。父が山形から仙台市若林区へ転じたことだった。突然、 仙台が身近になった。
だが自分には、 行く決心がつかなかった。まだ十代の己には躊躇があった。
そして先輩たちが学校行事で三陸を訪ねると聞いた。何だ、 自分も行けるじゃないか。
文化祭では生徒会が募金をしていた。自分は生徒会に知り合いも無かったが、 何か身体が動いて声を張り上げた。声には自信があったが、 あまり集まらなかったように記憶している。体育の先生が声をかけてくれた。ご友人が被災されたと言う。
今年通院先で (旅に疲れ風邪をひいた) 仙台旅行のことを話すと、 やはり主治医にも仙台の友があるという。
関東と仙台は、 それほど近いものだった。
思い出したが、 前年のリーグ王者名古屋グランパスは 12 日にアウェイ ・ ベガルタ仙台戦が控えていた。それがより一層自分のなかでの仙台への想いを強くさせているのだと思う。
結局父が仙台に居たのは一年だけだったが、 毎週末沿岸部を自転車で走り、 都度メールで届けてくれた。
そうして 2013 年に学校行事で三陸を訪問したが、 どんな映像写真で見るよりも価値のあるものだった。
震災から二年。
南三陸には何もなくて、 白色の土埃舞う荒野に赤い庁舎の鉄骨だけがあった。
ここには営みがあったのに、 何もかも押し流してしまった。そしてその高さ。全く意味がわからなかった。
行けなかった仙台
2014 年、 その年はオリックスが強くて計算するとどうやら仙台で胴上げが出来るかもしれない。これは行くチャンスだなと思ったが既に宿は無く、 これは最終便で日帰りか (既に父は別の地域へ転勤していた)。
最も優勝は福岡で潰えたので胴上げは無かった。仙台に行きたかった。そう強く思ったものだった。
ここから更に 10 年掛かった
2014 年以降結局仙台への想いは多忙と自分の精神状態も相まって (盛岡は行ったのに) 少し萎んでいた。その間に震災後父が買ってきてくれた 「凍天 (しみてん)」 は閉店して、 再チャレンジの機会すら無かった。
盛岡に行ったときも 「仙台もいつになるのかなあ」 と通り過ぎただけだった。
里浜
ところで私は戦争特番と震災特番は NHK のものを中心にチェックしていた。もちろんすべてが見られる訳ではないが、 それでもあの中継を見た者として 「責務」 とも感じている。
2020 年、 閉塞感のある日々に 「そういえばあの番組まだ見てないな」 と録画を再生したのが 「奇跡の里浜 震災 9 年 再生の日々」 という BS の特集番組。
目から鱗だった。大津波と自然の再生というのは南三陸訪問以来興味のあったテーマであるけど、 ここで自分に深く刺さったのが 「里浜」 に生きる人々への営みだった。
直ぐに 「行ってみたい」 と思った。ここから 4 年掛かったが。
難しかったのは、 なかなかインターネット上に 「里浜」 に関する情報がわずかで、 その範囲が今ひとつ掴めなかった点だ。番組中では仙台市の 「新浜」 地区が紹介されていたが、 調べていると名取市の閖上地区にも出会った。閖上の被害の話は父からも聞いていたし、 自分もニュースで記憶にある。
それに名取市であれば仙台空港にも程近い。ちょうど海岸線には貞山堀に沿った自転車道も整備されたと聞いて、 それなら仙台空港から貞山堀沿いを北上する計画を立ててみた。
ただ地の利を得ていない土地で無理をするのは良くないとも感じる。
行きたいところ
そこで自分が仙台周辺で巡りたい地点を見つめ直してみると、 仙台空港、 閖上、 荒浜、 新浜、 若林城となる。(他に法務局に平山郁夫画伯の絵が展示されていると聞いて問い合わせてみるも一般人は観覧できないらしい)
少なくとも仙台空港と震災以降として公開されている荒浜小学校はマストだろうとなった、 仙台空港から荒浜までは 10km 超。新浜までいくと 20km 程度となる。これぐらいなら自分の体力でも間に合うだろう。そして新浜を抜けると貞山堀は七北田川の河口部へと注ぐが、 この川を越えると日和山と仙台港が広がる。
仙台港にも気になる店があった。それが先にも触れた福島名物の 「凍天」 で、 父親が土産に持って帰ってきてくれたことがある。これを家族で食べるのだが、 その当時私はストレス (飛行機への怖さ) などで上手く食事が取れず、 あろうことか 「それ」 を食べようとして、 吐き出してしまった苦い過去がある。
家族からはまた次の機会にチャレンジすれば良いと言われたが、 前述のように再チャレンジを前に店が潰れてしまった。
断絶した名物を復興させた企業は仙台港の 「仙台杜の市場」 にも直営店を出しており、 せっかく近くまで行ったのだから食べに行こう!と思った。
そうなると若林城は別の機会だ。
計画変更
が、 問題が起きた。
行こうと考えていた日に T 岡田と安達の引退試合が入ったのである! これはいかん!
試合開始までに帰宅するとなれば、 仙台を 15 時には出発しなければならぬ。そうなると計画が 2 時間程度前倒しとなり、 最低限度の訪問で練り直すことにした。
そのようにして仙台に朝 10 時、 荒浜に 11 時。そこから見学をして、 昼食をとってゆったり若林を目指す。
もちろん自転車を輪行しての旅である。雨が降ったら地下鉄とバスで荒浜だけを見に行くことにした。でもそれなら時間が余るから仙台港に行ってもいいかなと思ったが、 素晴らしい晴れだったので気にするだけ無駄だったかもしれない。
9月24日旅行
大溝旅行から二日後の 9 月 24 日。火曜日の朝ラッシュを尻目に下り列車に乗り込んだ私は、 乗換駅で東北新幹線のホームへと歩を進めたが、 さすがに剛性折りたたみ自転車だけあって 12kg の大変な重さだった。乗り込むまでに筋力を消耗した。
乗車したのは 「はやぶさ 7 号」。320km/h の高速列車で仙台駅には 9 時 48 分に到着する。たったの 1 時間である。途中先行列車の為か速度が落ちるシーンもあったが、 ダイヤに余裕があるためか定刻で着いた。自転車は E5 系に設置されている荷物スペースに置いたが、 手間取ると後ろに列ができてしまうので大変な心労があった。とにかく置こう!と思ったために、 どのように置いたのか記憶が無い。
宮城野通
仙台駅というと、 どうしても仙台城側の西口ペデストリアンデッキが有名だが、 海沿いを目的としていたので東口を目指すことになるが、 ここでも自転車の重さがしんどかった。そこまで人がいるわけでも無かったので助かった
自転車を組み立て、 輪行バッグをたたみ (ここに時間がかかる)、 準備が完了。到着から 20 分程度かかったが、 10 時 10 分には宮城野通を東へと走り出した。
しかし走り出してすぐにわかった。
宮城野通素晴らしいぞ!
声を出してしまった。歩行者と自動車と切り離されるだけで、 やっぱり快適なんだなあと。さすが東北を代表する大都市仙台だ。なんだか道行く車も、 歩く人も、 みんな洒落て見える。車の量もやはり平日の朝 10 時台ということも大きいのだろうが、 自動車王国愛知や東京界隈に比べたら快適であった。
知識として宮城野通を真っ直ぐ行けば楽天イーグルスの本拠地、 今井雄太郎が完全試合を達成し、 オリックスもリーグ連覇の歓喜に浸った宮城球場 (楽天モバイルパーク) へと辿り着く。
この日は試合も無く入れるのかわからなかったが、 地元の人も歩いているから良いだろうと思い自転車を押して歩く。
程なくすると球場正面に差し掛かり、 カメラを置いて自転車と記念撮影。このとき横の陸上競技場では学生の大会が行われており、 なるほど宮城野原総合運動公園と言うわけだと、 ヒヤヒヤしながら体感したものである。
荒浜小学校へ
荒浜へは、 ここから球場裏の貨物駅を超えて、 更に 「六丁の目」 なる地区を目指す。真っ直ぐの道で 3.5km である。ここまで 30 分もかからず、 荒井までも 40 分を切る。良いペース。
六丁の目から進路を南にとり、 荒井地区から再び東へ進む。これは確か Routehub が弾き出したプランだったと思うが、 ここからは荒浜小学校まで道なりである。
途中 「七郷小学校」 から給食の香りがして、 これが平日旅の醍醐味と感じた。仙台東部道路までは住宅街が広がっていたが、 近年宅地として整備された気配を感じ取った。
東部道路が近づくと広大な仙台の田園風景が広がる。様々見聞してきた知識を総動員させると、 津波は仙台東部道路まで押し寄せた。しかし 2025 年 2 月 14 日現在、 地理院地図で浸水範囲を見ると、 この荒井周辺では仙台東部道路から西側にも津波は達したらしい。海岸線まで 4km あるが、 高低差は大して無い平坦な土地だから田園地帯まで押し寄せたのだろう。
東部道路の手前の交差点で田園地帯を眺めていると 「べがる田」 という看板が目にとまった。これはベガルタ仙台の市民後援会が行っているもので、 津波の被害を受けたが 2014 年に復活したものであるという。ベガルタは面白いチームだから、 また J1 の舞台で見たいものだ。
こうした田園風景の中、 民家の軒先に鷺が佇んでいたりイナゴが飛び跳ねる姿というのは大変趣がある。また南西を見れば蔵王に連なる山々が見えて、 これも良い。どうしても仙台市内というと城下町やあおば通、 広瀬川といったところばかり見てしまうが、 こうした牧歌的な、 何の変哲も無い田園風景こそ伊達 62 万石お膝元の風景として大事だと思う。
かくして鼻歌交じりに自転車をこいでいると、 仙台東部道路同様に盛り土の上を南北へ延びる道が目の前に広がる。これが復興道路というやつで、 有事の防潮堤も兼ねている。先に見た東部道路は高速道路であるのに対して、 こちらは料金のいらない自動車専用道である。
2011 年 3 月 11 日以前は、 東部道路をくぐると目の前には海岸線一面の松並木が拡がっていたと聞くが、 もはや昔の話である。
復興道路の渡り方
困ったのは、 この道路をどうやって渡れば良いのか、 という点だ。後から聞けば対向車線側の歩道に自転車と歩行者用の信号が付いていたのだが、 ここでは今ひとつ案内が見当たらなかったのか見逃していたのか、 難儀した。海側へ行く車線は途中で歩道が途切れており、 交差点も自転車が通って良いのかわからなくて困った。冷静に考えたら自転車も軽車両だから、 特別な注意が無い限りは行っても良いのだが、 慣れない土地ではこういった小さなことがパニックにつながる。
結局昔の県道、 今は側道になっている道でくぐれないかと思案したが、 堤防代わりの強固な道にそんなものがあるはずも無く、 とりあえず次の信号のない交差点へと上がり、 車の切れ目をぬって渡った。今考えると普通に信号のある交差点を渡るべきだった。
荒浜の景色
ここで時間も最短距離をロストしてしまい、 荒浜小学校の裏手を走ることになった。だが、 この迷ったことで新たな発見もあった。
それは荒浜小学校の裏で林野庁が 「海岸防災林の再生」 に取り組んでいる現場に出会ったことだ。地理院地図で震災前の写真を見ると、 ここは松並木の一部であったらしい。
どうしても政府やお役所はいろいろ言われてしまうが、 このように首都圏なんぞに暮らしていたらわからないことだってあるのだ、 と勉強になる。私はかつて仙台松並木の写真に心を奪われた経験があるので、 こうした道の迷いも 「縁」 による導きと思うのも良いのかもしれない。
この場所の松は青々と茂っている。ただ貞山堀を覆い尽くした往年の姿が再生するまで何十年、 何百年かかるのかわからない。それでも、 後世の人々がまた私のように仙台の松並木が凄いと感じる日が来ることを願ってやまない。
さて防災林の再生現場と並んで、 道に迷ったことで良かったのは荒浜小学校へアプローチするために、 貞山堀沿いの自転車歩行者道を走ることができたこと、 そして堤防を越えて太平洋を眺め、 慰霊の観音像に手を合わせることができたところだ。ここは父からも助言を受けていた。
まあ計画として前後した形になったが、 先に訪ねていたおかげで小学校内の展示における地理事情が飲み込みやすかったのは、 これもまた道に迷った副産物であった。
ところでここまで仙台東部道路 ・ 復興道路について触れた。この砂浜の背後に広がる堤防と併せると合計三つの堤防で市街地から津波を防ぐことになっている。
ただ、 昔は松並木を抜けると見渡す限りの太平洋が広がっていたんだなあと思うと、 少々味気ないなと思ってしまったことも事実。波の音は聞こえるのに、 姿が見えない。防潮堤工事が色々言われていた頃に見聞した言葉であるが、 ここでようやく理解することができた。
堤防では思わず太平洋に複雑な想いを抱いた。我らが三重県にも恵みと財産をもたらしてくれる海だが、 たまに人間に牙をむく。そのたびに人間は迷惑を被ってきたものだが、 平時海の恵みと波に癒やしを享受しているから憎むに憎めない存在だ。
平日の昼前と言うことで人もまばらだったが、 地元の青年が海を眺めていたのが印象的だった。 また貞山堀では地元の人がのんびり釣りをして、 自転車歩行者道ではロードバイクが颯爽と駆け抜けて良い風景だと感じた。
荒浜小学校
そうして荒浜小学校へ辿り着く。
校舎の前にはかつて校庭だった空間が広がり、 今は駐車場として活用されており、 自転車を駐輪するスペースもある。隣の敷地では荒井からのバスが転回し折り返しの時間待ちをしていた。昔は校舎のすぐそばまで人の営みがあったという。
この校舎の二階、 これは 10m の高さにあると言うが、 そこまで津波が押し寄せた。いや段々と二階にまで達したとか、 二階の高さに達するほどの第二波が押し寄せたというべきだろうか。
平時の海しか知らないと、 どうしても海の波は 「平面」 で捉えがちだが、 実はそんな簡単な話では無くて、 そもそも津波は小学生が持ち運ぶ定規程度の高さでも容易に大人を死なせる程の威力を持っている。(だいたい平時の海でも海底の地形や海水温によって、 波は大変危険なものとなるのだ)
今回のような大地震では、 激しい揺れによってとんでもない高さにまで達する。
そして波は海底にたまったヘドロ、 海岸で砂を、 そして松と沿岸家屋に住民を巻き込む。
動物は巻き込まれただけでも大変危険な状態なのに、 人体に害を及ぼすヘドロ、 木や家屋の建材までもが襲い来るので、 津波の水には触れてはならない。
というのが様々なメディアを通じて十数年で得た学びである。
だいたい小学校のベランダの手すりは往々にして頑丈にできている。しかし荒浜小学校のベランダの手すり一カ所は、 無残にも突破された痕が生々しく津波の圧力を実感させる。
小学校内には様々な展示がある。そのすべてを書くのはつまらない。これは自分の目で確かめて欲しい。
特に目に留まったのが震災前に児童が制作した地図で、 在りし日の荒浜の姿が記録されていて心を打った。そして震災後の歩みである。仙台市は荒浜など沿岸部といった地域を 「仙台市災害危険区域」 に指定したこともあり、 元々住んでいた人々は転居を余儀なくされた。
荒浜の人々はどこへ移住したのか。その大きなヒントが、 荒浜小学校は七郷小学校に併合される形で閉校したとの記述である。
もしや、 とスマホで調べてみると七郷や荒井地区に集団移転したという。そうなると往路に、 このあたりは新しい家が広がっているなと感じたのが正解だったのだ。
そのことを調べたのは VTR の再生を待っていた頃である。ちょうど正午を回ったぐらいで、 スマホの充電も切れそうだったから、 モバイルバッテリーで充電も開始。見ている間に少しは貯めておこうと思った。
映像を眺めている頃、 廊下側の窓が少し 「ばたばた」 とした。誰か他の見学者 (この日は十組くらいが見学していた) が廊下に出た音かなと思ったのが、 一応念のために調べてみると丁度宮城県沖で M3.8 震度 1 の地震が発生していた。
仙台市内に揺れの観測は無いので、 やはり見学者による音だろうと思うが、 それにしてもなかなかの歓迎である。(最も地区の避難所は、 この荒浜小学校なのでそこまでの不安はないが)
屋上から見る景色も良かった。穏やかなお昼の太平洋、 そしてかつての荒浜の町の痕跡。避難の丘。松の再生現場越しに見る仙台の市街地などを一望して様々考えさせられた。
荒浜小学校には寄せ書きコーナーがあり、 私も 「やっと来ることができました」 と書いた。眺めていると全国各地から荒浜を訪れていることがわかる。訪れた人の数だけ、 その分の想いがある。
この荒浜小学校、 基本的にはガイドも無く自由に見学できる。団体では職員が案内してくれると言うが、 私は帰り際に道路について聞きたいのでスタッフルームを訪ねた。
往々にして緊張したが、 お昼休み中にもかかわらず丁寧に応対してくれて道路の渡り方に、 若林城までの簡単な道筋を教えていただいた。
昼食について
ところで既に正午を回り空腹なのだが、 アテにしていた JR が運営する施設は休業日。やってしまった。
住居跡を巡りながら探していると、 幸い近くには何件かの商業施設があった。ありがたくハワイアンテイストな 「LaLa カフェ」 で昼食をとった。まぐろとアボカドのポキ丼、 これにセットドリンクで 1200 円だ。自分にしては奮発したランチとなる。
このマグロは気仙沼産で、 ささやかな 「地のものを食べる」 という目標が達せられて良かった。
充電危機
美味に舌鼓を打ち、 店内にかかるアメリカのラジオに耳を傾けていると或る違和感に気がついた。
スマホが全然充電されていないのだ!
なんとモバイルバッテリーの残量は滋賀旅行のままで再充電されて居らず、 大したて残っていなかったのである!!
スマホの充電残量が減ると困るのは、 GPS による走行ログがまともに記録されない点だ。だがこうなった以上は仕方が無い。腹をくくって若林城を目指した。
若林城へ
しかし旅先で充電がないと言っても、 今はもう令和 6 年である。それにここは東北の大都市仙台。電気屋の一つや二つどうにかなるだろうと思った。なので道中に量販店っぽい名前を地図で見つけたが、 自分の現在地との距離感もわからず、 気がついたら遠く離れてしまっていた。電池の都合、 自分でもなかなかの速度を出していたからあらゆるものを通り過ぎてしまった。
このあたり東西への道は車の往来少なく大変走りやすい。こういうところで細いタイヤだったら、 気持ちよいのでしょうな。
荒井の街を抜け、 もはや自分がどこにいるのかさえも謎のまま国道 4 号線に出た。東京では日光街道、 このあたりでは奥州街道とも言うべきか。岩手でもその幹線っぷり (人よりもトラックの往来が激しい) に舌を巻いたが、 ここでは人もトラックも乗用車も多かった。
当初の計画では陸上自衛隊霞目飛行場 (震災当時の前線拠点、 ここは無事だった) を眺めるつもりだったが、 そんな余裕もなかった。
国道 4 号線を越え、 道に迷いながら若林城に到着。ここは NHK のブラタモリにも出てきたが、 伊達政宗の隠居城にして、 城跡にしては珍しく刑務所として活用されている貴重な場所だ。
しばし充電のことを忘れて若林城を眺める。これにて今日の目的は達成。あとは仙台駅に引き返しヨドバシカメラで充電グッズを買い、 ずんだシェイクを飲むのみだ。
仙台駅へ
ここから仙台駅に向かいたいが、 全く道がわからない。それでも線路に沿っていけばどうにかなるだろう精神で、 貨物線と新幹線の高架をくぐる。線路沿いに道路があるだろうとの憶測だったが、 途中で途切れていた。工事の人に仙台駅はどちらですかと聞いても、 あまりよくわからなかった。
少し進むと 「連坊小路」 との看板が見え、 線路を越すそれなりの規模のある道路が見えた。今地図で見ると、 もう少し西へ進むと広瀬川に出る。地名も 「河原町」 が近い。また連坊小路への道路は 「五十人町」 と、 どうやらこの辺りは既に仙台城の城下町。意識していなかったが期せずして仙台城の敷地に足を踏み入れていたらしい。
更に連坊小路から仙台駅東口へと向かう道中には、 とにかく寺が多かった。
往路、 下車の準備で早めにデッキから山側の車窓を眺めていると、 広瀬川を越えてすぐに寺が多いなあと感じていたが、 むしろ反対側の方が寺が多かった。この 「連坊」 というのは古く陸奥国分寺 (貨物駅の道路を挟んで南側) が置かれた頃からの地名と言うが、 ともかく寺の多い地区は 「新寺」 とある。伊達家が敢えて古く 「連坊」 と呼ばれた地域に寺を置いたのか、 偶然なのか。興味は尽きない。
そうしてヨドバシカメラのたもとで道行く若者に紛れながら自転車を収納し、 これを担いで店内でモバイルを入手。レジの際に 「すぐ使いますか」 と言ってもらいゴミが減った。思わず 「これで安心して帰れます」 と答えた。
ずんだシェイク
安心して改札を抜けると、 乗車時間までだいぶある。お土産屋で 「凍み天」 は無いかと探すも、 やはり無かった。
帰りに飲みたかったのが 「ずんだシェイク」 である。かつて東北を訪れた際に、 この駅で尿意を催したがその道中で 「ずんだシェイク」 に出会った。
それから十年間、 様々なメディアで紹介されたり投稿を見たりするたびに欲求が高まっていったので、 こちらも念願叶って飲むことができた。
料金を支払って抽出まで少し時間がかかるのが良い。時間に余裕を持つことが肝心だ。
正直自転車とずんだシェイクを抱えて新幹線ホームまでは無理があるのでは?と思ったが、 充電があるうちに仙台駅に辿り着くという高度なミッションを達成した私にとって、 屁でも無かったようだ。旅場の馬鹿力というか、 そりゃ帰ったら体調崩しちゃうよな、 と書きながら思う。
帰路
帰りは時間的余裕もあるので盛岡始発の 「やまびこ 60 号」 で帰路についた。結構空いていて良かった。
乗車時に荷物置き場に自転車を入れようとしたが上手く入らず、 後ろの方にご迷惑をおかけした。
帰宅してから、 荷物置き場と座席の間に入れている人を検索で見たので、 次はこの例に倣いたいと思う。
なお T 岡田と安達の引退試合は途中まで本当に酷い展開で、 これなら当初の計画でも良かったかもしれないな、 とか思ったりもした。
そして宮城球場で 「へー月末にここで試合するんだ」 と知ったイーグルス戦も、 宮城は雨に泣きタイトル取れず中嶋監督も辞任という、 散々なものになったのである。
旅のまとめ
滞在時間は約 5 時間 30 分。
その中で行きたい地点は回れたので、 良い旅だった。ただ自転車の置き方、 信号の渡り方、 充電池の確認など事前の準備が足りなかった点は否めない。充電池は仙台から帰って二つ体制になったが、 翌月末には機種変更に伴い三つ体制になった。まだまだ使いこなせていないが (電池の持ちが良くなったのだ)、 今後の旅に役立てていきたい。
故郷への憂慮
最後になるが少し書きたい。
私が今住んでいる首都圏は、 中越 ・ 中越沖 ・ 能登 ・ 東日本 ・ 能登などでもそれなりに揺れ、 また日頃から茨城県で揺れることもあり地震への意識が高い。もちろんそれが住民、 地域行政、 企業活動の備えに繋がっているのか、 完璧であるとは思ってはいないが、 最低限は準備がされているように思う。
しかし私の愛する愛知県、 三重県はどうか。
三重県では 2007 年に亀山を震源とする地震があったが、 今の学生たちは概ねそれ以降に生まれた人たちだ。愛知県はそもそも滅多に揺れることが無い。
こうした今の状況で東海地方で大地震が発生した場合を考えると、 大変なパニックになるのではないかと感じる。
愛する名古屋鉄道の帰宅困難者への対応は?しっかりと準備できているのか?JR 東海は大丈夫か?
そして沿岸部では津波の心配もある。伊勢湾は内海だからと高をくくってはならない。明応地震で安濃津は大変な被害を受けている。津市のハザードマップでも、 城下町はしっかりと浸水範囲、 岩田川を遡上し津新町駅や津工業高校のあたりまで。さらに津駅周辺の方が高い津波が来る可能性もある。こうした危険性がどこまで市民に、 高層建築物を持つ企業に共有されているのだろう。一時間で線路より西側に避難できるのか。東北では車での避難中に被災した方も多い。私があの日テレビで見たのも、 津波に呑み込まれた車たちだ。国道 23 号を往来する車が、 西側へ向かう道という道に押し寄せたら、 大渋滞が起きかねない。ただでさえ津新町の踏切は渋滞の名所なのに。
また岩田橋から津新町の駅は歩いて 10 分前後だが、 ハンデを抱える人や焦るあまり怪我をした人は倍かかる。まああの辺りは高い建物があるから、 そちらに避難した方が早そうだ。
遠方に住むからこそ心配でならない。
元日の能登地震では山間部が分断された。三重県内、 愛知県内でも同様のことが起きる可能性もある。
更に言えば伊賀上野も江戸時代に大地震が起きた。これを起こした木津川断層は文科省地震調査研究推進本部事務局の評価では、 30 年以内の確率はほぼ 0%であるという。だが想定外が世の常だから、 0%だからこそ今から防災減災の為に準備を進めた方が良い。
再訪へ
今回の仙台旅行は最低限の訪問にとどまった。
既に貞山堀に沿う自転車歩行者道へ走りに行きたいと考えている。そして新浜 ・ 里浜を訪ねたい。今年の目標である。
こうして行ってみたい場所がまだあるということは、 どうやら仙台も通うことになりそうである。
2025-0216