中世甲良の景観に関する試行的考察


目次

今回新しく 甲良 を知るためにシリーズを立ち上げてみようと思う。
最初の切っ掛けとして犬上川と一ノ井の用水に触れた本記事 そして高虎の故郷とされる在士 多賀氏の本拠地とされる下之郷 上之郷の中核的神社があり甲良家ゆかりの法養寺について書いてみたので読んでみてほしい。順番は何方でも構わない。

なお本稿では滋賀県立図書館 近江デジタル歴史街道 が提供する 近江国各郡町村絵図 および 近江国犬上郡百二十八ヶ村之内耕地絵図 を活用して執筆を行った。これは明治四年(1871)のもので 江戸時代末期の姿を映していると思って利用した。今回目的とした中世とは幾ばくか異なる点もあるだろうが 使えるものは使いたい。

在士

下之郷

法養寺


藤堂高虎は で生まれた仁であった。

このような説明を見た際に現代人が思い浮かべるのは 一体どのような景観であろうか。
現代の都市部や近郊地域に暮らす人間にしてみれば そのステレオタイプな のどかな田舎 と呼ばれる風景を思い起こすだろう 更に一部藤堂高虎を説明する中で藤堂家が 百姓にまで没落していた なんて一文があると そこから想起されるのは 寂れた村 の景色である。1
しかし実際はどのような土地であったのか。それに触れた論稿や記事は数えるほどもない。2

なので今回自分自身の整理と理解のために書き起こしたという訳である。
近い将来 町には 国道 8 号 彦根東近江バイパス が通ることになる。2025 12 19 日に発表された計画によれば 八町から下之郷 法養寺 横関の耕作地帯を縫うようにして小川原で犬上川を渡る計画3となった。つまり遠からず景観に変化が訪れる。
今回取り上げるなかでは法養寺地区が微妙に計画と被っているが こうした計画の存在も書くエネルギーになってくれたのである *最も圃場整備等の近代化によって 江戸時代以来の景観は既に遠い過去の話となっており 我々は常に変化の中にあること認識することも重要である。


甲良の真ん中

藤堂高虎は湖東 近江中郡4の甲良で生まれたとされる。


*歴史的行政区域データセットβ版を使用

豊臣期以降に定まったらしい村単位の名で言えば さいし 在士 に生まれたようだ。
インターネット上の地図サイトで甲良町を見ると 在士という地区は町の中心的な位置にあると言える。実際に町役場は在士地区にある。


甲良三郷

さて甲良地域には独自の地域区分がある。それが浅井長政の書状5に見える 甲良三郷 という区分である。
この 甲良三郷 という区分について先んじて解説したのが橋本道範氏6 その解説によると 松宮大明神 六所社とも 現桂城神社 松宮梵天王社 現尼子甲良神社 素盞烏社 現法養寺甲良神社 以上三社の氏子圏が 下之郷 尼子郷 上之郷として区分化される。

氏子圏

この三社氏子圏によって構成される 甲良三郷 の具体的な地域に関しては 橋本氏が江戸時代の地誌 江左三郡録 を用いて解説するように 下之郷 地域が下之郷 四十九院 石畠 八目 八町 雨降野 尼子 地域が尼子 在士 葛篭 法士等 上之郷 地域が法養寺 横関 金屋 北落 呉竹となる。尼子の氏子について 法士等 とあるが 滋賀県神社誌 では出町を氏子としているので 恐らく出町も含まれるのだろう。

応安六年(1372)の 道誉置文 尼子郷 の文字が見られることから 十四世紀後半には成立していたと思われるようだ。
後述するように三つの郷名は一ノ井から流れる水路名にもなっているが ここに少々疑問もあるので後で述べたい。


犬上川

時に甲良や多賀 地名 を語る上で欠かせないのが犬上川である。甲良や多賀は扇状地で 古くから水に苦労した土地である。その苦労は戦後の犬上川ダム完成まで続いたという。
こうしたなかで古人たちは甲良や多賀地域を潤すべく犬上川から水を引いた。その時期は奈良時代頃と推定されている。

旧河道

水路が引かれる以前は旧河道に沿うような形で遺跡が見られるところを踏まえると 前史僅かな水を求めて旧河道を根拠としたものと思われる。
戦後行われた圃場改良以前は 田畑の地形に旧河道を見ることができるという。7
地理院地図では 1980 年代前半までの空中写真で見る事が出来るが 横関から尼子にかけて幾重にも曲がりくねる田畑を見ることができる。ここに土地条件図を重ねると ちょうど旧河道に符合する。

一ノ井

甲良地域へ水をもたらす取水口は金屋に置かれ 一ノ井 と称された。8

明治初頭の金屋村の絵図[^金屋絵図]を見ると 一ノ井から流れる河川を三郷に倣って 下之郷川 尼子川 上之郷川 とある。明治初頭時点でそのように描かれている点からすれば 江戸時代には成立した呼称なのだろう。ただそれ以前の呼称は定かではない。
強大井組としての湖東犬上川一ノ井郷の特質9によると こうした一ノ井から流れる水を享受する地域を 一ノ井郷 と呼び 井元でもある金屋と尼子 下之郷の三村が 親郷 としての地位にあったそうだ。

承禎書状

こうした甲良の用水に関する中世の史料は僅かである。貴重な一つが藤堂高虎が生まれる前後の時期に出された六角義賢の書状である。

甲良庄惣懸取之事 近年木朽分水ニ大小在之由候 先従分水上之砂を可取由 三郷江可遣奉書候 於其上分水相違 又者 分木少も損候者 懸取之儀可申付旨 尼子かたへ可被申候 恐々謹言
    七月廿五日      義賢 花押
   池田宮内丞殿
   吉田修理進殿
遺文一一二五

この内容は 甲良の分木が朽ちため水量が一定とならないので 分木の上に溜まった砂を取り除くことを三郷へ奉書を以て伝えると共に それでも水量が安定せず分木が破損していた場合は 懸取之義 を申しつける旨を尼子方へ伝えるように奉行人へ伝達したものである。
ここで尼子が出てくるが これは尼子郷を出自とする尼子氏の事と考えられている。この書状を天文末と仮定すると義賢から偏諱を受けた 尼子宮内少輔賢誉 であろう。

懸取 というのは分水設備のことで 甲良では かっとり と呼ぶ。近現代にも存在する設備だが戦国時代にも存在したことがわかる。
こうした用水は農業用途に留まらず 戦後に近代水道が普及するまでは生活用途でも利用されていたと思われる。しかし大正時代の調査では半分以上の水路が 不足 として記録されている点からすると 水路が存在することが潤沢な水環境とは言えず その暮らし向きは現代上下水道の恩恵を享受する私には想像し得ない苦しみがあったのだろうと推察する。
まさに命の水 ライフラインである。10

以下の図はダム整備 圃場改良以前の甲良町内水路を再現した図である。
細かいところは推測が入るし ここから更に東へ延びているし村々へ細かい水路が分枝するが都合上省いている。それでも毛細血管のように水路が張り巡らされている様子は見て取れよう。
尼子川は金屋や北落で幾重にも分枝しているため 大まかな理解として図上に文字を入れた。あしからず

ちなみにこの図と高低差を組み合わせた図を組み合わせると 見事に金屋の取水口から西 つまり低い位置へ流れるように設計されている。水が高いところから低いところへ流れるなど常識的の話であるが こうしてみると理解は更に進むだろう。


上之郷についての違和感

ところで現在の 三郷 を詳しく見ると違和感が生じる。
その違和感は 上之郷 にある。
ここで氏子としての 上之郷 領域を並べると法養寺 横関 金屋 北落 小河原である。
一方で水路としての 上ノ郷川 は一ノ井から金屋 池寺 長寺 そして法養寺の村落へ流れる。しかし池寺 長寺は上ノ郷の氏子圏外である。
更に上ノ郷の中核的神社である 素戔鳥社 の周辺や横関 北落 小河原に上ノ郷川は掠ってもいない。下之郷川や尼子川の流域となる。

一体どうして このような差異が生じたのか甚だ疑問である。何か解明に繋がる史料に出会いたいものだ。


甲良の怪異

往々にして甲良にも怪異の伝説がある。
例を挙げると下之郷の おたけさん 法養寺の 釈門 在士の といったところか。
何れも下之郷 法養寺が近現代 在士は江戸時代には成立していた伝説である。

実は中世にも怪異がまことしやかに語られることがあった。
文亀三年に記された 大館持房行状 には興味深い話が載る。
長禄三年(1459) 足利義政の乳母今参局が失脚し隠岐11へ配流されることになった。
配流までの時間を彼女は佐々木正観 京極持清 の所領甲良で待つこととなったが 正月十九日に 甲良仏寺 で死ぬことになった。彼女は女性にしては珍しく腹を切って果てたため 傍らにいた者は涙を流し 甲良連年大旱 となり 更に義政? 良家息女侍相府 相公幸之 亦有娠 の侍女が妊娠したが 出産の直前に今参局の夢を見て母子共に息絶えたというエピソードが続く。

つまり長禄三年から 連年 甲良の里は大旱つまり日照り 雨不足に悩まされたという。
甲良の水不足は有史ままあることであったようだが 年次が述べられるのは貴重であるし 更にその原因を大館一族の女性の死と関連付ける点が大変興味深い。
ただ中世気象データベースにあたると この時代雨不足に悩まされたのは近江に限らず畿内一円で発生していたことらしいので 甲良で果てたことに対する当てつけのような書きぶりにも感じる。

そして何より気になるのは舞台となった 甲良仏寺 の具体的なところであるが これは正直よくわからない。だから本稿に置いた訳だが
局の処遇について京極持清が関与していたのだから その一族が菩提寺である勝楽寺は有力な候補となろう。もう一つ京極家の重臣でこの後に所司代を務める多賀高忠の本拠地下之郷にあった二階堂宝蓮院が次点か。こちらは永禄末期の争乱で亡くなった女性の霊が近代になって現れたが 女性の霊ならばその由来を局に求めても不自然ではないように思える。
更に蛇が住まい 切ろうとした者に災いをもたらしたとされる釈門 西方寺も 怪異 という共通項で候補に挙げたい。


  1. そもそも高虎の生まれについて 一介の土豪 地侍 と語られる程度で それ以前の藤堂氏がどうであったとか 母方の多賀氏がどのような家であったのか語られることは滅多にない。漫画 センゴク でも高虎の生まれは散々な描かれ方であった。一方で 足軽から大名に出世した という物語を考えると 高虎の生まれは貧しい方が物語性を高めるので良いのかもしれない。

  2. 甲良町史 では佐々木道誉 藤堂高虎 甲良豊後守が三大英雄として語られる程度で 実際の景観について触れた記事については皆目見当が付かない。様々なブログ記事を読んでも尼子村が尼子氏の故地で 高虎の出身地と共に語られる程度である。だいたい尼子氏についても藤堂氏についても表面的に語られるだけで 深いところまで語られないのがサイト制作の原動力でもあるのだが。

  3. 国道 8 号彦根~東近江 仮称 に係る都市計画道路の決定および変更について 2025-1221 閲覧

  4. 湖東と中郡は概ね同一である。中郡 という用語は中世の史料でしばしば頻出するのに 現代では用いられない。私は用いている
    近江は 北郡 中郡 南郡 甲賀 志賀 高島 西路 によって構成されている。

  5. 甲良三郷 内に散在した勝楽寺の田畑を安堵した永禄五年(1562)のもの。勝楽寺文書

  6. 中世における犬上川扇状地左岸の再開発についての基礎的考察–水利復元を中心とした景観分析による地域史研究に向けて / 橋本道範 / 琵琶湖博物館研究調査報告 = Research report of the Lake Biwa Museum (8),滋賀県立琵琶湖博物館,1996-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/7969121

  7. ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書 21-3(1994.3)

  8. ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書 22-3(1995.3)

  9. 近江経済史論攷(1946) 喜多村俊夫 所収

  10. 水資源 環境研究の現在―板橋郁夫先生傘寿記念(2006) 所収 農業水利研究の課題と伝統的水利に見る使い回しの論理 滋賀県犬上川流域の事例をふまえて 池上甲一

  11. 同時代の伝聞記録を読むと 碧山日録 では 海外之隠島 として 経覚私要鈔 では 江州隠岐嶋ニ被流之由有其聞云々 とあり同じ京極領でも蒲生郡沖島とするのが妥当かもしれない。