羽田正親に関する考察

date: 2022-01-22

羽田正親について

羽田正親は 長門守 という。
江戸時代に制作された 郡山城主記 なる史料を読むと 家老として四万八千石を食む立場であったという。
同記には他に 桑山一庵法師五万石 小川下野守三万五千石 の家老が記されているが 桑山重晴と横浜一庵 小川左馬介と宇多下野守が混ざっており信憑性に疑問がある。そのような史料に於いて唯一名前がはっきりしているのが羽田なのである。

同記に 四万八千石 と記されているが その根拠となる史料は見られない。どうやら 宇陀松山城 に入っていたことが伝わるが宇陀市教育委員会の資料には 天正十三年(1585)に伊藤掃部助が入るも翌年の紀州攻めで討死したので 加藤光泰 羽田正親 多賀秀種が入ったとある。
宇陀松山城でいくと多賀出雲守が有名で 少なくとも文禄四年(1595)には彼が約二万石で治めていた事がわかっている。
加藤光泰は天正十五年(1587)には佐和山へ移っていると言われ 更に多賀出雲守が治めたのは文禄元年(1592)とも言われているので 羽田が治めることが出来たのは天正十五年(1587)から天正二十年(1592)の約五年間だったのだろう。

和歌山県史 によれば出典は不明ながらも 天正十三年(1585)の秀長紀伊和泉拝領時に 羽田忠兵衛を上二郡 に配したとある。これは紀州の上二郡の事だろう。紀州であれば粉河に藤堂高虎が配されたが そうなると羽田は藤堂の上役になるのだろうか。
ここでは 羽田忠兵衛 とあるが 久政茶会記 には 羽田忠右衛門 が登場するらしい。何れも同一人物 正親を差すのか 彼の他に羽田氏が居たのか。定かではない。

このように羽田正親は不確かなことが多い。例えば奉行として藤堂高虎 吉川平介と共に紀伊の山地を担当していたと言われ 赤木城を建てたのは高虎のみならずこの羽田正親も担当したとの話もある。
まあ羽田正親の職制はまだ脳内に纏まっていないから 此方は何れ書くとしよう。

羽田正親の家系に関する考察

羽田正親はその出自も定かではない。
唯一わかっているのは 輝元公上洛日記 にて 羽田傳八 長門守子 と記されている点だ。
そういえば文禄年間に秀保が高虎へ宛てた書状の中には 直傳八事 と記されているが これは 羽田傳八 の事を差すのだろうか。

秀長がまだ 美濃守長秀 を名乗っていた頃 丹波夜久の有力者 夜久主計 に宛てた書状は年次が記されていない。そのため藤田達生氏は 本能寺の変直後 と比定し それに対して渡邊大門氏は天正八年よりも前だと比定した。
今回そんなことはどうでも良い。
大事なのは副状の担当者が 羽六 とある点だ。副状には 羽六蔵正治 と記されている。兵庫県史は正治を 羽田正治 と比定した。その論拠が何処にあるのか定かではないが 姓に 名に の付く秀長の配下は羽田氏の他に存在しない。
更には正親の書状を探すと その署名には 羽長 ともある。高虎との連署であるが藤堂は藤佐である
そうなると 羽六蔵正治 というのは正親の一族 もしくは若かりし頃の正親の何れと見るが変わらず此方も詳しいところは不詳とする。

以上羽田正親に関する考察である。その仕事について脳内で纏まれば またノートとして書き起こしたい。

羽田傳八の諸大夫成

20230910 追記
輝元公上洛日記 は天正十六年(1588)の記録であるが 九月六日条に 長門守子羽田傳八 が見える。同年時点で正親には子息があった。その妻 は不明である。
この傳八は後年意外なところで見ることが出来る。

返々 頓民法かたへ被仰出候様可申上候也
其方隙明次第関白様へ罷出 直傳八事今度之御供可召連候 諸大夫之事可申上候 次ニ渡邊須右衛門両人をも諸大夫になしたく候間 此旨申上候 謹言
卯月五日 秀保 花押
端書 〆藤堂佐渡守殿

これは某年四月に秀保から高虎へ宛てた書状である。出典は 桑田忠親著作集 1 より歴史の学び方 第二十講 文献による史実発掘 だ。その年次は桑田忠親翁によって文禄三年(1594)と推定されている。
ここで秀保は高虎に対し 傳八 を伴っての関白への対面 そして渡辺 須右衛門 小堀次右衛門→中嶋信濃守か の諸大夫成を申請するように命じている。
ここだけ見ると傳八が諸大夫になったとは思えない。

次右衛門の諸大夫成

春岳院文書輯成 には 渡辺 小堀次右衛門尉政長 の書状 某年五月十一日小堀政長 渡辺政□連署状 が収まる。
そして 豊臣期武家口宣案集 には文禄三年(1594)八月廿二日の叙任として 豊臣政長 信濃守 中嶋 が見える。恐らく小堀次右衛門が諸大夫成した姿であろうと思われる。

渡辺の諸大夫成?

そこから少し遡ると七月十七日に 豊臣重吉 豊前守 が見える。木下聡氏は秀次家臣もしくは 戸田豊前守 重治 木村豊前守重宗 の可能性を指摘する。しかし文禄四年(1595)に秀保が没した際 秀保生母方に詰めた 大和衆六十人 のなかに 渡辺豊前守 が見える。駒井日記四月二十二日条
渡辺は既に秀保によって諸大夫申請が為され 翌年に 渡辺豊前守 が登場する点から この某重吉が渡辺豊前守である可能性もある。
最も 春岳院文書輯成 某年五月十一日小堀政長 渡辺政□連署状 では 渡辺の諱は から始まる名であったから 口宣案の 重吉 とは異なる。この点が課題であるが 次右衛門が小堀から中嶋になったらしいことを踏まえると 諱が変わることぐらい無理の無いこと思う。

伊予守直正

豊臣直正 伊予守 が叙任されたのは 某重吉 と同日のことである。
木下氏は秀吉もしくは秀次の家臣としているが 詳細は不明である。
単純に同日に謎の 某直正 が叙任されて その諱に正親と同じ が共通しているから という理由で掲示した。論拠に乏しい。
駒井日記の大和衆には 羽田傳八 伊予守直正 も見ることは出来ない。

羽田正親の最期

秀保の没後 正親は高虎以外の大和衆同様に直臣に取り立てられたと思われる。
秀次事件では高虎共々秀次を高野山へ護送している。
しかしその直後に正親は失脚してしまう。青蓮院日記妙 谷徹也 秀次事件 ノート には 羽田長州追却之由 正親が処分された旨が記されている。
加増された高虎とは天と地の差であるが 何故正親が処罰されたのか定かでは無い。捜査によって彼も秀次の謀反に加担していたことがわかったか 何らかの落ち度があったのであろう。

大かうさまくんきのうち によれば堀秀治のもとに預けられたという。
一説によれば家康家臣の本多正氏 正信の甥 は正親に依って秀次方へ転じようとした矢先に事件が起き 八月二十四日に正親が切腹すると 正氏の介錯によって果てたという。本多正氏も正親を追って果てた。寛政譜
そうなると正親の命日は八月二十四日となるだろう。
だが子息 傳八の死は伝わっていない。

その後?

寛政譜には江戸時代の 羽田氏 を見ることが出来る。
羽田政辰 から始まる羽田氏は その家伝に広忠 家康に仕えたとあるから正親とは関係が無いように思える。
気になるのは 羽田正直 権右衛門 から始まる羽田氏で その家は越前国羽田に住したことから羽田姓を名乗ったという。正親が預けられたのは堀秀治であるが 彼は当時越前を領していた。ここで一致が見られる。
また 羽田正重 與左衞門 から始まる羽田氏は 出自こそ定かでは無いが 家康の 御手鷹役 を勤めた人物であるらしい。

ここで徳川家臣の羽田氏を考えたのは 単純に正親に対する贔屓である。だが正親は秀長存命中に家康 秀忠と関わりを持っていたため その親族が徳川家に仕えることに何の違和感があろうか。