藤堂高虎初期重臣の前歴
幾つか調べていると、 矢倉大右衛門と今井次郎右衛門について考えが纏まったので、 研究ノートに放出する。
2022-07-24
矢倉大右衛門の登場
二次史料に於いて矢倉大右衛門が登場するのは天正十一年(1583)の事である。宗国史の功臣年表や公室年譜略によれば、 矢倉大右衛門はこの年に仕えはじめたという。
しかし矢倉大右衛門の直系は五代目で断絶しているためか、 高山公実録に 「矢倉家家乗」 というような記録が現れるのは僅か、 関ヶ原合戦の折りに伊予一揆を鎮圧した旨を手元のメモで確認する事が出来る。なお探せば慶長周辺の史料に幾つか見る事が出来そうだが、 手元に無いので此方は今後の課題となろう。
大右衛門の素性
佐伯朗先生の藤堂高虎家臣辞典によれば、 大右衛門は 「小野庄住人」 で、 元は村山與助を称していたらしい。
彼が 「小野庄住人」 であるのは、 宇和島中間の八幡神社に関わる記述からと思われる。
予陽叢書の第二巻によれば、 慶長十二年(1607)六月、 八幡の中興に 「浅井郡小谷住人」 の藤堂和泉守が絵馬を奉納し、 その奉行を 「小野庄住人」 の大右衛門が務めた旨が棟礼に記されている。
この絵馬は宇和島市の文化財であるようだ。
時に大右衛門が 「小野庄住人」 とあるのは興味深い。実際に小野庄、 今の彦根市には 「矢倉」 という地名があるし、 大右衛門自身も 「小野庄」 と同じ苗字の小野正兵衛と親交が深かったようで、 小野が慶長の役で討死すると息子兵右衛門を娘婿にして 「矢倉兵右衛門」 としている。
また高虎が 「浅井郡小谷住人」 と名乗るのは奇妙であるが、 当時大坂城の主である豊臣秀頼が浅井氏をルーツに持っている事を踏まえると自然であるかも知れない。
宮内重臣の矢倉兵右衛門
この兵右衛門は宮内少輔に附けられ、 夏の陣で名誉の討死を遂げている。
なお名張市史史料集の名張藤堂家文書から、 慶安年間に発生した第一次名張騒動に矢倉氏も関わっている事がわかる。
宮内少輔高吉家頼大身分消息によれば三代目と思しき兵右衛門の弟伊左衛門が、 高吉の重臣丹羽弥五右衛門と共に立ち退いたとある。丹羽家の項目を読むと、 それは慶安元年(1648)の二月十八日の事のようだ。
同史料から分限の推移を見ると、 寛永~正保には 「矢倉兵右衛門」 が見えるも、 享保分限には矢倉氏が見当たらない。代わりに 「小野三左衛門」 が見られ、 文久には 「小野輝」 が見える。
佐伯朗先生によれば、 矢倉の本家は元禄四年(1691)に五代目源左衛門 (大右衛門の曾孫、 三代与五郎の孫) が没した事により断絶したようで、 これにより名張の矢倉氏も本姓である小野氏に復したものと考えられる。
愛媛県史やデータベースえひめの記憶には、 大磯の 「小野家文書」 に矢倉兵右衛門に纏わる史料が見られるとある。
すなわち大磯の小野家というのは、 矢倉兵右衛門の後裔と思しき小野三左衛門 ・ 輝の末裔にあたるのではないか。
村山与介とは
さて話を大右衛門に戻そう。
元は村山を名乗って、 宮部次兵衛 ・ 前野長康 ・ 木下助兵衛に仕えたと佐伯氏は示す。
これは東浅井郡志第三巻に依るものであろう。
東浅井郡志に見る大右衛門
その記述に依れば、 大右衛門は 「村山右近允」 といい、 初め 「與介」 を名乗ったとある。父は村山次郞右衛門という。
天正九年(1581)五月二十一日、 宮部次兵衛吉継 (後の秀次) に仕え、 七十石を宛行われた。更に十一月二十六日、 播磨国賀東郡に於て、 前野将右衛門により百石を給せられ、 翌天正十年(1582)九月二十五日には、 木下助兵衛尉秀次より、 五百石を賜ったとある。
其後藤堂高虎に仕えると、 伊賀国上野に住し、 姓名を 「矢倉代右衛門」 に改めたようだ。
どうやら彼は郷里 ・ 當目に屋敷 ・ 田畑 ・ 山林を有していたようで 「被官の者ども」 に預けていたらしい。當目とは小谷城の南東に位置する草野庄の地名で、 現在の長浜市当目町である。
ただ正徳五年(1715)二月二十三日に、 四代目 ・ 大右衛門正倫 (家臣辞典によれば正備) が、 これらを被官山崎助右衛門等五人に与え、 且藤太夫以下数名の被官にも 「居住せる屋敷」 を与えたようだ。
東浅井郡志が執筆された大正~昭和には、 當目に山崎 ・ 古川 ・ 山田 ・ 上田といった姓を名乗る家があったようだが、 彼らはこうした被官の子孫であるようだ。
つまり上で矢倉大右衛門は 「小野庄住人」 と称したが、 村山の血筋であるのなら当目のある 「草野庄住人」 とするのが正しいように思える。これは矢倉氏になった事で 「矢倉」 のある 「小野庄住人」 にしたのだろうか。
問題点
しかしこの記述には、 幾つかの問題点が見られる。
最重要箇所は次に述べるとして、 正徳五年(1715)当時には矢倉家は断絶しており、 大右衛門正備が被官に当目の屋敷等を与える事は有り得ない。
では誰が与えたのか気になるが、 これは謎である。
一つ考えると、 断絶後に女系の親戚筋 (藩の重臣や名張の小野氏) が合議 ・ 話し合った結果の配分では無いだろうか。
面白いのは大右衛門は羽柴家 ・ 藤堂家にありながら、 郷里当目 (當目) の土地を守り抜いたという事だろうか。
ひとえに高虎の初期知行は謎であるが、 大右衛門の例からすると郷里 ・ 藤堂 (在士) の屋敷群を知行としていた可能性も考えられようか。
一次史料に見る村山与介
ここからは一次史料から村山与介を見ていこう。
実は村山与介は、 幾度か一次史料に登場する人物で或る事は、 あまり知られていない。それでもグーグルの書籍検索にかければ一発で出てくるのだが、 そもそも藤堂高虎の家臣などマニアックな部類なので一般には知られていない。
天正九年(1581)五月二十一日・村山与介、宮部次兵衛から知行を宛がわれる
実は私は未だ、 この書状を確認出来てはいない。
というのもグーグル検索で調べると 『ヒストリア誌』 にたどり着くのであるが、 これに該当する号というのは現在国会図書館でデジタル化の途にあり、 閲覧する事が出来ないのである。
仕方が無いので同誌の記述を引用したと思しき。桐野作人氏 『だれが信長を殺したのか : 本能寺の変 ・ 新たな視点(2007)』 から少し紹介しよう。
どうやら堀越祐一氏が秀次が宮部養子時代に発給したと見られる史料を紹介したようで、 秀次研究にとっても貴重な史料である事は間違いないようだ。
その内容は 「知行七十石を与える」 といった内容である。
ここで粘り強くヒストリア誌の試し読み (グーグル書籍では一部見られる部分がある) を試みると、 原典は 『上坂文書』 である事がわかる。
東浅井郡志は幾度か 『上坂文書』 を引用しており、 東浅井郡志に於ける大右衛門の紹介文には 『上坂家古筆判鑑』 からの引用が示されている。しかし残念ながら村山 ・ 大右衛門に関する部分が翻刻された事例は僅かであり、 東大史料編纂所で影写本などの閲覧を試みる他なさそうである。私自身、 上坂文書 ・ 上坂家古筆判鑑の閲覧を近いうちに行おうと考えてはいるが、 そもそも古文書は読めないし、 この暑さであるから尻込みしているのは内緒である。
またひょっとすると、 郡志の編者が木下助兵衛や前野将右衛門の名前を示した根拠に 『上坂文書』 『上坂家古筆判鑑』 があるのかもしれない。
七月二十八日追記
さて、 もしやと思い堀越氏の著書 『豊臣政権の権力構造』 を借りてみると、 無事に当該の書状が引用されていたので、 ここに追記したい。
第二部 「太閤 ・ 関白体制」 期における政治権力構造 ・ 一関白任官以前の秀次領 ・ 近江領有以前で、 ページ数は六十二ページである。
為 (二) 知行 (一) 七拾石進候之折紙
天正九 宮部次兵衛尉
五月廿一日 吉継 (花押影)
村山与介殿
後宿所
このように簡略的な内容で、 予想通り 『上坂家古筆判鑑』 が出典であるようだ。
堀越氏によれば、 「上坂文書 箱中古筆判鑑 (史料編纂所架蔵謄写本)」 という史料で、 注釈を読むと江戸期延享四年(1747)に記されたようで、 知行充行状のうち発給者署判 ・ 年月日 ・ 受給者などが書写されたものであるようだ。しかし筆写されている花押形はのちに秀次が用いるものとは異なるようで、 今後の書状発掘に期待が寄せられるところである。
(次兵衛という通称は宇野主水日記に見られる)
この 「古筆判鑑」 には、 村山下総守の項でも述べたとおり藤堂氏も見られる。それ以上に注目すべきは、 上坂氏に伝来した史料に村山氏に纏わる史料が混じっている点だ。
考えるに、 上坂氏の末裔が地域の国人史料を蒐集していたか、 村山氏が上坂氏と縁戚にあったかの二つの可能性が考えられる。
前者であれば、 京極の有力被官と一定クラスの (中~下級) 国人被官という関係が考えられるし、 天正十二年(1584)に上坂氏の指示で動いていた痕跡も見られる事から、 そうした縁で蒐集を行った可能性もあろうか。
天正十年(1582)十月頃に頻出する村山久助
さて 『上坂文書』 に村山与介が登場する事がわかると、 現状閲覧する事が出来るすべての同家文書を漁りたくなるのが人間の常である。
小竹文生氏は但馬に於ける羽柴秀長の研究で知られるが 『駒沢大学史学論集(29)』 の 「羽柴秀長の丹波福知山経営― 『上坂文書』 所収羽柴秀長発給文書の検討を中心に」 という論考は、 秀長 (当時は長秀) に関わる上坂文書を閲覧する事が出来る。
その中で天正十年(1582)の九月から十月頃とされる書状は、 秀長が上坂八郎兵衛や 「村久」 に対して知行地管理に関する指示を与える書状七通である。
この中に 「村久」 が頻出するが、 彼は 【史料 9】 の書状によって 「村山久助」 である事がわかる。小竹氏は久助が上坂八郎兵衛と共に、 福知山支配を担当していたと述べる。
この秀長の吏僚村山久助と、 村山与介 (大右衛門) の関わりは定かでは無い。しかし 『上坂文書』 という史料に村山与介が登場するという事を踏まえると、 両人に何かしらの関わりはあると考えるのが自然に思える。
天正十二年(1584)六月二十日・村山与介の荷物が楽田に到着する
グーグルの書籍検索で調べると 『愛知県史』 に村山与介が登場する事がわかる。
その見出しは 「政次、 羽柴長秀 (秀長) の臣上坂意信に村山与介の荷物の件につき、 上坂源之丞の使者が尾張国楽田城まで来た」 とあるので、 このワードで検索すると愛知県公文書館の 『織豊オープンデータ』 というファイルに行き当たる。このエクセル資料は、 愛知県史の資料目録で目当ての書状やトピックが、 何巻に収まるかをチェックする事が出来る。
このファイルから目当ての書状は 『愛知県史資料編 12 ・ 織豊 2』 に収まる事がわかる。
文書の内容は、 堀政次が羽柴長秀の臣上坂意信に村山与介の荷物の件につき、 上坂源之丞の使者が尾張国楽田城まで来たことを伝えるものである。
さて天正 12 年(1584)六月二十日というのは、 折からの小牧長久手合戦の最中であり、 既に池田親子と森長可らが討死してから二カ月の膠着状態の最中にある。
堀政次とは、 堀家の名臣として名高い 「堀直政」 の事で、 彼は堀秀政 ・ 多賀秀種の従弟にして秀政の婿でもある。
五六〇 「堀政次書状 (折紙) ・ 上坂文書」
返々御本陣へ左衛門督為使罷越候刻、 御舎弟ニ候源之尉殿、 此儀ニ付て御越候間、 具ニ様躰申入候キ、 兼より吉介方へも念入候、 更ニ被仰越候とて、 如此陣方にてハ無之候、 愛宕 ・ 白山右之通ニ候、 委曲先日源之尉殿御使者楽田迄同道、 委敷申候間可御心安候、 以上
御札拝見本望之至候、 仍勢州表之様躰弥相替儀無御座候、 尤以珍重此事令存候、 将亦長秀様へも内々以貴札成共御見廻可申上処ニ、 手前取紛無其儀失本意令存候、 折々於御前御執成可畏入候、 随而村山与介荷物事預示候、 最前草野吉介申分有之由候条、 折紙指越候、 并彼仁母儀のため、 少も如在有之様ニハ不申付候、 殊に貴所様無御遁 [逢] 由蒙仰候、 則旁以不可 [有脱カ] 疎意候、 且今無別儀折紙雖可相進候、 一往吉介方へ相届可随其候、 神 (ママ) 八幡も御照覧候へ、 無御届以前ニも彼道具母儀方へ大形可相渡候、 可入念条、 於時儀 [宜] 可御心安候、 恐々謹言、
堀監物丞
六月廿日 政次 (花押)
上坂八郎兵衛殿
御報
この書状は折紙形状であるが、 村山与介が登場するのは下の文である。
ところで上の文中に 「御舎弟ニ候源之尉殿」、 「吉介」 という文言が気になる。
この御舎弟との表現から上坂八郎兵衛 (意信) には 「上坂源之丞」 なる弟が居た事がわかる。小竹氏の論文に依るところ 「信濃守定信」 と系図に現れる人物が、 源之丞であろうか。
また 「吉介」 は下の文に見える 「随而村山与介荷物事預示候、 最前草野吉介申分有之由候条」 の 「草野吉介」 だろう。堀監物への書状という点からすると、 吉介は当時佐和山城を治めていた堀家の配下にあったのだろうか。
草野氏といえば高虎父方祖父の娘に草野氏へ嫁いだ者がおり、 その間に生まれた子は草野権右衛門という。その子大蔵は大酒飲みで高虎の不興をかっている。草野吉介は、 この草野氏と同族では無いか。
下の文には、 上坂八郎兵衛が堀監物に対し伊勢方面の情勢を伝えた事に対する返礼から始まる。
小竹氏は 「将亦長秀様へも内々以貴札成共御見廻可申上処ニ、 手前取紛無其儀失本意令存候、 折々於御前御執成可畏入候」 という一文を、 堀が八郎兵衛に対して秀長への取次を依頼する内容であると判断し、 上坂八郎兵衛がこの当時の秀長家中に於いて高位にあった事を示している。
村山与介から矢倉大右衛門へ
以上の例から、 村山与介は天正九年(1581)から天正十二年(1584)頃まで、 羽柴家中に実在していた事がわかる。
宮部次兵衛 (秀次) から七十石を宛がわれた村山与介が、 羽柴秀長 (当時は長秀) の界隈にあった事は、 天正十年(1582)十月までに発生した秀次の三好家養子入りに関連するものと思われる。すなわち与介は三好家へ従わず、 そのまま羽柴家へ組み込まれたのだろう。
時に宮部継潤の側室 ・ 養子の長きょうだいの姉妹には、 藤堂高虎 (与右衛門) の養女として秀長の側近 ・ 横浜一庵に嫁いだ者が居る。そして史料的に縁があると思しき上坂氏も、 秀長の吏僚を務めていた。このような観点で見ると村山与介が宮部家から、 秀長家中に入り込むのは自然であるようにも思える。
また彼が秀次から離れた事は白山林の敗戦を踏まえると、 結果的に彼を生かした事にもなるだろう。
しかし東浅井郡志が示す 「村山与介=矢倉大右衛門」 は確認する事が出来ない。
今しがた手元に公室年譜略と高山公実録といった資料が無いので、 大右衛門の初出時期はわからない。
『宗国史』 を閲覧するに、 文禄四年(1595)七月二十二日の伊予移封に関して、
自執政三大夫、 及長井氏勝 (勘解由)、 今井忠重 (孫八郎)、 箕浦忠光 (作兵衛)、 矢倉秀親 (大右衛門)、 等、 至中士下士、 皆加俸賜采有差、
と記されるが、 此方が初見となろう。
その後の彼は、 伊予の治安から家臣のリクルートを担当し、 大名藤堂高虎の隆盛を知勇謀を以て支えた名臣となる。
とかく東浅井郡志の記述を真にすると、 天正十二年(1584)から文禄四年(1595)までに高虎に仕え、 その名も 「矢倉大右衛門」 へと改めたと考えるのが自然だろうか。
また仕えた当初は 「村山右近」 を名乗っていた可能性も考えられようか。
文面から考える
さて文面から考える部分がある。
村山与介の荷物の最終目的地は 「并彼仁母儀のため」 とある点から、 どうやら与介の母であるらしい。
何故 「荷物」 を彼の母へ届けるのか謎である。更に荷物の輸送に関して草野吉介が介入している点も興味深い。
先に草野吉介が堀家配下にあった可能性を述べたが、 与介もまた佐和山城の近いところに関係していたのだろうか。
そうすると与介が後に 「小野庄住人矢倉大右衛門」 と称したという説を裏付けるのかもしれない。
大溝城織田城郭絵図面に見られる「矢倉与右衛門」
さて織田期の大溝城を描いた 『大溝城織田城郭絵図面』 には、 縄張りのみならず家臣団の配置までもが記されている。その中に 「矢倉与右衛門」 を見る事が出来る。
!!0904 この項目変更すること。織田城郭絵図面について (解説を試みいている→かつて解説を試みたがリンク削除) (永田左馬についてもよくわからないとする) (注釈も振り直すこと) )
私は二年前に解説を試みているが、 この図面には怪しいところが幾つかある。
まずは存在が確認できない人物が十七名と多い点である。
逆に言えば赤尾新七郎 ・ 堀田弥次左衛門 ・ 渡辺与右衛門 ・ 多胡左五兵衛 (左近兵衛の誤植だろう) の四名は史料に確認できる貴重な存在で、 彼らの存在が同図面の正確さを担保していると言える。
「永田左馬」 を例にすると、 同名の人物は天文年間に北郡との戦いで戦死し、 その後は同族の永田伊豆守が現れる。(1)
伊豆守は弘治二年(1556)の 『兼右卿記』 に 「 江州佐々木長田伊豆守清綱 (六月二十一日条)」 とあり諱は 「長綱」 であることがわかるが、 長綱は永禄年間にも実在が確認される。そのため七兵衛の時代であれば伊豆守長綱が居た方が自然であるように思える。ただしただし弘治二年(1556)時点で長綱室 (清原氏か) は五十才であり、 長綱の年齢も同じぐらいだと考えると二十年の月日で七十超と当時にしては高齢となる。つまり永禄五年(1562)以降の永田氏を知る術が無い以上、 七兵衛の時代の永田氏を追うのは難しいと結論づけるほか無い。(2)
とはいえ図面の作者を評価したいのは、 赤尾以下四名の実在を江戸時代に存じていた事で、 また朽木や永田、 田屋、 猪飼、 吉武といった湖西ゆかりの人名を把握していた点も大きい。
しかし矢倉与右衛門をはじめとする人名に関しては謎が多く、 一体作者は何を根拠にして製作したのだろうと興味が湧く。
(1) 「その跡目は同族の永田伊豆守が継いでいる」 から変更/20240904
(2) 「伊豆守は永禄年間にも実在が確認されるため、 七兵衛の時代であれば彼が居た方が自然である」 から変更。/20240904
矢倉氏を考える
時に二年前の私は矢倉を 「近江で矢倉という地名を調べると旧六角領内の草津市矢倉にその名の城があるので、 六角配下の者なのだろうか」 とした。
しかし実在する人物のうち赤尾と渡辺は江北から出てきた人物であるし、 磯野員昌は佐和山の城主であったのだから、 坂田郡小野庄の 「矢倉氏」 が高島にあってもおかしくはなかろう。また上坂氏との繋がりという点では、 そもそも磯野氏が上坂氏の縁戚筋とも言われるから、 そうした部分で矢倉氏と接点が生まれてもおかしくは無さそうである。なお 『嶋記録』 の佐和山籠城者に纏わる記述には、 矢倉氏も小野氏も見られない。
しかし何故村山与介が矢倉大右衛門へと変化したのか、 この謎が説明できないのである。全く歴史の空白という奴は、 もどかしいのだ。
こうした空白部分を解消するために 『上坂文書 『上坂家古筆判鑑』 の解明は急務である。どうにか私も閲覧を試みたいが、 果たして読む事が出来るのか、 苦難の道である事には変わりない。
村山氏前史
最後に村山与介の父や祖父たちの歩みを纏めてみたい。
まずその系譜を見てみると、
下総守~次郎右衛門~右近 (与介 ・ 矢倉大右衛門)、
下総守~侍従 (僧)
といった具合になる。
出典は東浅井郡志だ。
村山下総守
郡志三巻の人物解説によれば、 當目の郷士で初めは 「次郎右衛門」 を称したそうだが、 その実名は定かでは無い。
大正~昭和には邸址が同地に存在したようで、 殿屋敷と言われていたらしい。
永正の初め ・ 1504 年頃には、 京極家の奉行河瀨遠江守家加より 「草野庄料所を藤堂備前守に渡すべき旨」 の奉書を受けている (上坂家古筆判鑑)。
藤堂備前守は京極政経 ・ 材宗の有力被官の一人で、 文明十八年(1486)から明応二年(1493)頃に何度か見られる人物だ。詳しくは高虎前史を参照の事。
大永五年(1525)六月十九日には、 京極高清 ・ 浅井亮政の命を受け、 京極高慶に伴うて美濃に赴き 「齋藤新四郎に使したり」 とあるが、 これは河毛文書に依るらしい。
同じ頃、 当目は六角定頼に攻め込まれたようで、 下総守 ・ 次郎右衛門の親子は小谷城に籠もったらしい。つまり彼らは当初、 京極高清 ・ 浅井亮政連合のもとにあった。
村山次郎右衛門
下総守の子息で侍従の兄弟、 そして与介の父が村山次郎右衛門である。
同じ大永五年(1525)八月二十日には、 宗意 (京極高清) から感状を賜ったようであるが、 その内容は定かでは無い。(上坂家古筆判鑑)
結局同年の戦いは六角定頼の勝利に終わり、 京極 ・ 亮政連合は没落した。村山親子は動向は定かでは無い。
紆余曲折を経て亮政が北郡の実権を握った天文二年(1533)十二月十一日、 次郎右衛門は亮政から知行に関する書状を五通受け取ったようであるが (上坂家古筆判鑑)、 郡志の編纂時点で現存していなかったようだ。
天文十年(1541)の春、 浅井亮政と京極六郎高広が突如破綻して発生した 「京極六郎の乱」 にて、 次郎右衛門は亮政方に属したらしい。
六月七日、 高広は 「當目口」 に於いて首を捕った上坂助八に感状を発給した。副状は高橋兵部少輔清世である。この二通は東浅井郡志四巻にて翻刻されている貴重な 『上坂文書』 である。
村山侍従
村山侍従は下総守の子、 次郎右衛門の兄弟で、 八幡宮寺の僧徒であるという。
亮政晩年から勃発した 「京極六郎の乱」 にて浅井に属したと思しき次郎右衛門とは対照的に、 僧である彼は京極 ・ 浅井の間で揺れ動いていたようだ。
その最中、 天文十一年(1542)九月二十一日に侍従は浅井久政から次のような書状を発給されている。
平方寺用半分、 為配當進候、 別而被抽御粉骨、 御忠節肝要候、 委曲同名五郞兵衞尉可申候、 恐々謹言、
天文拾壹 浅井新九郞
九月廿一日 久 政 (花押)
村山侍従殿
床下 (四居文書第一号)
つまり平方寺用半分を以て久政に招かれたようだ。
なお郡志によれば、 この書状は上坂家の所蔵に係るとあるが、 何故か四居家に所在していたらしい。
しかし翌天文十二年(1543)九月十六日、 菅浦惣中に対し軍資一貫六百文を請取った旨を箕浦伊賀守秀勝は通知しているが、 箕浦と共に 「侍従」 が連署している。
この一ヶ月前の八月二十日、 京極六郎 (高廣) の家臣清頼 (山田彦左衛門) ・ 秀信 (大津三郎左衛門尉) が菅浦寺庵百姓中に軍資金を催促している。(郡志 ・ 菅浦文書九十七)
二つの書状は対応しているものと郡志は示し、 これにより村山侍従が久政の誘引を断り京極六郎方へ付いたと判断される。
その後の村山氏の動向は定かでは無い。
今井次郎右衛門の前歴を考える
今井次郎右衛門は宗国史 ・ 功臣年表に於いて、 天正四年(1576)頃に仕えた 「播但和衆」 に名を連ねる。しかし高虎が羽柴家へ転じたのは天正八年(1580)以降の話であるため 「播但和衆」 は成り立たない。
佐伯朗先生の家臣辞典では 『公室年譜略』 をもとに、 天正十三年(1585)の仕官説を採る。
彼は 「智あって正しく厳密」 であったらしく、 留守居として功を為したと記される。
彼の子息は、 宗国史に於ける矢倉大右衛門の初出でも見られた 「今井忠重 (孫八郎)」 で、 高虎の小姓から歩みを始めると、 慶長唐入りの後に藤堂姓を賜り 「藤堂孫八郎」 を名乗る。
つまり慶長年間、 藤堂家に於いて 「今井孫八郎」 が存在していた。
永禄の今井孫八郎
「今井孫八郎」 という人物は磯野員昌の書状に現れている。
其方長々御苦労候、 弥無御油断、 可被入御念候、 此方普請漸出来候間、 近日ニ可相帰候條、 以面可申候、 其間之儀肝心無油断、 可被入御精義管用候、 恐々謹言、
九月三日 丹
員昌 (花押)
草山与次郎殿
上坂八郎兵衛殿
今井孫八郎殿
中村宗左衛門殿
今津吉介殿 槽谷内蔵介殿
浅見左衛門殿
杉立町介殿
御宿所 (彦根市史資料 667 ・ 上坂文書)
彦根市史による年次比定は、 員昌が佐和山城へ入った永禄四年(1561)以降では無いか、 としている。
宛名の 「杉立町介」 は、 員昌が高島に入った後に赤尾新七郎と共に山論を裁定した重臣の一人であるが、 この書状が初見と相成る。
私見を述べるなら杉立氏自体は愛知郡に見られる姓氏であり、 町介が愛知郡から出た人物であればこそ永禄四年以降と言えるのでは無いか。
「上坂八郎兵衛」 は書状を保管していた上坂家の先祖で、 羽柴秀長 (当時は長秀) の吏僚として活躍した後に 「上坂意信」 として伝わる人物の若かりし頃であろうか。
そうなると、 だ。「今井孫八郎」 という名前には見覚えがある。
彼が後に高虎を支えた 「今井次郎右衛門」 の若かりし時代である可能性が考えられる。つまり初名がそのまま、 代々踏襲の名になっていったのだろう。
その年次は定かでは無いが、 員昌が普請のために出張り、 配下の 「苦労」 を労ったのは、 恐らく元亀三年(1572)のことでは無いか。
高虎とはこうした時期に知り合ったとも考えられようか。
初期高虎家臣論
名前が残る初期高虎家臣の中で、 このように前歴が辿れる人物は村山与介→矢倉大右衛門と今井孫八郎→今井次郎右衛門のみである。
この時点で彼らには一定の地位があり、 藤堂家で重きをなすことに違和感は覚えない。
羽柴家に仕えた上坂、 羽柴家中を転々としていたと思しき村山 (大右衛門) の例を見ると、 藤堂家に来る以前の今井も同様に羽柴家中の士であったのではないか。
そうした村山 (大右衛門) ・ 今井が高虎に仕えたのは、 一種 「与力」 のような立場にあったようにも見える。
しかしこれ以上は増長になるし、 論じる脳みそも無いので仕舞いとする。
20230909 移転