伊乱記を読む
『伊乱記』 とは伊賀の生んだ学者 ・ 菊岡如幻不朽の名作だが、 信重の足跡を追うなかで興味を持ったものである。
以下の内容は昨年の夏頃には書き起こしていたが、 いつまでも寝かせておくのも良くないので、 もうここでノートにあげてしまう。
2023-02-18
伊賀の乱
通説 (信長公記と多聞院日記) にて第二次天正伊賀の乱がはじまるのは、 九月三日頃として十日頃には終結とある。
『伊乱記』 では、 三日に軍議、 その開戦を二十七日として十月末に終結となる。
この差違は気になるもので、 暦の問題では無いかと考えたかが、 結局はよくわからない。
信重と伊賀の乱
さて信重の関わりが見られる一次史料は 『兼見卿記』 九月六日で、 七兵衛は滝川、 丹羽と共に伊賀北方より攻め寄せたらしい。
『信長公記』 では滝川と丹羽は、 信雄、 京極高次、 山崎片家、 阿閉親子、 多賀新左衛門、 甲賀衆と共に甲賀口より攻めたとあるが、 信重 (七兵衛、 信澄) の名は無い。
これは当時の記録 『多聞院日記』、 『蓮成院記録』 でも同様だ。
『伊乱記』 では、 信雄は伊勢地口より織田七兵衛尉信澄、 古田兵部少輔、 滝川三郎兵衛勝雄、 長野左京太夫、 日置大膳ら都合一万を従え九月二十七日に攻め寄せたとある。先鋒は古田以下、 信澄は副将だ。
此方も兼見卿記、 信長公記とは異なり、 信憑性に疑問が生じる。
伊賀での 「信澄軍」 の活躍は 『伊乱記』 に見える。
阿保口に発向、 先柏尾村本田の要害を打ち破り、 郷士百人を討ち死させり。残党男女波般若寺に隠れる。七兵衛、 先登して別府や岡田の両郷を焼き払う。別府の住人新金七、 福森喜平治、 城八太夫、 家の子数千人相添切て出きらびやかに討ち死す。寄せ手はそれらの妻子を生け捕りにして往国に渡す。
その後、 両将は小波田の郷、 馬塚を始め弓手左手に幕を打、 所々番手役人を伏置、 厳敷守護しけると也。(伊乱記巻四)
十月五日、 信雄と信澄は阿保谷の所々を討取、 柏原へ押し寄せ北出村に本陣を構える。(伊乱記巻五)
柏尾、 別府、 岡田は何れも現在の近鉄青山町駅周辺で、 小波田は桔梗が丘駅の周辺だが、 両駅間は距離がある。
九月八日問題
さて福井県史の史料には高島の川原林文書に 「天正九年九月八日織田信重判物」 が収録されている。
天正九年(1581)の九月八日は伊賀の乱の最中である。しかし信重は高島の塩を扱う今津地下人へ書状を出していた。
この点から信重は兼見卿記の記述とは異なり、 伊賀の乱に参戦していない可能性が生じる。むしろ信重 (七兵衛) の名が見られない 『多聞院日記』 『蓮成院記録』 『信長公記』 のほうが実情に則していて、 吉田兼見は誤った情報を得ていたと判断できるかもしれない。
つまり伊乱記の記述は、 日付から信重 (信澄) の記録に関しては信用することは出来ない。ただ兼見卿記に 「七兵衛尉」 の記述が見られることも事実であり、 菊岡が兼見卿記を閲覧できた可能性が浮かぶ。
伊賀を検分した信重
ただ信重が伊賀に入ったのは事実であろう。
つまり伊賀の乱終結後、 十月九日の甲賀飯道寺宿泊を皮切りとする信長 ・ 信忠親子の甲賀伊賀入りに信重は従っていることが 『信長公記』 からわかる。
これに関しては現在のところ同年十月に発給された書状は存在しない為、 否定する材料は無い。
藤堂将監とは誰か
しかし菊岡の名誉のためにも 『伊乱記』 自体は見るべき箇所もあると主張したい。ここでは同記をもとに伊賀の乱に於ける藤堂氏の動きを考えてみる。
まず藤堂将監とは高虎の叔父で、 玄蕃良政の父にあたる藤堂少兵衛良徳 (元は多賀氏、 他に勝兵衛 ・ 良直とも) と思われる。
天正十六年(1588)並びに推定慶長六年(1601)の書状を見ると、 彼は一貫して 「少兵衛」 という名乗り ・ 宛てなので、 信長から改名を命じられ 「勝兵衛」 とした逸話 (佐伯朗 『藤堂梅花、 凌雲、 蘇亭の出自と経歴について』) も、 彼を将監とする説明も、 成立しない。
実際に藤堂将監を名乗ったのは後継者で孫の (玄蕃良重の兄) 良以が最初であり、 恐らく 「旗本藤堂家の初代 ・ 祖」 という事で菊岡如幻が 「便宜上」 記したのではないか、 と見る。
藤堂将監の動き
兼見卿記、 多聞院日記、 蓮成院記録、 信長公記の何れも藤堂氏は見られない。しかし伊乱記には次のように登場する。
柘植口に丹羽長秀、 滝川左近将監、 儀太夫、 分部左京進、 藤堂将監ら都合一万弐千余騎
この中で滝川は 「北七兵衛尉、 瀧川、 惟住五郎左衛門 (兼見)」 「勢州口よりは本所 (信雄) 并タキ川 (多聞院)」 「北ハ瀧川 ・ 刃場 (丹羽のこと、 蓮成院)」 「甲賀口、 甲賀衆、 瀧川左近、 蒲生忠三郎、 惟住五郎左衛門 (信長公記)」 と釈然としない。
ただ大凡、 北から攻め寄せたことは理解出来る。そして伊賀の北方は甲賀であるから、 兼見卿記や蓮成院記録、 信長公記が確かなように感じられる。
信長公記では少兵衛の一族にあたる多賀新左衛門も同じ甲賀口に見ることが出来る。実情として少兵衛は多賀新左衛門の手に属して戦ったと考えたほうが自然なように思われる。
その後、 壬生野宮山合戦では、 春日山に敵が籠もった際に藤堂将監の家臣山岸岩之助が兵士の数を討取高名とある (伊乱記巻五)。十月五日には藤堂将監も瀬古口の滝川左近陣の近所に陣を取ったようだ (伊乱記巻八)。
果たしてこれらが事実であるか定かでは無いが、 多賀新左衛門の部隊の活躍も内包されているのかもしれない。
菊岡如幻の努力を見るー山岸岩之助の活躍ー
『伊乱記』 のなかで、 個人的に驚いたのが藤堂の家臣 ・ 山岸岩之助の武功が記されていた点である。曰く壬生野宮山合戦の頃に、 山岸岩之助が春日山に籠もった敵を多く討ち取り高名をあげたという。この山岸岩之助は七十一士 ・ 山岸喜太郎の一族 (父兄か) と見られる。
高山公実録に収まる 『在士村記』 には玄蕃宅の北に 「山岸宅地」、 『秘覚集』 には 「山岸屋鋪」 と見える。こうした記述を信じれば山岸は代々の藤堂もしくは多賀氏の被官で、 彼らも甲良武士であったのかもしれない。
それを裏付けるかのように、 甲良町史の大工甲良一族の解説によれば甲良光広の次男道清に山岸岩之助の娘が嫁ぎ、 二人の間に生まれた娘は甥宗広の養女となり、 婿養子に甲良宗次を迎えている。伊乱記に見られる岩之助と甲良家の解説に見られる岩之助が同一人物であるかは定かでは無い。
玄蕃家の中の山岸氏
山岸岩之助が七十一士の喜太郎が父であることは随筆集 『新著聞集』 に依る。
曰く子息喜太郎 ・ 庄三郎兄弟の討死を聞いても、 動じること無く碁を打ち続けた。兄弟の母親である妻は涙を流すも、 それに対しても 「戦場の討死は定りたる事なり」 と断じた、 まさに武家の矜持たる逸話である。
この逸話に登場する山岸喜太郎は若江で主の玄蕃良重 (少兵衛の孫) と共に討たれ、 七十一士に名を連ねている。一方で庄三郎は七十一士に名は見えず、 さらに公室年譜略の各隊名簿や、 高山公実録の各家記録にも見られない。また逸話には 「庄三郎は一昨日討死したる由」 とあるが、 五月六日の一昨日には合戦は無く、 四月二十八日の鴨野口番小屋襲撃でも藤堂軍に死者は見えない。大和衆の藤堂将監は二十七日に大坂方の郡山急襲に際し、 撤退に失敗した敵兵を生け捕りにしたと寛政譜に記されるが、 ここで家人が討たれたという記述は見られない。依って山岸岩之助に庄三郎という男児がいたのか定かでは無いとする他ない。可能性があるのなら玄蕃や喜太郎と共に若江で討死したのであろうか。
後世高山公実録編纂に際し、 関ヶ原で玄蕃を討ち取った嶋左近の倅を討った玄蕃家士を検討する際、 山岸喜太郎にも問い合わせたそうで、 ここでは先祖の岩之助が嶋を討ち取ったと語ったようだ。その内容は藤堂梅花の記述にも合致しているから興味深い。通説では小姓の高木 (山本) 平三郎が討ち取ったとされる。
また松尾芭蕉の門下に山岸半残なる人物がいるが、 彼の母は芭蕉の姉で甥にあたる。『芭蕉雑纂』 という資料によれば半残は玄蕃家に仕えているそうで、 恐らくは岩之助や喜太郎の末裔であろうと推測される。
このように伊賀上野の重鎮藤堂玄蕃家は、 山岸一族の存在無くして語ることは出来ないのかもしれない。そしてその前史、 山岸岩之助は少兵衛に仕え伊賀の乱を戦ったとする 『伊乱記』 の記述は面白い。
高山公実録編纂の際に、 山岸家の記録が出てくることを考えると、 菊岡如幻も 『伊乱記』 を執筆するにあたり伊賀の重臣である藤堂玄蕃家、 同時に山岸家に取材を行い、 想像を膨らませたのではないか。すると山岸の記録には、 我々のまだ見ぬ藤堂家の記録が眠っている可能性がある。その中には少兵衛や将監の後裔にあたる藤堂梅花が記した 「姉川の合戦での武功で、 信長に賞された藤堂少兵衛 (勝の字を賜ったとする)」 「宇治の戦いで武功を挙げる藤堂少兵衛」 という、 織田家臣時代の少兵衛の足跡、 少兵衛の出自解明に繋がる資料も存在したのでは無いかと考えることも出来る。
佐那具の町野
伊賀で町野といえば、 私も大好きな町野修斗選手が思い浮かぶ。
実は 『伊乱記』 にも 「町野姓」 を見ることが出来る。では町野選手の先祖は伊賀の乱で戦った伊賀衆なのだろうか。
町野の名が見られるのは 「富坂」 で行われた合戦についてで、 同地の要害に籠城した衆に見ることが出来る。
ただこの合戦は、 備えが脆弱で味方が集まらないうちに討亡したとある。
富坂は伊賀一之宮敢国神社のある南宮山の南麗という。(渡辺康代 『近世城下町における祭礼の変化に関する歴史地理学研究』 より内神屋窪田家先祖由緒書)
具体的な位置は定かでは無いが、 敢国神社の南側に位置する寺田地区には 「坂之西」 「坂之東」 という字があり、 これは寺田から敢国神社へ抜ける道の両側に位置している。この道は南宮山を越えて通る坂道であるから、 この坂を 「富坂」 と言うのかもしれない。
町野氏の実在
この 「佐那具の町野」 という一族は乱の後どうなったのだろうか。
少なくとも同記を信ずるならば、 富坂で戦った町野氏は乱で命を落としている。なので彼は町野選手の先祖とは言えない。
そこで伊賀市史五巻にある弘化二年(1854)五月の 「無足人帳」 を開くと、 佐那具村に町野父子が見える。どうやら、 実際に 「佐那具の町野」 は江戸時代時点で実在していた。
(ちなみに玉瀧に川崎、 市部には中井が見えたが、 彼らは先生方のご先祖様なのだろうか。これはわかる人にしかわからないネタである)
ただわかることは佐那具村に町野氏が居たというだけであり、 彼らが町野修斗選手の先祖である確証は無い。
町野選手の実家は佐那具から少し離れた場所で、 姓が同じと言うだけで結びつけるのはかなり強引である。プライバシーの問題もあるだろう。
それこそ今季町野選手が大活躍して、 ファミリーヒストリーの類に出演して戸籍や過去帳などで由緒を調べるしか方法は無い。