20240720 分離

桑山重晴(修理進・修理亮・修理大夫・治部卿法印、重勝)

桑山重晴は但馬以来の家臣である。
播磨良紀 桑山重晴について 和歌山市史研究 12) 再び桑山重晴について 和歌山市史研究 15 が詳しい。
北堀光信氏は大和を一庵と小堀 秀保の側に羽田 紀伊を桑山としたが 桑山に限っては紀伊での活動が見え難いのが実情である。

前歴

元は丹羽家の家臣というが 天正三年(1575)二月十三日には羽柴家で奉行として活動し 東浅井郡志 竹生島文書 桑山修理進重勝 天正四年(1576)十月には宮部継潤 伊藤太郎左衛門と共に竹生島奉加帳名を連ねる。東浅井郡志 桑修理
このように羽柴家全体でも古い家臣である。但馬入国後は竹田城に入り大名として秀長を支えたらしい。

事績から見る名前・通称の変化について

天正九年(1581)十一月二十二日には秀吉 藤吉郎 から淡路情勢を報告されている。文末には腫れ物を患っていた 重勝 修理進 に対し 養生肝要 と見舞っている。秀吉文書集一巻 三五七
天正十年(1582)六月には 修理亮重勝 の名で杉若藤七無心と共に妙法寺 氷上郡 へ禁制を発給している 兵庫県史史料編中世 3
天正九年(1581)十一月から天正十年(1582)六月までに 重勝は 修理亮 となったらしい。

天正十一年(1583)には賤ヶ岳砦を守ったことが諸軍記に見られるが史料的裏付けに欠けるのが惜しい。(1)天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いでは 最終盤となる十一月五日夜に海津の東駒野城を攻め落とし 秀吉から八日付の感状を賜っているが その宛名は 桑山修理亮殿 であった。桑山の数少ない武功を示す史料である。(2)

島津家の史料集である 旧記雑録後編 2 には天正十五年(1587)五月八日付の書状 宛名不明 では 修理亮重晴 であるから 五年の間に 重晴 と改めたのであろう。この書状には 早福三 同式部太輔為御案内被差遣候 とあるが 福三は福智三河守長通 式部太輔は不明だが桑山式部であろうか。
とかく重晴は秀長のもと九州征伐の戦後処理を福智長通と共に担っており 十六日付けの桑修宛福三長通書状を見ると 八日付の書状の宛名は島津兵庫頭宛のようで 重晴は島津義弘の降伏交渉を行っていたことがわかる。新名 不屈の両殿

桑山修理大夫の名が見られるのは翌天正十六年(1588)のことで 輝元公上洛日記には七月時点で 桑山修理大夫 となっており 前年八月秀長の大納言昇進と同時に改めたのだろうか。同年霜月二十日に羽柴兵庫頭 義弘 へ書状を発給しているが その署名が 桑山修理大夫重晴 となっている。

天正十八年(1590)の動向は まず二月二十四日に連歌を注文している。北野社家日記
また 旧記雑録後編 2 にある同年の 御日記 というのは誰の日記であるのか定かでは無い。しかし島津家家臣の日記であることは間違いなく 三月二十四日に 桑山修理太夫殿江御朝飯 と親交を感じる。日記の主は二十三日に 大和大納言殿江被成 御禮 と記録している。
どうやら桑山は小田原攻めに従軍せず 病身の秀長のもとにあったらしい。
七月九日の朝には京都 聚楽第か で毛利輝元と宗凡を招いて茶会を催している。宗凡他会記
重晴は義弘に頼られたようで十一月十三日には義弘へ 翌日の秀吉との対面での手取りなどを認めている。

(1) 賤ヶ岳の戦いについて加筆/20240720
(2) 岐阜県博物館所蔵羽柴秀吉朱印状。NHK2024 5 14 日付ニュースから。閲覧は 6 22 一般公開終了 1 日前に知った。/20240630

重晴の特長

またこの時期秀長は病身であったが 某年四月 天正十八年か に重晴は徳川家康へ秀長の具合が落ち着いたことを知らせ 同時に 秘宝の虫薬 を贈ったらしく 家康は十九日に感謝状を認めている。三浦宏之 豊臣秀長と徳川家康
なお三浦宏之氏は和歌山市史に 秀長より桑山へあてた 書状 護念寺文書 があるとして掲示しているが 近年三重県史編纂の過程で同書状の花押 藤堂高虎のものであることが明らかにされ 藤堂高虎関係資料集補遺 更に端裏ウワ書は くわほういんさま と宛名があり これは文禄以降のものであることは明らかである。

重晴の交流

変わったところでは近衛信尹と交流があり 信尹と賭け将棋に負けた重晴は信尹へ酒を贈るが 信尹はこの美酒に気を良くして三月九日に感謝状を認めている。伊藤敏子 寛永文化人の手紙 近衛信尹
信尹は文禄三年(1594)に配流となり また宛名が 桑修 であるから出家する文禄二年(1593)以前であろう。

秀保期の重晴

天正十九年(1591)に秀長が没した後 重晴は秀保を支えることとなる。

翌年に始まる壬辰戦争には自らは参戦せず 嫡孫小藤太 一晴 と三男小伝次 貞晴 が合計千を率いて出兵している。

そうして重晴は和歌山で留守を預かっていたものと思われるが 九月八日に一庵 杉若越前 越後 と共に中坊へ入り奈良町を封鎖している。これは前年より奈良町人と金商人が不穏な関係となった一揆未遂 集団訴訟の 金商人事件 に伴う対応で 金商人の逮捕が目的であったらしい。彼らは十二日に中坊を立ち退き成身院吉祥寺へ入り 奈良諸口は開放された。
また十五日には奈良中の月行事 両替衆 蔵本衆へ上洛が命じられるが 一庵と桑山 杉若の三名も夕部 井上源五は夜に上洛している。多聞院院日記

文禄二年(1593)十一月二十日には秀保により陰陽師改を命じられる。これは秀吉の意向を受けたもので 重晴は高虎と共に紀伊国中の女子供を所司代前田玄以 浅野長吉 石田三成へ急ぎ引き渡すべく 高札を立てるよう命じられた。近世初期における普請について
その際の宛名は 桑山治部卿法印 伊藤文書 であり ここで重晴が出家していたことを知る。
何故出家したのか理由は定かでは無いが 先に奈良町騒動で共に出張している杉若は文禄三年(1594)には入道している。松平 杉若
この両人が揃って出家している点は興味深く 現状では金商人事件の責任取ったと考えるほかない。

但し重晴の政権 秀保からの信頼は揺らぐことなく 駒井日記に度々一庵や羽田 高虎と共に働く様子が見られる。
何件か見られる中では文禄三年(1594)三月廿九日の算用帳持参上洛命令であろうか。その中で聚楽第側からの認識として 大和豊臣家の 年寄 は桑山 横浜 羽田そして藤堂であったことが窺える。

文禄四年(1595)に秀保が亡くなると 四月二十三日の葬礼準備に はた天蓋 同ちやうちん 治卩法印 が用意している。
その後は独立し秀吉直臣と相成り 七月八日に勃発した 秀次陰謀 に関し 秀吉の命で伏見城大手門の守備 警護を担当している。この功により和泉谷川に一万石の加増を受けた。寛永諸家系図傳

重晴の一族

妻は不明であるが 奉加帳に 桑御内かた と名を連ねる。長男は天正九年(1581)但馬で早逝した一重。次男は元晴 相模守 伊賀守 で藤堂家の系図では高虎正室の妹を娶り相婿の間柄となっている。三男貞晴 兵太→小伝次→左近 は茶人として知られ諸記録に頻出しているが 寛政譜では元晴よりも生まれるのが早く 恐らく重晴の側室か妾の子であろう。
また一説に依れば娘が丹波国人足立基則へ嫁いでいたらしい。南都絵仏師,尊智 快智父子と高階隆兼 宮島新一 ただし基則は光秀に通じた廉で天正十一年(1583)に自害したとされる。秀長が丹波支配に関わったのは本能寺の変から天正十一年(1583)秋に於次秀勝が入るまでの期間で その間に婚姻があったのだろうか。真偽の程は定かでは無い。ただ後年桑山家には足立氏が見られるため 何らかの関係にあったのは間違いないだろう。(3)
一族では諸大夫桑山式部少輔 式部大輔 が諸記録に頻出する。しかし重晴との関係は不明である。
弟たちは秀吉に仕え桑山市右衛門重政は秀頼の中山寺再興で奉行を務めた。

個人的に桑山こそが豊臣秀長を代表する家臣 そして大和衆の筆頭と言っても良いと思っている。

(3) 足立氏について加筆。なお秀長は本能寺以前から山陰道の確保のために丹波国人夜久氏と関係を結んでいたとする説もある。渡邊大門 本能寺の変と夜久氏 ―年未詳六月五日羽柴秀長書状の再検討― 研究論集 歴史と文化 創刊号(2016) それに従えば本能寺以前に婚姻を結んだとも考えられるが その場合高虎と桑山は親戚が光秀に荷担したことになってしまう。さらに横道に逸れると光秀の丹波攻めに秀長が関わった説や織田信重遺児は 芦田庄九郎 を名乗ったとされる。芦田姓は丹波国人にも居り やはり何らかの関係を想起させるが何れも史料的裏付けに乏しいのであまり話は広げないでおこう。/20240720

関連人物・桑山式部少輔・大輔

秀長 秀保に仕えた男 諸大夫。
主に行事の出席で姿を見ることが出来る。大政所の快復祈願のため興福寺へ赴いたこともある。多聞院日記
諱は定かでは無いが重晴の一族と思われ 久好茶会記では三男左近の一族と示唆される。松屋久好が式部と左近の関係を知っていたのか はたまた左近ぐらいしか桑山氏と関係を持たなかったために 広く 桑山一族 という意味合いでの 左近の一族という記述なのだろうか。

横浜一庵(良慶・大蔵卿法印・一晏)

横浜一庵こそが秀長 秀保の筆頭家老である。
播磨良紀 一晏法印なる人物について 和歌山市史研究 14 寺沢光世氏の 大和郡山城代横浜一庵について 歴史手帖 19 北堀光信氏の 豊臣政権下の行幸と朝廷の動向 が詳しい。
その台頭は大和入国後で 主に寺院や郡山町との折衝など内政を小堀新助 側室は娘 と担った。

名前の変遷

その名は天正十七年(1589)九月まで一庵 二月から大蔵卿法印 天正十八年(1590)四月から五月に一庵法印 七月から一晏を名乗ったと 一晏法印なる人物について 播磨良紀 和歌山市史研究 14 には記されている。
また 大和郡山城代横浜一庵について 寺沢光世 歴史手帖 19 3 によると諱は 良慶 とある。読みは よしちか よしのり などと考えられるが 僧体である事を踏まえると りょうけい とも考えられる。
史料編纂所データベースで検索すると文禄二年(1593)五月二十九日に 大蔵卿法印嵐慶 紀伊続風土記編纂史料 某年六月十四日に 大蔵法印亮俊 法隆寺文書 とそれぞれ小堀新助との連署が見受けられる。このように一庵と小堀新助は一体となって大和豊臣家を運営していたのである。
古記録でも呼び名は安定していないので 本稿では便宜上一庵で統一する。

台頭

一庵が台頭したのは天正十三年(1585)のことで それ以前の動向は不明であるが それ以降の活動から考えると小堀のように秀長の側近を務めていたのではないかと推測される。
後年津藩で活躍した後裔横浜内記は その覚書 宗国史下 累世記事.1981 に於いて高祖父横浜一庵を 本国近江 生国不存 とあり 内記が自らのルーツは近江にあると認識していたことがわかる。近江の横浜であれば その昔長浜城周辺に 横浜 という地域があったので 同地から出て来たのだろう。

初見は天正十三年(1585)七月十三日付秀吉朱印状 豊臣秀吉文書集第二巻 一四八九 羽田忠右衛門と 一安 が雑賀の八木 を四国在陣の兵へ遣わすように指示されている。
羽田は後の長門守正親であるかともかくとして ここで紀州に在る 一安 とは横浜一庵その人であろう。
紀伊続風土記 には同年の和歌山城築城奉行を藤堂高虎 羽田正親 横浜一庵の三名が担当したとの記述があり この秀吉朱印状は記述を裏付けるものとも言えようか。

多聞院日記 での初見は十月十九日で 興福寺の僧に子の煩いに対する祈祷を依頼したらしい。
その後 彼は多聞院日記に頻出する。全てを攫うと長くなるが幾つか掻い摘まんで紹介する。
天正十四年(1586)正月五日条には 一庵の才覚で筒井等国衆を成敗したという記述があるが これが事実であるのか定かでは無い。

秀長期簡易動向

天正十五年(1587)二月に森忠政は昇殿するが その際に一庵は忠政の書出について中山親綱卿を訪ねている。豊臣期武家口宣案集 これは忠政の昇進に秀長が関わっていたことを示唆するものであり 後に忠政は継室として秀長の養女を娶っている。
天正十六年(1588)の聚楽第行幸では一族の横浜民部少輔を列席させたと北堀氏は述べる。
天正十七年(1589)十二月 秀長は湯山 有馬温泉 から帰洛するが そこで重篤な病気となった。多聞院日記
天正十八年(1590)十月七日には有馬湯治の秀吉に湯帷子三を見舞っている。豊臣政権の贈答儀礼と養生
同時期には秀長も病床にあり 秀吉へは秀長の病状をも報告したのだろう。十月二十日条によれば前日見廻りに訪れた秀吉は
跡のことは一晏に具に仰せ渡した。和泉と伊賀は余人に遣わし 紀伊と当国 大和 は替わらず侍従 御虎 秀保 に遣わし 一晏法印を代官として養子之侍従 御虎 秀保 を守り立てるべき
と仰せつけたという。

また秀長が亡くなった直後の正月二十七日にも秀吉は使者を遣わし 万事一晏法印次第に秀保を守り立てろと 秀保以下に伝達されている。多聞院日記
多聞院日記ではこれを 法印無比類名誉 と賞賛しながら 秀長が遺したおびただしい金銀の数々の始末は 一大事 としている。

まさに横浜一庵という人物こそが秀長の右腕であり 秀保の一番の重臣なのである。横浜一庵を抜きにして秀長 秀保を語ることは出来ない。

秀長期簡易動向

十月二十六日には秀吉より宇智郡に二千二百石の扶持を与えられている。多聞院日記

壬辰戦争には従わず畿内に残り 四月十六日には山科言経の訪問を受ける。言経卿記五巻
言経によればこの時期 大仏内の講堂普請奉行を務めていたらしい。
さて一庵は留守を任された訳だが 無事に守れた とは言いがたい。金商人事件に留守居森半介の狂死を防ぐことは出来ず 九月十二日には井上源五のみならず桑山 杉若の力を借りて金商人の逮捕を行った。その後九月十五日に上洛し 秀長 秀保館にて奈良借金銀帳を筆写させられている。落日の豊臣政権
また上洛した十五日には落雷が原因で郡山城の台所で火事が起きている。多聞院日記
先に多聞院日記では秀長の始末は一大事としていたが その通りであった。

文禄二年(1593)十一月二十七日になり大和衆桑山法印 重晴 一庵法印 横浜 羽田長門 正親 藤堂佐渡が御用として聚楽第に呼び出され 駒井日記はその際の書状の日付は翌二十八日付としている 二十九日に秀保と桑山等大和衆は上洛し 秀保は秀次より村雲の脇差を賜っている。駒井日記

文禄三年(1594)二月二十一日 高虎は大蔵卿法印 横浜 正親は聚楽第へ 吉野花見の際に秀次は奈良中坊井上源五館へ滞在するよう申し上げる。駒井日記
吉野花見のために奔走した事は想像に容易い。

花見の後 秀吉は秀保に大和の算用を求めたらしく 三月二十九日に桑山法印 重晴 大蔵法印 横浜一庵 羽田長門 正親 へ算用を持ち上洛するよう朱印状が発給される。またこの時期高虎は紀州に居たらしく 三名とは別に急ぎ上洛するように朱印状が発給された。駒井日記

秀保が没するとその葬礼では筆頭であった。駒井日記

その後

その後は豊臣政権の一員へと加わったが 翌年閏七月に伏見城に番で詰めていた際 大地震 慶長伏見地震の犠牲となった。華頂要略 によれば その後一庵や稲垣新之丞の屋敷が再興されており 横浜家は続いていったように思われる。

最近では石田三成へ柿を贈ったエピソードが SNS 上で人気を集めている。

一庵の家族

一庵の妻は藤堂氏 実は長氏 が有名だ。
小堀新介の息正春は側室が母とされるが 一説には一庵の娘らしい。正春は文禄二年(1593)に生まれており それまでに娘が嫁いでいたこととなる。しかし結婚適齢期などを鑑みると天正五年(1577)までには生まれている必要があり それは高虎が高島七兵衛の配下であったから正春の母を産んだのは藤堂氏 長氏 では無かろうと思われる。
多聞院日記に依れば文禄三年(1594)の二月に娘が亡くなったらしい。三月二十一日条

関連・横浜民部少輔(茂勝)

秀長 秀保の諸大夫として知られる。弟か息子と言われるが 現状は不明である。藤堂家の編纂史料 宗国史 累世記事 には半井家の書付として 舎弟民部正次 とある。一族なのは間違いないだろう。
ただこの 累世記事 半井家ゟ書付 は一庵が地震で亡くなった後 弟の民部正次が跡を継ぐが 名字を改め小堀新介になったとしていて問題がある。
一方で同記事にある藩士横浜内記の覚書は 高祖父を一庵 曽祖父を民部少輔正行 祖父を内記正幸とする。民部少輔の諱は 茂勝 郡山市史資料 額安寺古文書 とされるので そこだけが違う。とはいえ弟が兄の没後に その嗣子として跡を継ぐのは江戸時代にままあるので そうした認識の元で一庵が高祖父となったのであろう。実際の一庵は祖父の伯父というところか。

さて天正十六年(1588)の四月十三日の行幸では 大和大納言御内に 横浜 が見えるが 言経卿記 北堀光信氏はこれを横浜民部少輔と比定している。
同年十一月には青木紀伊守 桑山式部等と茶会に参加している。豊臣秀吉文書集三巻 二六三三
駒井日記増補 の解説に依れば 某年十二月 慶満殿 大納言殿御煩 を伝えている。天正十七年(1589)から十八年(1590)のものであろう。

また 郡山市史資料集 額安寺古文書 には年次不詳だが 横浜民部茂勝 から出された二通の書状が掲載されている。
さらに高野山には慶長三年(1598)七月に 豊臣朝臣茂勝 の逆修供養塔があるようだ。

横浜慶政(立助)

横浜の一族とみられ 慶の字は一庵の偏諱であろうか。
文禄二年(1593)六月朔日 喜多源七郎宛大豆請取状を発給。和歌山県史中世史料一
また 窪田文書 大和文化研究 には文禄三年の十月から十一月にかけて 稲垣新丞慶と共に窪田甚二 郎への書状を四通発給している。
また年未詳であるが七月二十八日には稲垣と横浜 また井上佐助が橋本塩市の訴訟に関する書状を担当している。橋本市史上巻
井上は源五の一族だろうか。

稲垣新丞(新之丞)

横浜慶政と共に政務を担う。諱は慶から始まるよう 窪田文書 大和文化研究 一庵の偏諱であろうか。
多聞院日記 に頻出するが 文禄三年(1594)三月二十一日条に 同内新丞子七才モカサニテ盲目云々一段才人ノ息ヲシキ事也 父母ノ悲ミサソ〱 とあり 彼は 一段才人 と興福寺側から高く評価されていることと相成る。
華頂要略 でもその姿を見ることが出来 得に天正十四年(1586)に活躍しているようだ。

長弥二郎

一庵の義兄の但馬国人。
妹が宮部継潤側室 弟は宮部杢助で もう一人の妹が藤堂高虎の養女として一庵に嫁いだ関係で そのまま一庵に仕えたらしい。
一説に天正十一年(1583)の大坂城普請で秀吉に取り立てられたとある。佐伯朗 藤堂高虎家臣辞典
天正十九年(1591)正月十四日条に 民部少輔 弥二郎殿相伴 とある。時期的に病床の秀長の快癒を祈る祈祷の一貫であろう。ここで民部少輔と共に 弥二郎 が見えるのは 藤堂家の系図を立証するものともなろうか。
後に妹 宮部継潤側室 が高虎側室となった関係で(1)藤堂家へ転じる。

(1) 妹が高虎側室となった関係で 追記/20240720

羽田正親(長門守)

藤堂高虎と並ぶ秀長家臣の代表的存在。
一説には小泉城主とするが 宇陀松山 秋山 を領したとも考えられている。
和歌山県史に依れば天正十三年(1585)に 羽田忠右衛門 羽田忠兵衛 が見られる。また 羽田忠右衛門 久政茶会記 に見られるそうで 正親の通称は何れかと思われる。
彼は出自から年齢まで謎に包まれている。羽田 という名前を考えると近江に存在するから 彼もまた近江から出てきた人間なのだろうか。羽田はかつて広橋家領で 藤堂景盛が代官をしていたが 戦国時代には六角の重臣後藤氏の治めるところであった。そうなると彼は元は六角重臣の被官から羽柴家へ転じたのだろうか。
名字の読みは史料に はねた 豊臣秀吉文書集第五巻四三二四 山科大光明寺再建勧進書立 と見られるため はねた もしくは はねだ であるように思われる。

正親の前歴仮説

秀長がまだ 美濃守長秀 を名乗っていた頃 天正十一年以前 彼が丹波夜久の有力者 夜久主計 へのやり取りを 羽六 羽六蔵正治 が担当している。現状姓に 名に の付く秀長の配下は羽田正親の他に存在せず 羽六蔵正治 は正親の一族 もしくは彼の前歴と思われる。

武功は定かでは無いが江戸時代の史料にて 天正十一年(1583)に賤ヶ岳砦を桑山重晴と共に守備し 賤嶽合戦記 伊勢峯攻めや 天正十三年(1585)の紀州攻め 高山公言行録 での活動が伝わる。

こうした中で羽田氏が史料に現れるのが天正十三年(1585)で 戦後秀長が入国する折に あおやの司 又五郎 が任じられた際の使者を 市庵法印 と共に 羽田忠右衛門 が務めている。和歌山県史中世
また七月十三日に 忠右衛門 一安 横浜一庵 と共に雑賀の 八木 四国攻めの兵へ遣わすよう秀吉の指示を受けている。豊臣秀吉文書集二巻 一四八九
この書状は同年に羽田氏と横浜一庵が紀州にあって 和歌山城築城について高虎 羽田長門 一庵法印を普請奉行とする 紀伊続風土記 の記述を裏付ける内容でもある。

またこの頃秀長は和泉も領していたが その際に岸和田に桑山重晴 上二郡を羽田忠兵衛 下二郡を井上源五が代官として担当したらしい。和歌山県史
忠右衛門 忠兵衛 は同一であろう。

また 久政茶会記 には天正十六年(1588)九月十四日朝 羽田忠右衛門殿 が中坊源五と松屋久政を招いているのを見ることができる。

正親の台頭

一方 羽田長門守正親 は天正十六年(1588)四月二十七日の下間頼廉宛書状 新編岡崎市史 6 を発給し 家康の上洛に伴う屋敷普請で用いる材木運搬に際して三河一向一揆 真宗 と秀長に命じられ調整を行っている。これが初見と見られ 同年の 輝元公上洛日記 にても 羽田長門守 との表記である。
これだけでは羽田忠右衛門と長門守正親が同一である確証は得られず 不明とせざるを得ない。
可能性としては天正十六年(1588)四月までに忠右衛門は諸大夫となり 長門守 を得たが 松屋久政はそれを認識していなかったとも考えられようか。
金松誠氏は 同年四月に秀長が諸大夫を従わせることの出来る 清華成 を遂げており 更に多賀秀家が聚楽第行幸の前日に従五位下出雲守に叙任されていることから 彼と日を同じくして従五位下長門守に叙されたとしている。金松誠 中近世移行期における宇陀秋山城主の変遷について

天正十三年(1585)から始まった紀州征伐では 熊野へ逃亡した反秀吉の国人に手を焼き 天正十四年(1586)に伊藤掃部を失うなど苦労を強いられたが 天正十五年(1587)までにはこれを平らげている。
居城となる宇陀秋山城へ入った時期については 伊藤の跡を加藤光泰が入る 多聞院日記
加藤は 輝元公上洛日記 にも姿が見え 天正十六年(1588)九月までは宇陀を治め それ以降に近江へ転じたと考えられるそうだ。
斯くして正親は天正十六年(1588)九月以降に加藤の後任として抜擢されたと思われるが 史料的には定かでは無い。金松誠 中近世移行期の宇陀秋山城主の変遷について
正親は別に小泉城主とも言われるが此方も定かでは無く ただし 輝元公上洛日記 によれば輝元は郡山で正親の屋敷に宿泊しているから 郡山に屋敷があったのは確かであろう。

根白坂での活躍説

この間 天正十五年(1587)には島津攻めが行われているが 彼が従軍したという記録は見られないが 後世の 武隠叢話 という逸話集に登場する。

藤堂佐渡守高虎ハ手勢引つれ川を越し 搦手より根白の塞江懸入 善祥坊に力を合せ 高虎も手自数人突倒しけれとも 義弘いよ〱懸りて操にもうて攻懸り 善祥坊一組も防兼て 手勢計にて進ミ行 村上彦右衛門を遣し 根白取手へ懸付 只今大和大納言殿六万にて助来給ふそと呼ハらせけるゆへ 取出の中どつと勢ひ出ける 如水 長政父子共に耳川を渡ける 栗山備後守利安先陳に渡す 後藤又兵衛政次 毛利但馬 衣笠因幡 竹野森石見 井上周防打入〱乗渡し 義弘か陳江切て懸り 秀長卿の御内羽田長門守千餘騎 同耳川を渡して 黒田ニ先立たんと鑓を入 根白の取手是又利を得て 突き出て相戦ふ 武隠叢話第六 大和大納言筑紫陣之事 鹿児島県史 町田氏正統系譜附録から。国書データベースで宮内庁書陵部の徳山毛利本を閲覧可能

このように 亀井武蔵守物語曰 で始まる物語で 成立時期から何処まで真実を描いたものか見当もつかないが 高虎が根白坂の救援に駆けつけても劣勢の中 黒田勢に正親の千騎 更に文字数の都合割愛したが小早川勢が増援したことで島津勢を惨敗させたという話となる。
この話を信ずれば正親は根白坂の救援で活躍したことになる。
時にこの物語は津藩藤堂家が編纂した 高山公実録 にも収まるが 正親の活躍した部分は

如水 長政父子共に耳川を渡ける云々(1)

と省略されており 津藩の作為的な改変を感じる。

(1) 引用と本文が一緒になっていたので分離修正/20240512

秀長晩年の正親

そして先に述べたように天正十六年(1588)四月には 秀長の命によって家康と本願寺の間の調停に奔走した。
また同年の 輝元公上洛日記 には子息の伝八と共に参加している姿が見ることができる。

紀伊続風土記 によれば天正年間に藤堂佐渡守と羽田長門守両人が北山の代官 山奉行となるが その際に赤木城を境にして北山を二つに分けたらしい。
また 和州北山一揆次第 には 北山には当初吉川平介と三蔵が置かれたらしいが その後高虎と共に正親が置かれた旨が述べられている。
吉川平介は紀湊 雑賀 にて財をなした重臣であったが 材木の緩怠と汚職が原因で天正十六年(1588)の暮れに死罪となっており その跡を高虎と共に継いだようだ。
北山代官に就任した後 藤堂高虎との共同作業が増え 就任したばかりの天正十七年(1588)正月十日には高虎との連署で熊野山中へ宛て 山の奉行が決定するまで 勝手に伐採と製材をするなと厳重に申し伝えている。藤堂高虎関係資料集補遺
曽根勇二氏は三月朔日に秀吉が両人へ宛てた書状の中に 大木出兼候分~ 高山公実録 とある点に着目し 秀吉は材木の搬出が難しい場所でも板に製材して搬出しろと指示し こうして 山之奉行 は製材と搬出までの山に関わる職人たちを指揮 監督する立場にあったとの見解を示している。曽根勇二 秀吉 家康政権の政治経済構造

またこの時期の書状だろうか 高虎は羽田正親と共に秀長より本宮造営に関する二月十五日付の書状を受け取っている。藤堂高虎関係資料集補遺 本宮大社文書
秀長は本宮造営について 本宮近所の者を動員するように命じている。

この年の暮れ十二月二十六日には年明け早々上洛する徳川家康の息 長丸に関して その馳走を調整したようで 家康から書状を送られている。新修家康文書 2

それ以降暫く正親の動向を掴むことは出来ないが 天正十八年(1590)の小田原攻めでは船手に 大和大納言殿人数 岡崎 長沢 吉田を計二千五百人での守備が行われている。豊臣秀吉文書集四巻 六一一六
正親はこうした任務に従事していたか はたまた病身の秀長の許にあったのか定かでは無い。

同年八月には洪水で材木が諸浦へ流出した件について 高虎と杉若越後守と共に秀吉から指示を受けている。豊臣秀吉文書集第四巻 六一三四

ある年の十月 秀長は鶴を捕獲し某氏に進上したが 先方はこれを大変喜び 逆に秀長へ 長寿の縁起物 として下賜された。この旨を秀長は先方の家臣福永吉右衛門へ伝えている。黒田共有文書調査報告書 十月二十二日付秀長判物
この書状で正親は仲介を担っている。
福永は秀吉が 福永吉右衛門尉可申候 としている書状 東浅井郡志 が一つあることから秀吉家臣と思われ 一連の流れは秀長が捕まえた鶴を秀吉が弟の長寿を祈り下賜したものと思われる。
秀吉が弟の長寿を祈る時期というのは やはり秀長が病床にあった天正十八年(1590)のことだろう。

秀保期の正親

秀長の没後は藤堂高虎と共に秀保を支える立場となるが 天正十九年閏正月には秀吉から高虎 正親 杉若越後守へ宛て熊野の桧皮や船人足を調えるよう指示を受けている 宗国史。結果的にこの書状が高虎と行動を共にしたことを示す最後の書状だ。
天正二十年(1592)の聚楽行幸では福智 福嶋兵部 池田伊予 桑山式部 宇多下野 小河土佐守 多賀出雲守 横浜民部少輔と共に参列している。竹内洪介 天正二十年 聚楽第行幸記 解題 翻刻 古代中世文学論考 40

以降はじまった壬辰戦争では高虎が紀州の船手を率いて参加したのに対し 正親はどうやら渡海せず秀保に供奉したらしい。
十一月六日朝に秀吉が催した茶会には やまと中なこん 秀保 たかのいつも 多賀秀種 はねたなかと 羽田正親 ふくちミかわ 福智政直 おかわ 小川土佐守? が見られ ここで彼らが名護屋にあったことが推察される。豊臣秀吉文書集第五巻 四三二四

文禄二年(1593)五月には秀保から小早川隆景へ宛てた返状を正親が伝達している。小早川家文書
秋には秀保は高虎と共に帰国しており 正親も帰国したと考えられる。十一月には 大和衆 の桒山法印 一庵法印 羽田長門 藤堂佐渡 駒井日記十一月二十七日条 が関白秀次に呼び出されている。これは長らくの在陣を慰労するためではないか。
文禄三年(1594)正月には聚楽第西ノ丸に参上する秀保に多賀秀種と同道している。駒井日記補遺正月十五日
そして十八日には高虎と共に聚楽第へ戻り 藤堂佐渡 羽田長門大坂ゟ申上 唐入りの番替は高虎の再登板では無く桑山兄弟 杉若伝三郎 堀内安房守ら紀州の面々に決まり 高虎は来春 翌年 の渡海になる旨を伝達している。補遺正月十八日条
二月には同年の吉野花見に際して 関白秀次がならでは井上源五の屋敷に滞在する旨を高虎や横浜と共に駒井中務少輔へ伝達している。二月二十一日条
三月六日には秀保から兄秀次へ?の御礼を差し上げる役を担っている。三月六日条 大和中納言様ゟ為御礼羽田長門守差上
また月末には秀吉が関白秀次と秀保の領知の算用を求めているが その際に桑山 横浜と共に算用帳を携え上洛している。

秀保期の正親で特筆すべきは郡山の史料や春岳寺とのやり取りに登場する点で 一庵や小堀たちが担う内政にまで関わっているのは藤堂高虎との差違である。

失脚

この後正親の動向は途絶え 文禄四年(1595)三月に秀保が急逝した後に葬儀を執り行う 大和宿老衆 に名を連ねている。
そして同年七月に発生した秀次事件では 高虎と共に秀次を高野山へ送り届けている。愛知県史 内前書状
そして十五日に秀次が没すると 十七日に 羽田長州追却之由 秀次 事件ノート 谷徹也から青蓮院日記妙 華頂要略 として失脚した。
大かうさまくんきのうち によれば堀秀治のもとへ預けられ 一説には八月二十四日に切腹 本多正氏の介錯によって果てたという。寛政譜 本田正氏

享年定かならず 妻は不明 子息には傳八 諸大夫(2)が居る。
傳八は高虎宛秀保書状に見ることができる。

返々 頓民法かたへ被仰出候様可申上候也
其方隙明次第関白様へ罷出 直傳八事今度之御供可召連候 諸大夫之事可申上候 次ニ渡邊須右衛門両人をも諸大夫になしたく候間 此旨申上候 謹言
卯月五日 秀保 花押
端書 〆藤堂佐渡守殿

これは某年四月に秀保から高虎へ宛てた書状で 出典は 桑田忠親著作集 1 より歴史の学び方 第二十講 文献による史実発掘 だ。その年次は桑田忠親翁によって文禄三年(1594)と推定されている。
ここで秀保は高虎に対し 傳八 を伴っての関白への対面 そして渡辺 須右衛門 小堀次右衛門→中嶋信濃守か の諸大夫成を申請するように命じている。
なお 豊臣期武家口宣案集 木下聡 に羽田氏は見られず 傳八が諸大夫となったのか知る由もない。姓がわからない豊臣氏の誰かが傳八の諸大夫となった姿であるのかもしれない。(2)

郡山城主記 郡山藩旧記 は羽田長門守が四万八千石としているが 後に宇陀松山を治めた多賀秀種が二万石であったことからすると 少なくとも二万石は領していたと思われる。

(2) 傳八と諸大夫について加筆/20240720