解明・大和宿老衆
秀長を 「和州大納言」、 秀保を 「和州中納言」 と表現することがある。
そして彼らに従った、 あるいは仕えた人たちを 「大和衆」 「大和宿老衆」 と表現したのは、 他でもない同時代を生きた駒井中務少輔である。
代表的な人物は言わずと知れた藤堂高虎であるが、 高虎以外の大和衆の存在はあまり知られていない。
遡ること江戸時代に制作された 『郡山城主記 (大和郡山市史資料集 ・ 郡山藩旧記第一)』 には、 三名の家老すなわち 「桑山一庵法師 ・ 羽田長門守 ・ 小川下野守」 (郡山藩旧記では桑山法印) があり、 その他老中が八人居たとする。
大和衆を列記した中では比較的早い成立ではあるが、 桑山と横浜一庵、 小川氏 (土佐守) と尾藤 (宇田) 下野守が合成されている点に注意する必要がある。
一般向けでは平成八年に新人物往来社が 『豊臣秀長のすべて』 を出版し、 同書の 「豊臣秀長関係人名事典」 は大いに参考となる。しかしながら情報量には限りがあるし、 同書の本編は(1)当時日本史界を席巻していた 『武功夜話』 の影響を強く受けており注意が(2)必要だ。
そうしたところで私が様々見分した限りでは 『和歌山県史 中世』 が一番わかりやすい。担当した播磨良紀氏は秀長研究の第一人者であり、 様々な論文を執筆し、 また 『鵜殿村史』 でも織豊期の執筆を担当しておられる。
私は二〇二一年大晦日に和歌山県史を下敷きとして更新した 『大和豊臣家の家臣団概覧』、 そしてそれをアップデートして二〇二三年にツイートした 『秀長家臣名鑑』 を活動として投稿してきた。
しかし二〇二一年の概覧は稚拙であるし、 二〇二三年にツイートしたものは、 もう当該 SNS が終わりを迎えているので投稿は既に削除している。
高虎の前半生を追うなかで、 何処かで 「大和豊臣家」 で立項したいと思っていたが、 それよりも前に現段階でわかる範囲の情報を研究ノートに纏めることとした。私自身小説用にそろそろ脳内から記事に起こしておきたかったのだ。
ともかく今は纏めることだけに注力したいので、 非常に増大な文量となるが御容赦いただきたい。高虎前半生記事が天正十年(1582)頃になったら立項しわかりやすく整理するので、 それまでは次の簡易目次を参考にブラウザのページ内検索機能を活用して戴きたい。
(1) しかしながら同書は→しかしながら情報量には限りがあるし、 同書の本編は ・ 修正/20240720
(2) 「概ね正しそうな史実」 を追い求める上では避けた方が良い→注意が必要だ/20240724
説明
はじめに幾つか宣言せねばならぬ。
まず本稿を 「大和豊臣家家臣」 から 「大和宿老衆」 としたのは、 誰が秀長 ・ 秀保の 「家臣」 で、 誰が秀吉から附けられた 「与力」 であるのかわからない点に依るものである。
『多聞院日記』 によれば秀長のもとには 「与力、 大名 ・ 小名 (多聞院日記 ・ 天正十九年正月二十七日条)」 があった。
寺沢光世氏は横浜一庵を秀長の筆頭家老とし、 秀吉の朱印状によって行動をしている藤堂高虎は 「与力」 であるとの見解を示している。(歴史手帖) 一方で播磨良紀氏は分け隔て無く 「家臣」 として扱っている。(和歌山県史)
私にはこの課題は如何ともしがたく、 便宜的に駒井重勝の言葉を借りて 「大和宿老衆」 と題した次第である。もちろん駒井は高虎たちを 「大和衆」 とか 「年寄共」 としたし、 彼らは秀長 ・ 秀保の 「諸大夫」 でもあるし、 言経は 「大和大納言 (中納言) 内」 と表現する。更に厳密に言えば紀伊国人たちは、 現状こうした 「大和 (宿老) 衆」 に数えることは出来ない。であるが 「大和宿老衆」 以上の言葉は思いつかなかった。
また本稿では軍記や逸話に極力頼らず、 一次史料によって像を立てようと努力した。勿論一次史料は史料批判が必要で、 更に背後の情報や伝聞記述に注意が必要で、 一次史料が史実とはならないことも十二分に承知している。ともあれ私は研究者でも何でも無い一マニアなので、 そうしたところは後考を待つとする。
課題
大和豊臣家関係では熊野攻め (一揆征伐) の年次に諸説ある。
天正十四年(1586)に成敗が行われたのは 『多聞院日記』 に見られるから確かとして、 一方で正保元年(1644)に成立したとされる 『北山組地士其外由諸書上扣 (倉谷文書)』(1)には天正十六年(1588)に秀長が北山まで出向いたとあるが、 現状秀長が熊野へ出陣した記録が残るのは天正十四年(1586)のみである。また秀長が北山の赦免を許さず成敗を宣言した書状 (ささの坊宛) は天正十六年(1588)のものとされるが、 文中に見える 「青木 (紀伊守)」 は天正十五年(1587)に紀伊を離れている為に成立しない。
よって天正十四年(1586)に苛烈なま成敗がされたとするのは、 播磨良紀氏が担当された 『鵜殿村史通史(1994)』 である。一方播磨氏は 『熊野川町史(2008)』 に於いて、 天正十四年(1586)に不完全な成敗で終わり (池田伊予文書)、 翌年には九州攻めで多忙、 天正十六年(1588)と天正十七年(1589)の二度に分けて再征伐を行い、 同年に北山検地に至るという 「北山成敗論」 を展開した。
新谷和之氏は 『天正一四年の熊野一揆に関する史料』 にて、 天正十四年(1586)の戦いを整理して論じ、 敵 (山本主膳) 勢力が八月に調略していた地域に対して秀長は 「赦免をしたことに謂われ無き事を申し懸ける者があれば捕らえて郡山に注進せよ」 と判物を発給していることを示している。
このように熊野に対する対応でも諸説あるのだが、 私としては青木紀伊守のことを鑑みて天正十四年(1586)説とするのが自然であろうと思う。同年に不完全な成敗で終わったからこそ、 秀長は 「捕らえろ」 と命じたと思う。
また同様に高虎初期の名城として名高い赤木城に関しても疑問があり、 「田平子刑場」 の逸話にしても増田期や浅野期の一揆との混合が起きていると考えていることも示しておきたい。(3)
(1) 「」 → 『』 /20240720
(2) 不完全な成敗で終わり (池田伊予文書) ←出典加筆/20240720
(3) 一方で赤木城に関しては、 増田期や浅野期の一揆との混合が起きていると思う部分もあるので、 今回は保留とする。/20240720
表記等について
人物の名称については史料に見える表記を優先している。勿論知らないわけでも無く、 わかって確信的に、 あえてそうしているのであることも留意して戴きたい。
関連史料については、 多聞院日記に頻出する一庵 ・ 小堀、 秀吉からの文書が多く見られる高虎 ・ 秀種等は文字数の都合から個人的に着目した史料を示している。
また高虎にとっての一高、 横浜一庵にとっての民部少輔のように、 関連する人物は 「関連」 として掲載する。本来であれば多賀秀種も独自で示せるのであるが、 高虎と多賀氏の関わりをかねて重視している私の裁量で、 高虎の関連として扱う。
重要な人物
大和豊臣家の序列について
一般的に、 というより大和豊臣家で大名を全うできたのは藤堂高虎の藤堂家のみで、 近年は小説やゲームの影響から秀長の重臣、 秀保の筆頭は藤堂高虎であろうと、 このような認識が持たれていることが多い。しかし史料的には高虎の地位はそこまでではない。
まず多聞院日記では秀保の相続は万事横浜一庵にと、 秀吉直々にお達しがあったことが記録されている。
駒井日記では桑山法印 (重晴) ・ 大蔵法印 (横浜一庵) ・ 羽田長門 (正親)、 そして藤堂佐渡が 「年寄共」 とされている。(北堀氏は高虎以外の四名を年寄としている)
この中で高虎は大和豊臣家のお膝元の郡山町や奈良町との関係が見られず、 一方で両地との関わりであれば小堀新介を加え入れることが出来るし、 奈良町では井上源五も重要だ。
また吉川平助も欠かすことは出来ない。
よって彼らを 「重要な人物」 として列記する。
主要な人物
ここでは但馬 ・ 播磨期の史料に見られる上坂八郎兵衛、 桜井家一、 村山久介や杉若無心 ・ 宇田下野守 ・ 本田氏 ・ 池田伊予守 ・ 小川氏 ・ 福智 ・ 青木 ・ 疋田 ・ 中島 ・ 渡辺 ・ 福島 ・ 野田等を紹介する。
以下は 20240322 時点で間に合わなかった人々だ。
この中では新宮の堀内安房守は大身かつ有力国人なので十分に書きたいと思ったが、 時間が無く他士共々 2023 時点の解説に留まる。
また無分類には諸大夫や外交に活躍した人物も含まれており、 時間が取れたら補充の上しっかりと整理したいと思っている。
いちおう紀伊国人 (小山 ・ 堀内 ・ 色川 ・ 保田 ・ 湯川 ・ 玉置 ・ 白樫)、 無分類 (高林寺 ・ 曲音) と順番はつけている。
20240628 に多羅尾光信 (玄蕃) について立項した。(20240720 追記)
関係性について
調べて行くと彼らに関係性を見出すことが出来る。
中でも近江出身者は活躍が目立つ。横浜 ・ 小堀 ・ 上坂 ・ 村山 (北郡)、 藤堂 ・ 多賀 ・ 堀 (中郡)、 池田 ・ 小川 (南郡) である。このうち北郡は旧浅井層、 南郡は旧六角層である。中郡は両勢力の狭間である。また堀秀村はまさに中北境目の国人出身であった。羽田正親はわからないが、 名字(1)からすると南郡グループか。他に小堀は磯野員昌の婿、 高虎は員昌旧臣、 上坂は員昌の書状の宛名に見えるから旧磯野グループも出来ようか。
次に桑山重晴や宇田下野守 ( ・ 青木) の秀吉古参グループ。堀秀政が秀吉と古くから関係があったとされるから、 弟の多賀秀種も古参グループと言えるかもしれない。諸大夫の福嶋兵部少輔も福島正則との関連を想起させる。
次に畿内グループを考える。まず多羅尾綱知の子息 ・ 玄蕃光信と奥田氏が挙げられる。また島津氏の始末で活躍した福智三河守も、 元亀二年(1571)の辰市の戦いで討死した松永方の人物 「福智一承 (『尋憲記』 )」 と関係するかもしれないし、 『大和志料』 では 「宇陀の人」 としている。宇陀の人であれば松永久秀と敵対した沢氏を含んでも面白いかもしれない。
堀内安房守や白樫氏、 色川氏、 湯川氏、 玉置氏など紀国人たちは紀伊グループとできそうだ。
一方で但馬国人は存在感が薄い。辛うじて妹が一庵へ嫁いだ長弥二郎個人が思い浮かぶが、 これは一庵の内衆だろう。藤堂高虎に仕えた居相氏は但馬国人とされる。時に桑山家には足立氏が仕えていたが、 彼らは丹波出身とされ、 真偽の保護は定かでは無いが足立基則は桑山の娘を妻としていたらしい。(南都絵仏師,尊智 ・ 快智父子と高階隆兼 ・ 宮島新一)
このように但馬の国人では秀長に仕えるよりも、 その家臣 (与力?) の内衆になったパターンがあるようで、 同様の事例は藤堂家を舞台に大和 ・ 紀伊でも見ることが出来る。具体的な人物名を挙げると岸田勝右衛門 (大和)、 岡本権内、 玉置角之助 (紀伊) である。(『藤堂高虎家臣辞典 ・ 佐伯朗』)
(1) 姓→名字へ変更/20240727
縁グループ
他に血縁としてのグループも見受けられる。
まず藤堂高虎と多賀秀種、 多賀新左衛門 ・ 吉左衛門、 藤堂少兵衛はそれぞれ多賀一族である。更に藤堂高虎は養女を横浜一庵へ嫁がせ、 さらに一庵の娘は小堀新介の側室になった。また杉若無心は孫が秀長 ・ 高虎の養子となるが、 ここで同じグループに入れても良いように思われる。
次に豊臣秀吉側近 ・ 重臣との縁グループだ。まず宇田下野守は元は尾藤知宣の弟される。その娘は石田三成の妻としても知られているが、 一説に依れば本田因幡守の室も下野守の娘らしい。(『大和名勝史』)
さらに小川土佐守は一柳直末の姉妹を娶って (寛政譜) おり、 更に池田伊予守は秀吉正室の側近孝蔵主と親戚らしい。(川角太閤記) こうしてみると高虎 ・ 池田 ・ 宇田 ・ 小川には豊臣秀吉古参重臣の親戚であるという共通点が見える。また堀秀村は秀吉直臣の新庄氏と元々親戚であった から、 ここに加え入れても良いかも知れない。
そのようなところでは桑山重晴や羽田正親なども、 こうした縁組みの中にあったと考えるのは自然であるが、 今のところ確たる証もない。
(高虎妻の妹は桑山次男の妻となっている。しかし二人の間に子が出来るのは慶長年間であることから、 ここでは除外している。)
この項大幅加筆/20240720
秀保没後の大和豊臣家
一般的に文禄四年(1595)四月十六日に秀保が病没したことで、 秀長から始まる 「大和豊臣家」 は滅んだとされる。
しかし近年新たな史料 「堅田文書」 に依って、 太閤秀吉が甥で秀保の兄にあたる関白秀次の子息に大和の国主を継がせ、 国主となった子息を生母と共に伏見に置く、 という計画が明るみになった。
この文書を発表した史料編纂所 ・ 村井祐樹氏は、 更に 「大外記中原師生母記」 を分析し、 五月二十八日には計画通り秀次子息が生母と共に伏見へ移ったことを説く。木下吉隆が計画を毛利家に伝えたのが四月二十七日で、 その一月後には実行されたのである。
(村井祐樹 『中世史料との邂逅』)
新国主と高虎
こうした時期の史料と指摘は大変重要だ。特に藤堂高虎が高野山へ上った理由に 「大和豊臣家を潰されたから」 とする向きもあるが、 今回秀次子息によって継承が行われたのならば、 成り立たないのである。秀吉は大和豊臣家を潰す気は毛頭無かった。
ちなみに江戸時代の 「大和郡山旧記」 には 「家臣藤堂何某の子を家督頼といへとも、 家銘断絶なり」 とある。これが藤堂宮内少輔跡目説の大元であるが、 秀次の子息 (秀保の甥) という正統性の前には霞んでしまう。
結局のところ藤堂高虎の高野山行きは喪に服する為というのが真ではないか。そして喪が明け山を下り、 六月初頭には伊予の代官となった。彼の立場が変化するのは七月、 秀次事件直後であったが、 これは事件の論功的な加増であったのかもしれない。それまでの一月、 高虎の立場は秀保生前と変わらずに、 新国主を支える立場にあったようにも感じられる。
そうなると秀次事件時に高虎 ・ 羽田が秀次を護送し、 井上源五の元で一泊。また検視の一人に池田伊予守が来たことは、 彼らが秀次子息を支える立場にあったとの考えによって、 また見え方が変わってくるものだろう。
新国主と羽田・横浜
そして秀次子息が大和豊臣家を継承した説は、 羽田正親の動向にも影響を及ぼす。
正親は寛政譜 ・ 本多正氏項にて、
のちに故ありて豊臣秀次に仕えむとして、 其臣羽田長門守某とはかるといへども、 いまだことならず。文禄四年秀次生害あり。これによりて八月二十四日長門守某殉死するのとき、 正氏これを介錯して其身もまた自殺す
と述べられている。
本多正氏の存在はともかくとして、 ここで正親が秀次に仕えたとするのは興味深い。
秀保の跡目を秀次の子息が継いだとなれば、 正親が 「秀次に仕えた」 とする説は史実が元になっているのかもしれない。
そして秀吉は伏見に秀次子息とその生母を置く案を提示し、 実際にこれは行われた。そうなると大和豊臣家の政庁は伏見に統合されたと考えることも出来る。そこで思い出すのは横浜一庵が伏見で地震死を遂げたことで、 彼が伏見に在ったのは豊臣政権への参画という側面と共に、 「大和豊臣家」 の意味合いもぼんやりと見えてきそうだ。ただ秀次一党の刑死で大和豊臣家は滅んだことになるので、 やはり慶長地震の際には伏見で秀吉を支える役目にあったとするのが妥当であろう。(奉行機構の一角であったのやもしれぬ)
20241122
ジャンプリンク
桑山重晴 ・ 横浜一庵 ・ 羽田正親
その 1
藤堂高虎 ・ 多賀秀種
その 2
小堀新介 ・ 井上源五 ・ 吉川平助
その 3
桜井家一 ・ 杉若無心 ・ 宇田下野守 ・ 本田武蔵守 ・ 本田因幡守 ・ 池田伊予守 ・ 小川土佐守 ・ [これから書きたい 今井秀像 ・ 堀秀村 (存村)]
その 4
福智長通 ・ 福智政直 ・ 疋田九兵衛 ・ 疋田右近 ・ 中嶋政長 ・ 渡辺豊前守 ・ 福嶋兵部少輔 (大之助) ・ 野田 ・ 安芸 ・ 某伝左 ・ 尾崎喜介 ・ 鈴木殿 ・ 曲音 ・ 高林寺 ・ 堀田
その 5
多羅尾光信と紀伊国人 (小山 ・ 堀内 ・ 保田 ・ 湯川など)
その 6
20240720 分離
20240724 リンク修正