司馬遼太郎作品に見る藤堂高虎

現在藤堂高虎の言葉として深く知られているのが 武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ という言葉である。だが そんな言葉を高虎が語ったとされる記録や伝承を津藩藤堂家の史料に見ることは出来ない。

司馬と高虎

更に この言葉を高虎が言ってないとして発生源を昭和の大家司馬遼太郎に求める向きもある。
しかし司馬遼太郎も作品内でそのような事を書いていないことが近年三重県立図書館によって指摘されている。どうやら元ネタは葉隠の次の一節であるらしい。

勝茂公御代の衆は 七度浪人せねば誠の奉公人にてなし。七転び八起き と口付けに申し候由 葉隠 聞書第一 一二七

恐らく司馬は葉隠の一節を用いて高虎を

高虎は 七たび主家をかえねば一人前の武士とはいえぬ といわれた戦国末期の典型的な武士といっていい 関ヶ原 上巻

と評し 作品が有名になるにつれ読者によって伝言ゲームさながらに 高虎の言葉 高虎を表す言葉 として羽ばたいていったのだろう。

しかし高虎と司馬の因縁というのはこれだけに留まらない。
平成生まれの私なぞはリアルタイムを知らないので諸先輩方のインターネット上における投稿や 出版物などでしか知るよしもないが どうやら藤堂高虎という人物は司馬遼太郎によって大きくイメージを毀損されたという。

繰りかえすが私は平成生まれで 司馬遼太郎の全盛期を知らない。その存在は確か道徳の教科書か何かで見た 二十一世紀に生きる君たちへ で初めて知った程度である。当時その内容が心に響いたか記憶こそ無いが 司馬の顔写真は強く記憶している。
ここで二十一世紀を生きる私として そもそも司馬以前の高虎像は如何なるものであったのか 司馬はどのように高虎を表現してきたのか というところを見ていきたい。
ところで私には大きな武器がある。それは 国会図書館デジタルコレクション である。この武器は過去から平成初頭の資料から 高虎について書かれた資料を探し出すことが出来る。ただ文学作品の多くは国会図書館館内端末限定で 好きな人物が何処までこっぴどく書かれているのかを知るために国会図書館に通った。それはまるで修行のようなものであった。

司馬以前の高虎像

創作の世界で高虎が登場するのは何を以て初とするべきだろうか。
軍記ものであれば枚挙に暇が無い。
例えば寛永年間に成立した渡辺了の 渡辺水庵覚書 などは 勘兵衛了から見た高虎像である。
また成立時期は定かでは無いが享保年間には成立していたらしい おきく物語 では 主人公おきくの父山口茂左衛門が浅井家に仕えていた頃 貧しい藤堂高虎少年に食べ物を恵んでやり その縁で茂左衛門は大坂の陣が勃発するまで藤堂家に三百石で仕えたと叙述される。無論これも実のところか定かでは無いが 高虎像の一つであろう。
そして忘れてはならないのは津藩による編纂活動も 或る意味で 藤堂高虎像 の醸成に役立っているという点だ。
それでいくと没後早くに制作された 藤堂家覚書 は家臣たちによる記憶の中の高虎 視聴混雑録 は沢田平太夫家が見た高虎とその伝記 更に西島八兵衛が三代藩主高久に書いた 高久様へ上ル覚下書 は高久に叩き込みたい八兵衛が見た高虎 という事となる。

明治時代高虎像の一例

さて明治十八年(1885)に出版された 小学修身口授要録 中等科巻 5 若松雅太郎編 という資料には 藤堂高虎が会津の要としてかねて不和であった加藤嘉明を推挙した逸話が紹介されている。
この高虎の行動は 公平 の一例としても紹介されている。作文修身問答 明治 31 年.1898

大正時代高虎像の一例

大正時代になると藤堂高虎は講談の題材となる。
これは有名な 出世の白餅 の源であるが 具体的な初演の情報は探すに至らない。しかし大正七年(1918)に出版された 安住家三慶披露会之概況 には 講談 出世の白餅 が上演されたとの記述が見られる。
遡ると大正二年(1913)十二月 小學校 : 初等教育研究雜誌 16(6) 講談藤堂高虎と居相孫作 が見られ 大正四年(1916)六月の 専売協会誌(46) には 講談藤堂高虎 と居相孫作 として 高虎と居相孫作の友情講談が載る。無論高虎も孫作も史実の姿とは異なるが この逸話は 主君を~ と並ぶ高虎を代表するイメージとして現代でも紹介されることが多い。
つまり現在の高虎のイメージというのは まずは大正初頭には講談という形で成立していたことがわかる。

梅原三千が見た高虎像

さてこうした時代を生きた先人に梅原三千という人が居る。彼は元治元年(1864)久居に生まれ 明治大正を生き 昭和二十年(1945)の津空襲で命を落とした戦前を代表する歴史家である。
その著作では久居藩史 藤影記 大正 11 年.1922 を挙げたい。私も藤堂八座を調べるなかで参考にした。
また現在三重県立図書館で翻刻が進む 津藩史稿 梅原が昭和晩年に記したもので 高虎部分に関しては(2008.H20)に西山光正氏が翻訳し 実伝藤堂高虎 として刊行された。
この実伝と共に刊行されたのが 藤堂高虎公事績の再検討について これは梅原が昭和十二年(1937)から昭和十四年(1939)にかけて 安濃津郷土史会誌 に寄せた論考を纏めたものである。何れも三重県立図書館所蔵
この書は梅原が高虎の扱いについて触れた ゆがめられた映像 から始まるが 梅原が見聞した明治から昭和初頭の高虎像を知る上では参考になる記述が並ぶ。
しかしすべてを紹介すると長くなるので 簡潔に紹介したい。

全く戦前ですでに散々な言われようだと思うのだが こうした高虎像に対して梅原は 高虎公は世間で言うようなそんなつまらない人では決してないのです とする。ただこうした記述を裏付ける資料が今一つ探し当たらなかったのは難しいところであった。

さて 面白いのは梅原が 津藩史稿 を執筆した原動力は こうした外聞では無く 旧津藩による ひいきの引き倒し 自らの意見を却下した藤堂伯爵家編集委員へのアンチテーゼで 江戸時代の 聿修録 と昭和の 国訳聿修録 を痛烈に批判している。もちろん 宗国史 高山公実録 など津藩編纂史料を一律に批判しており やはり史学というのは批判が大事だということが 史学徒でなかった私にも強く伝わるものである。
こうしたところで少ないながらも史料が充実した現代に梅原が転生したら 一体どのような史書を執筆するのだろうかと思ってしまうし また痛烈に批判される史書が一つぐらいはあるかもしれないと思ってしまう。
私は 2019 年(R1)に初めて読んだが その強烈な内容に驚いたのは言うまでもなく 強く影響を受けたとも言える。

戦後の高虎像

ところで斎藤道三は よく マムシの道三 と言われる。
木下聡氏によればこのイメージは 昭和 27 年(1952)から始まった坂口安吾 信長 によって創られたという。元は松永久秀と同じような意味合いらしく 更に司馬遼太郎やテレビなどによって決定づけられたとある。美濃斎藤氏

そうなると俄然司馬以前の戦後小説に於いて高虎がどのように記されていたのか興味が湧く。
一応坂口安吾は黒田如水を題材とした 二流の人(1947/S22) 高虎について 家康の懐刀 としている。
同じ年に刊行された尾崎土郎 耳太郎 では 関ヶ原前夜に家康与党として暗躍する高虎の姿が描かれている。
この頃には吉川英治が長編を書くが そこに何かキャラクター性のような物は感じられない。
時に大佛次郎は戦中から戦後にかけて後藤又兵衛を題材とした 乞食大将 を執筆するが その中で高虎は合渡川の渡河に関して又兵衛に意見を求めている。出版されたのは同じ 1947 年(S22)で こうした戦後間もない頃には高虎のイメージは関ヶ原前後の働きが中心であったのだろう。

1953 年(S28)に刊行された中山義秀の 朝雲暮雲 は少し変わった高虎像が見える。
それは夏の陣で大坂城が落城した後に行われた残党狩りの一幕である。その中で水原石見守の内心として中山は次のように描いた。

高虎は太閤にとりたてられながら 家康の腰巾着になつてゐる。それを石見守が 罵った。
高虎は彼を憎んで その首を二条の西門にさらした。此処にも 国松はいなかつた。
十五日 長宗我部が処刑になつた。彼も藤堂勢をやぶり 高虎に憎まれた一人である。 飛花

中山によって描かれたイメージはとても興味深い。

1954 年(S29)に刊行された松本清張 奥羽の二人 では 藤堂高虎は家康の謀臣となつた 転変 と記される。

山岡荘八も高虎について書いている。
清張と同じ 1954 年(S29)に刊行された 桃源の鬼 に収まる 疾風牢人 高虎に突如愛想を尽かした小姓鬼頭甚内が主人公の物語だ。
もちろんフィクションで 何故鬼頭が高虎に腹が立ったのかは明かされないのだけれど 不和によって浪人となり退去する武士と それを追う大名側がそれぞれ武装するという様式美が描かれており面白い。
また山岡荘八の代表作 徳川家康 にも高虎の描写は見られ 関ヶ原の巻 徳川家康第 18)1962/S37 での章 見えぬ采配には 家康と高虎の密談が長いことに不満を覚える井伊直政と本多忠勝の様子が描かれている。連載自体は 1954 頃から開始されているそうだ

司馬遼太郎視点の藤堂高虎

今回調べたなかで司馬遼太郎が藤堂高虎について細かく触れた最初の作品が 長宗我部盛親を題材とした 戦雲の夢(1961/S36) である。

戦雲の夢(1961/S36)

当然盛親が主人公なのだから 高虎は最初からヒールである。しかし全体の割合としてはそこまででも無い。
たとえば伏見城での一件では

この男は 秀吉が醍醐の花見をしたあと 急に老弱の翳が濃くなりはじめたころから 人目もかまわずに徳川家康に接近しはじめているという噂さがあった。まるで家康の譜代であるかのように頻繁に屋敷に出入りしたり 家康の意思の代弁をしたりしていた 運命の階段

この一節から十年近く 高虎を描いてきたことになる。
次に章 盛親出陣での記述を見よう。

盛親は むっとしてなにかいおうと思ったが ふとこの孫次郞が 藤堂高虎の庶子高信と親しかったことに気づいた。高虎という老人はいわゆる太閤取りたての大名なのである。しかし秀吉の死後 同僚であるはずの家康に臣従同然になり 三河以来の譜代の臣でもおよばぬほどの先駈けた尽力ぶりを示している男なのだ。盛親出陣

ここには司馬の脚色 虚飾とも が入っている。それは津野孫次郞が庶子高信と親しかったこと という部分である。これは明らかな創作だ。
ここで盛親の兄について触れているが 彼に関して章 浪人大名で高虎に触れる。

津野孫次郞自害の件を家康に告げて盛親に所領をうしなわしめたのは 藤堂和泉守高虎であった 浪人大名

文脈としては桑名が藤堂家に転じることを知った直後 盛親の心中を斯様に描いている。津野親忠の死については諸説あるが これは盛親が主人公なのだから泥を被るのはヒールの役割であろう。

ところで司馬は高虎のことを何も知らずに書いていた訳ではないことが章 長瀬川の血戦から理解出来る。

高虎は 江州犬石郡藤堂村にうまれ 諸家を遍歴したのち秀吉の義弟秀長に仕えた。戦功をかさねて豊臣家譜代の大名になりはしたものの 武功のわりには禄高がうすく 秀吉の死んだときは伊予宇和島八万石にすぎなかった。自然 豊臣家に対する御儀の念もうすく 秀吉が発病した前後から家康に接近し 石田三成の挙動を通報するなどして まるで徳川家譜代の臣のようにふるまった。家康によって与えられたいまの伊賀二十二万石の大身代は そのすさまじいばかりのおべっか料といっていい 長瀬川の血戦

犬石郡 は誤植なのかフィクションとしての表現なのかわからないが 高虎の基本的な事項を抑えていることがわかる。石田三成の挙動を通報するなどして というのは そういった逸話をも司馬がチェックしたことがわかる表現だ。
ここまでしっかりと高虎の事績を押さえているのに おべっか料 としているのは 清々しい。だが盛親が主人公なのだから仕方がないのかもしれない。
そして高虎を理解しつつ持ち上げない司馬のスタンスは 盛親と高虎の直接対決の部分でも現れる。

合戦之場数は東軍諸将のたれよりも多かったし 槍一筋から二十二万石の大名になりあがっただけに凡庸な男ではなかったが 戦さよりも 家康に対する政治的配慮がつよすぎたのだ。戦機を前にして一瞬動揺した心のうごきが 全軍の足なみをみだした 長瀬川の決戦

ただ大坂の陣における高虎の動きが そのように受け取られることは司馬以外でもわかることだ。私ですらそうなのだから。

おお大砲・言いふらし団右衛門(1961/S36)

戦雲の夢 から間もなく 同年十月に刊行された短編集 おお大砲 に収まる 言い触らし団右衛門 その名の通り塙団右衛門を主人公にした作品であるが 加藤嘉明の人となりを紹介するなかで おなじ秀吉子飼いの加藤虎之助 福島市松 藤堂与右衛門 高虎 などのような荒好みはもたず としている。

竜馬がゆく・立志篇(1963/S38)

この後 司馬は代表作 竜馬がゆく の執筆を始める。その題から察せらるように江戸時代幕末が舞台なのだから 高虎は関係なかろうと最初は思っていた。しかし司馬はここでも高虎に触れるのである。

1963 年に刊行された 立志篇 黒船見物への道中神奈川村での出来事である。竜馬は運悪く津藩士に出会ってしまった。
そして 土佐郷士は徳川 山内をうらめない代わりに高虎を恨む 藤堂家の家祖高虎は 土佐では大悪人になっていた 黒船来 このように描いた 全く飛び火も良いところであるが 同様に こどものころ植えつけられた印象 として 藤堂兵が悪玉のようにおもえた とも述べている。
司馬はこうやって そこにあるかのように描くのだから恐ろしい。まるで司馬にそう教えた高知県民がいるかのようなリアリティである。
考えてみれば 戦雲の夢 竜馬がゆく 司馬の高知県への想いは並々ならぬものがあると感じる。高虎がヒールになってしまうのは当然なのかもしれない ちなみに竜馬は何とか津藩兵をあしらって逃げることに成功した。

関ヶ原・上巻(1966/S41)

そして 1966 年(S41) 現代の高虎像を決定づけたと言っても過言ではない 関ヶ原 が刊行される。
この作品は上中下巻に別れているが 上巻で散々な書かれ方をしている。

まず初っ端 七たび主家をかえねば一人前の武士とはいえぬ といわれた戦国末期の典型的な武士といっていい と紹介される。
更にそれだけに留まらず 世謀 世間師 戦場よりもむしろ周旋の才能 世巧者 調停能力 主家を自分でえらぶ男で 一ツ家への中世的な忠誠心などはじめからなかった といった言葉が並ぶ。これは家康の内心としての表現でもあり 中世的な武士道のすきな家康には多少理解しがたい としている。
更に鳥羽伏見の戦いに於ける津藩の振る舞いにも触れて 高虎本人も 悪評が高かった としている。問罪使

作中高虎のことを良く思っていないのは何も家康だけではない。
家康の家臣も 家康の側近たちは やや軽侮するような気持でおもった 黒装 とする。更に加藤清正をして じつは清正は この高虎というおべっか使いを こころよくおもっていない 藤堂屋敷 生理的にきらいだったらしい。清正の親友福島正則なども高虎がきらいで 利家の死 とてもとても散々に書いている。

司馬は 戦雲の夢 のなかで伊勢伊賀移封を おべっか料 と表現していたが ここで高虎を おべっか使い とした。

しかしここまで高虎を描いておきながら 下では名前こそ出るが大して目立たない。このあたり司馬の配分というのは絶妙だ。高虎はあくまでもサブキャラクターなのだから あまり前に出すぎても良くない。
これは余談であるが作中高虎は 和泉守 と呼ばれている。これも司馬の知ってから知らずか フィクションの表現である。まあ本多佐渡守とややこしくなるから 致し方ない部分もある。司馬はこうした脚色を自然に用いるので読む際には注意が必要だ。

ちなみに 関ヶ原 TBS ドラマや劇場版が制作されているが それらに藤堂高虎は登場しない。出なかったことに不満を覚える向きがあるかもしれないが こうも散々な描かれ方をしているのだから 出ない方が良かったし出さないという判断をした制作陣は素晴らしい。出ていたら出ていたで 要らぬ騒ぎになっていたかもしれない。

峠・前編(1968/S43)

今回司馬に対して しつこい というか その執念に戦いたのは 峠 前編(1968/S43) である。
これは長岡藩で高名な河井継之助の物語であるが 彼が津藩が誇る賢人斎藤拙堂先生を訪ねる場面 ちりの壺 でのことだ。
河井継之助をして活き活きと安濃津の城下を語らせる。

翌朝 継之助は出かけた。
城をめざしてゆく。氏の斎藤拙堂の屋敷は丸ノ内にある。城の緑がふかく 天守は五層であった。その白い巨人が数多くの櫓をしたがえ 威容は三十二万余石の根拠地たるにふさわしい。
――さすが 藤堂さまよ。
この街道町を通過する旅びとはこの城におどろく。津を通過する伊勢神宮の旅客は昨夜継之助がやどできいたところでは 月に二十万人はくだらぬといいう。それらがひとしくこの城によって藤堂の雄偉さに敬服するというから この建造物のはたしてきた役割りは大きい。ちりの壺

司馬の筆致が光る描写で 往時の姿が目に浮かぶ。今では国道 23 号の往来だけが賑やかで そこに日本屈指の水城があったとは誰も思わない。先に司馬が高虎の基本的な事項を認識していると書いた。この描写からも 司馬が確かに高虎や津藩を研究したと感じられる。
しかしこの中で簡単に フィクション と指摘できるのは 天守の存在である。ここで継之助 いや旅人の気持ちとして天守そびえる津城の威容に感服する様が描かれているが 津城の天守は寛文年間に火災で焼失しているのだ。
果たして司馬はこの情報を得ることが出来なかったか もしくは知っていて脚色したのかもしれない。こればかりは調べようがないように感じる。
さて継之助は次のように続けた。

藩祖藤堂高虎はなかなかの食わせ者だが
継之助は思った。
高虎は 織田時代から豊臣 徳川の三代に生き抜いたしたたかな世間師である。三代の風雪に生き しかもどの時代の支配者にも重宝がられたというから その意味では生きる名人のような才能であった。
近江の出である。
槍一すじで身をおこした。生家は北近江の大名浅井氏の家来であった。ところが 浅井氏が織田氏に攻められて傾くと 高虎はいちはやく主家の前途を見かぎった。ときにわずか十七歳にすぎない。
その後 主家を何度か変えた。北近江の豪族阿閉 あべ 同磯野氏などにつかえ しかしこれらの主家が自分の将来に益をなさぬとみていずれも退転した。
織田信澄につかえたこともある。信澄は信長の甥 弟信行の子 信長から近江大溝城をもらっていた。信澄は不幸にも―としか思えない―明智光秀の娘をもらっていたために本能寺の変のあと 織田信孝 信長の三男 に殺された。高虎はいちはやく退散した。
明智氏がほろび このあと羽柴氏 秀吉 が勃興した。高虎は時勢のゆくすえを見ぬき 縁をもとめて秀吉の実弟の秀長につかえた。この機敏さもさることながら 高虎にはそれだけの実力もあった。それまでに四度主君を変えてきたが どの主家のもとにいたときでも一度ははなばなしい武功をたてた。
 羽柴秀長のもとでも つねに先陣を駈け どの戦場でも人目に立つ働きをした。秀吉はこの高虎に注目し 武勇よりもむしろ弁才 世才にたけていることを見抜き
――汝の器量なら 大名になれる。
として直参にし 二万石をあたえた。ついで伊予六万石をあたえた。
秀吉ノ晩年 高虎は豊臣家の嫡子がまだ幼いことから将来の滅亡を予感し 早くから徳川家康に接近した。接近するだけではなく 家康のために密偵の役目をつとめた。関ヶ原前夜 大坂方の内情がことごとく家康につつぬけになっていたのは 高虎の暗躍によるものであった。
家康が天下をとるや 高虎は重く賞され 次第に加増をうけ ついに伊勢と伊賀二カ国をあたえられ この津の城主になった。
いやらしい男だ
と継之助はこの藩祖の処世達者に好意はもてなかったが しかしそれまで伊勢海に面した一寒港にすぎなかったこの津を 天下の都会にまで仕上げた高虎の腕には感嘆せざるをえない。高虎は津に移るや この巨城を築き 四方の町人に金をあたえてこの城下に住まわせたためたちまち大いなる都会をなした。いま日に二十万人の旅人が通過するというのも 高虎の功であろう。
ちりの壺)

これだけでも ここを切り取っても藤堂高虎の紹介文として通用してしまうのが司馬の文才だ。正直ここまで真摯に紹介して 自らの意見を継之助の心の言葉にしてしまう。これこそ昭和を代表する大作家たる由縁である。
正直 この文節を上回る紹介文が書ける人がどれほど居るのだろう。
相も変わらず家康にすり寄る姿を腐してはいるが これは全般的に司馬の高虎評と言えるのではないか。
もちろん主家を替えた経緯 員昌の出奔に触れない 本能寺後に秀長に仕えたとするなど 今現在の通説とは異なる部分もある。それでも私は 信澄 に触れてくれたところを評価したい。

付記・海音寺潮五郎の高虎評

ここまで司馬が書き連ねたことで 早速影響が現れたと窺えるのが司馬の先輩作家の海音寺潮五郎である。
彼は 1956 年(S31)に 関ヶ原軍記 を出しているが ここに何か高虎を評したような描写は見られない。
しかし 1967 年(S42)の 史談 切捨御免 では 高虎を次のように評している。

―人間として利口でソツがないが爽快さのない武将の代表としては 藤堂高虎などどうですか 聞き手は毎日新聞 松岡英夫 当時編集局次長
そうですね。暗いですね。
しかし 戦国時代に卑賤から成り上がって大名にまでなった連中は みな大なり小なりそういう傾きがある。高虎みたいなのは図抜けてそれがうまいのですが ほかにも大勢います。せっかくこしらえ上げた身辺が惜しくてしょうがないのです。それに生まれが下賤ですからですから 取り入ったり 人にペコペコ頭を下げたり こびたりすることが割合平気なんですね。
歴史と人物 理想家の隆盛

まあ高虎も散々なのだが 文脈では 秀吉にはできるが 相当な家に生まれた家津は出来ない と続く。
思うに これが藤堂高虎の出自を 没落 農家同然 といったような下げる説明の元となった記述かもしれない。

覇王の家(1970/S48)

1970 年(S45) 司馬は 覇王の家 を連載し これは 1973 年(S48)に刊行された。
家康が主人公となるなかで その終末の場面 その最期 に於いて司馬は高虎について渾身の一筆を見せる。

家康は 外様者ながら藤堂高虎の忠誠心に対してのみは 安心しきっていた。高虎はその前歴からみて一種の詐欺漢のような才能があったが しかし投機家でもあった。秀吉が老衰してきたころからつぎは家康と見 家康に接近し 懸命にその用をつとめ とくに豊臣家の内情についての間諜をつとめて家康の政治判断にどれだけの貢献をしたか測りしれない。しかも高虎は 自分が投機で家康を買うのではなく 家康を心から崇拝しているのだということを 飽くことなく繰りかえし家康の前で演じて見せた。家康も最初は
――この男 本気か。
うたがいつつも なんといっても三河者に高虎のような政界通がいなかったためついつい使っていたが しかし高虎がどういう本心であれ かれはこの家康への忠誠的言動を二十年間繰りかえしてきているのである。家康がついにこの男を信用しきるようになったのもむりはなかった。家康が病でたおれるや 高虎は江戸から飛んできて 毎日 病室の廊下一つへだてた詰間で詰めっきりでいた。夜は仮眠するだけで 病室で物音がひとつしても跳び起きるような挙動を示し そのあたりは 家康の看病人である榊原大内記でさえ
泉州 高虎 どのは いつ眠られるのか
感心したほどであった。この高虎の気分が はたして本然の誠実から出たものか 一心不乱の処世であったのか 結局はかれが作った伊勢藤堂藩の藩風をみてもわかる。藩風は藩祖の性格できまるといわれる。この藤堂藩は 二百数十年後に徳川型が鳥羽伏見で薩長軍やぶれるや にわかに寝返り 山崎の丘陵上に砲をすえ 敗走してくる徳川へいをさんざんに撃ちおろしたのである。鳥羽伏見における徳川方の死傷は 薩長との接戦によるものよりも この藤堂藩の寝返り砲撃によるそれのほうがおびただしかったといわれる。
家康は しかしながら高虎を信用した。高虎が病床ににじり寄ってくるときが 家康はもっとも多弁になり 機嫌もよかった。なにしろ 徳川家の譜将といってもほとんどはただひたすらに忠実なだけで 家康の話相手になるだけの男は せいぜい本多正信ぐらいしかいなかったのである。高虎を相手に話せば 軍事のことでも築城のことでも あるいは京都の宮廷情勢や西国大名の動静のことでも 十分に歯ごたえのある返答がもどってくるのである。ひょっとすると 高虎という男は うまれ場所の条件さえよければ家康になったかもしれず 家康も 高虎の条件でうまれておれば高虎になったかもしれなかった。
その最期

これが司馬遼太郎が描いた 家康視点の藤堂高虎評である。
いや 家康視点と言っても幕末の話も織り込まれている。
司馬遼太郎は幕末の振る舞いから逆算して藤堂高虎に厳しく当たっていたのだろうか。よく 親が親なら 子も子だ という嫌味の常套句があるが 私は好まない 司馬の高虎観でも当てはまるのではないか。

以上が司馬の小説に於ける高虎像であった。

しかし司馬の創作活動はこれだけに留まらず 小説と同様に名高いのが紀行 街道をゆく シリーズである。
近年 NHK-BS 新 街道をゆく が何回か放送され その都度私は楽しんで視聴をしていたが 俳優の朗読による司馬の心地よい筆致 現地訪問で知る司馬の足跡は大変良かった。

今回調べてみると 街道をゆくシリーズでも数回藤堂高虎について触れていたことが判った。

街道をゆく七(1976/S51)・甲賀と伊賀のみち

朝日新聞出版の公式サイトに依れば 旅の時期は 1973 年(S48)春で 旅のスタートは上野である。これは司馬が初めて書いた歴史作品が伊賀を舞台とした 梟の城 であることによる。
此の中で興味深いのは上野城の 五層の天守 について触れている節だ。
彼はこの天守が高虎の家康秀忠に対する忖度で取り壊されたとしている。司馬は 資料が残されていない としていたが これは史料の翻刻前だから仕方ないのかもしれない。しかし現在では慶長十七年(1612)に発生した大風で死傷者を出し倒壊したことが明らかとなっている。
そして司馬は天守の取り壊しをもとにして高虎を評す。

高虎という人物は保守感覚の異常に敏感な人で かれの生涯はその感覚とその才能でできあがっているようなものであった

文脈としては このため 天守を いそぎこわした というところに繋がる。
これは脚色とするべきなのか 司馬の調査力の限界であったのか 判断に迷う。

街道をゆく32(1989)・紀の川流域・鶴の渓

朝日新聞出版の公式サイトによれば旅した時期は 1988 年(S63)6 月とある。和歌山城をスタートし 根来寺を目指す旅路である。
15 年前の甲賀伊賀の旅同様に高虎ゆかりの城から出発する。ただし高虎が和歌山城を築城したという通説は 今後変わっていく可能性がある。

この稿が特徴的なのは 司馬の高虎評に変化があったという点だ。
司馬は 高虎は 土木家として日本土木史上 屈指のひとりといっていい と書くと 更に高虎の出身地甲良の郷を紹介する。
どうやら司馬は甲良を 1988 6 月までに訪れていたのかもしれない。そして高虎から先祖について次のように評した。

藤堂家の祖は いろんな勢力に仕えた。遠祖は足利幕府につかえたというが これは眉つばかもしれない。ついで 六角氏や京極氏などに属した。若いころ高虎自身は北近江の浅井氏につかえたというが なにやら 武士は 主を代えようとも 能力によって仕えるものだ というセリフを高虎に吐かせたくなるほどに かれの家系もかれ自身も多様な主取りぶりである。

この叙述には大変驚かされた。私が史料を集めてようやっと出した結論を 司馬は 1988 年時点で達していたのである。その系図を 眉唾 とする点が刺激的であるし 六角氏や京極氏などに属した というのは何を以てそう書いたのか実に興味深い。15 年の間に何らかの史料を閲覧していたのだろうか。

そして司馬は安土城 信澄に触れる。

安土城が築かれはじめたとき 高虎はまだ二十代の初期だったが すでに津田信澄の下にいたとしたら かれは 安土山の山容がかわるほどの大光寺の渦の中にいたといえる。のちに普請の名人といわれた下地はこの時期につくられたと思いたいし いわば 安土工学校 の卒業生だったのではあるまいか

そして もしそうなら と続け 穴太衆と親しくなったのもこの時期 ともしている。
この一連の記述は非常に興味深い。というのも現在一般的な高虎の理解として 安土城で築城を学び穴太衆と親しくなったとの解説は巷に溢れている。これは司馬の筆致の影響を受けている とも言えるかもしれない。
更に甲良氏にも触れている。

要するに 近江犬上郡の甲良荘という小さな在所から 名だたる土木家藤堂高虎が出 また建築家の甲良宗広らが出たというのが おもしろい。土地にこういう巨人をうむ技術的風土があったのではないか

この見解も私と一致するところである。
司馬はかつて でも信澄 信重 に触れていたが その旺盛な知的好奇心の中にあった存在の一人だったのかもしれない。

街道をゆく十一(司馬遼太郎全集62版/1999)・奥州白川・会津のみち

更に一見高虎とは関係の無さそうな福島編でも 江戸期の関守で高虎に触れている。朝日新聞出版の公式サイトに依れば旅の時期は 1988 7 月というから 和歌山の旅から間もなくのことだ。また表題は私が参照した資料であるが 単行では 街道をゆく 33(1989) となる。
先に要旨を箇条書きする。

このように白河城を立派にした丹羽長重 このサイトでもお馴染み丹羽長秀の嫡男が藤堂高吉 ←一高 の兄であるから ここで高虎に触れたという事になる。
街道をゆく で興味深いのは 1988 年(S63)時点で司馬の高虎観が軟化している点である。和歌山城でもかなり好意的になっていたが 白河では更に良い評価を与えている。

この仙丸が 藤堂高吉 一五七九~一六七〇 である。高吉はいい人物だった。養父高虎によく仕え 戦場ではよく戦ったが そのうち高虎に実子 高次 ができてしまったので またも格がさがり 家臣になった。
高虎は 丹羽家への情誼はつくした。長重が芝浦でおちぶれているのをみて おそらく家康に懇願して常陸で一万石をもらってやったのかもしれない。
その後も 高虎が運動してやったのだろう。その証拠に 白河ゆきの幕命<ルビ はなし>をもってきたのは高虎なのである。長重は自薦運動のできる男ではない。

このように藤堂高虎があったからこそ 丹羽長重は復帰できたのだ とする。更にこのとき長重に対し加藤嘉明と仲良くせよと諭したら云々とも書いている。
高虎を持ち上げるのは良いが これでは若干丹羽長重が可哀想になる。現在では 立花宗茂同様に秀忠に気に入られたことで再起を果たした とするのが私の印象としての通説で そこに高虎が絡んでいたとは今のところ確認していない。
しかしこの白河の旅で司馬は野史を引用している旨を記している。すなわち 大日本野史 のことだが これを翻訳したという 織田大名衆 : 信長とその部将 大日本野史 /1971(S46) にも司馬が書いたことと概ね同様のことが記されていた。
司馬は史料を頭に入れ それを柔軟な思考力と独特な発想を以て咀嚼し その解釈は脚色を経て彼の素晴らしい筆致として活字になったのだ。

伊賀を訪れていた司馬

ここで 甲賀と伊賀のみち にあった興味深い記述を思い出す。彼は 梟の城 を執筆するにあたり昭和三十二年に伊賀を取材に訪れたことがあると述べている。
司馬遼太郎の高虎に対する 執着 一周回って愛すら感じる程であるが その根底には歴史作品を書くにあたって伊賀の空気に触れた経験があるのかもしれない。そして小説家司馬遼太郎の草創期に 両雄は対面を果たしていた可能性すら考えてしまう。

司馬にとっての高虎を考える

司馬にとって高虎は主人公の格が無かったのか もしくは魅力を感じなかったのだろうか。むしろ彼は長宗我部盛親を題材にする。後に父元親も題材となるが 坂本龍馬に対しても感じたように 司馬の土佐 高知へ抱いた想いというのに興味が湧いた。高知を題材にした以上は高虎がヒールになるのもしようがないかなと感じる。むしろ編集者や出版社の都合もあるかもしれない

そして徳川家側から描く高虎像というのは これは山岡荘八たち先輩作家の描写を踏襲している。やはり梅原が述べたように 昭和の初頭で既に高虎に対するネガティブなイメージはあったのかもしれぬ。読者に迎合した?
特に家康は ひきながらも 信用しているのに 家臣たちはそこまでではないという描写の根底には 津藩が鳥羽伏見の戦いでやってのけた が影響していたのかもしれない。

そして 80 年代末には 逆に不自然に感じるほど高虎を評価している。そこには十年の間に抗議の手紙を貰ったか はたまた 1985 年堺屋太一の 豊臣秀長 に影響を受けたのだろうか。他に更なる作品執筆のために史料を集めていた際に 高虎への印象が変わった史料や記述に出会ったのかもしれない。関係があるかはわからないが 司馬の代表作の一つである 坂の上の雲 の主人公秋山兄弟の先祖は 一時期藤堂高吉に仕えていた伊予国人との説もある。

私個人としては 司馬の見解と私の高虎に対しての心に一致するところがあり驚いた というのが素直な感想である。ガッツリ読んだことが無いのに 一致する というのは 何だか申し訳ないところもあるが 偽らざる気持ちとして 調べていて嬉しさ 光栄さも覚えたのである。

司馬への反応

ここまで司馬の視点を見てきた。
最後に簡潔に司馬への反応を紹介したい。
三重県出身の作家岸宏子は 祖父が津藩士 伊賀詰 で藤堂家に関する作品も発表している。その中で第二次名張藤堂家独立騒動を描いた ドラマスペシャル 不熟につき -藤堂家城代家老の日誌より-(NHK/1990) は隠れた名作として語り継がれている。
岸の反応は 歴史と旅 14(7)(184)/1987(S62) 特集 津藩 にある。
岸は具体名を出さないものの それが司馬に対するものと察せられる部分がある。それは 藩祖の人がらが悪いから とする部分で これは明らかに司馬の 関ヶ原 にある 藩祖高虎の人柄 悪評が高かった という一節を意識していると推察される。
ただ岸は単なる反論では無く 追従者 おべっか者。これは真実だ として 徳川実紀 をもとに家康に顔を見せる名として高虎と政宗を挙げている。なかなかのバランスだ。

こうぬけぬけとしてた追従は ちょっと誰でもまねの出来るものではない。太鼓もちだと言われる筈である

藩祖のための開き直りとも感じるが これには私も頷いてしまうところがある。ただ高虎批判への対抗に それなら薩摩はどうだと批判していることも付記する必要があるだろう。
ところでこの稿は 1987 年である。司馬の高虎観が変わった 街道をゆく の旅は 1988 年に行われていた。両者の親交は知る由もないが 岸が司馬の先輩作家にもなる横光利一の跛従兄弟となれば何かしらの面識はあったとも想像できようか。

まとめ

まとめると次の通り。

とはいえ平成の時代には藤堂高虎が主人公の作品も少ないながら出てきて 主に関ヶ原以降の働きを中心として研究が行われてきた。
ゲームでこそ 信長の野望 では松永久秀と共に義理の数値が最低の 1 である ギリワン と呼ばれてきたが 豊臣秀長との主従 大谷吉継との友情 カップリングというか 高吉 と呼ばれるので 宮内少輔とややこしいことになっている などで悪印象を持つ人間は減ったように思われる。
しかし光があれば影が出てしまうもので 高虎が主人公になると秀吉と三成などがヒールとなる点には 個人的にはモヤモヤするところもある。モヤモヤするついでにいえば 高虎の顕彰活動も地域おこし的な要素が過半数を占めるとしても 司馬の書いてきた話に対する対抗 アンチテーゼとしての顕彰も少なからず見受けられる。
更に少ないながらも史料が充実してきた昨今でも 未だに講談 白餅 や逸話とならび更には司馬が初出と思われる話 安土城 穴太衆 が高虎解説に用いられ 主七人云々 は司馬ですら書いていないことが読者によって高虎 司馬の言葉として羽ばたいている。
今までも これからも我々は司馬遼太郎に囚われ続ける。彼も藤堂高虎の語る上で欠かすことができない歴史である。
そうしたところで私は司馬遼太郎の偉大さを感じるのである。

ちなみに今回参照した資料のうち 三重県立図書館所蔵の梅原三千資料 2 点以外は 国会図書館の館内端末で総て閲覧することが出来る。永田町の本館 上野の国際子ども図書館 京都の関西館である。ただ遠方では難がある。
それでも司馬や山岡荘八の作品ぐらいは全国各地の図書館で所蔵しているだろうし 現在も出版販売されている作品もあるから活字を手に取って読むこともオススメしたい。

2024/0831