京極五郎を考える

時に藤堂高虎の祖父は 京極五郎 のために死んだ。
これは江戸時代の半ば 津藩で編纂された史料に見られる記述である。
当初私は 京極五郎 に関する知識を持ち合わせてはいなかった。
そのようなところでハンドルネーム 京極材宗氏 以下材宗氏 ブログ記事 御自身の考えを載せたツイートは興味深い部分があり 大いに勉強となった。
私も時間を見つけては断片的に調べていたが 大きく前進したのは湯川氏の論考 中世後期の地域と在地領主.2002 に出会った昨秋のことだ。
竹熊 五郎高慶 とする論説はとても刺激的で 研究ノートにまとめる意欲が湧いた。

また二月に刊行された西島太郎氏の 室町幕府将軍直臣と格式 尼子氏研究に疎い私には大変役立った。書き出しながらメモを探ると実は既読の論文もあったのだが 忘れていたので良かった。
他に私の疎い部分を補ってくれた書籍がある。中井均氏の 戦国期城館と西国 では 境目地域の城郭を第一人者の論考で知る事ができ有用であったし 木下聡氏の 中世西国武士の研究 4 若狭武田氏 では若狭武田氏を元明まで総覧し大いに勉強となった。
更に故 米原正義氏の 出雲尼子一族 読みなおす日本史 も読む価値があった。この一冊を読んだお陰で 陰徳記 マツノ書店 陰徳太平記 を読むことが出来た。

こうした書籍に加え毎度お馴染み 東浅井郡志 坂田郡志 浅井氏三代文書集 島記録 金剛輪寺下倉米銭下用帳 愛荘町教育委員会 更に村井祐樹氏の六角三部作 戦国大名佐々木六角氏の基礎研究 戦国遺文佐々木六角氏編 六角定頼 津藩三大編纂物 宗国史 公室年譜略 高山公実録 東京大学史料編纂所データベースを参考に調べ上げた。

さて本稿はそのようにして収拾した 京極五郎 の動向と 副次的に調べることになった出雲尼子氏と近江の関わりを追いつつ 戦国時代末期の京極氏についてわからないなりに考えるものである。

大原五郎の登場

仇敵京極材宗親子 多賀経家等を生害せしめたことで湖国の覇者となった京極高清であったが その支配は脆くも崩れることとなる。その発端は自らが信頼した上坂氏が国人に疎まれたことにある。
その後の騒乱については 既にまとめているので割愛するが 大永三年(1523)三月九日の 梅本坊公事 に依って発生した上坂治部と浅見 国人衆との合戦は上坂方の敗北に終わるが 上坂と環山寺殿 高清 はかねて同心していた為に 高清は刈安尾の城から御忍にて尾張へ御取退したと 江北記 は述べる。
その際に 大原五郎殿も御同道候 として ここで 大原五郎 が登場する。また 六郎殿 は刈安尾にあったが 国衆に城を焼かれ神照寺へ逃れ やがて浅見に保護され小野江へと移っている。
この 六郎殿 は大永四年(1524)三月に勝楽寺へ禁制を発した 高延 であろう。

斯くして 大原五郎 が登場するが まず大原氏というのは京極氏の一族で江濃国境の大原庄を治めた一族とされる。
かつて文明年間に大原政重が治めるところであったが 政重は文明十四年(1482)に足利義尚の上意に背き大原庄を没収されている。そうした逐電した政重の闕所大原庄は 竹熊 なる人物に与えられ 彼が成人するまでの間 その進退は一族の細川治部少輔政誠 細川藤孝の先祖 が預かるところとなった。湯川治久 中世後期の地域と在地領主 第二部第四章
政重は文明十六年(1484)に一旦復帰したそうだが 上坂氏や石田氏といった京極被官の連署による観音寺安堵状 大原観音寺文書 を見れば以後大原庄は京極氏が支配していたと思われる。すなわち この竹熊は京極一族の人間である可能性を見出して 更に竹熊が 大原五郎 五郎殿 と呼ばれる高慶の可能性を示したのが湯川治久氏である。湯浅

東浅井郡志 大原政重が早世したため高清が高慶に家督を継がせたとあるが 政重は早逝では無く義尚によって没収させられたので 誤りと言えるかもしれない。また同郡志は系図の記述を元に 五郎は天正九年(1581)に七十八歳の高齢で卒去したため 永正元年(1504)の生まれとするが 湯浅治久氏は確実な証拠とはみなしがたいとしている。湯川 第二部第四章注 41

さて 親孝日記 には大永元年(1521)八月二十九日条に 小原殿御代始之御礼 とある。続いて 同名岩山四郎殿奉之 ともあるが 岩山氏は後に小谷城での饗応に 岩山民部少輔 が列席しており 京極氏の関係者と思われる。依って六角定頼弟の 小原次郎 ではなく 東浅井郡志 が指摘するように 大原五郎 の初見となるのではないか。

大永五年の戦い

この当時六郎 高延 は浅見に保護されていたが 国人の浅井亮政は浅見の専横を嫌ったとされ 小谷に城を築いた後に上坂氏と和睦し 更に尾張に落ち延びていた高清を奉じた。
これが大永五年(1525)のことで 六角定頼に依る小谷城の戦いへと繋がるわけであるが 亮政は六月十九日に 美濃の? 斎藤氏へ 五郎殿様御登城候 と認めており 大永三年(1523)に近江を追われた 五郎 は同年に父と共に帰国したらしいことが見える。
結局この戦いは朝倉太郎左衛門の加勢を得た六角定頼が九月はじめに勝利し 亮政は逃亡したとされ上坂は定頼に降参した。そして 二水記 が曰く 京極中書二家悉以令没落 とあるようで 二家 の捉え方に依るが高清と六郎が没落したと考えられている。五郎がどのようになったのか判然としないが 湯浅氏は 五郎 高慶 がこれに伴い江北における影響力を一時的に回復したと述べる。
そうなると五郎は大永五年(1525)の戦いの中で六角方に転じたか 戦後の交渉の中で六角方へ降ったか その何れかであろう。

大永六年・五郎の動向

大永六年(1526)七月には京極家の奉行人奉書が発給されており 東浅井郡志は高清が帰国したと説くが 湯浅氏の説に従えば 五郎 の指示を受けた奉書であるのかもしれない。
この年は 五郎 の活動が窺える数少ない年で 五郎が反銭などを賦課したことが 大原観音寺文書 に見え 湯浅氏は 対浅井のための費用確保と当知行の具体化 と説く。
この中で十一月十八日に明確に 大原之五郎殿様 と示されてる。また同月十五日には 河内へ五郎殿様へノ指出帳也 という断簡もあり この大永六年に 大原五郎 河内 を根拠に活動していたことが窺える。
五郎が 河内 の何処を本拠地としたか曖昧であるが 中井均氏は 八講師城 が該当する可能性を示している。戦国期城館と西国
最近八講師城では発掘調査が進み米原市は礎石建物が検出されたと発表 中井氏の説は近く立証されそうである。

高慶の登場

大永七年(1527)に管領細川高國の尽力によって南北の和 つまり定頼と亮政 高清の和睦が実現。亮政と高清は帰国を果たす。
しかし翌享禄元年(1528)に和は破られ 八月に内保河原で五郎と六郎高延は衝突。東浅井郡志 は上坂信光が五郎を擁立し挙兵したとする。
この戦いで多賀出雲守後裔で高清方の多賀四郎右衛門政忠 浅見新右衛門などが討死するも 五郎等は敗走したと 東浅井郡志 は述べる。
討死した浅見新右衛門について 浅見東陽宗春甲冑肖像 幻雲文集 なる像讃が存在するが 讃文に依るところ新右衛門は諱を 知忠 といい 上坂氏に反旗を翻した浅見対馬守の弟だともある。興味深いのは 佐々木源氏六郎高延 与族弟五郎 数年閱墻 とある点だ。ここから当時の六郎が高延であることがわかると同時に 五郎が高延の 族弟 であることが理解出来る。閱墻 とは 兄弟 けいてい かき に鬩 せめ という兄弟間の諍いを示す故事で これは大永三年(1523)以来の因縁を指すのだろう。

さて同年九月十一日 若宮藤右衛門へ 高慶 が感状を発給している。これは内保河原で 手之衆 を失い自身も疵を負った若宮へ宛てたものであるが その中で 然處 不慮失利之儀 無念至極候 としており この 高慶 は内保河原で敗北した人物 つまり五郎=大原之五郎殿様であることが理解出来よう。
高慶は享禄三年(1530)十二月に大原観音寺に対して 正月十八日の節会に関する沙汰状を発給しているが 内保河原でめぼしい戦果を上げることが出来なかった五郎高慶は再び河内へ退いたのだろう。逆に言えば北郡への返り咲きが達せられなかっただけで その敗北によって自身の足下が揺らぐことはなかった。

享禄四年(1531)閏五月には 長澤関 に関して若宮藤右衛門へ書状を発給している。その少し前の四月には箕浦で六角定頼が浅井亮政を打ち破ったとされる。箕浦の地は高慶の河内にほど近く この時点で既に高慶と六角定頼の間に何かしらの関係があったようにも感じられ そもそも内保河原の戦いも背後に定頼の姿もあった可能性もあろうか。

天文初頭の情勢

状況は目まぐるしいもので 天文二年(1533)正月には京極家の根本被官今井左衛門尉が自害した。これは六角に通じた廉で京極殿 浅井亮政に死へと追いやられたらしい。
今井は家中の若宮藤右衛門からわかるように当初五郎高慶方にあったが 先の箕浦合戦の際には高清 六郎高延 浅井方に与していたとされる。その敗北によって六角方へ靡いたのを あやふやな身の振り方を咎められたのだろう。
または高清 浅井方から高慶 定頼方へ牽制の意味合いもあっただろうか。

和睦、五郎の出雲下向

今井を誅したことが奏功したのか 六角定頼と京極高清 六郎高延 浅井亮政 が再び和睦し 浅井亮政が観音寺へ出頭したのは同年春のことである。
注目すべきは この和睦に際して 六郎殿御舎兄 は出雲へ下向したという風聞が流れた点だ。羽賀寺年中行事 福井県史

出雲国と尼子氏

出雲は元来京極氏が守護する国であり 前時代に高清と対立した京極政経親子が根拠とした国でもあった。永正四年(1507)に材宗が敗死したが その遺児吉童子は祖父 政経 宗済 に保護されていたようで 翌年死の床についた政経は吉童子に京極家の惣領職と出雲隠岐飛騨の守護職等を譲り渡し さらにその後見を一族の有力者尼子民部少輔 経久 重臣多賀伊豆守へ託している。
その三年後には吉童子の母で材宗の後家が出雲へ下向し 尼子経久は守護代として吉童子の母を 御屋形 として奉る立場にあったが経久は永正十五年(1518)八月までに京極家中から 同族近江尼子氏と同じ将軍直臣の外様衆へと転じ さらに自らが出雲国の守護へと補任されている。
この時点で出雲国における京極守護権力は消滅したと考えられているが 西島太郎氏は永正十七年(1520)に経久が 屋形銭 を徴収している点に着目し この時点に於ける京極の存在を示唆している。西島太郎 室町幕府将軍直臣と格式 出雲尼子氏の守護職継承過程

塩冶興久の乱

つまり五郎高慶が出雲へ下向した旨は単に 風聞 と片付けるのでは無く ある程度の下地があったと見ることも重要ではないか。
なお当時出雲では経久と次男塩冶興久の内訌 塩冶興久の乱 の最中であり 五郎高慶が出雲へ下向したところで 経久が高慶の為に出来ることがあったとは到底思えない。
その一方で塩冶興久の乱では三沢氏や多賀氏といった有力国人 ましてや経久の家格が上昇するまでは近しい立場にあった彼らも経久に背いている。結局経久の武力が国人たちを凌駕したが それでも経久を襲った危機感は想像に容易い。
そうしたところで主筋である京極家の五郎が下向することは 改めて経久の権力の根源を確認する上で有用であったとも考えられる。
また当時の六角定頼が足利義晴を推戴する立場にあったことを考えると 義晴 定頼の 介入 の線もあるか。
ただし高慶が出雲へ下向したことを裏付ける史料は見られない。
同年の十一月には 金剛輪寺下倉米銭下用帳 五郎殿様 が登場しており 五郎が出雲へ下向するという風聞は所詮風聞に過ぎなかったか この頃には帰国していたのだろう。

金剛輪寺下倉米銭下用帳に見る高慶(1)

金剛輪寺下倉米銭下用帳 愛荘町教育委員会 は湖東三山 金剛輪寺の算用状である。
その中で天文二年(1533)の十一月項に高慶を示す 五郎殿様 を見ることが出来る。
羅列すると 百文 五郎殿様へ樽御肴ノ代 六十文 同そう者への肴ノ代 四十八文 同時五郎殿様御たいめんおそく候て日暮雨ふり 年行事 渡出候間路銭昼日中雑用上[] というところだ。
この中で 五郎殿様 と金剛輪寺側が 御たいめん した日があるが その次の記述には 同二十六日 と付記されており 高慶が金剛輪寺を訪れたのは同じ頃かもしれない。

中郡と高慶

塩冶興久は天文三年(1534)八月に自害し乱は終結した。同じ頃 近江では浅井亮政が 御屋形様 御曹司様 をはじめ一族や京極家の主立った被官を小谷城に集め饗応を催している。一般的に御屋形様が高清 御曹司様が六郎高延とされている。

正月の戦い

それから暫くした頃 六郎高延と亮政は京極の重臣多賀豊後 貞隆 を攻めた。しかし彼らは当時敏満寺にあった今井家中の活躍により敗退している。
寄せ手が六郎高延と亮政であることは 島記録 所収の正月十二日付島四郞左衞門尉宛葛岡入道宗三書状にある 猶以六郎殿様浅井自身御責候間 に依る。
同日付で多賀貞隆は今井家中の今井忠兵衛 嶋四郎左衛門へ前日の戦功と合力を謝しているので 某年正月十一日に京極六郎 浅井亮政と多賀貞隆の間に軍事衝突があった と相成る。
その年次は一般的に天文四年(1535)の正月とされるが これは 長命寺結解米下用状 の同年項に定頼の北郡攻めを示す 北郡へ御陣 とあることに依る。貞隆攻撃に対しての軍事行動 との見解だ。東浅井郡志
一方で 蒲生郡志 は準備こそしたものの 定頼の北郡攻めは行われなかったとしている。

高慶の可能性

一般的に多賀貞隆の本拠地は中郡の犬上川南岸の甲良下之郷とされており すぐ北には尼子氏の本拠地である尼子郷がある。近江の尼子はこの時代の動向は定かでは無く 饗応にも見られない。一方で多賀貞隆や尼子郷から出たと思しき藤堂氏は饗応に参加していた。

ただし此の頃の多賀氏が何処にあったかは判然としない。
近年滋賀県では 山の城 ^が盛んであるし 救援に来た今井家が敏満寺にあったことを踏まえると 平地の下之郷よりも 島記録 で多賀氏の昔の城と叙述される山際の勝楽寺や かつて京極材宗が在陣した池寺 西明寺などが適しているようにも感じる。最も西明寺に城郭遺構は検出されていない。そもそも犬上川北岸の多賀大社周辺 それこそ敏満寺にあったと想定することも必要では無いか。

論に取り消し線/20240515

さて貞隆が突如として 謀叛 を起こしたことについて 東浅井郡志 では貞隆が今井家中へ宛てた書状にある 観音寺へ則申遣候 を根拠に定頼へ通じたことを理由とし 貞隆の立場への同情が述べられている。
ここでもう一つの視点を持つと 貞隆の背後に五郎高慶があった可能性 を見出したくなる。かつて多賀貞隆の前代である多賀新左衛門尉経家は政経 材宗方 反高清陣営 の代表的存在で 材宗は中郡を根拠地にして活動していた。こうした時代背景を踏まえると 手前味噌ながら荒唐無稽とは言えないだろう。

天文五年(1536)の軍備

金剛輪寺下倉米銭下用帳 によれば天文五年(1536)の八月頃に近江尼子氏が 多賀久徳城婦しん に従事している記述が見られる。
久徳は多賀大社に程近い地域であるが 北に聳える霊仙山は中郡と北郡の往来にも用いられる 霊仙越 の中郡側の出入口という地域でもある。つまり尼子氏が久徳に城を築いている様子は 北に何かしら警戒するものがあったことがわかる。それは考えるまでもなく六郎と浅井亮政であったのだろう。時に高慶が本拠とした 河内 は同山の北側に位置する地域である。
この記述から 北郡の兵が霊仙を越えて多賀貞隆を攻撃したとは言えるかもしれないが 他に立証するものが無いので戦いが天文五年(16536)に行われたとは言い難い。
また 島記録 の叙述から浅井亮政の側室は尼子氏とされるが 亮政が妻の故郷へ攻め入ったことは六郎による 踏み絵 であったのだろうか。

天文五年の高慶

金剛輪寺下倉米銭下用帳 に京極高慶が登場するのは同年十月 十二月の記録である。

[] 京極五郎殿様御力者小者 中間六人来候て会所へ御使二参候へハ日暮候間参候由申候て一宿之飯酒

この記録は十月とされている。

三斗六升 五郎殿様御中元御小者力者あまり徒然之間飛とつ可給由候間一宿飯酒
     九人分
五郎殿様御前衆上下十一人あまりに徒然二候間為□ 山被申御登山之時

この記録は十二月とされている。
何れも高慶周辺の人々の記録で 厳密に高慶が金剛輪寺を訪れたとは言い難い。
こうした部分で 愛智郡志 は当時高慶が池寺 西明寺 か当郡 愛知郡 にあったとの見解を示すが その論拠も定かでは無いし そもそも高慶の本拠地は霊仙山北側の河内である。最も河内や大原周辺でも当時の高慶の動向は掴むことは出来ず郡志を否定する材料も無い。
ただし北郡兵が霊仙を越えて中郡へ侵攻したとすると 河内を通過する必要もあると見える。勿論他の道もあるので全てでは無いが その場合では高慶は河内を失地していたとも考えられる。例えば天文二年(1533)の和睦によって失った可能性もあるだろうか。

高清・亮政の外交

この年の暮れ 高清と亮政は外交に勤しんだ。
江北記 には近衛稙家から高清 そして尼子家重臣亀井安綱から亮政宛の書状が載る。
亀井は尼子経久は備中美作方面戦線から帰国していることを認めているが 高清もしくは亮政は同年中経久へ陣中見舞いを送ったらしい。それ以前にも音信はあったのか定かでは無いし 五郎の 下向 との関わりもよくわからない。

大原高保について(序)

天文六年(1537)に六角家中に 小原 石山本願寺日記 が現れる。彼は永正十七年の船岡山合戦で高國に与した 近江守舎弟 永正十七年記 江州大将 佐々木 小原 つまり六角高頼の子息で 大原高保 とされる人物であろう。後に 小原中務大輔 天文八/1539 年五月七日 としても見られる。永正十七年時点では 次郎高保 遺文 二一○ を称しており 小原次郎 と書くこともできようか。
なぜ高頼の子息が 小原 を名乗るのかは この翌年に少し理解出来ると思うので割愛する。

天文七年(1537)・北郡御陣

天文七年に高清が卒去した後 春から夏にかけて行われた六角定頼による 北郡御陣 にて 五郎 を見ることが出来る。
まず六角方の 陣立注文 遺文 四○四 に神照寺に陣した 五郎殿 が見える。
さらに前後して高慶は今井家中へ書状 島記録所収文書 を発給しており 特に七月十日には 仍河内城普請 今少不調 と述べている。
この 河内城 は中井氏が示した 八講師城 であろうか。ただ天文五年(1536)の八月頃に久徳で普請が行わなわれていることを踏まえると この高慶書状の年次は天文五年(1536)と比定出来るようにも思える。

この北郡御陣は國友河原の合戦及び海津の戦いこそ定頼の勝利に終わったが その後の五郎と六郎がどのような関係になったのか定かでは無い。
本願寺証如の 天文日記 によれば 同年十月十六日に 佐々木六郎 佐々木五郎 の何れにも音信があり 戦後も六郎が健在であった事を知る。
また同十月十一日条には尼子の使者が江州を訪ねたようだが これは六角方であるのか 浅井方を目指したのか定かでは無い。
使者の記録から程なくして両京極との音信が始まるので 両者への使者であったのだろうか。
また十一月三日条には京極六郎方と 京極五郎方 からの返状があったと記録されている。六郎方は若宮 浅井 五郎方は大谷和泉 上坂治部丞 浅見二郎 下坂三郎 上坂式部衛である。
注目すべきは 五郎 がここで京極姓と認識されていた点で 高慶は同年までに姓を京極に変え ここで初めて 京極高慶 と言えるのではないか。そしてこの天文七年の秋を最後に五郎 高慶は姿が見えなくなる。

ところでこの年 出雲の尼子晴久は突如として東へ侵攻した。その目的を 上洛 としているが ここで一つ 北郡御陣 と連動している可能性は無いかと考えてしまう。明確な史料は皆無だが 先に述べたように 五郎はその数年前に 下向 したとの風聞もあった。定頼と五郎の北郡攻めに 尼子が合力することに不思議は無いように感じる。

五郎と大原高保について

さて天文八年(1539)七月七日 水原橘左衛門尉氏家は大原観音寺に護摩料を寄進している。
水原橘左衛門は天文六年(1537)七月に 小原内者 天文日記 として記されており ここで 東浅井郡志 が述べるように大原の権益が 小原中務大輔 =大原高保 に渡っていたことがわかる。
高保は永正 兄氏綱が存命の頃から 小原 と表現されていることから 早くより大原氏を名乗ったものと見られる。
そこにどのような縁があったのか定かでは無いが 文明年間に罰せられた大原政重が高頼を頼ったとか 京極氏に連なると見られる 竹熊 が大原を支配していることに対抗した高頼が子息に 大原姓 を名乗らせたとか 様々考えることが出来る。

竹熊=五郎説

こうして高保と大原庄に明確な接点が生まれた点を考える上で それまで大原五郎として活動してきた高慶が六角方にあったことを思い出す。
高慶が六角定頼と結ぶにあたり 何らかの 密約 があったのだろう。その何かは定かでは無いが 石山本願寺日記中の高慶は 京極 として認識されている。また前年秋を最後にして高慶の存在が消えた点は興味深く 先に見たように湯浅氏が提唱した 竹熊=五郎高慶の可能性 をもとに考えてみると 文明十四年(1482)に幼名 竹熊 であった彼は 天文七年(1538)は五十代であったものと推測される。
したがって 竹熊=五郎高慶の可能性 説からすると 高慶が天文七年(1538)を最後に姿を消すことは 中世の寿命からすれば自然であろうとも思われる。
時に五郎は 族弟五郎 として 幻雲文稿 に見ることが出来る。文脈からすると六郎高延の 族弟 となるが 湯浅氏の説から考えると 高清の族弟 とも考えられようか。
京極家での仮名 六郎 持清や政経 高清が名乗ったとされている

高慶=吉童子説

さて 坂田郡志 京極氏系図 には興味深い記述が見える。
それは織豊期から江戸時代にかけて活躍した京極高次の父 高吉について 童名吉童子歟 と付されている。これは 高慶 が後の 京極高吉 と同一であるとする近世の通説に則るもので 個人的には首肯しがたいが それでも彼が 吉童子 であるとする説は興味深い。
先に述べたように五郎は天文二年(1533)に出雲へ下向したとの風聞が流れていた。内訌によって乱れた出雲国であるが ここで尼子経久の主筋である京極氏が下向することは その権力の根源を確認する上で有用と述べた。
しかしそこには一つの条件があることを思い出した。

それは京極高清が材宗一派を打倒したことで得られたのは あくまでも 分郡 北村圭弘 北朝期 室町期の近江における京極氏権力の形成 つまり北郡 伊香 浅井 坂田 と犬上の権益のみで その他の出雲 隠岐 飛騨の守護権限は 政経から吉童子へと譲られている。
つまり五郎高慶の出雲下向するという風聞は 高慶に何らかの要素があった場合 例えて言うのであれば 出雲国に影響力を及ぼすことの出来る権限を有していた場合は その 下向 に意味を見出すことも出来よう。
斯くして五郎高慶が 永正五年(1508)に京極政経から惣領職 守護職を譲られた 京極吉童子 の成長した姿という可能性を見出すことが出来る。
この説は湯浅氏の 竹熊=高慶説 からは大きく逸脱するが 永正以降姿を消した吉童子に対し 近江に高清の後継者として国人を二分する 族弟五郎 舎兄 五郎 が登場する点は実に興味深い。
またかつて中郡を根拠に活動した政経 材宗一派の多賀氏の蹶起も その明確な理由も高慶の出自と関わるのかもしれない。
して高清が殺めた材宗の遺された子息を後継者に据えるのは 一体如何なる理由であったのだろう。やはり政経が託した 惣領職 の効力は絶大だったのであろうか。
少なくとも吉童子は父材宗が亡くなる永正五年(1508)までには生まれている。一方で五郎は大永三年(1523)時点で 大原五郎 として活動していたらしいことが窺え 更に大永元年(1521)が初見と思われるため同年までには元服していたと思われる。単純に数え年を考慮せず当時の標準的な元服年齢である十四を差し引くと 永正四年(1507)が弾き出される。そこからしても吉童子が大原五郎高慶となることに違和感は無い。
史跡清滝寺京極家墓所保存活用計画 2022,米原市教育委員会 では京極一族の系図にて最新研究として 高吉 を材宗子息として比定している。

一方で六郎高延 高広の父である高清もまた将軍義材から 惣領職 を認められ 分郡 の権益を勝ち取っていた。
ここに両者の間に譲れない 負けられない戦いが始まったのだろう。
こうして筆者自身湯川 竹熊=高慶説から吉童子=高慶説に傾きながらも 惣領職 を持つ吉童子が何故 大原五郎 となったのか と課題 否定的な側面も存在する点も留意しておきたい。

再びの和睦・婚姻

天文九年(1540)になると再び 羽賀寺年中行事 に京極氏が見られる。

天文九年元光之御娘十七歳六角頼定猶子トシテ 七月十七日二南郡へ御出アリ 其後北郡京極殿ノ御上へニ成被申了 南北弥和睦也

若狭の武田元光 妻は細川澄元の娘^ の十七歳になる娘が 六角定頼の猶子として 南郡 つまり観音寺へ赴き その後北郡の 京極殿 へ嫁ぎ これにより南北は再び和睦した とある。
一見六角と京極 南北 がその婚姻によって和睦したとあるのであれば これは定頼と敵対する京極氏つまり六郎高広 もしくはその子息 へ嫁いだことと判断されるが 近年村井佑樹氏 六角定頼 や西島太郎氏 室町幕府将軍直臣と格式 六角氏から見た戦国期畿内政治史 は武田氏=定頼養女を娶ったのは高慶であるとしている。最も村井祐樹氏の 六角定頼 では 高延を五郎 高慶を六郎と誤りが見えるのであるが。
年齢的に考えると高慶なら三十代~四十代となるだろうか。六郎高広の年齢は定かでは無いが 凡そ同年代と仮定すると元光娘とは年の差十五程度だろうか。あまり不自然ではない年の差となろう。

ただし高慶であれば天文九年(1540)に和睦が為される意味がよくわからない。確かに天文七年(1538)以降 高慶の動向を探ることは出来ないが 史料に見えない中で六角定頼との関係が破綻していたのだろうか。やや理解に困る部分である。

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細川澄元は細川政元の養子で 同じ養子之細川高國に追われた人物。六角定頼は娘を嫡男晴元へ嫁がせている/20240518

自尊上人の出雲下向

この年の出来事としては竹生島の自尊上人が勧進のために出雲へ下っている   東浅井郡志には天文九年(1540)の尼子家臣団奉加帳が載るが 関連する 竹生島宝蔵寺文書 東浅井郡志 出雲尼子資料集上巻 によれば天文十一年(1542)の春頃まで 戦乱によって出雲逗留が続いたらしい。

亮政没後の情勢

これまで六郎高広と浅井亮政は二者で一体の立場であった。崩れたのは天文十年(1541)のことで 両者の関係が破綻したまま亮政は天文十一年(1542)正月にこの世を去った。
そのようにして十年に及ぶ 京極六郎の乱 ^が勃発し 後継者浅井久政と六角定頼は対処に苦慮することとなる。
天文十三年(1543)には細川晴元が土岐次郎 頼充 に六郎退治を命じていると 武家事紀 にはあるが この頃土岐頼充は尾張へ落ちており退治するほどの力も無い。また浅井久政は天文十五年(1546)頃に将軍家より栄典 白傘袋 毛氈鞍覆 が与えられたが 西島 六郎たち 北郡牢人 には効力は無く 結局天文十九年(1550)までに久政も六郎方へ降っている。

なお天文十九年(1550)頃まで これら北郡の争乱に中郡は対して関係しなかったらしく 中郡の雄多賀貞隆は六角の将として動いている。

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リンクの URL 設置忘れに気づき設置/20240518

消えた京極五郎

そして 京極五郎 の消息も途絶えている。

東浅井郡志 は天文十三年(1543)正月廿四日に上坂治部丞定信が大原観音寺へ禁制を発給している点から ここに高広と高慶の盟約を提示している。
これは上坂が高慶の臣であった点 天文日記にも出ている 大原は六角家の大原高保の 進退する所 であった点に依るそうだが 何よりもその後の定信の動向だけでなく五郎高慶本人の動向が定かでは無い為に確定し難い。
大原観音寺文書 には天文十七年(1546)の節会に関わる水原氏家書状があるため 同年までに六角 大原高保は権益を取り戻していたのだろうか。
最も 東浅井郡志 は定信の書状一件のみで六郎方への与同を示すが そもそも五郎も 大原家 であった点からすれば 郡志の言う定信が立場を変えて観音寺へ禁制を発給したことは今一つ説明が成り立たないようにも思われる。

なお中井氏は天文十三年(1543)の成菩提院宛堀元積書状に 兎角申族雖有之措置可蒙仰候 とある点に着目し 高広か高慶か判然としないながらも上位者の存在が示唆されているとしている。中井
地域的に高慶の可能性もあるが その消息が定かでは無い現状では六郎高広の可能性もあるだろうか。

六郎・中郡攻め

天文十九年(1550)になると浅井久政も六郎方へ降っているが この年の十一月に六郎は中郡へ兵を繰り出した。これはすぐに鎮圧されたらしいが 多賀から四十九院にかけて放火したようだ。厳助往年記
天文二十年(1551)の郷野文書には 長岡鏡新田の公方米について 先年於河内以被仰付筋目 とあり この時期に 河内 に位の高い人物があったことが示唆されている。
この記述に対応するのは前年十一月の郷伊豆入道宛浅井左兵衛尉久政書状で 先年被成御成敗旨 御屋形様江得御意候所 とある。
これこそ京極六郎が河内を根拠地としていたことを示唆するものだ。霊仙山 米原市教育委員会 2017 中井均氏はこうした六郎の拠点を 男鬼入谷城 である可能性を示す。

かつて敵対した五郎が本拠としていた地を 六郎が支配したのである。
それは五郎が河内の地を去っていたことをも示す。
五郎が北郡に焦点を合わせていたのとは対照的に 六郎は中郡を視点に定めていた。
また天文二十年(1551)五月には浅井氏の娘 久政妹と思われる 濃州 へ嫁ぐ。十一月の多賀 四十九院攻めについて 厳助往年記 北郡京極六郎従濃州被差出云々 とも記しており この時期の六郎方の背後には美濃の斎藤氏があったことが窺える。かつて京極高清は支援者斎藤妙純の娘を娶っており 六郎も美濃に縁ある人物と言える。

こうした六郎たちの攻勢に対して定頼の跡を継いだ義賢は 天文二十一年(1552)に三好長慶と和睦し対北郡への憂いを無くした。

乱の終結

そうして南北の境目を廻り 太尾山を拠点に地頭山を狙う六角勢と 地頭山を守る六郎方で睨み合いが始まった。
更に義賢は霊仙越に中郡を攻める六郎方を警戒し 久徳口に尼子宮内少輔を配している。
義賢方は六郎方に対し粘り強く戦い ついに天文二十二年(1553)の秋頃までに地頭山は陥落。久政は十一月に観音寺へ 帰参 した。真偽の程は定かでは無いが 久政の母は六角派の尼子氏出身と 島記録 は叙述する。それはともかく久政は家督相続以来六角定頼の庇護を受けており 乱が終結に際してただ 降伏 とするのではなく 帰参 と表現したほうが実態に即しているように思う。

その後の六郎高広をはじめとして京極氏の動向は定かでは無い。
東浅井郡志 には高清の没日を探る上で 清瀧寺本堂過去帳 を示すが 高清 環山寺殿と共に天文二十二年七月二十九日に没した 建徳寺殿宗陽居士 も見える。後世の京極系図には見られぬ法名であるが 膠着状態の最中に大将が没したことで戦局が一変することもあるだろう。
実際同年の十月には 天文日記 北郡錯乱 国錯乱 との記録が見える。もちろん 錯乱 とは折からの膠着状態を指すのだろうが それから二ヶ月で終戦を迎えたことを見ると この 錯乱 が六郎高広の死によって北郡内部が自壊したと考えることも出来るかもしれない。最も 建徳寺殿宗陽居士 が誰であるのか定かでは無いし 天文七年(1538)の 北郡御陣 に関連した高島郡の戦いで浅井亮政等の行動を 北郡錯乱 遺文四〇三号 と呼ぶ例も考慮する必要がある。

上様・若上様

さて高広が健在であった頃の久政 左兵衛尉 の書状 飯福寺文書 には 上様 若上様 とあり 高広とその男子が北郡に君臨していたことを知る。
島記録 は高広の書状を掲げた後に 高弥 なる人物が居たことを注記に記している。東浅井郡志 広大弥満 の意義を有するとして 高広の子息 若上様 高弥 と示している。
最も 京極高弥 はこうした記述以外に見ることは出来ず その存在は判然としない。
現状では久政が 上様 若上様 と崇め奉る存在があり 上様は京極高広に比定され 若上様が高広の子息であろう とされている。その程度に留めるほかない。

太守尼子晴久と京極五郎

さて義賢と六郎の戦いが始まる直前の四月二日 出雲の尼子晴久が因幡 伯耆 備前 美作 備後 備中の守護に任じられた。
晴久はここに出雲 隠岐の守護職を加え八ヶ国の太守となった。

しかし西島太郎氏は 佐々木文書 に残る補任状が六ヶ国のみで 出雲 隠岐の守護職補任状が残っていないことに着目。さらに晴久が二ヶ国の守護職は 割分 によるものであるという認識を持っていた点を示し 二ヶ国の補任状は 両国の進退についての権限を持つ者=京極氏 が所持していたとの可能性を説く。西島
先に政経が吉童子へ惣領職と二ヶ国の守護職を譲渡していたことを踏まえると 晴久が配慮したのは吉童子やその関係者であろうと推測するのは容易だ。

ところで晴久は天文二十四年から弘治年間の某年三月に 宮内少輔殿 近江南北の情勢を聞いた旨を認め 公方様の上洛について尋ねている。この宮内少輔に該当するのは同族の尼子宮内少輔賢誉であろうとされている。長谷川博史 戦国大名尼子氏の研究
どうやらこの頃の晴久は同族の近江尼子氏と音信があり 尼子賢誉を通じて近江の情勢を知ったようである。

米原綱寛への音信

それから数年後の永禄五年(1562)三月十三日 久法軒多賀常陸入道 なる人物は 米原平内兵衛 へ宛てて 十日に但馬守 後藤賢豊 から発給された坂田郡小野庄統治の指示条書 御屋形十六条 を書写し送付している。遺文八六〇 ^
この 米原平内兵衛 は出雲尼子家臣として知られる 米原綱寛 であり 太守尼子晴久の没後でも近江と出雲に音信があったことが窺える。

御屋形被仰出之条々書写遣申候 拝見之上可有支配事二候 猶又橋板等手軽キ様ニ早速之手立 了簡尤ニ候

常陸入道はこのように述べているが 出雲に住む米原に小野庄の支配は不可能である。恐らく綱寛に近江国内の所領があったか 彼の近江に残った一族が支配を担っていたか と考えることが出来よう。

^:加筆項設置/20240511

京極五郎の消息

こうしたところで吉童子の可能性が考えられる京極五郎の消息が定かでは無いのが惜しい。
ただ 蜷川家文書之三 大日本古文書 にある 伊勢貞孝幷被官等知行目録 にて 近衛万里小路二半町地子銭事 当知行 京極五郎殿違乱 と見ることが出来る。
この史料は天文十八年(1549)から二十一年(1552)三月までの間のものと推測されており 更に他の地名には 多羅尾 綱知 弓介 三好 今村 松永甚介 など 三好長慶を支える面々がそれぞれ違乱に及んだことが記録されている。
これらを踏まえると どうやら天文十八年(1549)から二十一年(1552)にかけて 京極五郎 は三好と行動を共にしていた可能性 またその身が京都に在った可能性が浮上する。
明確な時期は不明だが 天文二十一年(1552)の定頼が没して間もなくの正月二十八日に三好と六角の協力で将軍義藤と細川聡明丸が入洛しており 六角方にあった京極五郎が三好勢と行動を共にすることが可能な時期というのは まさに将軍義藤の入洛以降なのであろう。
むしろ義藤の入洛に従ったと考えるのが自然であるが 記録に見ることは出来ない。

ところで義藤の姉妹は若狭武田義統に嫁いでいる。義統は娘が 京極氏 に嫁いだ元光の孫にあたり 京極氏 から見ると義理の甥だ。五郎に嫁いだとする説に則れば 彼が義藤に従うのは若狭武田氏との縁によるのかもしれない。

弘治以降の京極氏

弘治年間になると鰐淵寺の座次を廻る相論が発生。これは尼子家中で収拾することも出来ず 幕府朝廷を巻き込んだ騒動へ発展し ここに六角義賢も介入している。
これは相論に巻き込まれた一方が延暦寺方であったことに依るもので 尼子氏と近江の因縁ではあるが そこに彼らの出自は関係の無いように思われる。

京極高佳の登場

さて永禄二年(1559)の九月十九日 荒尾民部丞は 高佳 なる人物からの書状を受け取っている。東浅井郡志 百々文書
この 高佳 は具体的に定かでは無いものの その文中に 高広御進退言語道断 とあることから 京極高広に関連する人物であろうと推測される。
そうしたところで彼は 六角三好筑前守取立可申段 とて 六角 承禎 義賢 と三好長慶によって取り立てられたことを示唆している。
この人物は二十七日に總持寺へ禁制を発給しているが ここで野村伯耆守と共に見える 大津三郎左衛門 かつて六郎方にあった人物である。野村は天文七年(1538)七月の北郡御陣の際に 定頼へ鎌刃攻めの戦果を報告 遺文 四〇二 島記録所収文書 した五郎方の古参である。

京極高佳を考える

京極氏と三好長慶の関わりであれば 天文十九年(1550)頃に暴れまわった六郎高広の行動は三好方との連動を想起させる部分があるし 先に見たように三好方と共に京都で違乱を起こした 京極五郎 も存在した。
かつて六角定頼が五郎高慶を擁したように 承禎が京極高佳を擁することは不思議にも思えない。近年村井祐樹氏や西島太郎氏は 若狭武田氏の娘が定頼の養女として嫁いだ先を京極高慶としているが 仮に高佳が定頼養女と高慶の間に生まれた子であると 承禎の義理の甥であると同時に義弼の従兄弟となり 六角が高佳を擁することに不自然さは無くなるだろう。

書状を見る限り 五郎方古参の野村伯耆守と共にかつて六郎方にあった 大津三郎左衛門 を従えている 京極高佳 両勢力を統一した存在と言える。
また總持寺へ禁制を発給している点は 何らかの軍事行動を示唆するようにも思われるが 他の禁制が見られないため断定は控えたい。

諱の読みだけ見れば 高佳 タカヨシ と読め 高慶 や後の系図に見られる京極高次きょうだいの父 京極高吉 とも同じ読みになる。
しかし大永年間から活動し最低でも永正初頭(~1507)に生まれていたと思われる京極高慶と 永禄六年(1563)に生まれたとされる京極高次は凡そ親子とは思えぬ年齢差であり 材宗氏が指摘するように高慶が 高吉 であるとの通説には今一つ首肯しかねる。

京極高佳 がわからないので ここで京極家中興の祖である高次から考えてみたい。
まず 寛永諸家系図伝 寛政重脩諸家譜 によれば 高次きょうだいの母親 京極マリアは浅井久政の娘であるらしい。これは 渓心院文 さいしょう様の御ふくろさまハ あさい殿御きやうたひゆへ 御いとこちにて候 高次の母が浅井長政のきょうだいで高次と妻常高院は いとこ になる という記述があることに依る。常高院の知行のゆくえ 大野正義
すなわち京極高次の生年とされる永禄六年(1563)までに 浅井久政の娘を娶り浅井長政の義兄弟となった京極氏が存在したことと相成る。
現状 永禄初頭に存在が確認される京極氏は 京極高佳 のみであり 彼こそが後世 京極高吉 とされる人物ではないだろうか。織田信重 が系図上で 信澄 とされた点と似たような具合であろう。

また高次の妹龍子は若狭守護の血を引く武田元明に嫁いだ。高佳が武田元光娘 定頼猶子と高慶の間に出来た子である場合 龍子から見た元明は 父方祖母の兄弟=大おじの孫=再いとこ となるだろう。

佐々木治部大輔・京極香集斎

京極高佳は六角 三好に擁立されたが それから間もなく六角氏は義弼の婚姻を廻り内訌が勃発。その間に浅井氏では久政の子長政 賢政 が家督を継ぎ 以降数年かけて六角を圧迫。織田信長と足利義昭の上洛作戦によって六角家は崩壊し 承禎一家は南郡を追われる。
その間の京極氏の動向は定かでは無い。

時に長政は永禄十年(1567)までに犬上川から南に目賀田までを手中に収めていた。同年までの争乱に京極氏がどの程度介在したのか定かでは無く 現代までも浅井長政一代の武功とされている。
だが北郡 伊香 浅井 坂田 に加え中郡の犬上郡を加えた勢力圏というのは かつての京極氏分郡守護圏域と概ね一致している。しかしこれまでに浅井長政の伸長と京極氏を紐付けた論考に接したことは無い。^

一方 永禄六年諸役人附 光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚 黒嶋敏 足利義昭の政権構想 に御供衆 御伴衆 として 佐々木治部大輔高成 京極弟 が見える。これは義輝期の永禄六年(1563)時に 御供 にあったことを示すものだ。
黒嶋敏氏はこの番帳に記される人物表記のうち 実名部分は後世の付記との可能性を示しており 足利義昭の政権構想 中世権力と列島 佐々木治部大輔 京極弟 高成 とするのは少し踏み留まった方が良いかも知れない。
また後年吉田兼見は 京極治部大輔入道右法名左香集齋 兼見卿記 慶長二年(1597)十一月二日 と記録していることから 義輝に仕えた 佐々木治部大輔 が京極氏であることは間違い無いのかもしれない。

参考程度ではあるが 朝倉始末記 には義昭の御供として 京極近江守 佐々木治部少輔高成 の名を見ることが出来る。高成はともかく京極近江守なる人物は史料的に定かでは無いし 何より永禄十年(1567)二月以後に一乗谷で作成されたと思しき同覚の後半部分 義昭に付き従った人物から彼の政権構想に含まれる諸大名に京極氏や 佐々木治部大輔 を見ることは出来ず 現状史料的な裏付けに欠ける。

ところでこの人物が 京極弟 とある点は興味深い。寛政重脩諸家譜 では 高吉 の叔父に当たる人物で 刑部少輔 香集軒 という人物を載せるが 彼の兄 高秀 は史料的に見られない人物で鵜呑みには出来ない。坂田郡志 の京極家系図では高延の子息で高広の弟としている。

東浅井郡志 では高広に 高弥 島記録叙述 なる子息があったとして 高成はその弟であるとしている。

さてこの人物については昨年五十嵐正也氏が論考 京極香集斎考―織豊期京極氏一門に関する一考察― 淡海文化財論叢 15 を発表している。
五十嵐氏に依れば寛政譜をはじめとする系図では 高次の祖父もしくは高祖父何れかの兄弟として 近世後期に成立した二次史料 京極家物語書留 五十嵐 には高次の伯父としているようだ。
五十嵐氏自身は義昭在職時の京極家当主高吉の弟であるという見解を示している。香集斎の読みを きょうしゅうさい 出家後の諱が 祖白 と解明したのもこの論考である。
個人的にも高広の妻子が不明である現状では最も首肯出来る説だ。
また香集斎と細川藤孝は昵懇であったと五十嵐氏は示すが 藤孝の先祖は大原氏であり 香集斎が高慶の息であっても無くても遠い親戚となる。高慶の息であった場合は 高慶がかつて大原氏を称していた点から 少しは 近しい と言えるのではないか。
更に藤孝の妹は武田元光の子息へ嫁いだとされ 木下 仮に香集斎が 京極氏 と元光娘の間に生まれたとすると縁戚関係となる。

^
浅井長政の伸長について加筆。参考文献として 北朝記 室町期の近江における京極氏権力の形成 北村圭弘 滋賀県文化財保護協会紀要 31.2018 /20240515
東浅井郡志に見える京極殿息・玉英

ところで 東浅井郡志 集堯の縷氷集 を引用して永禄期と思しき項に見える 諱玉英 京極殿息 更に 武田猶子 としている。先に 高成 が高広の子息で 高弥 の弟との 東浅井郡志 の説を載せたが 同志は玉英はその弟だとする。論拠は定かでは無い。
但し 大日本仏教全書 144 縷氷集 には 玉英なる人物が京極出身で武田氏の猶子であるとは記されておらず 現状では確認が出来ない。史料編纂所に謄写 ボーンデジタルが所蔵されているようなので 何れ暇を見つけ調査に赴きたい。
高成にしろ玉英にしろ 京極高広の子息説は魅力的であるが 現状で高広の妻子に纏わる史料に欠けるため如何ともしがたい。
仮に 縷氷集 に見える 玉英 京極殿息 であった場合は 玉英は京極五郎高慶の息と言えるかもしれない。そうでなくとも若狭武田の猶子となる条件を満たすのは 武田元光の娘を母に持つ人間であることは確かであろう

京極殿(同浅井備前)

永禄十三年(1570) 信長は諸国へ上洛を命じたが その中に 京極殿 同浅井備前 と見ることが出来る。二条宴乗記
この 京極殿 は紛れもなく後の京極高次の父 系図上で 京極高吉 とされ 史料では 京極高佳 の名が残る人物であろうと推測される。
近年ではこの表現が浅井長政を深く傷つけ これが彼の謀叛の原因であるとの説が根強い。だがこれは実態でしかなく そこから長政の感情を推し量るのは難しいように思う。

織豊期の京極氏

そうして元亀争乱が勃発し浅井長政は滅びたが その後の京極氏は定かでは無い。唯一香集斎の動向が掴めるぐらいだ。五十嵐

寛政譜・京極家譜に見る動向

参考に寛政譜を見てみよう。
高吉 は元亀元年(1570)の 江濃越一和 まで義昭に供奉し 和睦後に上平寺へ帰還を果たす。ただし良質な史料にて京極氏が義昭に従っていたとは認められず あくまでも参考程度で後世京極家の認識である事を留意せねばならぬ。
その後の動静は叙述されていないが 嫡子 高次 を岐阜へ人質に出したという。その後蟄居すると共に剃髪し 道安 と称し天正九年(1581)正月二十五日に没した。
高次 は元亀四年(1573)の槇島城攻めに参陣し その功で奥嶋に五千石 天正八年(1580)の伊賀攻めでは蒲生や多賀 若州衆と活躍した。若州衆は若狭の兵であり そこには妹婿の武田元明の姿もあっただろうか。

寛政譜の他に 讃岐丸亀京極家譜 史料編纂所 DB も参考となる。
たとえば十一才で迎えた初陣の後に宛がわれた 奥嶋 大野太和守 闕所 であったとの記述が見られる。奥島は現在長命寺と連なる山であるが 昔は内湖に浮かぶ島であった。大野大和守 なる人物は定かでは無いが 長命寺界隈で 大和守 となれば六角家の重臣家の一族 池田大和守 を思い出す。
その後 天正六年(1578)の安土相撲に配下の侍源五が参加。また天正九年(1581)の爆竹には奉行として参加していたようだ。

一方 高吉 が剃髪し 道安 と称した旨は見られない。東浅井郡志 清流雑記 の伝説として 清瀧寺万徳坊へ隠れると高吉へ改名 後に剃髪して道安と号したと説明する。清瀧寺は京極家の菩提寺であるが 某年十月に万徳坊へ宛てた 道安 の書状が伝わる。内容は同坊へ逗留した際の馳走への謝意を伝えるものであるが 文末を 委曲長政可申候 と結ぶのは興味深い。一見すると浅井長政を指すように見え 長政が健在である元亀以前に出家していたように感じられる。しかしそれならば 委曲浅井備前守 と記すのでは無いかと考えると少々文面に疑問を覚える。坂田郡志

また 高吉 の出自として母を六角氏綱の娘としている。先に見た六角定頼の猶子として京極氏へ嫁いだ武田元光の娘を想起させる。

信長公記に見る高次

さて寛政譜の高次の項によれば高次は幼名 小法師 仮名を 小兵衛 と称したようだ。
京極小法師 信長 にも見ることが出来るが 内容は 寛政譜 京極家譜 の槇島城攻め 伊賀攻めと類似している。高吉 の前代となる 高秀 利角斎高峯 京極家譜 に見ることが出来るが これらの名前は軍記 浅井三代記 にも出てくる。家譜を編纂する上で 信長公記 浅井三代記 のような二次史料 軍記 を参照したと思われる。
そうしたところでいくと 高吉 の母を 氏綱 の娘とする記述も 江戸時代に氏綱の 子息 を称する書物の影響を受けているようにも感じる部分がある

さて浅井長政が風前の灯火であった元亀四年(1573)七月十六日に行われた槇島城攻めで 京極小法師 は初陣を迎えたことと相成る。長岡親子 藤孝 忠興 蒲生親子と異なり 高次は一人のみで 父親は参戦していなかったようだ。この時点で父親が何処に居たのか定かでは無い。

天正六年(1578)八月の安土相撲には名前こそないが 京極内 江南源五 が参戦している。高次自体がどうであったのかは定かでは無い。
一方で天正八年(1580)の伊賀攻めや 天正九年(1581)正月の爆竹やには 京極小法師 として名前が見られる。
この頃には 高次 も十八才を越えて 既に元服して仮名 小兵衛 を名乗って居た時期だろうと推測できる。これは 信長公記 の著者太田牛一の認識に依るもので 織田信重も 津田七兵衛 とて津田姓という認識を持っていた。高次を幼名 小法師 と記したのも 似たような認識に依るのではないか。

宣教師記録に見る京極父とその死

さて天正九年(1581) 彼ら京極一家の動静を宣教師ガスパル コエリョの記録から見ることが出来る。耶蘇会の日本年報第 1 拓文堂 十六 七世紀イエズス会日本報告集第 3 期 第 6 同朋舎出版 松田毅一 監訳 東光博英訳

此の頃の宣教師の布教の手応えの一例として Chiocundono キョクド→京極殿 なる嘗ての近江の国主を挙げた。
この貴人は国こそ失ったものの 信長に庇護されたようで 安土城下では最大規模の居館を有していたようだ。
京極殿は夫人と共に説教を聞いたが 殊の外 デウスの教え を気に入り四十日続けて説教を受けると 四十日目には夫婦 そして幼い娘で洗礼を受けた。
京極夫妻は洗礼の後に 信長に仕える幼い十一 二歳の子息が帰った際に洗礼を受けさせようとしたが それから暫くして京極殿は御許へ召された。彼の子息と家臣たちは その死を 神罰 仏罰 と畏れた。

京極氏が近江の国主 更に同時代 を失った人物が居たのかという二点について少々疑問もあるが この時代に信長に庇護された京極氏とは京極小兵衛 小法師 の一家以外に見当たらず 更に一家が後々宣教師の報告にて 先の報告書の中でしばしば言及した近江の国の主の奥方 十六 七世紀イエズス会日本報告集 第 1 期 第 5 1606,1607 と見られることからしても これは紛れもなく小兵衛一家纏わる記述であろう。
なお 幼い十一 二歳の子息 と述べるが 当時小兵衛は十八 弟の長寿 生双 は九歳である。だが後年生双も洗礼を受けた為に この子息は当時長寿を名乗っていた当時の生双なのだろう。ガスパル コエリョには二歳大きく見えたことも考えられる。

彼らの洗礼名は伝わっており 道安の妻浅井氏は マリア 次男生双は ジョアン 朽木家へ嫁いだ四女は マグダレナ である。洗礼を受けた幼い娘はマグダレナか洗礼したか定かでは無い三女の氏家室であろうか。長女の龍子が洗礼を受けていないのは この頃既に若狭の武田元明へ嫁いでいたことに依るのだろうか。
また洗礼名こそ定かでは無いが 後年高次も夫婦揃って洗礼を受けたとの記述もある。

しかし父の洗礼名はわからない。
それどころか父は四十日の説教から間もなく亡くなったとある。京極家譜 寛政譜は正月二十五日に没したとしているから 天正八年(1580)の末から年を跨いでの説教だったのだろうか。

時に宣教師は父の死に関して子息や家臣の 神罰 仏罰 と畏れたと述べる。
子息は小兵衛や長寿であろう。確かにきょうだいの父は剃髪し 道安 と号したと伝わる。一般的にこの行為は仏門に帰依する意味を持つ。そのような彼が 異国の教え 洗礼 を受けることは前代未聞のことであろう。また剃髪が事実で無いにしても 当時の京極家では仏教への厚い信仰があったと思われる。父の死が惜しまれるどころか と畏れられることは何ら不思議でもない。その死に対する反応は宣教師の感想が多少なりとも含まれていようが 京極一家や仏教関係者 城下の民の感想と見ても良さそうである。

さて寛政譜や京極家譜は 高吉 の没年齢七十八とするが これは彼を五郎高慶と同一と捉えたことによるのだろう。
仮に彼が 京極氏 と武田元光の娘の間に生まれた子であったならば 天文九年(1540)以降に生まれたこととなる。永禄二年(1559)には成人していたようだから天文十年(1541)から天文十四年(1545)に生まれたと推測され 没年齢は四十以下であろうと思われる。

京極晴広?

天正九年(1581)とされる朝鮮の史料には 銅印を賜った礼として 京極使 源晴広銅印之賜 とある。この人物に関してか 日本国京城住京極江岐雲三州太守佐々木氏大膳大夫源公 なる記述も見える。大日本史料 続善隣国実記 古文書纂
総合すると足利義昭の臣で 京極晴広 大膳大夫 なる人物が天正年間に存在したことになるが これ以外には見られない。

天正年間の京極氏は三州太守たり得ず 三州の太守で 大膳大夫 であれば 室町時代半ばに活躍した京極持清や吉童子の祖父政経が思い浮かぶ。
晴広 なる諱を考えると足利義晴と京極高広が思い浮かび 久政が述べる 若上様 の後年の姿か と思ってしまうが 高広は義晴を庇護する六角定頼を敵視しており接点は皆無と見える。
ただ香集斎が細川藤孝等幕臣と親しくしていたり 義昭に京極氏の縁戚にあたる六角氏や若狭武田一族が従っているところをみると 京極氏が義昭の元にあるのは不思議ではない。
結局のところこの史料はよくわからず 今後の日韓共同研究によって明らかになるものとして後考を待ちたい。^

^
晴広に関して youtube にてわかりやすい解説動画があったので追記して紹介したい。晴広を 三国 の守護としたのは義昭側の配慮 大きく見せたことの解釈は合点がいく。
先に私は高広について 義晴を支えた定頼と敵対した としたが それはともかくとして足利義昭に限って言えば 一度は敵対した勢力 例えば矢島で急襲し元亀元年(1570)には義昭政権 信長 に対して軍事行動を起こした六角氏も 後々その麾下に加っており 高広系と思しき晴広が麾下にある事に疑問は無い。(20240515)

旧キ好身

淡海温故録 は明智光秀の近江 多賀左目出身説を載せる江戸時代の地誌である。
その中で謀叛に至った光秀は 当国 近江国内か? 旧キ好身 を尋ね同心を募ったが 同心する者は無く 結局多賀新左衛門 久徳六左衛門 阿閉淡路守 小川土佐守 後藤喜三郎 池田伊与守 伊予守 の六名は 運尽キ同心 山崎の合戦で敗れ没落 零落した とある。
その後の史実とは異なる記述であるが 多賀新左衛門たち近江衆が光秀に従ったのは 運尽きて と表現するのは趣深い記述だ。光秀が旧き誼によって同心を頼んだ相手は定かでは無いが 従わなかった山岡氏や蒲生氏だろうか。

ところで 運尽きて 光秀に同心してしまった六名のうちの数名と共に 信長公記 に度々登場する人物が居る。久徳は別人の可能性もあるが便宜上列挙する

そう 京極小法師 後の高次である。
武徳編年集成 京極家譜 は光秀の意を受けた高次と阿閉淡路守の子息孫五郎が結託し 北近江の浪人等と共に羽柴秀吉の長浜城を攻めたと叙述する。
ここで気がつくのは 多賀新左衛門や阿閉 小川 後藤 池田といった面々と京極高次は織田家中で共に行動することが見られる点で それこそ 淡海温故録 の叙述するところの 旧キ好身 と言えるかもしれない。
多賀新左衛門も池田孫次郞も高次が幼い頃に 六角家中で活躍 暴れた した人物であり 若い高次に頼もしく 指南 する立場であったのかもしれない。

若狭国主

その後 京極家譜 は高次が越前の柴田勝家を頼るも 勝家が敗れると大人しく秀吉に帰順した。高次は夫武田元明を喪った妹が秀吉の側室となり 更に秀吉の側室茶々の妹とされる初 常高院 を妻に迎え 仇敵であった筈の秀吉を支える有力者の一人となった。家康と並ぶ秀吉の義兄弟であり 後継者秀頼の叔父という蒼々たる立場を得た。まさに四職の名門京極家の当主に相応しい立ち位置である。

紆余曲折を経た慶長五年(1600)には 土壇場で徳川家康への謀反を起こした石田三成等とそれに与する西軍を裏切り 大津城で籠城。猛攻に敗れるも 家康への忠義と妻が秀忠正室の姉に当たる縁に依って かつての盟友武田元明が故国若狭の国主となった。もしも高次の父方祖母が武田元光の娘であるならば そのような縁に導かれたとも言えようか。

また家族に遅れ慶長七年(1602)には妻と共に洗礼を受けた後 慶長十四年(1609)に没した。
四十七年 闘争心と縁戚によって 国主 の地位を勝ち取り 名門京極家を再興せしめた見事な人生である。

出雲隠岐太守京極忠高

跡を継いだのは高次と打下一揆の中核の寺の娘との間に生まれた忠高で 寛永十一年(1634)にかつて先祖が守護した出雲 隠岐へ加増移封された。
忠高は松江城下の安国寺を父高次の供養所に定め供養塔を建立した。時に安国寺は永正五年(1508)に京極政経が孫の吉童子と尼子経久 多賀氏に全てを託し亡くなった寺である。もしも高次が政経 吉童子に連なる出自であるのならば 忠高は政経の 来孫 にあたるのかもしれない。

記憶のなかの京極五郎

ここまで室町時代の史料に見える 京極五郎 を考察してきた。
ここからは後世の史料における 京極五郎 を考えてみたい。

津藩藤堂家編纂史料に見られる京極五郎

まず私が初めて 京極五郎 に接したのは津藩藤堂家に関わる史料である。
藩祖藤堂高虎は父親こそ出自が定かではないものの 母親に関しては尼子郷の隣郷下之郷の多賀一族であることが諸系図等から窺える。実のところは定かでは無いにしても 多賀一族と共に大和宿老衆として活躍していた姿が見えたり 後年従弟藤堂新七郎の子孫に多賀姓を称する人物が系図に見られる点を踏まえると 高虎が多賀の血筋であることにそこまでの疑いは持たない。
遡ってみると 藤堂氏は京極持清以来の被官であり 京極材宗に近しい藤堂備前守という人物も存在した。政経親子を代表する重臣には多賀経家が居り その頃から藤堂氏と多賀氏には何らかの関係があったのではないかと推察される。

高虎の祖父と京極五郎

高虎の母親に関する津藩編纂史料の記述には次のようなものがある。

初多賀良氏為京極候 守松尾山塞而死事 宗国史 系統一
良氏者江州松尾山城主京極五郎知良氏之武勇而頼之故荷担天文三午年於松尾山城籠而戦死畢焉 公室年譜略 藤堂新七郎家系図
新助儀京極五郎殿に致奉公勢州河内の城にて五郎殿身替に討死仕候 高山公実録 梅原覚書

このように高虎と新七郎の祖父にあたる 多賀新助良氏 なる人物について 時期や場所について揺れはあるものの津藩は一貫して 京極五郎 を守り死んだとする認識を抱いていたことがわかる。
最も 多賀新助 は史料上には見られない人物であるし 藤堂新助ならば天文五年頃の金剛輪寺下倉米銭下用帳に見られるが 何よりも 京極五郎 が城を攻められて落ち延びるということも 見てきたように史料上からは窺い知ることが出来ない。

地名について

これらの記述の中で更に興味深いのは 松尾山 勢州河内 何れも境目の地名が見られる点である。後者は良氏の子息で新七郎良勝の父良政が討死した大河内城との混同と思われる。それでも五郎が 河内 を拠点としたことを思えば 単なる誤記に片付けるのは忍びない。
長らく私は松尾山について後年慶長五年(1600)の争乱で舞台となった江濃国境の城か 調べて出てきた北郡磯野周辺の城郭 松尾寺と呼ばれた金剛輪寺しか思い浮かばず 三ヶ所とも京極五郎の戦いとは無関係と判断した後 この記述は 荒唐無稽 だと考えてきた。しかしどうにも引っ掛かる部分が数年間あり 今回改めて具に調査を行ったのである。

まず京極五郎は河内を拠点に活動し 同地から中郡への往来は境目の山 霊仙山を越える道が存在する。京極五郎の敵となるのは北郡の勢力であったから 霊仙山の北側周辺が想定される。そのようにして調べるとあっさりと米原市に松尾寺が存在し その山を 松尾寺山 と呼ぶことがわかった。
そして同地には 松尾寺山砦 なる城郭遺構が存在する。米原町内中世城館跡分布調査報告書(2006) では元亀争乱下で 今井家中の岩脇市介が堀家を攻めるも逆に討たれた 丹生谷 と推定して 丹生堂山砦跡 としている。同書から位置についての記述を引用すると その位置は西坂より松尾寺への参詣道が稜線にとりかかったすぐ西側の尾根上にあたる としている。

時期を探る

まず 宗国史 公室年譜略 高山公実録 は成立の時期に沿って列記したが 前者二つが十八世紀に 実録が十九世紀に成立したことを明記する。
つまりこれらの 認識 は十八世紀 1700 年代後半には成立していた 認識 となる。何れの記述の元となった史料は定かでは無いが 公室年譜略では新七郎家の系図 高山公実録では梅原覚書ということで 十八世紀までには各家で伝承されていたのだろうか。

この中で明確な時期が見られるのが 公室年譜略 の藤堂新七郎家系図である。多賀良氏 は高虎を祖とする津藩主宗家か 仁右衛門家からすると母系の先祖だが 新七郎家にとっては父祖に纏わるである。
ここでは天文三年(1534)としている。

宗国史 では系統の章にて 明応年間からの年表があり 天文十年には 京極高峯 が亡くなり 元子高秀 が跡を継いだと述べられている。その次に 多賀良氏戦死于松尾山 とある。実は 宗国史 ではその後の編纂史料とは高虎母と新七郎父の生年が異り 更に浅井亮政の没年も史実と異なる。

高山公実録 には年次が見られない。

今回京極五郎の足跡を追ってきた中で 天文三年(1534)には争乱の痕跡は見当たらない。厳密さを捨て前後の時期で探すと 享禄四年に六角軍が箕浦で六郎 浅井方を打ち破った。しかし天文二年正月には今井左衛門尉が生害させられ 同年に五郎は出雲へ下向したと囁かれ 天文三年(1534)には浅井亮政が多賀貞隆等京極一族や被官を小谷城で持て成している。
五郎の出雲下向は見方を変えると 近江を捨てることと同義であり 天文元年から翌二年にかけて勢力図が塗り変わる出来事 五郎方が窮地に追いやられる事象が発生したと推察される。
また同年以降であれば天文四年(1535)正月に六郎と亮政多賀貞隆を襲撃したとされるが ここで命を落としたとも考えられる。

一方天文十年頃を考えると その前年に定頼と京極氏は和睦して概ね政情は安定していたと思われ 想定が何も浮かばない。
何れにせよ系図や津藩藤堂家の認識は何処までか史実か判然としないのであるが 同時にこのような史料の隙間を考える上で こうした近世の編纂史料に見られる 記憶 認識 は有用かもしれない。
また津藩の姿勢としても 高虎や新七郎の祖父の実際はともかくとして 藤堂新七郎家は良氏 良政 良勝と父祖が三代続けて鎗場で死んだ武門と主への忠義を 宗家は祖である高虎は祖父良氏以来の武勇を それぞれを顕彰する記述だろう。
京極五郎は忠勤を誇る津藩の原点と言えるかもしれない。

名前から考える

それでも中郡の多賀氏が京極五郎方であったとする認識は 天文期京極六郎が執拗に打ち入る姿を考えると首肯できる部分がある。
また藤堂高虎と関わりのある多賀一族は諱に の字が入るが これまで見てきたように 高慶 高佳 と戦国期の京極氏にも ヨシ の字が含まれる人物が存在し これも下之郷の多賀氏や藤堂氏が京極五郎と何らかの関係を持っていたことを想起させる。
更に藤堂家は高虎以降 を通字としてきた。そもそも高虎なぞ 自らの子息に 高吉 初名は一高 高次 腹違いの弟には 高清 と既視感のある名前を付けている。この命名の根底には 高虎が藤堂家は京極被官から始まったとの認識を抱いていたことを示唆するようにも見える。

ただし旗本藤堂家の系図 寛政譜 では その祖を 良隆 としているように の字に関しては京極氏よりも 多賀豊後守貞隆の影響を感じる。
この人物は高虎祖父とされる 忠高 宗国史 高山公実録 と同一人物である。
最も弘治二年(1556)に生まれた高虎の祖父に見合う時代は天文期からそれ以前であるが 天文元年(1531)に九郎左衛門家忠が見え 彼が祖父に当たるのではないかと考えている。

陰徳太平記に見る京極五郎(尼子義久室の出自)

近世に尼子氏を知る上で珍重されたのが軍記 陰徳太平記 である。
この軍記は現代に一次史料を用いた研究が発展するまで用いられ 尼子氏研究の大家 米原正義氏も扱っていた。
残念ながら最近では扱われることは少ないのだけれど ここに興味深い記述が見られるので紹介したい。

義久室についての記述

すなわち永禄九年(1566)月山富田城落城の折 尼子義久の妻についての記述で 此御御台所は 江州京極修理大夫の子息 五郎殿の姫君にて渡らせ給ひけり とある。
同記の元となったのは 陰徳記 ここでも 如此御台所ト申ハ 江州ノ京極修理太夫殿ノ御子息五郎殿ノ姫君ニテ渡ラセ給ヒケリ とあり 尼子晴久の嫡男義久は京極五郎の婿としている。
その実否を確かめる手立ては無く 同記の成立に関わる 二宮佐渡覚書 安西軍策 の何れにも見られない記述である。
それでも京極五郎が出雲へ下向したとの風聞や 経久 晴久が京極氏に配慮をする立場であったとする西島説を踏まえると なかなか良く出来た話である。著者の香川正矩は これを江戸時代が成熟する十七世紀に叙述したのだから 素晴らしい。

五郎高慶娘説

一応時代背景から考えると 京極修理太夫 はよくわからないが 京極高慶 大原五郎 の娘と考えることは出来るかもしれない。すなわち後の京極高佳の姉か妹とも考えられようか。仮に天文九年の婚姻で生まれた娘であれば十三歳前後となろうか。義久が天文九年(1540)の生まれであるから世代は近そうだ。
また仮に高慶が吉童子であれば その娘を娶ることは尼子氏の正統性を高めることとなろう。

出雲尼子史料集に見る

一方で 出雲尼子史料集 によれば 永禄三年(1560)の 横田八幡宮棟札 銘写 一〇六五 一〇六六 御地頭京極修理大夫源晴久 と見ることが出来るようだ。永禄三年(1560)時点での晴久の京極氏に対する意識が感じられる。
京極高佳が近江北郡に入った翌年のことである。

さて 島根県史 は尼子義久の妻を永禄九年(1566)十一月二十六日に亡くなった 月山妙春大姉 との説を載せる。
出雲尼子史料集 にある後年父母や妻を供養した際の過去帳 一九五九尼子氏過去帳写 大西家文書 には 月山妙香大姉 が見える。永禄九年(1566)十一月二十六日が 忌日也 とあるから 妙春 妙香 の差違はあれど同一であろう。
ただしその出自は記述が見られない。

義久室についての考察

もう一度 陰徳太平記 を見てみよう。いや 島根県史 でも良い。
彼女が京極氏であることを述べる前には 次の旨が述べられている。
義久 の御台所は義久に同行せず 観音寺という比丘尼寺へ入り出家し宗玉と称した
そして彼女の読んだ二首が引用されている。

しかし 島根県史 や米原正義氏が 風雲の月山城 で述べるように 同記は月山富田城開城を永禄九年(1566)七月としている。実際は十一月二十八日に落城した。
島根県史 は系図史料を示しながらも 義久室が死去したことに疑念を抱き剃髪した説を支持する一方で 米原氏は 開城の二日前に亡くなったもののようである としている。

更に混沌とさせるのが出雲中央図書館の回答(1985) 義久の妻は永禄十二年(1569)に観音寺に入寺し 円光院 と号したとある。この観音寺は出雲市であるが 陰徳太平記 に見られる 阿佐の観音寺 と同一であろうか。
没年は慶長十五年(1610)となっているが これは十八世紀初頭に成立した 雲陽誌 にも 尼子義久室之円光院 が同年に没したと見られる。同誌は永禄初頭に観音寺へ入ったとするが これは 陰徳記 の影響を感じさせる。没年は義久の没年と同年で 混同の可能性も考慮するべきだろう。
また法名も過去帳とは異なるもので よくわからない。
考えれば他に妻が居たとも想定は出来そうだが 今に伝わる系図でも義久室は一人である。判然としない とする他ないようだ。

時に尼子義久は永禄九年(1566)に妻と国を失うも 毛利家のなかで慶長十五年(1610)まで長く生きた。香川正矩はその三年後に生まれ直接の交流は無い。しかし正矩が生きた四十年間は まだ 尼子友林 義久 の記憶が新しい人は居たはずであり そうした人々への取材を通して未知なる正室像を創り上げたとも考えられる。また取材の過程で永正以降の尼子氏と京極氏の関わりにも接したのであろう と思いたくなるほどの記述である。

安芸武田氏との接点

時に正矩の香川家は古く安芸武田家に仕えた家柄とされる。
安芸武田家は若狭武田 甲斐武田の同族で 京極氏に嫁いだ若狭の武田元光娘の兄弟信実は 同じ天文九年(1540)頃に栖雲寺の僧から還俗し安芸武田家を継いだ。羽賀寺年中行事 元光娘の嫁入りの次項である
この安芸武田氏を支援していたのが尼子氏とされ 陰徳太平記 は出雲へ逃れる信実の様子が叙述される。木下聡氏 中世西国武士の研究 4 若狭武田氏 は安芸武田家が滅ぶと若狭へ帰国し 後に足利義昭に付き従ったと述べる。こうして信実は義昭に従う形で 再び西国へ下る皮肉な運命を辿る。
そうした中で姉妹が京極氏に嫁いだ信実が 義久の妻が同族の京極氏 仮説に則れば姪 である記憶を伝えた一人であるのかもしれない。

まとめ

ここまで長々と書き連ねてみた ここで一つまとめてみたい。^

京極五郎高慶(大原)

大原五郎は大永から天文にかけて 兄弟 の京極六郎高広 高明 高延 と争った。諱は高慶で 後に大原から京極へ姓を改めたらしい。京極一族では佐々木道誉の子である高秀が 五郎左衛門 を称していた例がある。
高慶は定頼の軍がある間は概ね優位になっていたが 定頼の多忙により北郡 境目への影響力が弱まると都度劣勢になった。

高虎のルーツに関わる京極五郎

江戸時代の津藩藤堂家が編纂するところ 藩祖高虎や重臣藤堂新七郎の祖父にあたる 多賀新助良氏 劣勢の中で京極五郎を守り命を落としたとする。実否はともかくとして京極五郎の存在は津藩の原点と言えるかもしれない。

出雲下向風聞と吉童子説

また天文二年(1533)には京極五郎が出雲へ下向したとの風聞が若狭へ伝わる。この実否も定かでは無い。
しかし後に尼子晴久は八ヶ国守護となるが その末裔の佐々木家には出雲 隠岐の守護職補任状が伝来せず 西島太郎氏は京極氏の存在を示唆する。ここで天文二年(1533)の京極五郎出雲下向風聞が繋がるように見える。
坂田郡志 の系図では五郎高慶は京極材宗の遺児吉童子とするが 出雲下向の風聞に晴久の認識を見るに 有り得そう な説である。そうするとかつて湯川氏が説いた竹熊=五郎説は成り立たなくなる。
更に江戸時代の軍記 陰徳記 陰徳太平記 は晴久の嫡子義久の妻は 京極五郎 の娘として述べ 出雲に於ける京極氏の記憶が受け継がれている。

武田氏と京極氏

天文九年(1540)には若狭武田元光の娘が六角定頼の猶子として 京極氏 へ嫁いだことで和睦が成立する。和睦に至る 京極氏 は概ね定頼と敵対した六郎高広と思われるが 五郎高慶の可能性も捨てきれない。ただし後者であれば 天文七年(1538)からの一年間に定頼と高慶の関係が破綻したことになるが 今一つ良くわからない。しかし永禄年間に入ると六角氏に擁立される京極氏が居り 更に天正年間には京極氏の娘が若狭武田氏へ嫁ぐなど この縁組みが京極氏に与えた影響は大きいと見える。

幕臣京極五郎説

その後天文の末に 京極五郎 は京都で三好家中の者と共に違乱に及んでいるが この記述から彼が近江を離れ将軍足利義藤に従ったと見ることが出来る。
足利将軍に五郎が従うことは 永禄六年(1563)の番帳に義輝の御伴として 京極弟 とされる 佐々木治部大輔 後の京極高次を支える香集斎が見られることから そこまで胡乱な話とは思えない。
また三好家中と共に違乱に及んだ点は 永禄二年(1559)に京極一族と思しき 高佳 が六角と三好筑前守 長慶 に取り立てられたと主張する点と符合する。この 高佳 が五郎系であるのか 六郎系であるのか定かでは無い。

河内を拠点とした京極六郎

対する京極六郎は定頼への対決姿勢を強め 中郡を攻める。その際に拠点としたのは かつて京極高慶が影響力を有した境目地域河内で 中井均氏は男鬼入谷城が前線基地と説く。
河内 梓河内 あんさかわち は高清以降の京極氏の拠点とも考えられ 太田浩司氏は 高吉 期も同地域が機能していたとの説を示した。京極氏の城 まち 寺/伊吹町教育委員会 2003

佐々木治部大輔

永禄六年(1563)の足利義輝の番帳には 佐々木治部大輔 が御伴衆に名を連ねている。彼は諱が 高成 で更に 京極弟 と付記されている。黒嶋敏氏は実名部分を 後世の付記 との可能性を示しており 注意が必要であるが ともかく彼は後に 香集斎 として細川藤孝等幕臣と親しくし 京極高次を支えた重要な存在である。
京極氏に於いて 治部 高詮 持高 材宗が 治部少輔 高秀が 治部大輔 を称していた例がある。

京極高次の歩み

こうした時期に京極高次は誕生したとされる。

父は高佳か

系図類では 高吉 と浅井久政の娘マリアの間に生まれたとされるが 高吉 の真の名は永禄二年(1559)に見られる 高佳 ではないか。同様に永禄十三年(1570)の義昭 信長による上洛命令に見られる 京極殿 高佳 系図上では高吉 と思われる。その頃の高佳は梓河内にあったのか上平寺にあったのか定かでは無い。

重用された京極家

高次は初陣を元亀四年(1573)の槇島城攻めで迎え その後天正九年(1581)になるまで動向は判然としない。同年の宣教師の記録に依れば この頃安土に立派な居館を持った 京極殿 高佳 高吉か があり 信長に出仕する子息の存在が述べられており 天正八年(1580)までには一家揃って安土城下へ転じていたと推測される。
なお高次の父母と妹は天正九年(1581)明けて早々に洗礼を受けたらしいが それから間もなく父 高佳 高吉か は没した。あまりの突然の死に高次や家臣は 神罰 仏罰 と恐れたらしい。

その後京極高次は妹の龍子や妻の初の縁によって大名そして若狭国主の地位を確立する。しかしこれらは本能寺の変 賤ヶ岳の戦い 大津城の戦いに於ける高次の剥き出しの闘争心をなくして語ることは出来ない。
蛍大名 だとか 気が弱い だの散々言われる京極高次であるが 彼には確と室町時代を戦い抜き 被官に見放されることなく室町幕府諸大名に重んじられ 尼子経久 晴久に配慮された京極一族の血が流れていた。この血があったからこそ三度負けようが家臣に見放されず 天下人秀吉 家康に重んじられ 若狭の国主という立派な地位を勝ち取ることが出来たのだ。

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まとめに見出しを追加/20240518

関連地図

pic?

本稿に関連する地図である。^

また新たな試みとして立体的な地図を製作し 容量節約のため Mastodon に投稿した。^

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関連地図を Mastodon 埋め込みに差し替え。立体地図埋め込み設置/20240518