兼右卿記に見る浅井久政周辺

以前 磯野員昌の実像を纏めた記事にて 兼右卿記 をふんだんに使った。というよりも大いに参考とした論文が兼右と磯野員昌の間柄を考察した論考1であったから 自ずと扱うことになったのだ。

この論文に出会ってから そういえば村井祐樹先生の著書 戦国大名佐々木六角氏の基礎研究 にも 六角氏関連史料として兼右卿記が収録されていたことを思い出した。どうやら永禄期の近江を知るのに兼右卿記は有用らしい。

そうしたところで近年 天理圖書館報ビブリオ にて 天理本の 兼右卿記 が翻刻されていたことに気がつく。
村井氏や伊藤氏が使用しているように既に史料編纂所版が翻刻されていたのだけれども 天理本は史料編纂所本よりも遡るらしい。自分としては何よりも多賀氏や 京極六郎の乱 に関するところを見てみたいところがあった。
最もその目的は達せられなかったのだが 近江に着目して読んでみると 兼右と浅井久政との間に音信が生まれた様子を知ることが出来た。更に久政のきょうだいに関しても未知なる記述と出会うことが出来たので結果としては読んでみて良かった。

そこで今回は一つ 兼右と浅井久政の音信を中心にまとめてみたいと思う。

兼右と近江北郡

吉田兼右が浅井久政と接点を持ったのは天文十四年(1545)のことである。
出典は ビブリア 157(2022.5) 所収の 兼右卿記 天文十四年六月至九月 十二月 同十五年正月 二月 同十六年三月至六月 八月 九月 十一月 十二月 同十七年正月となる。

越州下向

吉田兼右は天文十四年(1545)の八月 朝倉家を訪ねる目的で京から越州へ下向する。
廿九日に坂本 晦日に片太 堅田 風雨のために九月三日まで逗留する。三日に打下郷 四日海津 五日に新保 越州 六日府中 七日一乗谷といった具合だ。現代では鉄道利用で三時間強で到達するが この時代の交通速度はこのぐらいだったのだろう。

その帰りに 向江州北郡浅井新九郎館了 具体的日付は見えないが北郡で浅井新九郎 久政 の館を訪ねたことを記録している。
どうやらこれが兼右と浅井久政の交流が始まったきっかけのようだ。

兼右は 両日逗留 したようで 連〻依無等閑也 と小谷での滞在は実のある物であったらしい。
その後 上之砌 江州北郡八幡宮寺家滞留了 坂田郡の北郡八幡宮の寺家を訪ねた様子が記されている。北郡八幡宮は現在の長浜八幡宮を指す。

天文十七年(1548)の音信

次に浅井氏が登場するのは天文十七年(1548)から翌十八年(1549)までの記録である。
出典は ビブリア 158 兼右卿記 天文十七年~十八年となる。

先に兼右が北郡を訪ねた翌年の天文十五年(1546) 新九郎久政は将軍足利義晴と対面し栄典白傘袋と毛氈鞍覆の御免を受けている。西島太郎 室町幕府将軍直臣と格式
湖北における浅井久政の存在価値は幕府 六角定頼も認めるところにあった。

浅井長門守の隠居

まず正月廿五日に江州北郡より 林蔵主 が上り 浅井長門守が隠居し息 又二郎が 申次之 とある するとそれまで父の浅井長門守が浅井家の 申次 を務めていたように読める。

子息 又二郎は後述するようにその後 掃部 を継ぎ 浅井掃部助 となる。

ところで 林蔵主 という人物が出てくるが 五月廿三日に兼右は 浅井新九郎方 を使わした人物を 周林蔵主 としている。これは同一人物なのだろう。
名前を見るに僧籍のようだが 詳細は不明である。

天文十八年(1549)の音信

この年は一件の音信がある。特筆すべきは六角定頼やその重臣たちと名前を名を連ねている点である。

九月十六日 兼右は 御祓方 に関して広橋などと共に

佐々木霜台 進藤山城守 種村三河守 浅井新九郎 同新二郎 河瀬小法師 同吉六 同源衛門 浅井母堂幷河瀬母堂等遣祓之

と記す。
並んで記されている点からすると浅井や河瀬も六角方勢力に見える。
浅井氏はこの頃京極六郎の圧迫を受けていたが まだ辛うじて六角方にあったことを示すか。

浅井新九郎は二度目の登場 新二郎は初登場である。その名に が付くところからすると久政に近い一族と思われる。
浅井母堂は久政の生母とされる慶庵を指すのだろうか。

河瀬母堂は八月十八日条に 自江州北郡河瀬小法師母堂申来云 とあるから 小法師の母らしい。
ちなみにこの日の内容は十八才になる正月生まれの女房についての 此月不覚之間 に関する祈念の依頼であった。
来月可下人之間 其時可申之旨 返状遣之了 とあるから これが関連する内容となるのだろう。

天文十九年(1550)

京極高広の活動が活発になってきた頃の音信で出典はビブリオ 159(2023.5)所収 兼右卿記 天文十九年正月至十二月 同二十年四月至十二月だ。

この年の音信は一件のみで これまで同様浅井氏と河瀬氏の に関するものである。
十月八日 兼右は

江州北郡浅井方へ遣祓 今日上洛了 又新九郎ハ号左兵衛尉 橘六ハ号左近亮 河瀬母堂ハ小侍従 浅井母堂ハ中将官女ヲ云也

と記している。
今回の 遣祓 の結果として兼右は久政等の名乗りが変わったことを把握したらしい。
久政が 新九郎 から 左兵衛尉 となり 橘六 左近亮 河瀬母が小侍従 浅井母は 中将官女 とある。

久政が 左兵衛尉 を称したのは有名な話だが それ以外の三名に関しては管見の限りこの記録以外では見られない。
左近となった 橘六 読みからすると前年の条文に見られる 河瀬吉六 を指すのだろうか。後に兼右は河瀬二郎と並ぶ 同左近亮 に扇子を贈呈している。

さて 東浅井郡志 はこの年の七月までに久政が京極六郎方に転じたと説く。
翌十一月には三好筑前守の志賀出兵に呼応するように 江州牢人 と六郎が中郡へ出兵している。残念ながら兼右の記録からはそうした痕跡は感じられない。

天文二十年(1551)の音信・濃州へ嫁ぐ久政妹

既に久政と京極六郎は一体となった時期の音信である。

この年の条文は極めて重要な意味を持つ。それが浅井氏と 濃州 の縁組みである。

まず五月廿三日に 浅井母堂方 が兼右を訪ねて 二十歳になる息女 岩松女が濃州へ嫁ぐのだが 去年十一月頃より煩っていた為に祈祷を依頼した。祈祷のために浅井母堂は 鳥目二百疋 織面小袖一 を贈っている。六月三日条に 浅井母堂祈念今日結願了 とて 兼右は祈祷が終わったことを記している。
天文二十年に二十歳となれば久政の妹に当たる。

その後 十一月廿一日条に

将又浅井母堂 彼息女至濃州嫁了 去夏祈祷事令申之間 調了 其女無煩之様 道切事所望也云ゝ

と記している。
ちなみに 将又 の前には

去十四日 江州北郡浅井左兵衛尉 北郡八万十穀慶運為使者申来云 人ニ起請ヲカヽセ候ハ咎候哉 又其起請如何様ニ可納置候哉

とあり久政から起請文に関する指南 助言依頼が届いたらしい。そのついでに久政妹の健康を報告した形になるのだろう。

天文二十一年(1552)の音信

出典はビブリオ 160(2023.10)所収 兼右卿記 十一 天文二十一年正月至十一月 同二十二年三月 四月 九月至十二月 同二十三年正月至六月 九月至十一月 弘治元年三月 五月至十二月となる。

この年の音信は二件のみ。
二月二十六日に 江州北郡浅井方 例年秡 の記録。
もう一件は三月十九日に 自江州北郡守事令申之条 調遣了 とある。

この年の情勢は正月に六角定頼が亡くなり 跡を継いだ義賢が京極 浅井方に対する行動を開始し 佐和山や太尾山 地頭山が最前線となった。
両陣営の対峙は一年を越えた。今回 兼右卿記 の調査では この時期に関する記録を探すことが一番の目的であったが 残念ながら天文二十二年(1553)に兼右と浅井方の音信は見られない。

天文二十三年(1554)の音信

さて六角義賢と京極 浅井方の対峙は前年天文二十二年十月頃に解消したようで 十一月には義賢の重臣平井定武が久政に対して書状を送っている。このことから久政は六角家へ帰参し 京極高広は表舞台から姿を消したと考えられる。

六角義賢による境目抗争の終結 解消によって 兼右と浅井方の音信も再開したようで天文二十三年六月六日には 浅井母堂から二十四歳になる息子が四月から 狂気 ということで祈祷の依頼が届いた。当年金神方立小座敷 の祟りだろうか と兼右は記している。

ここで久政や岩松女の兄弟が登場する。残念ながら彼の名前は定かではない。

久政の弟は十月三日条にも姿を見せる。
この日 江州北郡で 浅井弟 の浅井左衛門大夫方より 去年二才小生大槌誕生 の祈事について 為礼百疋到来了 という記録が見える。浅井左衛門大夫 なる人物は未知の人物である。彼が先に見える二十四歳になる 同新二郎 と同一なのか定かではないが 可能性は充分あるのかもしれない。

弘治元年(1555)

この年の音信は無い。
ただ六月五日条には 高島郡の饗庭与二郎貞次なる人物が猿を殺し祟りにあった との記録があり興味深い。

弘治二年(1556)

この年は十一月に一件見られる。

永田清綱の登場

その前に六月二十一日条を考えたい。

江州佐々木長田伊豆守清綱妻五十歳 野狐相付之間 鎮札所望之由申来之間 調遣了 此人予従父兄弟也 以各別之上調者也

既に幾つかの記事で先んじて触れているが 高島の有力国衆 西佐々木氏七人や七頭と言われる で永田一族の諱がわかる貴重な記述である。

今宮勧請

十一月十七日条によると 浅井又二郎から祟りに関する鎮札所望の旨を記した書状と共に 今宮勧請に関する黄金二枚が贈られたようだ。
この今宮に関しては今現在残存しているのか 詳しく調べていないのでよくわからない。

弘治3年(1557)の音信

この年の四月 浅井久政は六角義賢の北伊勢出兵に参戦したらしい。
本年は幾つかの音信が見られる。

河瀬定政の登場

三月七日条には 北郡河瀬左近亮定政 が五日に悪夢を見たとかで祈念の依頼が届く。ここで河瀬左近亮=橘六 吉六か の諱が 定政 であることがわかる。

久政舎弟僧

四月十九日には浅井舎弟僧十九才に関して祈祷依頼が届く。久政の弟の僧は心猛気勇で毎度抜刀し人を傷つけていたが これは 死霊の祟り と見られていたらしい。
この十九日は北伊勢出兵の論拠となる史料 飯福寺宛門池吉信書状 東浅井郡志 に見られる 来十九日 その日である。いよいよ出兵という段階で祈祷の依頼とは慌ただしい。
彼について八月十三日には 左兵衛尉母堂 から祈祷を更に祈る書状が届いている。祈りには限度があったのか はたまたその気性は祈りを超越していたのかもしれない。

浅井掃部・磯野四郎三郎

九月十九日の記録には 浅井又二郎任掃部助了 とあり 先に見た長門守の子息又二郎が 掃部助 へ名乗りを改めたことがわかる。
また 此外磯野四郎三郎方へ初而遣状了 又狩野方へ遣祓了 とあり ここで 磯野四郎三郎 なる人物が登場する。

左衛門大夫屋敷

九月二十四日には久政の弟浅井左衛門大夫の屋敷が 相祟 身上不宜 とのことで 祈祷と札の依頼があった。
その後のことは定かではない。

屋敷が祟られ身の上が宜しからずというのは 単純に考えると何かしらの怪奇現象が発生し その解決 改善の為に兼右を頼ったものと考えられる。それは科学技術が発展した現在なら解決が可能な部類なのか 不可能な 怪奇 なのか少々興味がある。

史料編纂所本に見る北郡浅井関係者の音信

ここまでが天理本 兼右卿記に見られる北郡浅井氏関係者等に関する記録である。
ここからは先に翻刻された東京大学史料編纂所本である。既に伊藤氏の 磯野員昌と神社 : 吉田家の日記を素材として にて活用されているが 今ここで浅井久政たちを軸に見ていきたい。

出典は永禄二年(1559)から永禄八年(1565)が 史料編纂所紀要 18 所収の 兼右卿記 永禄九年(1566)からは 史料編纂所紀要 20 所収の 兼右卿記 何れも村井祐樹氏による である。

永禄二年(1559)の音信

この時期の北郡浅井氏は未だ六角方勢力にあったが 具体的なところはわからないが六角承禎 義賢 から警戒される状態ではあったらしい。

鈴鹿近江守の訪問

正月十七日条は先の伊藤論文にもあるが 兼右の家士鈴鹿近江守が北郡を訪れ 浅井左兵衛尉 同左衛門大夫 同掃部助 狩野勝六 河瀬二郎 今度初而遣状 同左近亮 同権右衛門尉 筑後守受領 浅井母 河瀬二郎母 に対して祓や扇子を贈呈している。

浅井左衛門大夫は久政の弟 掃部助は先にも見た人物だが久政兄弟との詳しい間柄は定かではない。
河瀬左近亮は弘治三年(1557)三月七日条に見える 河瀬左近亮定政 もと吉六 橘六 だ。同じ河瀬氏の二郎や権右衛門尉との関係性は不明である。天文十八年の音信では吉六 定政 の他に小法師や源衛門が見える。二郎と兼右の音信が初であることを踏まえると小法師が二郎とは為らない。小法師のその後は定かではない。源衛門 権右衛門 筑後守 は音が似て居るから同一人物かもしれない。
磯野八郎三郎は弘治三年(1557)に初めて音信があったと記録される 磯野四郎三郎 との関連が考えられる。同族の別人あるいは同一人物の可能性をみたい。
また 狩野勝六 も弘治三年(1557)三月条に 又狩野方へ遣祓了 と見える狩野氏と同一だろうか。

日野家督

これはついでである。
四月廿九日条には 日野家督廣橋亜相 国光 嫡男五才 為相續去月廿三日 公武出仕也 為礼儀遣樽了 とある。これは日野輝資のことであるが 同時代広橋国光に関する記録は限られるので 既に知られた事柄でもあるが ここに置く。

永禄三年(1560)の音信

通説で浅井賢政の初陣 野良田の戦い が行われたとされる年である。最も史料的裏付けに欠ける。しかし十一月には四木で争乱が発生し 浅井方が六角方から離反したのは確かであろう。美濃との縁組みを巡り六角親子の対立 義弼の出奔もあった

左衛門大夫への札など

三月四日 浅井左衛門大夫方へ 解八離厄鎮札 天度御祓 などが遣わされたという。
先の屋敷祟りに関する御札だろうか。

饗庭貞次の神社建設

また高島の 江州饗庭与二郎 についても記述が見られる。
彼は弘治元年(1555) 殺した猿の祟りについて相談した饗庭貞次であるが
此間又相煩了 先度之猿成祟間 可勧進請神体事 可申請 又地鎮所望由申来了 為礼五百疋到来
いよいよ神社の建設へと進んだように見える。
彼については十一日条にも見えるが省略する
結局貞次が建てた神社というのも 現存するのか定かではない。高島郡の寺社を網羅した 高島郡誌 に貞次の名前が見られないことから 少なくとも明治期までには廃絶したのだろう。

また四日条には海津天神の巫女との音信も見える。
あまり高島の神社寺社に関して取り沙汰されることは少ないため この辺りは大変貴重であろう。

永禄八年(1565)

さて永禄三年(1560)から五年の月日が経過した。
この間に浅井長政が六角氏に反旗を翻していた。
その最中 永禄六年(1563)に六角義弼が起こした家中粛清の余波で六角氏のプレゼンスは低下し 長政は大きな抵抗を受けずに中郡へ足を踏み入れることが出来たのである。
そうして中郡への足がかりを築いたところで永禄八年(1565)を迎えた。

正月廿三日には 江州浅井母堂 方から 相替屋敷造私宅 鎮札事所望 の代金が到来したとある。この 浅井母堂 は浅井久政の生母を指すのか はたまた久政の妻で長政の母を指すのか判断に困る。それまで兼右と音信があったのが久政とその母であることを踏まえると やはり久政生母だろうか。

その三日後の廿六日には 北郡浅井方へ遣祓了 とある。

永禄九年(1566)の音信

六角方との戦いにより この時期の浅井長政は中郡のみならず 南郡にまで侵攻していた。

三月八日条に依ると 兼右へ 誓事許事 に関して依頼したようで その礼に十二貫を贈ったようだ。また 磯野丹波守 も二百疋を贈っている。
この記録により兼右と音信のある磯野氏は四郎三郎 八郎三郎そして丹波守の三名となる。伊藤氏は八郎三郎と員昌 丹波守 を同一視しているが 今一つ史料に欠ける印象がある。

永禄十年(1567)の音信

永禄十年(1567)になると争乱は落ち着きを見せ 浅井長政は尾張緒田氏の娘を娶ったとされる。

三月二日条に磯野丹波守からの依頼についての記録が見られる。
詳細なところは伊藤氏の論稿を読んで貰いたい。注目すべきは目賀田 肥田までを浅井方が確保していた点である。

永禄十二年(1569)の音信

前年の永禄十一年(1568) 足利義昭は織田信長の尽力により上洛を果たし その道中で六角氏は近江を追われた。第十五代将軍となった足利義昭であったが その足下は盤石とは言えず 永禄十二年(1569)の年明け早々に反義昭勢力の襲撃に遭っている。この 本国寺の変 を受け 二条に御所を構えることとなる。

河瀬大和守

三月二日 兼右は上洛中の浅井長政を訪ねた。この頃長政は二条城普請に駆り出されていた。
その際の申次を磯野員昌が務めたが 兼右は員昌に三十疋 また 河添大和守 にも二十疋を遣わしたとある。
なお 河添大和守 は伊藤論文に見える記述となるが これを 三重県史資料編近世 1 では 河瀬大和守 としている。
そこで史料編纂所データベースにて公開されている当該項の画像を見るに に読めるくずし字の横に括弧書きで と振られていた。

浅井家中に河添氏は伊藤論文の記述以外には認められず 更に兼右と親交のある から始まる氏族は 河瀬氏 が妥当のようにも感じられる。

八日条 三重県史 には長政が兼右を訪ね 二日の返礼 兼右は太刀などを贈っている とばかりに太刀一腰と馬一疋を持ってきた。興味深いのは
同新内□三十尺持来
とある点で 名も知らぬ浅井氏の存在が示唆される。

まとめ

以上が吉田兼右と浅井氏との関わりである。もちろん漏れがあるかも知れないので 後々追記するかもしれない。

本来の目的は天文末期の南北争乱の結末 京極高広がどこへ消えてしまったのかを調べることであった。結局のところ兼右は京極氏と音信が無く 更に行くと南北の合戦に関わる記録は残していなかった。
兼右は北郡の浅井 南郡の六角と繋がりを持っていたものの 中郡の諸勢力とはパイプがなかったらしい。そういえば読んでいて多賀社の存在感も薄かったように感じる。考えてみれば多賀氏は関わりが史料上乏しいとは言え地域に多賀社があるし 藤堂氏は伊勢御師と関わりを持っていた。このような状況では兼右も布教する余地がなかったのかもしれない。

それでも副次的に浅井久政の家族に関して また多賀社神官としても知られる河瀬氏に関する未知の情報に触れることが出来た。
また奉公衆の佐々木治部少輔が梅戸高実である可能性を検討し 更に高島の永田伊豆守の諱や妻の出自に関するヒントを得ることが出来たので大変満足のいく結果となった。

今のところ浅井関連で 兼右卿記 が活用されているのは先の伊藤論文程度である。しかし今回紹介したように 天理本の翻刻によって比較的長いスパンでの記録が得られた今 浅井関連で利活用される日は近いだろう。

次頁では気になった人物について書き連ねていく。


  1. 磯野員昌と神社 : 吉田家の日記を素材として 皇学館論叢第 49 2016-10