ここでは藤堂高虎と関わりの深い多賀氏を紹介する。

母と叔父

まず最初に高虎の母が多賀氏の娘であるということを明らかにしよう。

出自定かならず

高虎生母おとらは多賀良氏と菊地親政の娘とにできた子で 弟に新助良政が居るが 彼の子が新七郎良政である。

公室年譜略や高山公実録の記述を読むに 父良氏は京極五郎知良*1 という者に仕えるも 天文三年(1534)に松尾山城の戦いで主君の身代わりに討ち死を遂げたという。
没年に関して 宗国史 では天文十年(1541)としているが ここでは新七郎家の記録に従い三年としている。
ただ これらの記述は信ずるに足らない。松尾山の戦いも 京極五郎知良という人間も詳しくはわからない。
一般的に京極氏で 五郎 を称する人物は京極五郎高慶であるが この時代の京極氏は長らくの戦乱と騒乱により実態の解明が困難であり これらの記述を裏付ける事も困難である。*2

*1: これは 2019 年当時の誤読。改めて 公室年譜略 の系図を読むと

良氏者江州松尾山城主京極五郎知良氏之武勇而頼之故荷担天文三午年於松尾山城籠而戦死畢焉

とある。つまり 良氏の武勇を知った京極五郎が頼んだ という読み方が正しい。/20240429

*2: 京極五郎が 京極高慶 大原五郎 を指すとの 2019~2021 頃の推測は変わらない。また松尾山は不詳だが五郎の本拠地河内に近く 北郡と中郡の境目にある 松尾寺山 周辺ではないか。/20240429

菊地氏

さて梅原勝右衛門武政は津藩藤堂家の草創期を支えた重臣にして その母は菊地氏である。つまり彼はおとらの異父弟 高虎の年下の伯父にあたる。
梅原家の史料は豊富で 大坂の陣などは非常に克明な記録が残されている。反面その系図は曖昧で良氏は大河内城攻めで討ち死と全く参考にならない。*2

しかしそれでも武政の母菊地氏は慶長十五年(1610)に九十四歳で亡くなったと書かれていた。
そこから逆算すると菊地氏の生年は永正十四年(1517)となる。この前年に源助虎高が生まれている事から二人は一つ違いと云う事になる。そして最初の夫を亡くしたのは天文三年(1534)なので 驚くべき事に十八歳で未亡人になってしまったのだ。
未亡人となった菊地氏は二人の子を抱え実家に戻ったか 六角家臣池田家に仕える梅原武藤 将監 へ嫁いだという。
六角氏の記録集 戦国遺文佐々木六角氏編 には 六角が多賀大社へ出した書状のうち天文年間の六通に池田高雄の名を見ることが出来る。この人物と後年に名を残した伊予守秀雄 景雄 との関係性は不明だが 彼女の再嫁は藤堂と六角の関係性を考える材料となるだろう。

実は一次史料に梅原氏は登場する。
それは永禄十年(1567)十月十二日の 杉山右兵衛尉殿御宿所宛池田景雄真光寺周陽連署書状 六角遺文 九五五 である。
これは池田新三郎と九里三郎左衛門尉が 景雄に謀反を企んだ事に関する書状である。要は池田家中の内乱だろう。
書状の末に 猶木村三郎右衛門 梅原対馬守 北川又三郎 紙面可令申候 とて 梅原対馬守 なる人物が記されている。彼らは景雄についた面々であろう。
この対馬守なる人物と 梅原将監 勝右衛門親子の関連は不明である。しかしながら 梅原氏が確かに池田に与していたことを現す貴重な史料と言えよう。

梅原将監武藤に再嫁した彼女は 永禄二年(1559)に嫡男岩夜叉を生む。
岩夜叉はその後池田家の重臣 そして藤堂家の重臣として多くの武功を挙げた勝右衛門武政である。武政が藤堂家に従うと母の菊地氏も伊予 そして伊勢伊賀を転々とし慶長十五年(1610)十一月十四日に名張にて九十四歳の大往生を遂げた。
若い頃に夫と死別 そして別れた子も早くして亡くなるという哀しい運命に苛まれた人生であったが 後年に娘や息子が残した孫と再会する事が出来たのは幸せな事であっただろう。
武政が藤堂家にやってきたのは慶長六年(1601)。それから九年は孫たちの活躍を見ながら過ごす事が出来たのだ。少しでも彼女の晩年が幸せであった事を信じたい。

*2 20240430 追記
高山公実録の梅原覚書には 新助儀京極五郎殿に致奉公勢州河内の城にて五郎殿身替に討死仕候 とある。一見すると子息や孫が討ち死した伊勢大河内城との混同とも考えられるが 京極五郎が近江の河内を拠点に活動していたことを知ると あながち間違いとは言えない記述となる。

藤堂家の養子として

さて良氏遺児の二人はある時期 藤堂村の藤堂越後守忠高の養子となったと公室年譜略や高山公実録にはある。
忠高には男子のない女系一家で 娘たちは周辺の土豪などに嫁いでいる。
新助は婿養子として何人目かの娘へ嫁ぎ 嫡男新七郎が永禄八年(1565)に生まれている。

おとら

高虎の母は おとら と言い容顔美麗なる大女であったと伝わる。
容顔については盛ってるのかもしれないと考えるが 大女というのは高虎の大男っぷりを考えるとそうであったのだろうと思われる。
彼女はのちに源助虎高を婿に迎え 二男一女に恵まれる。

天文十八年(1549)に源七郎高則が 弘治二年(1556)に高虎 幼名与吉 が誕生している。娘の生年は不詳だ。
しかし残念ながらおとらは天正十三年(1585)までには亡くなったようだ。
これは虎高が後妻宮崎氏との間に作った子供が同年に生まれている事から推測した。
また鈴木氏に嫁いだ娘も 幼い我が子を遺し天正十三年(1585)に亡くなったようである。

ところで系図を見ると 浅井長政 亮政 の養女として嫁いだ と記されているが 時代が合わない。
時代で行けば久政の時代である。しかしこの説は当時の勢力図を考えると 個人的には鵜呑みには出来ない。

おとらの生年

さて彼女の生年は何時頃なのだろうかと考えた時 残念なのは彼女に纏わる記録が余り残されていない事だ。しかし高山公実録や公室年譜略を細かく読み解くと 見えてくる事がある。
まず初めに弟の新助良政が享年から逆算するに享禄五年 天文元年(1532)生まれである事を示しておこう。
使用する数字は菊地氏の生年永正十四年(1517)年と 源七郎高則の生年天文十八年(1549)である。
前提として戦国の世 若くして出産するのは勿論ではあるが前田利家の妻のように十二歳で出産するのは少なからずあった事を記しておく。

菊地氏が十二歳で娘を生んだ場合 おとらは大永八年 享禄元年(1528)生まれとなり 源七郎を生んだ天文十八年(1549)時には二十二歳という事になる。
同様に菊地氏が十四歳で娘を生んだ場合 おとらは享禄三年(1530)生まれとなり 源七郎を生んだ年には二十歳という計算だ。
ところが弟の新助良政は享禄五年 天文元年(1532)生まれであるから 姉であるおとらの生年は大永八年 享禄元年(1528)から享禄四年(1531)の間という事になる。

五十代で去ったおとらと、後妻を迎えた虎高

さて生年がある程度絞り込まれると おとらは五十代でこの世を去った事がわかる。

その一方で源助虎高は三十四歳で初めての子に恵まれると 驚く事におとらが逝去した後に後妻宮崎氏を迎えた。なんと天正十三年(1585) つまり齢七十にして三男高清をもうけているのである。
また四男正高は天正十六年(1588)に生まれており 他に生年不詳の娘が居る。

新助、伊勢に死す

新助の享年は三十八歳と伝わる。逆算すると 享禄五年 天文元年(1532)の生まれとなろう。
その後 新助良政は永禄十二年(1569)の大河内城の戦いで甥の源七郎高則や 義兄箕浦忠秀 忠高実娘の夫 と共に討ち死。
彼の遺児新七郎良勝も若江で壮絶な討ち死を遂げた事を踏まえると 三代続けて壮絶な死を遂げた事となり武功一番そして侍の本懐を遂げた希有な一族といえよう。

藤堂少兵衛

藤堂少兵衛は多賀氏から忠高の娘に婿養子として入った人物である。諱は良直とするのが 公室年譜略 の系図である。
史料に見える名は 少兵衛 天正十六年小堀宛書状 慶長六年頃高虎の少兵宛書状 良徳 小堀宛書状 である。
生年は不詳ながら 慶長八年(1603)に六十一歳で亡くなったと伝わる事から生年は天文十二年(1543)と推測することができる。

別名に勝兵衛 将監 九郎左衛門に嘉房 良家という名も伝わるが 一次史料には見られない。
参考までに述べると 藤堂将監の名は第二次天正伊賀の乱を記した 伊乱記 にて 丹羽長秀率いる柘植口の軍勢に見る事ができる。
これは旗本家の祖という事で菊岡如幻が便宜上 将監としたものと考えている。実際藤堂将監は後継者で孫の良以が最初に名乗っている。

末裔の藤堂梅花が記した 老婆心話 にある由緒書きでは 姉川の合戦で功を挙げた少兵衛は信長から 勝利は汝か功 と賞され 勝ちの字 へと改名したとある。しかし 天正十六年(1588)時点で 少兵衛 を名乗っている事実があるので この逸話は信じがたいものである。信長の死後に戻した とも考えられるが

養子入り

さて少兵衛の出自は諸説ある。その中でも私は多賀常則との関係が深そうだと考えている。とかく出自については此方で触れているので割愛する。

彼が藤堂家に入った時期は定かでは無い。しかし彼の生年と息子の生年からその時期を推測する事ができる。
彼の息子 玄蕃は永禄二年(1559)に生まれた。時に少兵衛は天文十二年(1543)生まれであるから つまり少兵衛が十六歳の時に玄蕃は誕生した事になる。
そうなると彼はその一年前までには藤堂家に婿養子として入っていたと考えるのが自然だろう。

後に秀吉 秀長に従い大和国曲川に知行を宛がわれると 徳川の時代を旗本として迎える。
そうして彼は慶長八年(1603)に六十一歳で亡くなった。没年から逆算すると生年は天文十二年(1543)という事になる。

いとこ藤堂玄蕃

さて既に記したように 少兵衛の息子で高虎の従弟にあたる藤堂玄蕃は永禄二年(1559)に生まれる。
諱を良政や嘉清 通称には喜左衛門とあるが 一次史料的には玄蕃である。

寛政譜によれば早くから父と同じく織田家に仕え 丹羽長秀のもとで働くと後に羽柴家へ転じたとある。
その後 秀吉の甥である秀次に仕えると奉行として活躍。若江八人衆にその名を連ねた。

秀次一派の粛清に伴い彼も連座で罪に問われるが 高虎に預けられたまま放免となった。またこの頃に外庵と号している。

その後 四十二歳で迎えた慶長五年(1600)の夏 他の重臣共々伊予の留守居 毛利への備えを任されたが無断で西上し参戦。
その後の合戦で島左近の嫡男新吉に討ち取られた。皮肉にもそこはかつての同僚が多い石田三成隊の陣柵を破った直後であった。

子どもたち

跡目は嫡男の与三良連が継いだものの 五年後の慶長十年(1605)に二十歳の若さで亡くなった。

このとき既に次男の良以は祖父少兵衛の跡を継ぎ徳川家へ出仕し 旗本藤堂将監として歩み始めていた為に玄蕃家は三男の良重が跡を継ぐ。
しかし彼は男子無きまま夏の陣で壮絶な討ち死を遂げたので 良重の未亡人矢倉氏は娘を抱え末弟の九蔵良次へ再嫁。
これにより良次が玄蕃家の当主となった。
その後玄蕃家は伊賀上野の重臣として栄え 今も末裔はご健在と聞く。

建仁寺流甲良氏と山岸氏

ところで玄蕃家に仕えた家士に 山岸氏という一族が居る。有名なのは若江で良重と共に討死を遂げ 七十一士の高名を遺す山岸喜太郎だろう。
甲良町史 にある甲良大工顕彰頁に
甲良宗次の妻は 藤堂家臣 山岸岩之助の娘を母に持つ
と記されている。恐らく喜太郎と岩之助は同族なのだろう。

高山公実録 の玄蕃良政討死の項には
玄蓄の家に行て是を質すに 其家臣山岸喜太郎の先祖山岸岩之助
と記されている。この山岸喜太郎というのは 若江で死んだ喜太郎の末裔だろう。そうなると その先祖が岩之助となれば二人に親子の関係見出すことが出来る。
高虎の人脈として挙げられる甲良大工は 同じ甲良出身の地縁だけでは無く 陪臣との血縁関係という濃厚な人脈であったという訳だ。

また 伊乱記 には家臣山岸岩之助の武功が記されている。著者の菊岡如幻が執筆した時代には 伊賀の重臣である藤堂玄蕃家の代表的な家臣として山岸氏が居るので 恐らく菊岡は取材を行って岩之助の武功を記したのだろうと思われる。そうなるとすると山岸の記録には我々のまだ見ぬ藤堂家の記録が眠っている可能性があり そうなると後裔の藤堂梅花が記した 姉川の合戦で活躍して 信長に褒められた藤堂少兵衛 という逸話の立証 そして少兵衛の出自に繋がる記述が為されている可能性も考えられるだろう。