豊後守多賀高忠は激しい内乱の末 本拠地下之郷城を追われると 文明十八年(1486)の八月十七日に没す。
一般的に多賀豊後守家は高忠の死後語られることは皆無に近い。しかし調べてみると 史料に高忠の後裔を見る事が出来た。

多賀豊後守家のその後

さて高忠の後裔について史料を中心に調べた結果を表にすると以下の通り。

月日動向 出典
1486文明十八年
7/25藤堂備前 今井蔵人と共に政経材宗の室町出仕に同道
1487長享元年
8/21多賀新左衛門尉殿宛幕府奉行人連署奉書 古フ
9/14多賀新左衛門殿礼樽酒代陣取 金剛
10/24?多賀新左衛門殿 ヨリ 廿貫銭被懸時
11/13佐々木中務少輔殿多賀新左衛門尉殿宛幕府奉行人連署奉書
12/6同事多賀 新左 衛門殿へ礼樽の肴代
1488長享二年
8/3経家添状 日古グ
8/4政経と共に伊勢梅津へ敗走
?/?新左衛門殿兵糧米付
?/?多賀新左衛門殿要脚出
1495明応四年
10?/28多賀新左衛門殿多賀迄出張間礼 樽持行人夫食
12?/24新右衛門殿 新左衛門か より 兵粮米懸 折帋持来若黨酒
12?/27新左衛門殿兵粮米為侘事 同日? 新左衛門殿兵粮米事南井又次郎上時飯酒
1496明応五年
1/7新左衛門殿中間三郎四郎惣中間衆より酒手可取使 新左衛門殿年始桶樽代
1/16新右衛門殿兵粮米催促
1/19多賀新左衛門殿 同兵粮米遣
2/1?新左衛門殿中間酒手可取由申来時五人飯酒
5?/10多賀新左衛門殿陣中無音ノ間樽持行同小八木方両人夫食
6?/10為御屋形新左衛門殿 より 畳十帖懸来中間酒販料
6?/17新左衛門殿治部少輔殿御参間又礼 新左衛門殿お可板被懸候折可ミ持来
6?/21新左衛門殿へ板一間持行食
6?/24新左衛門殿へ板三間持行食
7?/26新左衛門殿 より 葺板所望由
1499明応八年
5/7兎大夫 多賀豊後の話をする 鹿
1507永正四年
2/3?多賀豊後子同年親ヨリ令生涯 東裏
1510永正七年
2/20義澄追討御内書に 多賀豊後入道との 大日
??年不詳
4/10多賀経家書状 日古
10/22養徳院宛多賀経家書状 古フ
日古日本古文書ユニオンカタログ
古フ古文フルテキストデータベース
大日大日本史料データベース
金剛輪寺下倉米銭下用帳
蔭凉軒日録
東裏東寺過去帳 裏書
続類続群書類従
北野社家日記
鹿鹿苑日録第一巻

多賀新左衛門

文明から明応にかけて 多賀新左衛門 の名を多く見ることが出来る。
特徴的な部分を捉えると 文明十八年(1486)七月に政経 材宗親子と共に出仕し 二年後には政経と共に逃亡している。すなわち政経の配下であったと考えられよう。

しかし長享元年(1487)十一月十三日付の幕府奉行人連署奉書 松田長秀 飯尾清房 の宛名は 佐々木中務少輔 と新左衛門である。
一般的にこの時代の佐々木中務少輔は政経 材宗親子と敵対した 京極高清 とされており この頃の両者はまだ決裂に至らなかったようにも感じられる。

多賀経家

突然ではあるが この時代に活躍した 多賀新左衛門 について私は 多賀経家 と説く。
何より長享二年(1488)八月三日の 来田文書 経家添状 には 多賀新左衛門尉 と記されている。蔭涼軒日録 の八月七日条によれば この添状の翌日に佐々木大膳大夫 政経 の出奔に先がけて 多賀新左衛門 が伊勢梅津に出奔している。
ここからして この時代の新左衛門は 多賀経家 なのである。
更に 金剛輪寺下倉米銭帳 明応五年(1496)某月 六月か 十七日には 新左衛門殿治部少輔殿御参間又礼 とあり 治部少輔つまり京極材宗と近しい事がわかる。

参考として某年十月二十日付の 養徳院宛書状 大徳院文書 を見ると 委細治部少輔方可申入候 と記されている。
こうしたところで やはりこの時代の新左衛門とは経家の事と結論付ける。

さて政経 経家は長享二年(1488)八月四日に姿を消した。
大日本史料では 江北記 を引用しているが 中郡松尾で戦うも 然共被失利 として 御取退 したという。松尾とはどうも日野市の松尾地域らしい。
蔭涼軒日録で経家が逃れた先を 梅津 とするが これは今のいなべ市 梅戸 とするのが通説である。つまり八風峠を越えた事となる。
同日録には政経が逃れた先を 伊勢之堺黄檗ハタ としている。これは東近江市の県境 黄和田 地域のようである。

大日本史料によれば延徳元年(1489)八月末に政経は復帰したという。大乗院寺社雑事記 によると細川政元 江北記 によると上坂治部 浅見 磯野弾正忠の尽力によるもので 対する高清は坂本へ逃れたとある。
その後の経家の動向は明応四 五年(1495,1496)に集中しているが 年不詳書状には延徳年間と思われるものが存在する為 恐らく経家も 時を同じくして江州復帰を果たしたものと考えられる。

書状に見る経家

経家に関わる書状は幾つか遺されている。

長享元年(1487)八月二十一日・幕府奉行人連署奉書(大徳寺文書)

まず長享元年(1487)八月二十一日の 多賀新左衛門尉殿宛幕府奉行人連署奉書 大徳寺文書
これは同清泉寺領 同國清水庄内五町田 浅井庄尊勝寺領家分などに関して 違乱 が発生した事について 停止せよと幕府奉行人の飯尾宗勝 松田長秀 飯尾清房が経家に命じたものである。
大日本史料で調べると これは六角高頼の寺社領押領に関連するものと思われる。

十一月十三日・幕府奉行人連署奉書(北野社家日記七巻)

同年十一月十三日には松田長秀 飯尾清房の幕府奉行人から連署奉書を貰い受ける。その宛名は 佐々木中務少輔 多賀新左衛門 である。
その内容は多賀新左衛門が 八坂庄 犬上郡 の違乱に及んだ噂が起ったようで 太無謂 言われ無き としながら 所詮不日退彼妨 可全社家代官所務之旨 堅可被下知之由 と警告しているようだ。
また 両通在之 文言同前也 とて 経家方にも送られたようである。
佐々木中務少輔は 京極高清 であるが 彼と新左衛門という言わば 水と油 の両者が並ぶというのは興味深い。

長享二年(1488)八月三日・経家添状(来田文書)

長享二年(1488)八月三日の 来田文書 経家添状 小倉将監実澄を尼子郷半分代官職に任ずるもので 大日本史料では政経によって為されたとある。
前年に高清と共に連名の書状を送られた経家であるが ここで再び政経のもとに戻っている。
既に述べたように翻刻では署名に 多賀新左衛門尉経家 と記される事から 経家は新左衛門である事が理解できる。

年不詳四月十日・多賀経家書状(来田文書)

年不詳のものでは四月十日の 多賀経家書状 来田文書 十月二十二日の 養徳院宛多賀経家書状 大徳寺文書 である。
四月十日付書状については翻刻が見当たらないので 内容は全く検討が出来ない。

年不詳十月二十二日・養徳院宛多賀経家書状(大徳寺文書)

しかし十月二十二日文書は 大日本古文書家わけ第十七 大徳寺文書之七 にて翻刻されているので 史料編纂所データベースで容易に閲覧出来る。
その内容は興善寺領に関し 貴札 を預かったこと 委細材宗に執り成すこと また贈られた 唐墨 についての謝意である。

大徳寺文書の掲載順で行けば この直前に延徳三年七月二十八日の 政経寄進状 が掲載される。これは甲良庄の興禅寺とその寺領を養徳院住持に寄進したものだ。そうなると同じ延徳三年だろうか。
大日本史料を読むと延徳元年九月七日には政経が大徳寺養徳院領に清水荘荘五町田を 旧の如く 還付している。
やはり延徳年間と見たほうが良さそうだ。

金剛輪寺下倉米銭下用帳に見る経家

さて湖東三山として名高い金剛輪寺には 金剛輪寺下倉米銭下用帳 なる史料が存在する。
これがなかなか素晴らしい史料で 経家の動向を探るのには大いに役立つ。上記の表では便宜上省略している部分があるので ここで詳らかに見ていきたい。

長享元年(1487)

九月十四日

七百文 多賀新左衛門殿礼樽酒代陣取 とある。
これが同史料に於ける新左衛門の初出である。

どうも敵陣を攻め取り占拠したらしい旨である。
この当時の合戦とはまさしく 長享延徳の乱 鈎の陣と呼ばれる 六角征伐 であろう。経家は京極勢として活躍したらしい。

このとき新左衛門殿へ鐵輪 能の演目 大夫 芸人 を遣わしたり 二百文 小者へ酒を出したり 八百文 番匠 建築工 手間料五十文と続くので なかなかの大盤振る舞いに見える。

二十五日頃

四貫五百六十文として 多賀新左衛門殿惣分 樽被懸候時十参荷酒 とある。
十三荷酒 の部分は愛智郡志の翻刻によるものという。

十月二十四日か

七十文 多賀新左衛門 経忠と比定 殿 ヨリ 廿貫銭被懸時

十月二十五日

七十五文 同事付上使河瀬弥四郎殿遣酒三升不足

十二月六日

同事多賀 新左 衛門殿へ礼樽の肴代

長享二年(1488)

この年は何れも月日不詳であるが 経家は八月に伊勢へ逃亡しているため 自ずと八月以前と推定される

月日不詳

八十文 新左衛門殿兵糧米付安食中殿へ樽肴代

十四貫文月日不詳

多賀新左衛門殿要脚出

明応四年(1495)

この時代 美濃では戦乱が発生している。船田合戦 である。
同年の合戦は濃尾二国間であったが 同書の解説を読むと六月二十七日に京極高清と六角高頼の間で戦闘が起き 高清は太平寺から多良へ敗走したとある。

そこから考えると 十二月頃に経家が動いているのは 翌年の戦いに備えて兵糧の準備を始めていると見ても良さそうだ。
また 新右衛門 との表記が見られるが ここでは新左衛門尉経家の事と判断して掲載している。

□升十月廿八日

多賀新左衛門殿多賀迄出張間礼 樽持行人夫食
多賀まで出張とあるのは 多賀大社の事を指すのか 城が並ぶ山間部を指すのかよくわからない。

二升十二月廿四日

新右衛門殿 より 兵粮米懸 折帋持来若黨酒

□斗四升十二月廿七日

新左衛門殿兵粮米為侘事高橋兵庫殿方へ樽代

四升・同日

新左衛門殿兵粮米事南井又次郎上時飯酒

明応五年(1496)

この年 江州も船田合戦に介入した事で知られる。そのため兵役にかかる記録が何件も残されている。
特に を提供しているように見えるが 恐らく戦地で楯として用いると思われる。
そうした視点から考えると 金剛輪寺というのは一種の軍事商社の役割を持っていたように見受けられる。

四升正月七日

新左衛門殿中間三郎四郎惣中間衆より酒手可取使 来時飯酒二人
二斗八升 新左衛門殿年始桶樽代

四升十六日

新右衛門殿兵粮米催促 来中間飯酒

三石十九日

多賀新左衛門殿 同兵粮米遣
八升 同米持行き人夫路次煩う間八人下

一[]二月一日か

新左衛門殿中間酒手可取由申来時五人飯酒

二升五月十日

多賀新左衛門殿陣中無音ノ間樽持行同小八木方両人夫食

二升六月十日

為御屋形新左衛門殿 より 畳十帖懸来中間酒販料

[]升十七日

新左衛門殿治阝少輔殿御参間又礼 樽持行人夫食
升同日 新左衛門殿 より お可板 大鋸板 被懸候折可ミ持来中間酒

一升十八日

同お可板二間持行食

五合廿一日

新左衛門殿へ板一間持行食

一升五合廿四日

新左衛門殿へ板三間持行食

一升七月廿六日

新左衛門殿 より 葺板所望由

多賀豊後入道

さて明応以後 多賀新左衛門は表舞台から消える。
ではここで豊後守家は滅んだのだろうか。
それは否である。

永正七年(1510)二月二十日 義澄追討を命じた義尹 義稙 の御内書を読むと 近江に 多賀豊後入道 という人物が存在したことがわかる。
彼は誰なのだろう。

犬追物益鏡に見る多賀豊後入道

さて次世代デジタルライブラリーで 多賀豊後入道 と調べると面白い記述と出会う。
何でも永正二年(1505)もしくは永正五年(1508)の七月朔日または七日に 多賀豊後入道宗悦 犬追物益鏡 後序 を記したとある。
それぞれ見てみると 国書解題 明治三十七年 にて 益鏡 こちらは永正二年七月七日。座右書前編 大正十三年 にて 犬追物眞鏡 こちらは永正五年七月朔日。弓道講座第二十二巻 にて 益鏡 こちらは永正二年七月七日とある。

一貫しているのは同書が寛正四年(1463)四月十日 小笠原元長によって記された奥書であるという点だ。国書解題 弓道講座
弓道に纏わる書物に現れる点からわかるように これは弓道に纏わる書という。現在群書類従で翻刻されているが 残念ながら後序についてはよくわからなかった。

また国書解題には同じく小笠原元長の著書として 鏡外 が紹介されているが 永正元年(1504)に梅戸貞輔の奥書と多賀宗悦の後序等があると記されている。
多賀宗悦とは 先の三冊に登場する 多賀豊後入道宗悦 その人であろう。

多賀氏では豊後守高忠が文武両道の所司代として名を馳せた。その著書には 高忠聞書 なる弓術の専門書が存在する程である。
そこから考えると 高忠の一族と見られる豊後入道宗悦に弓術の覚えがあったと見るのは自然だろう。

さて永正年間であれば すでに豊後守高忠は没している。さらに永正七年(1510)にも名前が記される点から また後述の理由から新左衛門経家とは別人と判断出来る。
では豊後入道は誰なのだろう。

高忠の子息を考える

二木謙一氏は 中世武家儀礼の研究 のなかで高忠の子息を解明する為に 東寺執行記 の文明十七年(1485)八月二十六日条 豊後守子息与一 を引用されている。
つまり晩年の高忠に 与一 なる子息 後継者が存在した。

大日本史料で高忠の死について調べると 春浦宗煕が記した 春浦和尚口金説 にて明確に 考子経家 と記されている。これは高忠の法事を子の経家が私邸にて執り行ったという事だろうか。
様々な系図で高忠の子を経家とする由縁が こうした記述なのだろう。

駒澤大学禅研究所年報第十二号に見る多賀氏

多賀豊後入道を調べていくと何故かこの年報に行き当たった。
早速閲覧を試みると 大徳寺夜話をめぐって に多賀氏を見ることが出来た。

1 円通院殿小斂忌拈香< 養叟録 小仏事 8 >
円通院殿香林英公禅定門 多賀豊後入道親父也
功徳主 孝子宗円 文安四年七月廿二日(1447)
3 春林宗芳大禅定尼小斂忌< 春浦録 50
功徳主 経家 多賀左右衛門尉カ 文明十五年林鐘初九日(1483)
4 春林宗芳大禅定尼大祥忌<同拈香 56>
功徳主 経家 文明十七年夏五初四日 1485 就于当院 養徳院
5 怡雲妙喜大姉三十三年忌<同 52>
功徳主 孝子豊州太守高忠 多賀 文明癸卯<十五> 1483
6 大源本公禅定門小斂忌<同 62>
前豊州太守大源本公禅定門 多賀高忠
功徳主 経家 文明十八年仲秋十七日 1468
7 春林宗芳大禅定尼<同 下火 198
8 多賀豊州并新左衛門殿 所寄附之二十石之米 若有相続之志者 如此間大源 高忠 之位牌 毎日可吊也。縦又雖相年忌ニハ備霊供有諷経也。中略 寺領 并当院之義 可被憑多賀新左衛門殿也
明応三年三月宗煕 1494 <養徳寺法度>
9 桂林 宗芳居士 多賀新兵衛殿< 春浦録 道号 309
通し番号は筆者が便宜上ふったもの

これは知識が無いと解読に難儀する。当然私も知識が無いので 何のことかさっぱりわからない。本文を読むと どうやら多賀高忠は一休を嫌っていたようである。そうした中で多賀氏と禅宗の関係を調べるに当たり こうした一覧が制作されたようだ。

さて 目を引くのが経家が既に三番目 文明十五年(1483)時点で 功徳主 を勤めている点である。果たして原本に 経家 と記されているのか興味深いところではあるが そうでなくても着実に経験を積んだ経家が高忠の法事で功徳主を勤める流れは自然だろう。
そうなると益々経家が 後継者 子息の与一 である可能性が強まる。

経家の次に興味深いのが 一番目 文安四年(1447)七月廿二日に法事が営まれた 円通院殿香林英公禅定門 について 多賀豊後入道親父也 と記されている点である。
この 多賀豊後入道 なる人物が 永正年間に姿を見せる同名人物と同一なのか定かではない。
また功徳主の 宗円 も謎に近い。いったい誰なのか。

八番目の 養徳院法度 についても興味深い。これは 中世禅林の法と組織ー禅宗寺院法の基礎的考察ー 佛教大学総合研究所紀要 1998 別冊 にて 春浦宗煕が定めた法度と解説されている。また翌年の法度には多賀氏との関係についても記されているそうで 八番目の法度が当該である。
大源の位牌を 毎日可吊也 としているので 所寄附之二十石之米 した 多賀豊州并新左衛門殿 とある。

養徳院法度に見る多賀豊後守、新左衛門

さて八番目の法度は 大徳寺墨蹟全集第一巻 にて読むことが出来る。
番号でいくと一四二番で 明応三年(1494)三月に宗凞が定めた法度中 十七番目に多賀氏について記されている。

要は
 多賀豊州 新左衛門殿 より二十石の米を寄附されている
 これを相続する志が有る者は 此の間の如くに大源 高忠 の位牌を立て 毎日弔はるべし。
  年忌には供物を備え 勤行有るべし。
 巨細は越兄に申し置いたので 老僧順寂の後は越兄を以て此の旨傳達有るべし。
 寺領并びに當院の儀は 多賀の新左衛門殿に憑 たの まるべき者なり。

訳文を参考にすると 以上のようになる。
多賀豊刕 并新左衛門殿 とあるのは 明応三年(1494)三月時点で二人の存在を示唆するのだろうか。しかし 高忠 経家親子 としての表記にも見える。
果たして何れなのだろうか。

多賀大社と多賀豊後守

さて明応三年(1494)の多賀豊後守は意外なところで見ることが出来る。
二木謙一氏の多賀高忠論考に依れば 明応三年(1494)に六角高頼は武家で神官の 多賀豊後守高備 に命じて多賀社に護摩堂一宇と不動坊舎一棟を造らせた そうだ。
これらは 多賀観音院古記録 江州多賀大社別当不動院由緒 を出典としている。

また 近江国敏満寺の復原研究 国土地理協会 多賀社参詣曼荼羅に見る敏満寺 シンポジウム最盛期敏満寺を復元する 富士市立博物館大高康正 には同じ不動院由緒を引用したのか 多賀豊後守高満 としている。
高満 という諱は 多賀大社叢書 の論説でも紹介されている。これは 中世の多賀大社 久保田収 といった項目に記されている。

この諱を更に調べてみると 何故か後の京極重臣 多賀越中 に辿り着く。
ただ多賀越中の実父とされる人物は寛政重脩諸家譜に見られる 高満 以外にも その系図を引用し 高晴 国吉城ゆかりの戦国武将展一 福井県美浜町 という諱も存在する。結局はよくわからない。
最も多賀越中は元々 山田大炊 を名乗っていた。関ヶ原 大津城のの功で多賀姓を許されたのだという。本筋とは何ら関係ないので ここで仕舞いとする。

さて 高備 高満 何方か定かではない。
しかしながら 多賀豊後守 多賀大社に護摩堂と不動坊建立に尽力するという由緒は興味深い。
それでも 京極に属していた多賀氏が六角高頼の依頼を受ける点 多賀豊後守を神官としている点が気になる。

とかく纏めると 明応三年(1494)時点での 多賀豊後守 とはまさしく 後の 多賀豊後入道 その人のように感じられる。

なかなか多賀氏と多賀大社の繋がりが見られないなかで こうした由緒の記述は大いに興味深い。果たして何処まで史実に近いのか まだまだ調査を続けたい所存だ。

鹿苑日録に見る多賀豊後

鹿苑日録 多賀豊後 という語句が現れるのは 五年後の明応八年(1499)五月七日の事である。

又兎大夫話及舊南房事 多賀豊後請之

兎大夫は狂言師とされる人物で 彼が 南房事 について 多賀豊後請之 と語る。
その詳しい内容については浅学も有り触れない。ここでは 多賀豊後 が登場したことのみを触れたい。
さてこの多賀豊後は誰なのだろうか。考えるに兎大夫が昔話として高忠を語ったか はたまた後の 多賀豊後入道 であるか。後者であれば 彼は犬追物益鏡でもわかるように教養がある。そうした部分で狂言師とされる兎大夫と関わりを持つのは自然に思える。

総括

このようにして見ると多賀豊後入道は某氏の子息 経家は高忠の子息との感想を覚える。
某氏というのも多賀氏に近い存在 むしろ多賀一族の人間ではないか。然るに豊後入道は幼年に親を失い 多賀氏に養育されたと考える。
文安四年(1447)には生まれて居たことを考えると 御内書を送られた時点で六十歳は超えている。入道には適しているだろう。

新左衛門尉経家の最期

東寺過去帳によれば あるとき京極治部少輔とその子息 多賀豊後子ら十四人が命を落としたという。
京極治部少輔 同子息 多賀豊後子 已上十四人 東浅井郡志一巻から

東浅井郡志一巻によれば同過去帳には裏書きがありて
永正四 二月三日 和睦已後 京極中務少輔より令生害 子息ハ九歳 同年親ヨリ令生害 生害者十一人 腹切者三人
と記されているそうだ。
治部少輔とは材宗 中務少輔は高清を指す。ここから彼の命日が永正四年(1507)の二月三日とわかる。

そして過去帳を組み合わせると次のようになろう。
京極治部少輔 京極中務少輔より令生害 同子息 子息ハ九歳 多賀豊後子 同年親ヨリ令生害 已上十四人 生害者十一人 腹切者三人

多賀豊後子 の裏は 親ヨリ令生涯 となり 彼は親に死を命じられた事になる。
多賀新左衛門 が歴史の表舞台から姿を消す事を踏まえると ここで死罪となったのは 新左衛門尉経家 の可能性が高い。
しかし経家は高忠の子とするのが通説である。すなわち高忠が亡くなった後の出来事であるから 親より死を命じられることは到底おかしい。

また 豊後子 が経家だとすると ここで彼が亡くなっていることから豊後入道と経家は別人とする事が出来よう。

しかし経家と断定するに史料が足りないのも事実である。
ゼロベースで考えると 当時材宗に従っていた中に 多賀豊後の子を称する者 が居り 彼の親は高清派であったが為に命を落とした。そういった可能性も考えられよう。しかし自分で書いていても荒唐無稽だ。それでも可能性ぐらいは提示する必要がある。

そうなると最早理解が不能である。これはどういった事なのだろう。

豊後入道は父か

私は当初 豊後入道が高忠の子息であり 与一を名乗っていた人物と考えていた。
そして経家が豊後入道の子で 孫であるとも考えた。
また様々調べ 彼の足跡が伝わらない部分に着目。政治力と武門の統率力が父高忠や息子経家に遠く及ばず 高忠は自らの後継者を孫の経家に定めた。このような仮説を立てた。
これならば文明十八年(1486)に現れる新左衛門と前年文明十七年(1485)に見られる 与一 は同一人物 経家の事と考えた。

しかし掲示した禅宗史料から どうやら経家はかなりの確率で高忠の子息で 豊後入道との繋がりは不明との方向に傾いた。
可能性を再び考えると 高忠の没後に経家の後見役となったのが 豊後入道 であり 後見役としての という意味合いではないか。

何れにせよ豊後入道の前歴は不詳だ。
とかく彼は高忠や経家が歩んだ修羅の道からは距離を置き 代わりに武芸を磨いていたと考える。
そうしたところで弓術の専門書に名前が見られるのではないか。
教養人であることを考えると 多賀大社に護摩堂一宇と不動坊舎一棟を建てる上で特段の違和感は覚えない。むしろ明応年間頃まで 彼は新左衛門経家と共に材宗陣営に居たことも示唆するものだ。

それでも彼は乱世の波から逃れることは出来なかった。
いつしか新左衛門経家と敵対することとなり その結末が永正四年(1507)の処刑ではないか。
そのように考えると 新左衛門経家を処す決断を下したあたりは 彼もまた室町の武士であると感じられる。

信用のおけない系図

こうしたところで系図類を漁ってみるも 全く役に立たない。
方々で高忠子息を 高房 とする系図や記述も見られるが 一次史料に見ることは出来ない。同じように 経忠 高家 とする記述も存在するが 彼らは天文年間に経忠は山陰で 高家は大内氏の配下として活動が見られる人物であるから 近江での活動は到底有り得ないものと考えている。

東京大学史料編纂所に足を運び加賀藩多賀家の系図史料を閲覧するも 高忠子息を 経家 とする系図ばかりである。とはいえこれは上に記したことから 経家を子息としたのだろう。

また経家の子息を 秀忠 とする系図も散見されたが 多賀氏世系 にて 六角義秀 の名が登場する。この人物は曰く付きの 江源武鑑 に登場する人物であるから 全く以て信用に値しない。
秀忠 であれば明和六年の 多賀平馬系図 では高忠から直接秀忠が繋がり 永禄元亀江州旗頭 高嶋郡領仕候由傳 と記されているが 旗頭 という表現も曰く付きの 佐々木南北諸士帳 に登場する表現で非常に信用できない。

高嶋郡 については 後年多賀貞能を高島の人であると説明されるが その元が同系図と考えられる。なお高嶋郡に多賀氏が入り込む余地など無く 全く以て論ずるに値しない事も付け足しておく。