もう一つの多賀氏・多賀信濃守貞能

時は流れて浅井家が滅亡した後の事。信長の側近堀秀政の弟源千代が多賀貞能の婿養子として入った。彼は後に多賀秀種と名乗った。

ところで貞能の動向記録というのは僅かだ。
しかし彼は信長側近の弟を養子に迎え入れた。これは地元国人衆の懐柔という要素が強いと見るのが一般的であろう。現に磯野員昌は信長の甥を養子に迎え入れている。
それを考えると 活躍の具合が定かでは無くとも貞能は近江国人の中でも一目おかれる存在であったと推察できる。

なお常則の稿で述べたように 信濃守貞能と新左衛門尉常則を同一人物だとする論説も存在するが ここでは別人説を採り解説を行っている。

多賀貞能は何者なのか

では多賀貞能というのは何者なのか 幸いなことにこの男の出自は明らかになっている。
彼の先祖は多賀豊後守高忠である。
後裔が加賀前田家に提出した系図では 次のような系譜になっている。
高忠→高家 経家 →高房→貞隆→貞能

しかし先に述べたとおり こうした系図は信頼できない。
とはいえ後に述べるが 貞能は天正九年(1581)十二月二十日に 前豊州太守功寂宗忠禅定門 の二十七回忌法要を勝楽寺で執り行っている。彼が法要を行うとならば やはり父親の法要と見られ 豊州太守とは 豊後守 の事となる。
時代を遡れば弘治や天文に 豊後守 を名乗った中原氏の人物とは 多賀貞隆に他ならない。

つまり高忠から貞隆までは疑わしいものの 貞隆と貞能を結びつける系図の記述は正しそうだ。

信濃守多賀貞能の謎

ここからは信濃守貞能について見ていこう。

貞能の前半生

前述の通り貞隆は天文二十四年 弘治元年(1555)に没したとされる。
貞能が家督を継いだのはその前後と考えるのが自然だろう。

しかし貞能は何処で何時生まれたのか そこからも不明なのである。若かりし頃の彼がどのように行動したのか 全く見当もつかない。
天文二十四年(1555)九月の多賀大社の梵鐘銘文に見られる 多賀輿九郎左衛門 多賀興一 の何れかが貞能である可能性は考えられる。
遡ると高忠の子息が 与一 を名乗っていたので その例に倣うと後者 多賀與一 が若かりし日の貞能と思われる。

考えてみると貞隆は六角派としての活動が目立つ。そうなると貞能もまた六角の配下として歩んできたと考えることは自然だ。
永禄十一年(1568)には本拠地とされる下之郷城が六角氏共々没落しているが その後に六角配下の将たちは織田方に組み込まれて居るので 貞能も永禄末に織田の配下に収まったのだろう。

織田方として

後世 虎御前山砦を描いた 虎御前山古砦図 には各将の陣地が記され その中には 多賀豊後守 の名前もある。これは貞能の陣地と比定されているようだが あくまでも 伝多賀貞能陣地跡 であり その信憑性も疑わしい。
とはいえ同砦の築城時期を考えると元亀三年(1572)頃には既に織田方として活動していたと考える事はぐらいは出来るだろう。

しかしそれ以降の動向は定かでは無い。
多賀新左衛門 との混同が見られがちで 信長に重用されたとも思われているが 貞能は天正十年(1582)当時には既に 信濃守 であった事から俄には信じがたい。
やはりここは 空白 としておくに限る。

父の法事

数少ない貞能の記録としては 天正九年(1581)十二月廿日に勝楽寺で執り行われた 前豊州太守功寂宗忠禅定門 の二十七回忌が該当するだろう。これは父貞隆の法要とみる。
大功徳主中原朝臣貞能 貞能の諱が明確に記されている。残念なのは仮名 官途の類いが見られない点であり 信濃守を名乗った時期を推定することが出来ない。

勝楽寺は元亀争乱に巻き込まれると 織田方により燃やされたとされているが この頃には再び寺としての機能が復活していたと考えられる。

本能寺と貞能

天正十年(1582)の六月に発生した本能寺の変で 多賀氏は明智側についたとするのが通説だ。
では その多賀氏というのは具体的に誰なのだろう。

老人雑話 という江戸時代初期の随筆には
山崎で味方が敗色濃厚になると 多賀信濃守が真っ先に撤退した。その時に桂川を渡河したが 渡守に十貫支払った
といった内容が記されている。
明確に 信濃守 と記されているから これを信じると光秀に与したのは貞能その人だろう。
また 鼻くた とも記されていたから 信濃守という人は鼻が悪かったと思われる。

多賀貞能の隠居

さて本能寺の変から二ヶ月後の八月二十一日に堀秀政 多賀政勝兄弟が多賀新左衛門へ書状を発行した。
太閤検地論より 大日本史料にも多賀文書として収まる

多賀信濃守貞能公東福寺御隠居御合力米等 品付写共二通
貞能隠居分之事
上郷下郷段銭雑事銭 拾貫文
冨尾段銭      五十貫文
西明寺反銭     百貫文
冨尾宇治米     拾三石五斗
輿松庵 大陽寺領 拾九石弐斗
八尾米       拾八石
上郷地頭職     七拾石 人足十人斗有之
上郷中村分     参拾石
池寺十坊分     百石 中間十人斗人足十四五人有之
赤関方より買地分  拾壱石
八重練沽却銭    八貫文
一圓小林段銭    六貫文
金蓮坊分      九拾石 人足六七人在之
北我孫子之内兵衛大夫分 百石
 合八百石者 高頭
天正十年
 八月廿一日 
             堀久太郎
             秀政 花押
             多賀源千代
             政勝 花押
多賀新左衛門尉殿        参

この書状からわかることは ^

隠居するほどの事というのは やはり光秀方に与した事を咎められたからだろう。
新左衛門へ通達した事は興味深く 貞能と彼の混同の大元となる。しかし十一月に 信濃守貞能 が馬場小次郎に知行を宛がっている点を鑑みると 別人であることは明らかだ。
考えるに 新左衛門は貞能の重臣 陣代として名を馳せたのだろうか。

先に述べたように 貞能は十一月十四日に馬場小次郎へ知行を宛がっている。これは 多賀町史 に依るものである。

百石 公事人壱人 むさしの内
三拾石 公事人弐人 くろ田の内
以上百三拾石
           信濃守
天正拾年十一月十四日 貞能 花押
馬場小次郎殿

^:北村圭弘氏はこの隠居料分を詳しく分析している。
赤関方買地 は赤田から買地した犬上川北岸の曽我 赤田井川周辺 金蓮坊分 はかつて佐々木道誉が時宗金蓮寺御影堂に寄進した 甲良庄領家年貢之内伍拾石 と比定した。
滋賀県立琵琶湖文化館研究紀要第四十号 多賀氏の系譜と動向 /20240511

送られた書状

某年十一月十九日 羽柴秀長は多賀信濃守 池田伊予守 小川壱岐守に書状を送っている。小川壱岐守がよくわからないが池田と多賀は それぞれ明智に与した者である。
正確な年が不明というのが惜しいが 多賀信濃守の名を見ることが出来る。
名を秀長と改めたのは天正十二年(1584)なので 同年以降から貞能が亡くなる天正十五年(1587)までの期間と考えられる。
隠居分注文でも見たとおり この 多賀信濃守 というのは 多賀貞能 の事である。また池田伊予守は 景雄 後の秀雄 と見られ 小川壱岐守なる人物は不明である。
その内容は以下の通り。北陸史談/豊臣期-武将の軌跡–多賀秀種の場合より

年内 何之表へも無出馬之条可有其意候其許之普請専一候
謹言
十一月十九日    秀長 花押
          池田伊予守殿
          小川壱岐守殿
          多賀信濃守殿

さて 無出馬之条 普請専一 とある。恐らくは 謹慎の身なのだから戦場には出ないように とのお達しだろう。
そうした中で同時代に多賀新左衛門は賤ヶ岳や小牧長久手 四国攻めと彼方此方に転戦している。そのため この書状の 無出馬之条 はそぐわない。これが新左衛門と信濃守を別人とする根拠の一つとなる。

しかし小牧長久手合戦の陣立てには 宛名にある池田氏では 孫次郎 小川氏では 孫一郎 がそれぞれ記されている。特に 池田孫次郎 は四国攻めでも名前を見ることが出来る。
可能性があるなら それぞれが官名を取り下げ仮名を用いたとの推論を立てることが出来る。確かに合理的な説で 逆に同一人物説の根拠にもなるのだろう。
しかし何も池田氏も小川氏も 一人だけでは無い。それぞれの子息の可能性もあるのではないか。こればかりは謎が多い。
ついでに記すと 後年小川氏には 左馬 なる人物が登場するが これも諱は定かでは無い為に謎である。

某書状

また史料編纂所データベース 日本古文書ユニオンカタログによると 某年の七月五日 中納言前田利家は しなのとの へ書状を送っている。
残念ながら内容は不詳である。これは後裔にあたる金沢藩多賀氏に伝わった 多賀文書 に収録されているようだが 残念ながら翻刻もされておらず 史料編纂所で解読を試みるも挫折した為 詳しく紹介することはできない。

だが よくよく考えてみると利家が中納言へ叙されたのは貞能の没後である。そうなると比定時期がおかしい。
しなのとの が貞能であるならば 彼の存命の時期に 中納言 となったのは羽柴秀長その人である。上に記したように秀長と貞能には書状の行き来があったから この文書は秀長から貞能に出された書状と考える事も出来よう。

また後年であれば秀種の後裔に 信濃 を名乗った者が居る。彼と藩主のやり取りとも考えられないか。
如何せん内容が全くわからないので困った。比定のしようがない。我こそは古文解読におぼえありという方は 是非とも史料編纂所で読み解き私に指南をして欲しい。頼みます。助けて下さい。

結局の一次史料で多賀貞能登場するのは 隠居料についての書状と 馬場氏への知行宛行 秀長書状 そして曰く付きの三通のみというのは 非常に寂しいものである。

多賀貞能の最期

貞能は天正十五年(1587)に亡くなった。
史料編纂所の忘形見データベースでは その日を 四月二十日 としている。
しかし備考を読むと 八月二十日 との注記がある。
どうやら 前者は 片岡氏家系 後者は 多賀氏世系 多賀文書 が出典らしい。
新左衛門の項で述べたように 四月二十日に亡くなったのは新左衛門の可能性が高い。そうすると 貞能が亡くなったのは八月二十日というのが有力なところだろう。

また史料編纂所で閲覧した 歴代過去名単仮 という多賀義高氏版多賀文書に収録される史料には 天策宗勲 八月九日 に亡くなった旨が記され 多賀正雄氏版の多賀文書に収まる 多賀系図 畳本系図 三種系図と同じか によれば 天正十五四月九日卒 と記される。
天策宗勲 という戒名は 多賀氏世系 にも記される貞能の戒名である。
結局のところ彼が亡くなった命日は何れが正しいのだろうか。今の私に判断する事は出来ない。

多賀氏世系 を史料編纂所で閲覧すると 亡くなった場所は東福寺の 即心院 と記される。また 豫一右衛門直満版系図 には 良心院 とある。どちらか定かではないが 彼は東福寺でひっそりと息を引き取ったらしい。
その享年も不明である。

貞能の妻

多賀氏世系や歴代過去名単仮によると 彼の妻 慶福院 應福院? は寛永十年(1633)六月二十九日に亡くなったらしい。その享年は此方も不明であるが 恐らく件の 後室 とは彼女を指すものと思われる。
こちらも史料編纂所で閲覧した多賀正雄氏版の多賀文書に収まる 多賀系図 畳本系図 三種系図と同じか によれば 貞能の妻は高宮三河守の娘 高宮左京允の妹という。
高宮氏は元亀争乱で滅んでいるが 彼女が高宮氏の娘であるか定かではない。

同系図は寛文六年(1666)九月に製作された系図であるが 貞能の事績についても記されている。坂本陣では穴太村で 夜軍では八級を挙げ信長より感状を賜り 甲州征伐では手負いながらも活躍を果たし信長より黄金百匁と馬飼料などを給わり 更には草津湯治も許可されたとある。
しかしこれらは新左衛門の事績が混じっているように感じられ 信用には足らないと判断し本稿での掲載は見送った。裏付けとなる感状が出てくると 此方としても助かるのだが。

さて 高宮城跡Ⅲ 彦根市埋蔵文化財調査報告書第 39 には 高宮町史 からの引用として高宮氏の系図が掲載されている。
これを参考に三河守を父に持つ 高宮左京允 を探すと 天正元年(1573)八月二十八日に亡くなった 高宮宗光 が当てはまる。しかしその父 実宗 が天文十四年(1545)正月二十四日に亡くなっている点に些かの不安を覚える。

高宮三河守 は宗光の兄二人 永禄元年(1558)七月九日に亡くなった 秀宗 元亀二年(1571)六月四日に亡くなった 豊宗 が称していると系図ある。
その中で 豊宗 の次男で元亀元年(1570)九月二十二日に亡くなった 宗存 右京亮 を称したと系図には記されている。右京と左京に違いはあるが 可能性としてここに記す。
それぞれ没年齢や生年月日は不詳で曖昧ではある。それでも貞能の妻が 高宮実宗の娘で宗光の妹 もしくは 高宮豊宗の娘で右京亮宗存の妹 という可能性は記しておくべきだろう。

多賀常則と貞能の混同について。

まず織田信長の家臣を調べる上でまず参考にすべき書物は 谷口克弘先生の 織田信長家臣人名辞典 である。
同書を読むと 常則と貞能は同一人物とされている。
貞能は信濃守で 新左衛門は常則とするのが私の認識であるが ウィキペディアを読むと貞能も新左衛門としているので やはり混同が激しい。

老人雑話 という随筆には 貞能が山崎で味方 明智 の敗色を悟ると一人戦線を離脱し褒美を受けた という話が記されている。
しかし実際の貞能は東福寺で蟄居の生活を送っている。褒美とは真逆である

そうなると 褒美を受けたのは戦後に羽柴家臣として活躍する常則が思い浮かぶ。
確かに多賀新左衛門が明智方として戦った という事は様々な記録に遺されているので非常に確率が高いのだろう。
しかし それでも確信的な史料にはまだ出会えていないから 不詳と言わざるを得ない。