多賀出雲守秀種と藤堂家~多賀秀種の生涯~

多賀秀種については 豊臣期-武将の軌跡-多賀秀種の場合/奥村哲 北陸史学(1978-11) という論文が非常に詳しい。
同論文は 史料編纂所や金沢の図書館に蔵書されている秀種系統後裔の史料から 秀種の簡単な一代記を翻刻して掲載している為 非常に参考となる。
それを参考に 多賀氏としての生涯を見ていこう。

前半生

まず 彼が生まれたのが永禄八年(1565)という事を示す。
その養子入りは
養子の約束自体は天正八年(1580)に結び 来々年に相続
との様で定まっていたらしい。
つまり十六才で多賀家入りが決まったのだ。
貞能の隠居分書状には 多賀源千代政勝 と記されているから この時期に名を多賀姓へと改めたのだろう。
しかしながら二年後に起きた大事件で すんなりと相続することは出来なかった。

貞能の隠居と政勝

既に記してきたように 天正十年(1582)八月二十一日付けで 堀秀政と源千代政勝兄弟は多賀新左衛門 常則か に対し 貞能隠居分 についての知行を通知した。
同書から秀種は当時 源千代政勝 という名乗りであったこと 貞能は隠居したこと そして多賀新左衛門という男が どうやら関係者らしい という三つが見えてくる。

多賀源介のお目見え

さて彼が源介と名乗ったのは天正十年(1582)の後半に 兄秀政が佐和山城の城主となった頃である。家譜によると彼は知行二千石となったらしいが 詳しいところはわからない。
源介という名乗りの初出は 大日本史料データベースの天正十一年(1583)三月十八日の項目で知ることが出来る。
そこは賤ヶ岳の戦いが勃発する前夜に 兄秀政から陣取りの事と 二十一日に秀吉が出馬するという内容の書状を受け取っているという旨が掲載されている。そして書状の宛名が 多賀源介 なのである。
どうやら彼は堀軍の先鋒に任ぜられたらしい。

一年後の天正十二年(1584)六月二十二日 源介は兄秀政から三千石を宛がわれた。また内訳として二千二五十石が給人分となっている。
なお同期間というのは 小牧長久手の戦いの最中である。合戦中に知行宛行が行われたのは興味深い。

秀政が十一月十二日に佐和山城留守居の近藤重勝 四郎右衛門 へ宛てた書状を読むと 源介が東奔西走していた様子が見て取れる。面白いのは
源介が佐和山に戻ってきたら 馬と共に休ませろ
と命じている点だ。
ここから 秀政が己の城である佐和山を 情報伝達のハブとして用いたことも伺えるだろう。
豊臣政権における家臣団編成方式の考察–堀秀政家臣団の場合/奥村哲 北陸史学 1972-10 より

また翌天正十三年(1585)の紀州攻めでも 源介は前年同様に各地を飛び廻っていたようである。

越前四千五百石の男

天正十三年(1585) 四国攻めが終わると兄秀政は越前転封となった。
越前二十九万八百石の主となった兄に従う多賀源介は 四千五百石の知行を得た。
同じ年に起きた四国攻めでの動きだが 源介は兄と共に従軍したか もしくは留守居をしていたとされる。

天正十四年(1586)には上杉景勝の上洛に際し 源介も石田三成らと共に越前での接待に加わったようだ。
この時 兄秀政より 無礼の無いように と念を押されている。
家譜によると 同年中には羽柴秀長の与力になったとの説もあるようだが 奥村氏は否定している。
またややこしいことに 天正十四年(1586)の書状には 堀源介 宛ての書状が見られる。これは相手が 堀家の源介 という認識で送ったのだろう。

秀長の与力として

天正十五年(1587) 義父の多賀貞能が亡くなった。
既に述べたように 彼が亡くなったのは八月二十四日とするのが有力だろう。

奥村氏は 貞能の跡目相続という事で 秀長与力へ転じたと見識を示している。
その証拠として 秀吉 秀長兄弟から送られた書状を挙げている。
それは
九月に聚楽第普請で失態があったが 秀長に救われたらしい
といった内容だ。
一説には 北ノ庄修築などを巡って秀政とトラブルの末に出奔とも言われるが 奥村氏はそうした書状を理由に明確に否定している。

ともかく 天正十五年(1587)の九月には秀長の配下に属していたと覚えておけば良い。

多賀出雲守

その後 翌天正十六年(1588)四月十三日に従五位下 出雲守叙任と成り 多賀出雲守と名乗っている

家譜では 貞能の死後にその息女を引き取ると 多賀新左衛門 を名乗ったともあるが 書状に新左衛門という名は見られない為に否定することが出来る。

なお北村圭弘氏は秀種がかつて出雲守家所縁の地を宛がわれていた点 そして 出雲守 となった点に着目し 秀種が 多賀出雲守家 を継承したとの見解を示している。滋賀県立琵琶湖文化館研究紀要第四十号 多賀氏の系譜と動向 ^1

^1:加筆追記/20240511

藤堂家とのトラブル

さてこの年の年末 十二月二十日 出雲守は藤堂家から次のように訴えられた。

今度被仰出候趣参々身領恭存候
一出雲守儀不存誠意候猶以如在有間敷事
一となり儀 不及申後室へたいし聊以不可為誠洛事
一東福寺小僧事いよいよ不返可仕事
此旨可然様 被仰上候て可被下候 以上
       天正十六        藤堂少兵衛
           十二月二十一日  良徳花押
              小堀新介殿

貞能の隠居料のうち東福寺分を自分のものとした事と貞能後室に対する態度を 藤堂少兵衛 良徳となっている が訴え 秀長側近の小堀新助に対し 出雲守の言動不明瞭 と報告している
秀種の後裔が製作した系図に依れば 少兵衛とは従兄弟もしくは相婿という関係になる。ただ藤堂家側にはそのような記述は見られず 結局のところ何故訴えたのかは不明であるし どのような解決に至ったのか定かではない。

小田原征伐と出雲守

天正十八年(1590)の小田原征伐では従軍せず 上方で秀長を見舞ったり秀吉へ兵糧を送っている
つまり留守居として 大坂もしくは 洛中に残っていたという事になり それは同時に陣没した兄 堀秀政を看取ることが出来なかった事を意味する。

また病身の秀長は政出雲守に 自身が亡くなった後の憂いを語った と奥村氏は指摘しているのが興味深い。

多賀秀種の登場

多賀秀種が登場するのは 文禄年間である
これは西尾豊後守宛ての書状から見て取れるようだ。
また同じ頃に関白羽柴秀次 その伝奏藤堂玄蕃より感状を受け取っている。
ちなみにこの藤堂玄蕃という男は 先に秀種を訴えた藤堂少兵衛の息子である。

宇陀の主多賀秀種

彼は兄の死後は大和家の与力に転じる。
年次不詳の知行分目録に依れば 葛上郡 葛下郡 高市郡 山辺郡 十市郡 式下郡 添上郡 添下郡 広瀬郡 式上郡に一万九千九百九十一石を宛がわれている。約二万石である。

文禄四年(1595)九月二十一日付の知行目録では 宇陀一郡二万六百五十六石一斗の領主となっている事がわかる。
なおこの知行宛行は 秀保没後の独立取り立てによる知行となるため 彼がいつ宇陀に入ったのか定かではない。
ただ宇陀を羽田長門守正親が治めていたとの説があり そこから考えると羽田失脚後の文禄四年(1595)九月に宛がわれるのは自然な流れに思える。

宇陀市教育委員会が二〇一三年に纏めた資料によれば 彼は宇陀に入ると居城 宇陀松山城を改修し天守も築いたとされる。多賀の酢漿草紋の瓦が出土している
宇陀松山は伊勢へ通じる街道筋にあり 秀種はその警備も任されたのだろう。

関ヶ原と秀種

秀吉の死後 一部の奉行衆と大老は江戸の内大臣徳川家康と敵対する。
慶長五年(1600) 旧大和家の大名たちは東西に分裂した。
有力な大名では伊賀の筒井定次 大和郡山で奉行増田長盛 紀州の杉若氏や堀内氏が西軍。高取の本多俊政や和歌山の桑山重晴 御所の元晴らが東軍であった。
重晴の嫡孫一晴ははじめ西軍であったが 一族の和を守るべく東軍へ転じる

この中で秀種は西軍を選ぶと 大津城攻めに加わった

堀家の御家騒動

戦後 彼は改易処分となり 甥で越後の堀秀治を頼る。
しかし 慶長十五年(1610)に堀家で御家騒動が起きると 御家そのものが改易処分となり秀種は二度目の浪人生活を送るハメになってしまう。

再起の男

その後彼が世に姿を見せるのは 大坂の陣の事である。
北陸史学の同論文によれば
秀種は宇藤兵庫や縁者の藤堂仁右衛門に頼み 幕府に詫びたから
とある。

藤堂仁右衛門はかつて大和の重臣を務めた藤堂高虎の甥で 藤堂家の重臣 高刑の事である。彼女の祖母 つまり高虎の母は多賀の血筋だ。
しかし既に述べたように 貞能との繋がりは不詳である

参陣が許された彼は前田利常の陣に加わると それまでの鬱憤を晴らすかの如く活躍し 戦後にそのまま召し抱えられた。
彼は元和二年(1616)に亡くなった。濃い五十二年である

子孫は前田家にそのまま仕え 今こうして史料が伝わるのである。
史料編纂所所蔵の 多賀義高氏版 多賀文書 には 歴代過去名単仮 という歴代の没年記録が収録されている。
それによれば秀種の妻は元和四年(1618)四月九日に亡くなったという。その享年は記されていない。

多賀氏の系図に見る藤堂氏

ところでこの本能寺の変の折 多賀新左衛門という名前のせいで常則が光秀に従ったものとする文に触れる事があるがこれには今ひとつピンとこない。
あくまでも諸家譜を参考にしたが そこには秀吉に従い秀長に仕えたという事だけしか書かれていない。
また谷口克弘先生の 織田信長家臣人名辞典 では貞能と常則を同一人物とする説もあるようだが これは信ずるに足らないものだろう。

藤堂家の記録に出て来ない秀種や貞能

というのも藤堂家の記録である公室年譜略に於いて 多賀殿薩州陣にて病没 や常則の孫左近常長の死については書かれているのに対し 貞能や跡を継いだ秀種の事は一切書かれていないのである。
万が一に常則と貞能が同一人物であるのなら 常則の縁者にあたる藤堂家に何らかの記録が残されているはずである。

後年秀種は西軍に属し大津城攻めに加わり領地を没収されているが 同じように秀種が類縁であるなら何かしら記述があっても良い筈だが一切書かれていない事を考えると 私は貞能と常則の同一人物論は否定的な立場である。

藤堂家が出てくる多賀家の記録

ところが奥村論文に紹介される秀種の孫 豫一右衛門作の 豫一多賀系図 には 藤堂和泉守様 御差出之扣ー系図ー と記されているそうだ。
つまり多賀秀種の孫は藤堂家との縁を抱いており 謹製の系図を贈呈したものと想像される。
結局同系図は後年の藩史編纂には採用されなかった。恐らく江戸時代に藩を襲った幾度の火災で焼失したのだろう。そうでなくても伝わらなかったと云うことは 何かしらの事情で消え失せてしまったものと思われる。

また史料編纂所で閲覧することの出来る 多賀義高氏版 多賀文書 所収の 多賀源介版多賀氏系図 慶應年間 にて 秀種の娘が藤堂大学内の 宮部左門 に嫁いだと記される。
宮部左門とは恐らく 高虎側室松寿院の弟 宮部木工が息左衛門久連ではないかと思われる。
また同系図には 生駒左門室 も記される。生駒家は高虎の外孫家で 此方も縁がある。
つまり藤堂家と多賀豊後守後裔には 確実に何かしらの交流が存在した。しかし何らかの理由で交流は途絶えたのか そのまま歴史の闇に消え失せてしまったのが実状だろう。

秀種の後裔が遺した系図

さて秀種論文 豊臣期-武将の軌跡-多賀秀種の場合/奥村哲 北陸史学(1978-11) をよく読むと 悩ませてきた多賀氏や藤堂家の関係を氷解させるかもしれない系図が載っていた。
奥村哲氏の述を見るに それぞれ 加越能文庫 という金沢市立玉川図書館所蔵であるそうだが 秀種が前田家に落ち着いたから今に伝わって居るようである。
また同系図類は史料編纂所にも所蔵されており 私も二〇二一年の十一月に訪ね解読を試みた。

その中から まず 三種多賀系図 を示す。
この三種多賀系図というのは 加越能文庫に伝わる 堀家 多賀家 生駒家 の三家系図を指す。三種多賀系図としたのは奥村氏の造語をそのまま採用した次第だ。
豫一系図はどれか確認

高房
┣ 貞隆 豊後守
┣ 某 新左衛門
┗ 某 新介

これは驚くべき系図である。貞隆と新左衛門 新介が兄弟だという。
新左衛門と新介に 常則と高虎祖父を当て嵌めると私の求めていた答えに近いものとなる。

次に 一巻物多賀系図 を示す。

多賀貞能
┣ 女
┃┃
┃少兵衛
┗女
 ┃
 秀種

確かにこの系図なら 相婿となるため少兵衛が秀種に対して異議を唱えるのは理解できる。
しかし少兵衛の妻というのは 藤堂家の系図では越後守忠高の娘だとされているので ここで齟齬が生じる。
おとらと同じように 養女と養子同士の婚姻としたのだろうか。

しかし問題点もある。
第一に秀種と少兵衛には年の差がある。むしろ少兵衛の息子玄蕃も永禄二年(1559)生まれで 永禄八年(1565)生まれの秀種より年上である。
結局のところ これらの系図は裏付けることが出来ない。