さて先日五月十五日(2019)、 私は思い立って図書館で寛政重脩諸家譜を再び読み漁っていたが興味深い記述を見つけたのでここに報告したい。
常甫・高但兄弟
多賀常甫と高但という二人の兄弟が居る。彼らは常則から数え六代後の人間で、 時代で行くと享保年間(1720)から安永初期(1770)頃に生きた人間だ。とはいえ兄の常甫は享保二十年(1735)に二十五歳で亡くなり、 弟の高但も若かった事から八年後の寛保三年(1743)になるまで跡を継ぐ事は許されなかった。時に高但二十五歳である。
父・常房
彼らの出自を見てみよう。彼らの父親は多賀常房で、 常則から数え五代後の人間であり系図で行くと左近常長の曾孫にあたる。常房は常長の弟常勝の家系で、 常長の孫常之の跡を養子として継いだ。
(この常之という人も養子で、 彼は常長の妹と朝倉氏との間に生まれ従兄で常長の実子常良の養子として跡を継いでいる)
若き才者・多賀常甫と豊後守復活
さてまず兄の常甫は享保八年(1723)に十三歳で時の将軍吉宗に拝謁すると、 翌年には次期将軍家重の小姓となり才を発揮。享保十年(1725)には西の丸勤めとなり、 享保十二年 (1727) には弱冠十七歳で従五位下豊後守に叙任される。
そう、 ここに多賀豊後守が復活したのである。
豊後守の早逝
だが常甫はその八年後、 享保二十年(1735)九月にこの世を去った。二十五歳の若さであった。
父の常房は六十三歳で使番として健在の頃である。
常甫には妻 (朝倉景行の娘) が居たが、 彼女との間に子は居らずその跡目は十六歳の弟源十郎が継ぐ事になった。
しかし十二月、 彼は将軍吉宗に拝謁するも跡目相続は叶わなかったらしい。ここで多賀豊後守は再び途絶えた。
高但の躍進
寛保三年(1743)二月、 多賀左衛門常房は七十一歳でこの世を去る。時に源十郎二十五歳。
恐らくこの頃には元服し多賀高但を名乗っていたのだろう。
四月に父と、 恐らく兄の遺跡を継いだのか、 すぐに将軍直臣である小納戸に選ばれると十二月には布衣を許された。
二年後の延享二年(1745)、 吉宗が大御所となり家重の代になると西の丸勤めとなり更に二年後延享四年(1747)には小姓へ転じる。同年秋、 遂に兄の官位従五位下豊後守に叙任され多賀豊後守は 12 年ぶりに復活した。
多賀大和守へ
四年後の宝暦元年(1751)、 彼は三十一歳で小姓を辞し寄合旗本へ転じる。寛政重脩諸家譜に彼は豊後守と大和守を名乗ったとあるので、 官位が変わったのも此の時なのだろうか。
高但の死
二十二年後の安永二年(1773)に彼は跡目を嫡男高當へ譲り致仕。病を得た為だろうか、 翌年秋に彼は五十七歳でこの世を去った。妻は旗本横山忠知の娘であった。
津藩と多賀豊後守
さて先稿 『藤堂家と多賀家の関係』 の中に於いて私は藤堂少兵衛の出自について公室年譜略と高山公実録より以下の説を抜き出した。
- 豊後守広高弟新左衛門某之子
- 豊後守広高次男
- 豊後守高忠次男
- 多賀信濃守弟
以上である。詳しくは先稿を読んで頂くとして、 ここでは豊後守の謎について少し考えていきたい。
まず多賀貞能以降に多賀豊後守が現れるのは享保十二年(1727)と、 およそ百年ぶりの事であった。それが常則一族の末裔たる多賀常甫である。彼の死後、 十二年間の空白期間を経て延享四年(1747)に弟高但が豊後守を叙任されると安政年間までの数年間だけ名乗る。
この抜き出した部分と末裔兄弟の事は直接関係ある話ではない。しかし結びつけるには充分な材料である。
何故高山公実録と公室年譜略に 「豊後守」 が出てきたのか、 それを考えるにちょうどいい材料である。
津藩史料の成立年代
まず高山公実録と公室年譜略の成立時期であるが公室年譜略のほうが早く安永二年(1773)頃には成立していたようだ。高山公実録は前者より遅れ五十年後の文政三年(1820)以降に成立したとされる。
そして兄弟が多賀豊後守を名乗った時期は享保十二年 (1727) ~享保二十年(1735)、 延享四年(1747)~宝暦元年(1751)である。
つまり公室年譜略の成立するたった二十年ほど前には旗本多賀豊後守を名乗る男がリアルタイムで存在していたのである。
先稿のように私は藤堂少兵衛を常則の息子とした。そして旗本多賀豊後守は常則の末裔である。また寛政重脩諸家譜では常則は豊後守高忠の孫だとしているが、 これは俄に信じがたい。しかし常則一族が豊後守の血筋を自称し実際に豊後守を叙任されている事を踏まえると、 何らかの混同が発生し上記のようにややこしい事になったのではないかと推測する。
つまり常則の息子少兵衛から連なる玄蕃家系図を書く際に、 その常則の末裔が豊後守を名乗っており尚且つ同家では常則が豊後守高忠の孫であるとされている。この過程で混同し少兵衛と豊後守を結びつけたのだろう。
多分。