津藩藤堂家初期史料に見られる多賀氏について

ここには藤堂高虎 高次親子の業績を記した 公室年譜略 より 江戸時代津藩成立後に見られる多賀氏についての記述を抽出し記す。

寛永五年(1628)、多賀作左衛門召し出される

金地院崇伝の肝入りで脇坂家からの転じたものかとされている。彼は内匠組に入り 後に絶家となる。

宮部長煕の息子

ところで佐伯朗氏の 藤堂高虎と家臣逸聞 という書に気になる内容が収録されていた。つまり西軍へついた咎で南部へ流された宮部長煕について 崇伝と高虎が せめて息子の仕官だけでも と秀忠に嘆願したという。何と驚くべき事にその京で浪人をしていた長煕の息子が 多賀作左衛門 なのである。
要は 早大宮部文書六号 九二六号 宮部長念長煕身上書 その末尾に

京都ニ罷有候せかれ 作左衛門 と申者ハ国師 天海 藤堂和泉守 相国様 秀忠 へ寛永五年ニ御佗言被申上候処ニ宮部兵部少せかれニ候 不苦之由御諚にて御捨免被成 藤堂和泉所ニ于今罷有候事 寛永十年八月七日 宮部兵部少輔入道長念 花押

とあるのだ。この件に関する高虎と長煕の音信は 藤堂高虎文書の研究 という伊賀史研究の大家 久保文武翁の遺作にも収録されている。同書の中で久保翁も 長煕息と召し出された作左衛門は同一人物と論じておられるからそういうことなのだろう。
以下に引用を載せる。

 眼病故乍慮外以
 印判申入候以上如御書中 多賀
作左衛門 儀先我等相
抱国元へ遣し家
屋敷扶持方等相
応申付候条可御心安候
如御書中宮部法印公と
御等閑無之于
今存出候事御座候 
貴様御息災 ニ而 目出
存候随 南部椀十
人前壷皿平皿合
廿自思召一入喜
悦之至候猶期後
音之時候 恐惶謹言
   藤和泉守
 五月朔日 高虎印
端裏書
宮兵部少輔入道様
      貴報
早大荻野研究室収集文書六三号
五月朔日宮兵部少輔入道宛藤和泉守高虎印 折紙

藤堂と宮部家

藤堂氏と宮部氏の関係は深い。
一般的に 浅井家で同僚 但馬時代に上司と新人 根白坂の救援 側室松寿は宮部継潤の側室だった という部分で語られる事が多い。
他にも

といった関係と両家に多賀姓が見える共通点 宮部側については調べていない が存在することも重要である。

寛永九年(1632)、多賀三郎兵衛を三千石にて召し抱える

苦難の浪人

元は肥後加藤忠広の重臣格にて 高次公直々に獲得を熱望した浪人とされる。
佐伯朗氏の 藤堂高虎家臣辞典 によれば 彼自身は草刈景次の実子だが 或る時に宮部家の元家臣 多賀三郎兵衛の養子となった。多賀は関ヶ原の折には亀井茲矩を相手に奮戦した猛者らしい。

宮部家→田中家

養父は宮部家改易後 他の家臣団共々田中吉政に仕えたという。養父多賀三郎兵衛の没年は不祥ながらも 養子多賀三郎兵衛も田中家に仕えていた。しかし吉政の跡を継いだ忠政が元和六年(1620)に三十六歳で亡くなり田中家は無嗣断絶になってしまう。

加藤家へ

田中家の改易後 三郎兵衛は田中家に元々仕えていた西村五右衛門らと共に肥後へ流れ加藤忠広の家臣として活躍したという。
だが加藤忠広は寛永九年(1632)に改易となり 三郎兵衛は三度主家を失い浪人へ落ちぶれた。

藤堂家へ

しかし拾う神というのは存在するもので 上記のように予てより三郎兵衛親子の活躍を耳にしていた藤堂高次に高禄で召し抱えられた。
天運は最後に 彼へ微笑んだのである。

寛永十一年(1634)、三郎兵衛弟・多賀四郎兵衛に八百石の分嗣

しかし延宝九年(1681)に四郎兵衛は藤堂家を去る。このとき縫殿介にも分知ありとされる。

寛永十二年(1635)頃、江戸城普請に赴いていた三郎兵衛は江戸にて病死

縫殿介と四郎兵衛が跡目を継ぐ。

寛永二十年(1643)、多賀善兵衛召し出される

多賀三郎兵衛の弟ということで 初代三郎兵衛の次男なのかもしれない。

慶安二年(1649)、江戸上屋敷へ多賀友之助が逃げ込む

彼は土井利隆の小姓で同僚を斬り殺したという。元は京極家臣多賀越中の一族なりという事で 藤堂家も土井利隆へ穏便に済ますよう働きかけ友之助は故郷播州立野 たつの? へ退き多賀遊夢を名乗るが後に高次に召し出され多賀十左衛門を名乗る。跡目は無し。

明暦三年(1657)八月二十三日、茶人多賀左近逝去

常則の孫

彼の本名は多賀常長といい大和高市を領した旗本である。
父は多賀吉左衛門常直で祖父に新左衛門常則を持つ。私の説では藤堂玄蕃家とは同族の間柄で 玄蕃家から分枝した藤堂将監家は同じ大和の旗本である。この家は先稿の通り藤堂本家とも関係があり 左近も父たちと同じように懇篤であったと書かれている。

幕臣として

また福田肇氏の高吉一代記にもその名が見られる事から 宮内家とも何らかの関わりがあったと想像できる。
寛政重修諸家譜には幕臣 官吏としての彼の経歴が記されており 各地へ目付として赴いていたことがわかる。彼の仕事を考えると第一次名張藤堂家独立騒動で首を突っ込むのは自然であると考えられるが 実際の所は定かでは無い。

茶人

茶人としての彼は師匠に桑山宗仙を持つ。宗仙は本名を桑山貞晴といい 高虎とも縁深い桑山重晴の三男である。
多賀家は新左衛門常則がその晩年に時の大和大納言秀長卿より大和高市を拝領し 常直も左近もこれを継いだ。そのため大坂の陣では大和衆として松倉重政の麾下に入っている。同じく桑山家も大和衆として松倉隊であり 宗仙との縁はそこで生まれたのだろうか。

万治元年(1658)、多賀与左右衛門歩行頭とある

多賀与右衛門の誤植だろうか。

寛文九年(1669)の加増一覧に、多賀造酒之助・多賀小兵衛・多賀次右衛門・多賀与吉の名前が見られる

この中で多賀与吉 与右衛門と名乗っているのは誰であるのか。それを解く鍵は年譜略の付録系図にある。
新七郎家系図を紐解くと三代目のあたりから多賀姓を名乗る者が出てきている。
彼らは藩祖高虎の通り名であった の字を使っているのが確認できる。この事から 寛永十六年(1639)に召し出される多賀与吉子の与右衛門をはじめとする上記多賀姓与字の者は新七郎家の一族であろう。