高島郡司磯野員昌の実像

高島郡における磯野員昌の活躍で語られるのは 概ね杉谷善住坊の逮捕の話題か天正六年(1578)の一件ぐらいだ。
確かに他の織田軍団の一郡支配者に較べると派手な活躍は皆無に近い。しかし高島郡における員昌の活動はいくつかの書状が遺されている点から語ることが出来る。ここでは員昌に関連する書状を中心に 信重略歴から員昌に纏わる記録を引用しながら員昌が如何に高島郡を治めたのか見ていきたい。
高島郡を知る上で西島太郎氏の 戦国期室町幕府と在地領主 は欠かせない。本稿でも同書を大いに活用しているが これはほんの一部であるから是非とも手に取って読んで欲しい。

令和四年七月日追記。
さてはて今年度に入ってから 磯野員昌と神社 : 吉田家の日記を素材として 伊藤信吉 皇學館論叢 という論文と出会った。
これは磯野員昌の神道 吉田兼見との関わりを知る上で素晴らしい論文だ。
また高島と浅井長政の繋がりでも 既読史料の再読を経て重要な記述を見落としていたことに気がつく。

昨年 もう少し視野を広げるべきであったと後悔するが せっかくの機会なので記事のアップデートを此処に宣言する。

令和五年八月五日追記。
研究ノートで藤堂高虎の前半生を書いているが その過程で磯野員昌の前半生も収拾することが出来た。そのお陰で当記事は丸ごと磯野員昌を総覧する記事に仕立てられそうである。
極力軍記を用いず史料のみで員昌を考える 非常に有用で大胆な試みであるが 是非とも存分に読んでいただきたい。

前史・磯野員昌までの磯野氏

磯野氏末裔が昭和に執筆された 近江の磯野氏 によれば 磯野氏は神官から侍に転じた家系と言われている。後に磯野員昌が吉田兼右と入魂であったことは その傍証と言えようか。侍に転じたのは 近江の磯野氏 に見られる系図にあるように 京極重臣上坂氏との関係に依るものであろうと思われる。一説に上坂氏から養子に入り 伊香具神社の神職を務めた磯野刑部少輔が系図にあるという

磯野氏の登場

戦国時代の磯野氏を考える中で 応仁別記 に応仁二年(1468)の戦いで安居院口から讃岐上田衆と共に 近江国ノ今井 磯野衆相向フ と記述があるのは興味深い。恐らくこれが磯野氏の初見であろうと思われる。
これは大日本史料に従えば同年十月のことで 既に京極勝秀が没して四月のことであった。つまり彼らは京極持清の被官勢力となる。磯野氏の初見は持清被官としての活躍であった。しかし被官とはいっても今井のように 江北記 に名前が出てくるような 根本被官 ではなく それより少し低い位にあったのだと思われる。

磯野種貞・継貞・宮寿丸

さて 近江の磯野氏 によれば 浅井三代記には永正期に 磯野右衛門大夫 なる人物の活躍が描かれるという。同書に収まる系図にも磯野右衛門大夫は 員詮 実信 として登場する。実のところは如何であったのだろうか。
この時代の磯野氏の具体的な名前は意外なところで見ることが出来る。東浅井郡志に収まる文明十一年(1479)と思しき 清水寺再興奉加帳 である。
多士に並び 江州伊香磯野右衛門三郎種貞 江州伊香磯野十郎三郎継貞 宮寿丸 が見える。彼らは何れも系図には見られない。
東浅井郡志一巻は応仁元年(1467)の高野瀬城攻めの項で 潔く 磯野右衛門三郎種貞 としている。恐らく軍記に名高い磯野右衛門大夫や 応仁別記に見える 磯野衆 というのは 磯野右衛門三郎種貞 を指すのであろう。

ところで奉加帳には浅井亮政の実父浅井直種の名が見られる。名前から考えるに 磯野種貞は浅井直種から偏諱を受けた可能性もあるだろうか。

磯野弾正忠

次に磯野氏が現れるのは延徳元年(1489)のことで 前年八月に近江から逃亡した京極政経の復帰に関わっているようだ。江北記 によれば上坂治部 浅見 磯野弾正忠が尽力したとある。一方で大乗院寺社雑事記は細川政元の尽力としている。結果的に政経の復帰で京極高清が坂本へ追われることになった。
この 磯野弾正忠 を系図に求めると右衛門大夫員精の三男員綱であるようだ。彼は叔父で宮沢城の弾正少弼員氏の養子となり 宮沢弾正忠員綱 とも称したらしいが定かでは無い。また奉加帳に見られる 十郎三郎継貞 宮寿丸 との関連も不明である。

磯野員昌の前半生

さて磯野員昌が生まれたのは大永三年(1523)とされている。系図では父が磯野員宗とか実信 員吉とある。一説には父は元々宮沢氏であったが磯野員吉の養子となったともある。何れにせよ実のところは定かでは無いとする外無い。

戦国期社会の構造とその歴史的特質の研究 宮島敬一 によれば 永享七年勧進猿楽奉加帳 磯野宮沢 が見えるという。永享七年(1435)のことで 応仁の乱から遡ること約三十年前のことである。
これは地名の磯野に住まう宮沢氏を指すと思われるが 当時から磯野氏と宮沢氏は関わりがあったものと想起される。ただそれ以外の史料に欠けるため こうした系図の立証は困難に近い。

員昌登場以前

この年は北近江の情勢が大きく動いた年で 京極高清 高慶 上坂信光が浅見を首魁とする抵抗勢力によって没落した。磯野氏は系図に上坂氏との関係を誇るが 恐らくかなり厳しい立場に立たされたものだろう。事実三月十二日には上坂与党の安養寺氏が北郡衆に攻め込まれている。
北郡衆は六角と結ぶ事で高清 上坂を追い落とした。東浅井郡志には十二月二十日付の六角氏奉行某高祐 後藤高雄の連署状 遺文二三八号 が載るが 安養寺と磯野は飯高寺領の警固を仰せつけられている。彼らは何とか生き存えたらしいが この磯野氏の具体名は不明である。(1)

(1) 池田高祐→某高祐へ変更。東浅井郡志では池田と比定されたが 村井祐樹氏は 戦国大名佐々木六角氏の基礎研究 で不明としていた。/20240915

員昌以前の書状への疑念

さて 伊香郡誌 近江の磯野氏 には 天文初頭に上坂治部大輔から送られた右衛門大夫宛感状と京極高清からの丹波守宛感状 浅井亮政からの丹波守宛感状が収録されている。
しかしその三通は 東浅井郡志 浅井氏三代文書 には収録されておらず 真贋不明瞭である。
上坂治部大輔 とは天文七年(1538)に六角定頼の助力を得て五郎高慶を補佐した 上坂治部 定信 なのであろうが 惜しいかな彼は 上坂治部丞 であることが天文十三年(1544)の禁制 大原観音寺文書 から窺える。また史料的に磯野丹波守は員昌以外には見受けられない。
何れも恐らく員昌の活躍を盛るためであるか 受領名 丹波守 が代々のものであるかのように見せるために後世制作された書状ではないか。

磯野村と浅井氏重臣たち

天文二十四年(1555)七月廿日 浅井長政の伯父 井口経親の書状に 夜前磯野者 磯野百姓者 という単語が登場する。
これは浅井久政の政治に代表される用水相論に関するもので 磯野村は大井の末流として分水を享受していた。この年にあった渇水に際して用水利用に一悶着起きた事による相論だ。
この相論では井口氏や三田村氏 赤尾氏など浅井氏を支える国人の活躍を見ることができるが この書状は井口氏が赤尾新兵衛に磯野村への説得を託している。

永禄二年(1559)一月十七日・磯野八郎三郎の登場

ここまで来てようやく磯野員昌が登場する。ここからは皇學館大学伊藤信𠮷氏の論文 磯野員昌と神社 を下敷きに考えていきたい。
吉田兼右は鈴鹿近江守を使者に浅井左兵衛尉 久政 をはじめとする一族 家臣へ祓や扇子を贈った。多賀大社神官家系の河瀬氏に次いで 磯野八郎三郎 とあり 扇子を一本受け取ったらしい。
伊藤氏に依れば 兼右卿記 に磯野八郎三郎 磯野丹波守が見られるとし 両者は同一人物であるとする。やや論拠が乏しい部分もあるが 後年丹波守員昌が神社への見識豊かであったところを考えると 永禄二年(1559)で既に兼右と音信があったと見受けられる八郎三郎を員昌とするのは妥当であろう。

時に永禄二年(1559)というのは磯野員昌が三十七 八ぐらいの頃で 後世猛将と伝わる彼が四十手前まで幼名然とした名前であったのは興味深い。後年織田信雄の嫡男秀雄は 十三歳頃にも 三法師 と呼ばれていた例もあるから 特殊なことでは無いのだろう。
また 八郎 という名は 後年上坂氏に 八郎兵衛 が見られる点から やはり磯野氏と上坂氏の関係を想起させる。
さて永禄二年(1559)以前の八郎三郎は何をしていたのか定かでは無いが 翌年の四ツ木表の騒乱で表舞台 現場指揮官として磯野善兵衛尉員昌が現れる点からすると 亮政晩年 久政期に北近江を席巻した 京極六郎の乱 で何らかの武功があったと見るか 家業の神職としての地位の何れかにあったと思われる。兼右と八郎三郎は初対面では無いことから 逆に八郎三郎が京の兼右を訪ねた事もあったかもしれぬ。

永禄三年(1560)十二月十四日・磯野善兵衛尉員昌の登場

さて永禄二年(1559) 六角承禎は肥田城の高野瀬氏を攻めるも失敗に終わった。
この原因は翌永禄三年(1560)七月の承禎の弾劾状から知る事が出来るが 義弼の親義龍路線に承禎が反対するものであった。結局これは承禎が折れたようだ。
当の弾劾状文を読むと 義龍は浅井と義絶することへの疑問 今度は浅井は越前朝倉と手を組むだろうとの予測を示す。結果的に承禎の読みは当たった。浅井氏の動きが怪しいという情報が承禎にもたらされたのかもしれない。
同年十一月 坂田郡は宇賀野の国人若宮氏が浅井方へ奔った。
月末には賢政が若宮藤三へ注進を謝する書状を発給しているが 承禎の出馬の風聞 若宮の在所宇賀野への攻撃が述べられている。そして 磯善兵折紙令拝見候 員昌が前線にて働きを見せていることを伺い知ることができるのだ。これが磯野員昌の初見である。

緊迫する情勢の中 美濃の斎藤氏は国境を越え かりやす尾 へ兵を出すという風聞は十二月十二日の若宮宛賢政書状に見える。刈安尾は京極氏の本拠地であるが 六角氏は前年九月に京極高佳を入国させていた。一方で若宮氏の戦乱では京極被官の今井 堀氏も浅井方へ通じており 京極高佳も同様にしてあっさりと浅井方へ吸収されたのではないか。
そうした京極被官系の 謀反 を承禎 義龍は咎めるために兵を出したのではないか。

員昌の感状

十二月十四日朝 四ツ木表で戦闘が行われた。島記録 には当主今井定清が 中村道心兵衛 を討ち取った島新右衛門の戦功を賞した感状が収まる。
そして磯野善兵衛尉は同日 若宮藤三郎の武功を賞する感状を発給した。その諱は 員昌 である。この時点で員昌は係争地に出張し 更には感状を発給する立場にあった。登場からして既に重臣層に位置していた。

そのようにして永禄三年(1560)は暮れる 竹生島文書には十二月二十六日に多賀三郎右衛門尉公清が瑠林坊へ宛てた書状を見ることが出来るが 前日の公事に関わる内容である。その中で 賢政公事も指合 磯善も無隙候而 員昌の存在が示唆されている。

磯野員昌の後ろ盾

永禄三年(1560)の暮れは今井家中の調停を赤尾美作守清綱が行うなど 慌ただしいものであった。

ところで 近江の磯野氏 に収まる系図には員昌の妻が 赤尾駿河守教政女 とする系図が掲載されている。
史料には 赤尾駿河守清政 の名前が菅浦文書 飯福寺文書に見えるから 赤尾清政の婿である可能性が高い。清政は美作守清綱の父である。
赤尾清政は亮政の重臣であり 員昌が四十手前まで幼名然とした名前 八郎三郎 を名乗っていたのも 善兵衛として前線に出張したのも舅 義兄弟である赤尾氏の威光があったのかもしれない。さて天文二十四年(1555)の相論で赤尾新兵衛が磯野村の百姓を説得しているが 東浅井郡志では赤尾新兵衛は 清世 とされる。恐らく一族だろう。ただ後年清政の孫清冬が 新兵衛 を名乗って居ることから 天文末の新兵衛は清綱を指す可能性もあるだろう。果たして員昌と赤尾氏が何時頃結ばれたのか定かでは無いが 天文の末には赤尾氏と磯野村に接点は存在したのである。

永禄四年(1561)・磯野員昌の謹慎(太尾攻め)

明けて永禄四年(1561) 高島郡で騒乱が発生した。これは菅浦と今津新保の相論を巡るもので 某年に起きた今津梅原での合戦に纏わる賢政書状には 委曲磯野丹波守 とある。これが当年のものであれば 磯野善兵衛尉員昌は二月までには 丹波守 を受領していたことになる。
賢政は二月を忙しく 境目の大原観音寺や総持寺に禁制などを発給する。特に観音寺へは 遠藤喜右衛門尉直経 が登場し ここに赤尾 磯野 遠藤の長政三老が出揃う。赤尾と磯野は恐らく義兄弟 遠藤は今井家中の重鎮田那部式部の義兄である。また磯野氏は上坂氏との関わりが深いと見えるが 上坂氏も坂田郡の有力者であったため 磯野 遠藤はちょっとした 坂田閥 の要素もあったことだろう。それは長政の坂田郡確保の思想によるものだろうか。

賢政が忙しく大原観音寺や総持寺に禁制を発給したのは 一昨年に義絶し前年に近江に侵入した美濃斎藤氏へ攻勢をかけるためであった。あまり良質な史料には恵まれないが 二月二十一日に起きた戦いで氏家卜全が配下の西尾氏の活躍を褒賞した感状が寛政譜にあるという。
逆に 浅井方が発給した感状の類は伝わっていない。わざわざ北大垣駅周辺に出張した長政であったが 返り討ちに遭ったのだろうか。

浅井軍撤退

その最中 六角方が佐和山城に攻め寄せた。承禎の河瀬官兵衛宛感状が残るから その先駆けは佐和山城周辺の中郡の六角方勢力だったのかもしれない。佐和山城を守る百々氏は天文の末から六角の規律を乱す反乱分子であり ここで賢政の蹶起に乗じたことで征伐に至ったのだろう。

時に河瀬官兵衛宛感状は三月廿八日付で 六角方の佐和山城攻めは一月かかったのか 支度に時間がかかったのか定かでは無い。また浅井方も百々を救うことは出来なかった。むしろ百々 賢政間に連携は無かったのではないかとさえ感じる部分もある。
これは竹中氏が大原口に兵を繰り出し浅井を威圧したからで 承禎は竹中 半兵衛の父 に感状を発給している。

寺倉表の戦い

佐和山城を奪取した六角方は更に北進し 寺倉表で今井家中と交戦。井戸村小次郎の父が中村方 これは前年の四ツ木で討たれた中村道心兵衛の族であろうが それを討ち取るも小次郎の父も敵に討たれたという。翌日の閏三月晦日に今井定清が小次郎に感状を送っている。
六角勢は北郡勢力に取り込まれた坂田郡を制圧 回復せしめるために兵を出したと思われ 後の情勢を踏まえると佐和山城と太尾城を北進の根拠地としたようだ。

混迷の浅井軍

閏三月十三日 赤尾清綱は大原観音寺が横山入城衆に濫妨を受けた件について中島日向守に謝した。姉川合戦の係争地 秀吉出世の横山城は大原観音寺の真裏で 浅井賢政はどうやら横山城を最前線の砦と定めたらしい。その中で兵が観音寺に対する不忠があったという。赤尾清綱はこの年謝ってばかりいる。

四月廿五日 備前守賢政は竹生島が石清水八幡再建のために納付すべき用脚を納めている。これが二月十四日以来名乗ってきた 備前守賢政 の終見で 六月以降 備前守長政 を名乗ることとなる。抜閑齋承禎入道六角義賢から与えられた の字を捨て 遂に六角方への対抗を鮮明にした。なお父久政が左兵衛尉から新九郎へ戻したことで 浅井親子揃って新九郎の時期があった。この煩わしさから 賢政は祖父亮政の受領を継いだと思われる。

時に浅井備前守長政の初見史料は内容が興味深い。
垣見助左衛門が 一族垣見新次郎は自分の与力なのに赤尾新兵衛 清綱の子 清冬 が取っていってしまった 元に戻してほしい と訴えた件に とりあえず拙者が預かり置くので 一陣が済んだら返します とした書状である。
このとき浅井方は六角方の太尾城を攻め寄せていたと思われるが どうも兵力的に不利であったことが窺える。対する六角勢は上洛軍を整えながら守山で歩を止めたが これは北郡の情勢を見極めていたのだろう。

今井定清事件

手をこまねいた浅井方ではあるが 島記録によれば伊賀衆を雇う財力はあったらしい。
弓兵数多堅い太尾城へ伊賀衆を偲ばせ火の手を合図に一挙攻め寄せようという作戦での攻略を考えた。これを発案したのは遠藤直経で 妹婿田那部式部を通じ今井家の主 今井定清に具申させたという。
しかしこの作戦は太尾城に雪崩れ込む軍勢で同士討ちが起こり 失敗に終わった。
よりによって同士討ちで命を落としたのは寄せ手の大将格で浅井長政最大の同盟相手 今井定清であった。彼は磯野員昌の兵に突き殺されてしまった。

今井定清の父は天文二年(1533)に浅井亮政の謀によって殺害された。その為に今井家中は南へ奔り 六角定頼の庇護のもと多賀貞隆を救援するなど驚異の武功で定清を養ってきた。
長政の坂田郡確保作戦に於いて 米原周辺を抑える今井家中は重要な存在で よりにもよって飛ぶ鳥を落とす勢いで台頭する磯野員昌の兵に討たれたとなれば重大な事態である。
七月五日 磯野員昌は今井家中へ謝罪の起請文を提出した。そのなかで 一先山中のすまひ仕候 とあり 早くも任を解かれ謹慎の身となった。磯野員昌 四十歳の大失敗である。

島記録によれば定清は小谷城の加勢を乞うたとある。これは遠藤直経の献策なのだろうが 磯野員昌が加勢の兵であるのか 彼が軍監 浅井方先駆け大将であったのか。個人的には後者だと思う。
員昌の謝罪に先駆けて七月三日に赤尾清綱が今井家中へ謝罪している。義兄弟にして長政の重臣が真っ先に出張った。
またここで員昌は 霊社起請文 を提出しているが神道に通じる彼の起請文は 霊力確かであったように思われる。
斯くして浅井方の自滅を見届けた六角勢は堂々と京都へ攻め寄せた。

磯野員昌の名前について

さて史料上磯野員昌は善兵衛が通称で そのお目見えから早くも 丹波守 の受領名を得た。

磯野善兵衛

時に 磯野善兵衛 は後年京極高次の家臣として登場するが この磯野善兵衛尉信隆は系図上で員昌の弟であるとする。
実のところは定かでは無いが員昌の引退後にも磯野氏は高島に残り 員昌の養子織田七兵衛尉信重の死後も高島に残っていたのだろうとも推察できる。 の名前も 信重から拝領したのかもしれない。
この 磯野信隆 は高次が打下の有力者の娘を孕ませた際に 娘とお腹の子を守り 遂には高次正室浅井氏から指名手配を受けたかわいそうな経歴で有名。浅井氏の没後にようやく赦され お腹の子 京極忠高に招かれたという。

磯野新兵衛

磯野氏で言えば 磯野新兵衛 という人物が某年正月十三日の浅井亮親書状の宛名に登場する。東浅井郡志 八木文書
この名前で調べると 愛智郡志 の豊国村 現愛荘町 豊満神社の社蔵文書にて見られることがわかった。
天文二十年(1551)卯月二十四日付磯野新兵衛 葛巻久助宛村田秀治 佐藤忠恒 杉立高政 葛巻定勝 杉立高秀 市村良忠連署書状である。その内容は同社に纏わるもので 南北争乱下に北郡の磯野氏が中郡の同社に関わるのは不思議であるが 新兵衛は単純に神官であるのかもしれない。先の亮親書状は新兵衛から 両種一荷 が贈られた事に対する礼状で やはり新兵衛は神官の可能性が強い。

思い返せば 磯野八郎三郎 は吉田兼右と親しいと伊藤氏は評する。更に磯野員昌も吉田兼右 兼見親子と昵懇であった。やはり員昌の台頭には神道的繋がりが背後にあったのではないか。これは想像であるが員昌の前半生というのは 例えば京都での神道修行の身であったとも考えられる。兼右の記録には永禄十年(1567)には既に上洛していたと思しき内容が見られ それ以前に上洛の地理を得ていたと感じる部分もある。

磯野又三郎

他に磯野氏を探すと永禄十年(1567)の霜月に磯野又三郎が亡くなったという記録が徳昌寺文書に見える。彼も員昌の族であろう。

磯野小平次秀代

多賀大社叢書文書篇改訂版 の五五には 磯野小平次秀代等連署書状 が収まる。
これは内堀内進 柴田又一への返報で 多賀大社の神事に関して百姓と多賀社中の人間に紛議があったが 百姓に神事を務めるよう明日申し付けるとの内容である。時期について 京極殿 承禎御一礼披見二不及之由 とあることから 永禄以降であろう。
その署名は 磯小平秀代 とあるが よくわからない人物だ。員昌の一族で 佐和山城で奉行でも務めていたのだろうか。連署で名を連ねる 意斎 も員昌の内衆である可能性もあるだろう。
中郡には 磯崎 なる人物も居るが とりあえず 一応 のところ 磯野氏であるとしておこう。

永禄五年(1562)~七年(1564)・謹慎明けの員昌

六角勢は京都で三好方と越年戦闘を繰り広げ 翌年六月に帰国した。
その間に観音寺の統治機構は充分に機能し 永禄五年(1562)三月には佐和山城周辺地域へ 御屋形十六条 を発給して 多賀氏や米原氏にこれを徹底して統治させたようである。

さて同月の末 磯野員昌は旧京極領長岡郷を支配する一人 光扱房 から鏡新田の安堵を申請されている。恐らく彼の謹慎は三月までには解けたのだろう。
八月十四日に長政は嶋四郎左衛門に対し 諸事置目は討死した故備中守 今井定清 の際と変わらぬ事を示している。嶋記録所収文書

観音寺騒動・中郡出兵

永禄六年(1563 十月一日 六角義弼は重臣の後藤父子を殺害した。
この事件を受け 六角家の家臣は観音寺の屋敷を焼き それぞれの領地へ退いた。長政は二日か三日頃には報せに接したと思われ 十月四日に某へ騒動の実否を究明している。

南之儀 不慮之次第候 仍高宮江御状被遣可然候 彼依存分 何様ニも可申談候 路次之儀 鎌刃江御案内候者 不可有異議候間 早々可被御遣候 御油断有間敷候 片時も御急簡要候 為其令啓候 恐々謹言
   十月四日    長政 花押

文書が伝わったのは速水の柴辻家ということで 阿閉や渡辺周辺か 文面を見ると鎌刃の堀周辺何れかへ宛てたものと推察される。なお東浅井郡志は磯野員昌もしくは若宮藤三郎を示し 後者へ宛てた可能性が高いとする。

急ぎ兵を出した長政は六日に犬上 高宮 長享年後畿内兵乱記 へ入ったと思われ 同日に山脇氏や明照寺の知行などを安堵する書状 保勝会所蔵文書 を発給した。明照寺は現在彦根市平田にあるが 慶長四年(1599)に移転するまでは山之脇村 現在は町 彦根口駅のそば に存在した寺である。この地域は佐和山城の南にあり 高宮からは西北に位置する。
彼がこの出兵中に行ったのは 清水寺成就院への 佛前常燈 の寄進 八日 成就院文書 大原観音寺への陣僧二名の要求 九日 観音寺文書 多賀大社及び町衆中への禁制 十三日 多賀大社文書 などである。

十月二十五日に長政は勝楽寺へ宛て境内山林 寄進保五町地頭職 甲良三郷内に散在する田畑 浄江院領を安堵する書状を発給している。この書状は明確に 永禄六 と記している。甲良三郷は尼子の本拠地にして藤堂のある甲良郷 上之郷 多賀の本拠地下之郷を総称するものであるが 果たしてこのとき浅井の支配というもの どの程度の効力があったのか定かでは無い。
好意的に捉えると浅井方に高宮や山脇といった犬上川北岸 芹川流域の国人を引き込み 高宮を前線とした点は評価出来ようか。
こうした最前線の書状発給にて 磯野をはじめとする重臣中がどの程度関わっていたのかは定かでは無い。

南北和睦

明けて永禄七年(1564) 三月には永源寺が六角家臣の内訌 小倉氏の乱とされる によって焼亡。また同月には池田氏でも内訌が発生したと思われ 甲良三郷の多賀新左衛門が出兵している。
五月には義弼は浅井へ人質と誓書を以て和睦をしたようで 承禎は 今更浅井ニ可繋馬事当方恥辱候 と書状に認めた。遺文一一五七

実際のところ浅井家中でどのような動き 働きかけがあったのか定かでは無いものの 四月に長政の出兵が取りやめとなり 十一月二十七日に渡辺甚助へ五分の一易地として善積 河上 酒波寺領のうち六石を宛がっているのは 和睦に依るものなのかもしれない。

永禄八年(1565)の員昌

先より筆者は永禄七年(1564)に浅井長政と六角義弼の間で和睦が為されたとの自説を打ち立てている。
正直なところ自信は無いが 永禄八年(1565)の正月には浅井長政に代わり多賀大社の神官中へ充てて書状を発給する立場にあったことは確かである。
恐らく永禄七年(1564)の和睦で浅井方は佐和山城を得て 員昌が通説のように佐和山城に入城したことに依るのであろう。

正月十一日・磯野員昌置目

一月十一日多賀大社神官中宛て 多賀大社の神官へ置目を発給した。
この掟書は 敏満寺地蔵院が甲斐武田に祈祷の使僧を遣わせたことを浅井長政が咎める内容が述べられている。
かねて武田信玄は多賀大社に厄除けや安産の祈りを捧げてきたなかで どうやら敏満寺地蔵院が介入し謂わば多賀大社の縄張りを邪魔したらしい。
員昌が長政の指示を受けたことは 浅井備前守長政請内証七ヶ条書付 進置候 とある点から明白である。

この敏満寺との騒動に関わるのか 二月二十五日には長政が多賀大社へ禁制を発給している。
敏満寺には浅井長政の襲撃を受けた伝承が存在するが これらとの関連は定かでは無い。

二月七日・沖島権益

某年二月七日 中島宗左衛門直親と磯野丹波守員昌は諸浦地下人中に対し 先例の如く堅田衆に役儀を沙汰すべし と命じている。諸浦に高島郡の海津 今津が入るか定かではないが こうした書状から浅井長政は湖上交通の権益を目的に高島郡へ手を伸ばした可能性を見ることが出来る。

東浅井郡志ではその年次を永禄八年(1565)とする。その論拠は参考として示す沖島共有文書だ。
四巻にて本文を読むと 永禄八年(1565)の十二月二十日に長政から沖島惣中へ宛てられた沙汰状であるらしい。浅井氏三代文書集の年表によると 沖島に矢銭を課す代わりに船の上下を免許する内容のようだ。
つまり長政は永禄八年(1565)の十二月までに 沖島の権益を獲得していた事がわかる。

永禄九年(1566)・南郡侵攻と員昌

永禄九年(1566)は浅井が攻勢をかけた年であった。
四月十八日には高島郡木津庄の山徒を誘引し 同じ時期には今村肥後守 浅見対馬守が中郡の赤田信濃守 山崎源太左衛門を調略していた。
しかしこうした調略に磯野員昌の存在は見受けられない。

三月八日・兼右との音信

兼右卿記 の三月八日条には 次のようにあるという。

自江州浅井備前守誓事許事申之間 調遣了 為礼十二貫到来了 磯野丹波守二百疋到来 禅空入道指下之

この記事について伊藤氏は

恐らくは神々に誓った誓言を破約してその祟りを恐れて兼右に御札を依頼し 兼右が護符類を 調遣 わしたものと類推される

とする。
員昌は長政の依頼されたのだろう 兼右に二百疋を贈っている。伊藤氏が述べるように浅井家中に於いて吉田兼右との音信は 員昌が独占していたようだ。
この 破約 とは定かでは無いが その後に起きる出来事から逆算すると 永禄七年(1564)に義弼 義治 との間に結ばれた 和睦 を破ったことが該当するのかもしれない。

七月二十九日・蒲生野の戦い

七月二十九日 浅井軍と六角軍は蒲生野で交戦した。
栖雲軒 三上士忠 の書状 遺文九二一 によれば 山崎源太左衛門を先手に 二番赤田 高宮 三番堀 今井と中郡の諸衆が続き 四番に 磯野丹波 が見える。
員昌は今井家中を指南 取り次ぐ立場であったとされるが この戦いでは今井家中の次に記されるのが興味深い。今井定清事件からもわかるように員昌は自らも軍勢を持っていた。後に高島郡司の員昌を支えた赤尾新七郎などであろうか。
山崎や赤田は新参と思われるから 後方より働きを監視していたのだろうか。また実質的に前線の指揮官を員昌が担っていたとも考えられようか。

結局この戦いは三上衆の活躍により申刻 午後四時頃 に長政が四十九院へ 員昌は八目 其外諸勢 は愛知川へ退いた。

閏八月十三日・若宮左馬助の死と取次

蒲生野の戦いから二ヶ月後の閏八月十三日 長政は 若宮左馬助殿御まつ御料人々 へ宛て 御しむふ 親父 御うちしに 中〱申はかりも御入候 御はたらきと申 度々の御忠節にて候 我らも御心に と左馬助の死を悼み 遺児に左馬助の知行安堵している。その取次を いそ野丹波守申つたへ候べく候 と員昌が務めている。なお左馬助が何時何処で亡くなったのかは この時期に合戦が起きたことを示唆する史料がこの一件のみであることから定かでは無い。蒲生野で負傷したが その後亡くなったのだろうか。

若宮氏は永禄三年(1560)に宇賀野の若宮藤三郎が登場しているが 左馬助は嶋氏と同じ飯村の人物と伝わる。
員昌が取次を務めていることは 若宮氏がその指揮下にあったことを示唆するのだろうか。

九月九日・江州大合戦

九月九日 江州大合戦 が発生し 六角軍は三雲賢持と高野瀬兄弟を喪った。
この戦いが何処で行われ 六角軍と誰が戦ったのか定かでは無いが 概ね浅井との戦いであるとの見方が強い。一方で浅井側には史料が見られない。

多賀町史 によれば 永禄四年(1561)頃の八月二十九日 馬場宗左衛門頼景が屋守城 対杉立親子 の戦いで苅間の三嶋氏を討ち捕る武功を挙げ 九月五日に長政から感状 高宮右京亮宗存 権九郎 豊宗の子 の副状が発給されたという。
屋守 矢守 も苅間も 宇曽川の南岸 愛知川の北岸と両河川に挟まれた地域にあり 同地で合戦が起きたのならば 愛知川を越える軍事活動を行った端緒とも言うべき永禄九年(1566)に他ならないのではないか。

杉立町介

さてここで杉立氏が登場するが 後年磯野員昌の内衆には 杉立町介 が存在した。彼は奉行として務めており 永禄年間に配下に加わったのなら新参となろう。
しかし新参でありながら員昌の信頼を勝ち取った点は 町介の優秀さと員昌の家中支配に実力主義を見出すことが出来る。

ところで員昌の一族と思しき人物として後に述べるが 磯野新兵衛 が挙がる。ここで彼に触れるのは 愛智郡志 の豊国村 現愛荘町 豊満神社の社蔵文書にて見られることによる。
天文二十年(1551)卯月二十四日付磯野新兵衛 葛巻久助宛村田秀治 佐藤忠恒 杉立高政 葛巻定勝 杉立高秀 市村良忠連署書状である。
新兵衛は恐らく神官の類であるが 天文の末に杉立氏と関わりがあったのが興味深い。
不幸にも敵味方に分かれてしまったが 町介が取り立てられたのは こうした豊満神社の関わりもあったのかもしれない。

赤田への指南

嶋記録には九月晦日に赤田信濃守興が嶋若狭入道へ 員昌の在陣と屋敷普請について伝えた書状が収まるが これは東浅井郡志で永禄九年(1566)のものと推定されている。嶋記録内では姉川の頃とされる

今度者 我等身寄之者 不慮之働付 御国之御造佐 彼是手前失面目候然處各依馳走 員昌御在陣 外聞實儀大慶候 殊更屋敷普請早速出來 別而内々得御指南候之處 種々御懇意難忘候 御在陣中 こま〱と御礼可申儀候へ共 無其儀 併疎意ニ相似 令迷惑候 向後是非共無等閑儀所希候 何か事不届様子万々無御面目口惜敷候 心事追而可申述候 恐々謹言
   九月晦日         赤田信濃守
    嶋若狭入道殿 御宿所         興判                 

ここで身寄りの中から六角勢に通じた者が居たが 員昌が在陣したことで 外聞実儀大慶 となったと述べている。
普請について誰から指南を受けたのか これは一瞬嶋氏かと迷うが員昌のことであろう。
嶋若狭入道へ宛てたのは 赤田が 御在陣中 に細々と御礼をしてきたが 員昌がそっけなく対応したようで その態度に何か自分たちに不届きがあったのか 口惜敷 としていることに依るらしい。
員昌が何故そうした態度を見せたのか定かでは無いが 最前線に立つ将として神経を尖らせていたのかもしれない。

年次不明の員昌関連史料

ここで員昌に関連する年次不明史料を紹介したい。

正月十二日・河瀬氏と高宮氏の相論

河瀬氏は長く多賀大社の神官を務めた家柄である。
永禄二年(1559)に河瀬二郎と母 河瀬権右衛門尉 筑後守受領 の三名が磯野八郎三郎と並んで兼右卿記に見える。
さて河瀬筑後守は某年に高宮新右衛門と相論を起こした。土田豹介家より買徳した件に関する相論だ。
その際に員昌は多賀社神官中に対して 神官中で解決せよと命じたのである。多賀大社叢書文書篇改訂版 高宮城跡Ⅲ
これは長政と義弼が和睦し 員昌が佐和山城へ入ったと思われる永禄七年(1564)以降のことであろう。

五月二十七日 ・中島直親違乱について

先に中島直親について紹介した。
彼は竹生島の奉行も務めていたが 宮島敬一 戦国期社会の構造とその歴史的特質の研究 彼は某年蓮華会に関わる竹生島側の訴えに取り合わなかった。
そこで 竹生島年行事御坊中 は員昌に訴え 員昌は五月二十七日に返事を出した。
結局この一件は七月十一日に長政から竹生島四人衆に対し 蓮華会の催行を約束したことで落着したようだ。

某年六月二十九日・年貢の不足

某年六月 浅井長政は員昌が収めるべく米の内 六三六石が不足していると某に通達した。

員昌江八木四千六拾石事 以五升米雖申付候 其内六百参拾六石餘不足候 此砌何共難調候二而笑止候 聊非如在候 然共時分柄候 連々可申付候 可令疎略儀二て無之候條 心底之趣 具可有傳達候 恐々謹言
   六月廿九日        長政判
  宛名欠

これは 中村不能斎採集文書 に依るものであるが 東浅井郡志は元亀三年(1572)のものと比定している。ただしその論拠は不明瞭であり 元亀三年(1572)は既に員昌の離反後で 長政が員昌の年貢不足分を通達することに違和感がある。
恐らく永禄年間のものだろう。

先に赤田信濃守への素っ気ない態度を見たが 年貢に不足分があるなど 少し抜けた愛らしいところがある。
同時に神道に通じた文官肌な部分とは 似ても似つかぬと感じるところでもある。

永禄十年(1567)・城の鎮守と調略

三月二日 吉田兼右は自記に次のように記した。

二日戊午 江州北郡磯丹波守申来云 目賀田城 肥田城 佐和山城 何以鎮守為十禅寺 此内佐和山社号千代宮 丹波守令存知候間 無其祟候様ニ鎮札所望之間 銘々調了 又与南郡衆就調略之儀 立誓言 然共双方相破了 無其祟之様 札之儀所望候間 調遣了

磯野員昌と神社 伊藤信𠮷 にもあるように 磯野員昌はかねて吉田兼右と入魂で 神社にも造詣が深い人物であった。

鎮守社

伊藤氏に依れば目賀田城 肥田城 佐和山城は何れも 十禅寺 日吉山王社の十禅師社 を勧進し 鎮守社 としていたようである。
特に佐和山城については 千代宮 が鎮座しており 員昌は両社に関連する祟りが無いように 兼右に 鎮札 を調えるよう依頼している。
伊藤氏によれば目賀田城は十禅師社は鎌倉時代に春日神社に合祀された。春日神社は現在も同地に残るため それが兼右の指す 十禅寺 なのだろう。
また肥田城の十禅寺社は 高野瀬氏の菩提寺崇徳寺に存在した 崇徳寺山王または山王権現社あるいは鎮守堂 である可能性があるようだ。
佐和山城の鎮守 千代宮 は度々遷座が行われ 今は彦根城の南西に座している。

目賀田氏について

さて村井祐樹氏によれば高野瀬氏は前年の江州大合戦以降の動静が不明で 彼らが大人しく北郡方に降ったと考えることが出来る。
その一方で目賀田の目賀田貞遠は 永禄十年(1567)の書状にも見られるため 恐らく本拠地目賀田を去ったと思われる。
後に安土城が建てられた山は それ以前は 目賀田山 と称していたという伝承が残るそうだが 貞遠は本拠地から同地へ退去したとも考えられよう。

目賀田に関しては某年一月十五日に長政から員昌へ宛られた書状にて 枝村紙商売人について目賀田方の言うとおりに安堵すると伝達されている。

南郡衆調略之儀

そのようなところで 又与南郡衆就調略之儀 立誓言 然共双方相破了 無其祟之様 札之儀所望候間 と記されているのは興味深い。
これは員昌が南郡衆を調略して誓言を取り交わしたが 双方が破った際に祟りが無いように札を所望したというものである。
ここで員昌が当時南郡衆を調略していたことが理解できると同時に 情勢いかんでは結んだ縁が絶えることを留意していたことがわかる。それは前年に起こったことでもあった。
しかしこの記述のみでは 員昌が調略していた南郡衆の具体名はよくわからない。

永禄十一年(1568)・足利義昭上洛

永禄十一年(1568)九月 足利義昭が上洛を果たし 六角氏は国を追われた。

義昭、小谷入城

上洛のため美濃を目指した足利義昭一行は七月十六日に 江州浅井館 へ動座した。美濃へ入ったのは二十二日と多聞院日記にはあるから 小谷城で六日間滞在したことになる。
員昌も饗応の場にあったと思いたい。

信長、佐和山城訪問

義昭が美濃へ動座した数日後の八月七日 織田信長が佐和山城を訪れた。
これは信長公記に依るが 佐和山城で信長は六角承禎へ上洛への合力を要請 その返事を七日間待ったという。
その場に於いて員昌は湖国の地勢を信長に説明したのかもしれない。
ところで 川角太閤記 には長政の嫁取りにて 磯野氏がお市の方を推挙し迎え入れたとの話がある。近江の磯野氏 ではこれを 員昌がお市の方を護送したため とするが 実のところは定かでは無い。

八月十四日に織田信長は承禎 左京大夫 に対し 上洛軍への合力を要請する書状を発給している。遺文補遺 四六 これは村井氏の六角基礎研究本にも収まる
しかし六角は信長の圧力に屈することは無かった。

信長の禁制

さて信長は八月日付で柏原の成菩提院 多賀大社に禁制を発給している。
時に柏原も多賀も浅井長政の影響下にある地域である。こうした地域に信長が禁制を発給するのは些か不適当なように思われるが 恐らく成菩提院と大社が戦火を懸念し信長に禁制を求めたのであろう

上洛戦

足利義昭入洛記 は永禄十一年(1568)の十一月には製作されたと見られる成立の早い軍記である。
伊勢 尾張 三河 美濃四ヶ国の兵を率い岐阜を九月七日に出立した信長は 八日には高宮に陣し その先陣は愛知川 後陣は摺針峠 小野宿に陣を敷いた。
その後 十二日に箕作城を何とか陥落させ 十三日に観音寺城を占拠。それから数日の間に六角勢は落ち延びるか降参したという。承禎 義治親子は城を捨て甲賀 伊賀へ落ち延びた

斯くして無事に義昭の上洛は成功し 晴れて十五代将軍と相成ったのである。
そこに近江衆 浅井長政たちの関わりは見ることが出来ない。
主を喪った近江南郡は 後藤。進藤 永田 池田 蒲生などが独立し織田信長の配下となり 更に信長の重臣 佐久間 柴田 中川などが入った。それぞれ信長重臣の与力ともいわれている。

そして十一月には久政 長政親子と朽木弥五郎の間で起請文が取り交わされた。

永禄十二年(1569)

新将軍足利義昭を支える立場となった浅井長政 そして磯野員昌。この年に彼らは上洛を果たし 更に伊勢へ兵を出すことになった。

長政の上洛

兼右卿記 によれば長政は二月頃に上洛を果たし在京していたという。
この年の正月には三好三人衆が本国寺 足利義昭を襲うも奉公衆や守護池田氏によって撃退された 本国寺の変 が発生していた。その知らせを受けた信長は急ぎ岐阜から馳せ参じ十日に上洛するが 言継卿記 の十二日条には 尾張 美乃 伊勢 近江 若狭 丹波 攝津 河内 山城 大和 和泉等衆 悉上洛 八万人計云々 とあり 近江衆に北郡 浅井方の上洛を想起させる。

言継卿記 に依るところ月末には信長が将軍の御所 義輝の 古城 を再興をはじめ 自ら奉行を務めたという。
二月二日条には 尾州から播州に至るまで 少々上洛 石持之 とあるが もちろん 江州 も含まれている。

ともあれ何れの期間に長政 員昌は上洛し三月二日に吉田兼右が彼らを訪ねた。

浅井備前守去月已来令上洛 為礼太刀一腰 百疋持向了 磯野丹波守申次 三十疋遣之 河添大和守二十疋遣了

兼右は太刀一腰と銭百疋を贈り 員昌に三十疋 河添大和守に二十疋を贈っている。河添はよくわからない人物だ。
その際に兼右を取り次いだのは員昌であり 兼右の員昌への信頼が窺える。
浅井側からすると一昨年より吉田兼右には神威 祟りを回避するために世話になっており 直接会うことで謝意を伝えたかったのだろう。

六月~七月・今井家中の内紛

この年 今井家中では内紛が起きた。
嶋記録 によれば亡き定清の妻 小法師丸の母を巡るものであったらしい。
六月二十二日 員昌は 今井殿御家中衆中 に対し 各内輪之儀 小法士殿御幼少 だからといって 新儀非分之儀 はあってはならないとして 長谷川裕子 戦国期畿内周辺における領主権力の動向とその性格 長政江申聞起請文申付 としている。

そのようにして 今井殿御家中衆 は六月晦日 浅井長政から 御家之置目 諸知行田畠 毎時古左衛門尉 備中守殿如御代之可有裁判候 という内容の起請文が提出されたようだ。
浅井長政は 小法士殿御若年之条 万端付而新儀非分并自堕落仕出仁 小法師丸の身元を保証すると同時に家中へ厳命している。
そしてわざわざ触れるまでもないが 委曲員昌可有傳達候 として員昌が今井家中と長政を取り次ぐ存在であった。

さて 嶋記録 の江戸時代に作られたと思しき叙述部分には小法師丸の母の 寺参り 空念仏 聞人耳をけがし みるものうしろゆひをさして とて糾弾されている。どうやら後々の叙述からみると彼女は今井家を出て姉妹が嫁いだ堀家へ向かったように思われる。その為に小法師丸の身元が保証される必要があったのだろう。
一方で田那部式部の台頭が目覚ましいと伝えられたのか 器量よく弁舌利口に任せ 当時の最先端をゆく性格 当世ハ何事もさらりとして で人気を集め 彼の門前には 市をなし 追従するものおほかりけり と述べている。
田那部式部は長政の右腕にあたる遠藤直経を義兄にもち その人気は直経の威光 人気に依るものでもあったように思われる。
何処まで正しいのかはわからないが 家中の均衡を保つために員昌 長政を頼ったのであろう。

だが事態は思わぬ方向へ進み 七月半ばに顔戸 今井家中の領内 で一人の男が夜中に騒ぎを起こしたという。
曰く今井殿の内なる嶋に逆心があり 今日小谷で生害させられると言う。しかしこれは皆田那部の仕業であると噂をした。
結局嶋親子は三名の連署で 無実 の誓紙を提出したという。
ここまでは嶋記録の叙述部分で真偽は定かでは無いが 七月十二日に長政は嶋若狭入道へ誓談を披見し 向後弥無油断 万端可有馳走事肝要候 としている。

八月~十月・大河内攻め

八月二十日 信長は八万の大軍勢を率いて伊勢の守護北畠氏を攻めた。多聞院日記
原本信長記に依れば 南の山に進藤 後藤 蒲生等旧六角派 西には堀 樋口 阿閉淡路守 息孫五郎 北者には浅井備前守人数 磯野丹波守の名前を見ることが出来る。

しかし堀 樋口 鎌刃 阿閉親子 山本山 員昌の名が 浅井備前守人数 と別に記される点は興味深くそして不審である。その当時から織田家は彼らの独立性を認めていたのか はたまた大田牛一が後年に便宜的に記したのか定かでは無い。
そしてこの合戦に於いて北郡 浅井方がどのように戦い どのような活躍を見せたのか信長記にも他の史料にも見ることは出来ない。

この戦いは結局十月に北畠の降伏 信長次男の養子入りによって終結した。

十二月二十九日・多賀大社神事について

師走 長政は 被官衆御中 に対し 多賀大社の神事に関して 犬上郡中の百姓等に近年名字を名乗り神事の役を勤めず 在所で狼藉を働く者が居たらしく 向後至猥族者 急度可有注進候 と通達した。
こうした名字つまり侍を自称することで神事役を回避する不良百姓 宮人に狼藉を働く輩は天文の末から見られ 六角氏も対応に苦慮していた。
興味深いのは員昌ではなく長政が発給している点だ。一体何の理由に依るのだろう。

元亀元年(1570)野村合戦(姉川の戦い)と員昌

いよいよ元亀争乱がはじまる。員昌にとって生まれてから約五十年親しんだ北郡勢力として過ごす最後の一年間である。

野村表の戦い

この年の四月 織田信長を大将とする幕府軍が若狭 越前を攻めた。かねて長政の子息を一乗谷へ人質に出したとする説があるほど 朝倉氏と親しくしていた浅井氏はこの軍事作戦に対し幕府からの離脱で抗議を示した。幕府軍は浅井の離反に接し混乱に陥ったが 果たして実際に浅井方が軍事作戦を行ったのか定かでは無い。

六月二十八日 横山城を巡り浅井朝倉連合軍と織田徳川連合軍が激突。浅井軍は遠藤直経や国人などを喪い 織田軍は本陣深くまで攻め込まれた。
この一連の流れで浅井朝倉連合軍は江濃国境の長比 刈安 鎌刃つまり堀氏 樋口氏 街道筋の要衝横山城を喪うが小谷城は死守。対する織田軍は浅井征伐こそ失敗に終わったが 横山城を得ることで小谷城に匕首を突き付け 坂田郡の過半を手に入れ岐阜から京都への交通の確保に成功した。

この戦いでは軍記物語を根拠とする通説にて 磯野員昌の武勇が語られるが 近年 十一段崩し は否定されつつある。更に言えば佐和山城主である磯野員昌が どのようにして浅井朝倉連合軍と合流出来たのか疑問も持たれ不在説も出て来ている。

員昌は参戦したのか

確かに員昌や今井家中といった坂田郡の国人がどのようにして合流したのか疑問はあるが 言継卿記 江州北郡軍有之 浅井討死 其外七八千計討死云々 磯野丹波守同 六月二十九日条 とあったり この戦いに関する員昌の感状が残る点 島記録に 於戦場丹州に頸見せ 於戦場丹州二乗馬借シ とあるから 彼が戦場で関わっていたことは事実のように思われる。

織田軍は一度 二十一日に小谷城を攻撃しているが返り討ちに遭い二十二日に弥高 京極氏縁の地 の麓まで徹底している。員昌が佐和山から本軍に合流するなら この時であろう。
佐和山城へどのように帰城したのかも定かでは無いが 敵勢の正面突破以外に策はない。ダイナミック帰城 とか それこそ後世島津が見せた 正面突破 のようなものであったか。
野村から敵勢を抜き 東上坂 顔戸 岩脇と帰還したのだろうか。

珍説を披露するなら 員昌や今井家中たち佐和山の兵は伏兵として織田徳川連合軍の背後に現れたとも考えられよう。本軍と共に挟み撃ちである。
ともあれ遠藤直経の討死 徳川軍が朝倉軍を押したことで戦局が悪化 員昌は戦場を離脱し帰城したとみるのは変わらない。

一方で島記録には一部の将士が小谷城で首実検を行ったとか 負傷し小谷城へ退いてから佐和山へ帰還したとある。何れも同家に遺された覚書の類によるのだろうが実のところは定かでは無い。

籠城、感状

原本信長記によれば織田軍は七月一日に佐和山城を包囲。寄せ手は百々屋敷 鳥居本 に丹羽五郎左衛門 北の山 物生山 に市橋九朗右衛門 南の山 里根山 に水野下野守 彦根山に河尻与兵衛である。滋賀県教育委員会佐和山城跡ブックレット
天文頃から反六角の急先鋒であった百々氏はあっさりと織田方に降ったらしい。
なお 言継卿記 七月三日条には 今日江州北郡佐和山之城磯野丹波守 信長へ可渡云々 とあるが 先の浅井や磯野の討死同様に根も葉もない雑説であろう。しかしそうした風聞が洛中に聞こえていたのは興味深い。信長が明日にも上洛するとの記述もあるので 織田方が流したのだろうか。

島記録には戦後直ぐから十二月に至るまで五十二名が佐和山に籠城したとある。敵の目もある中で大した忠義心と しっかりと記録を残した若狭入道の行動に感心するばかりだ。また若狭入道の記録に依れば田那部式部は頸取り高名を挙げ 子息の満牟介が討死を遂げたという。なお叙述部分で 小野 草山 相撲等 が籠城したとあるが若狭入道の記録には見られない。

籠城の最中 員昌は感状を発給している。
まず七月五日 今井家中の島宗朝 若狭入道の三男 禅僧 に対し 籠城への感謝と安養寺 宝尺坊 民部跡 藤村新八郎跡 同又右衛門尉跡の知行を約している。
更に十日には島新右衛門 若狭入道二男 へ野村河原合戦での忠節に対して法勝寺十五条公文名五拾石 南郡供米三分二申付を約している。

九月五日には雨森菅六に対し兄次右衛門の野村表での討死と 太刀疵数カ所を負っても比類無き高名をあげた管六に対して跡目と知行五分一を安堵した感状を発給している。次右衛門は西路梅原での争闘に活躍した男で 当時も員昌が取り次いでいたことから 兄弟揃って員昌の配下にあったのだろうか。
なお文末に 従是長政前申究可置候 とあることから大嶋紫蓮氏は 浅井氏の滅亡にみる家臣団の構造 の関連文書一覧にて 長政の取次 と判断されている。
そしてこの発給は磯野丹波守員昌の浅井方としての最後の発給となるのである。

九月から十二月にかけ朝倉浅井連合軍は志賀の陣を繰り広げるが 佐和山城の員昌は蚊帳の外であった。
志賀の陣の終結で 江濃越一和 が成ると北郡のうち三分の二を織田家 三分の一を浅井家が支配する事と相成ったらしい。尋憲記
その配分は定かでは無いが 朝倉義景は 山門之儀 について 佐々木定頼時之 とて山門三院執行代へ認めている。歴代古案 十二月十五日付
同じように天文七年(1538)九月に定頼が國友河原で勝利を収め京極高慶を復帰せしめた際の 姉川を境とした配分が適用された可能性があるだろう。
事実 信長は明けて元亀二年(1571)正月二日 姉川から朝妻まで商人などの通行を停止させている。信長は帰国の際にわざわざ佐和山城下の磯村を経由しており 員昌は同村の磯崎氏が織田方に降った事実に直面したことだろう。

佐和山城は孤立し 正月早々高宮が私怨と古くからの因縁で久徳氏を攻めるも返り討ちに遭っている。
最早開城は時間の問題であった。

元亀二年(1571)・高島入郡

二月十七日 丹羽長秀は堅田諸侍へ次のような書状を発給した。

磯野丹波方高嶋へ被相越ニ付而 当所舟之事申越候 林与次左衛門尉方儀 当所衆無心元可被存候歟 然間磯丹一札林かたへ遣候 可披見候 此分二候間 少も不可有異議候 次一揆衆万一此方之儀無心元候者 明智十兵衛へ被申 人質被預 舟之儀廿日以前二 百艘之分至松原浦可有著 岸候 不可有疎略候 惣分之御馳走専一候 委細鈴村兵次 申含候 惣中へも磯丹一札在之由候 可被入魂候 恐々謹言
        丹羽五郎左衛門尉
  二月十七日   長秀 花押
 堅田
  諸侍御中
大日本史料より堅田村旧郷土共有文書 括弧内は新行氏論文から

これは員昌の高島移送についての書状で 堅田の侍衆に加え 林かた 一揆衆 の協力にこぎ着けたこと 移送のために人質と百艘の舟が用いられた 佐和山の湊に当たる松原浦から移送されたことがわかる。

  尚以 当所之事 自前篇 廉か 令馳走儀候 勿論向後不可有疎略候 已上
御折紙畏存候 仍当所舩儀 可被仰付之由 先以本望候 勿論雖不可有御油断候 片時も急可被仰付候 早船事弥入念候 殊磯丹人質取替候 旁以早舟之儀者 可御心安候 上下共二無異議様ニ申付候 磯丹も其段ハ請取申之由候 城中ニお 其方舟之儀を待かね在之儀候 各被出御精之段 具可申上候 随而為御音信鳥目百疋被懸御意候 畏悦之至候 御懇志之程不少候 期後音之時候 恐々謹言
       丹羽五郎左衛門尉
   二月廿日    長秀 花押
    堅田
     諸侍御中御返報
大日本史料より

この二十日付返報は 丹羽長秀からの礼状と見る。すると十八日か 十九日に移送が行われたのだろうと考えられようか。
島記録では 員昌は織田方の高島一郡を宛がう条件を呑まず 若狭の武田を頼るべく佐和山を退いたとある。この員昌の行動を 浅井長政は謀叛と捉え人質の老母を磔にしたともある。
しかし上の二通を読むと 概ね開城から日を置くことなく高島へ移送された事が分かり 島記録の記述は信憑性に乏しいと言わざるを得ない。恐らく江戸時代の編纂時に脚色されたのだろう。同様の記述は大日本史料にて 丹羽家譜伝 にも見られるが 何方かを参考にしたのだろう。

打下招降

しかし高島に移送された磯野員昌が 高島郡の中で何処を拠点としたのかが定かではない。
まず員昌が 高島の何処へ移送されたのかを見ていこう。

先に見た丹羽長秀の十七日付書状には 林かた 一揆衆 の文字列が見られる。これについて新行紀一氏は 打下の林が織田に与し 一揆衆は人質を得ることで身の安全が保証され佐和山城から高島への運送に従事したと述べる。
こうした部分で 打下の一揆衆 が舟手である事もわかる。

後に記すように 打下の林は元亀三年(1572)次の高島攻撃に参加していることから 同年までに湖西 西路 高島に於ける反織田勢力の一角であった打下の林と一揆衆が織田方に与し 降っている事は確かである。
その具体的な時期というのは この磯野員昌の開城と同時期であり 高島郡の入り口と言える打下の彼が織田に与することで員昌の移送が叶ったと見るべきで これ即ち員昌は松原浦から打下へ移送されたとみるべきであろう。

高山公実録 によれば 員昌は 小川 なる場所に移ったとされる。しかしこれは 浅井三代記 に依るそうなので 気にするだけ無駄であり 現状では打下を根幹地とした可能性を示したい。
今に林与次左衛門の諱は 員清 と伝わるが 高島に渡った員昌が偏諱を行った可能性も考えられるだろう。

今井家のその後

幸か不幸か員昌には高島郡が宛がわれたが 同じように籠城していた今井家中はそのようにもいかず 五僧越 の江濃国境たる 時山 に引きこもったそうだ。長谷川裕子 戦国期畿内周辺における領主権力の動向とその性格ー近江国坂田郡箕浦の今井氏を事例として 二〇〇〇年 史苑/立教大学史学会 編 六十一
このように雌雄決する場で何方につくか判断に迷った領主が 山に上がり籠もる事は 中世ままある事であった。
最も今井家中の嶋一族の中には 新右衛門親子のように員昌に付き従う道を選んだ者も居た。

田那部式部

島記録は田那部式部についての叙述が見られる。
彼は子息や義兄を喪った後 佐和山城へは帰還せず 今井定清の妻 小法師丸の母を頼り堀次郎に与したという。実は今井定清の妻は堀次郎の父遠江守秀治の妻と姉妹のようで 堀次郎は甥にあたる。更に田那部自身も樋口三郎兵衛の縁者であったことも要因であったらしい。
つまり遠藤直経は田那部式部を結節点に今井家や堀氏との結びつきを有していたが 姉川の戦い時点で堀氏や京極氏の離反が起こり責任を強く感じていた可能性がある。

また嶋又四郎 久右衛門 は妻が樋口三郎兵衛の妻と姉妹であり 相婿に招かれて堀次郎に与し三月には知行を与えられている。

五月十九日・嶋宗朝宛書状

織田家へ転じた員昌の初見となる書状が 嶋記録 に収まる。
これは嶋宗朝を還俗させ 小法師 の補佐を託す内容と東浅井郡志や大日本史料では解説されている。

小法師とは坂田郡の盟主今井氏の当主で その父定清は永禄四年(1561)に磯野員昌の兵により手違いで討死しており 以後員昌の配下として嶋氏の保護を受けていた。
さりとて磯野員昌が城を明け渡すと小法師の処遇にも困ったもので 東浅井郡志では一度高島郡に送られたがこの書状を以てして坂田郡へ戻ったと解説しているが定かではない。

しかし嶋記録を読むと 後に小法師は浅井の誘引を受けていることから 高島郡にその身を置かなかったのは確かと見える。
また 委曲上坂伊豫守 速水喜四郎申含候 と結ばれている点は 員昌のこの当時の内衆を知るに都合が良かろう。

七月五日・朽木弥五郎(元綱)宛信長朱印状

この書状は須戸庄 首頭庄か の請米承認と 新知行の保証を約すもので 磯野ニ申含候 としている。高島での員昌の働きは この書状が初見となるだろう。
ここで朽木氏の事情を見てみよう。

朽木氏の事情

遡ること永禄十一年(1568)十二月十二日 朽木彌五郎元綱は浅井久政 長政親子から起請文を提出されている。

西島太郎氏の 戦国期室町幕府と在地領主 によれば その内容は人質の要求や新地千石 保坂役所の安堵 朽木谷が守護不入を確認するものであるようで 西島氏は保坂役所は元通り朽木氏により知行されていることから 長政による高嶋郡信仰は成功を収めたと言い難い としている。

確かに永禄十三年(1570)正月二十三日の禁裏修理等に纏わる 二条宴乗記所収信長触状写 には 七佐々木 と記され 浅井の麾下では無い事がわかる。また同年の金ヶ崎の退き口では信長をはじめ諸将の朽木谷通過を許しており 一定の独立性を保っていたものと推察される。

その地位が揺れたのは前年末に発生した志賀の陣であろう。恐らく利便性の高い地理と 幕府及び足利義昭とのパイプとしての人的要素から 信長は確実に朽木谷と元綱の存在を抑える必要があったと見る。
磯野員昌の視点からこの書状を見ると 降伏した元亀二年(1571)夏には織田家中で高島の権利を有していることが解る。

十二月二十三日・嶋若狭入道宛書状

五月の書状から七ヶ月後 この間に員昌と小法師 嶋家方でどのようなやりとりがあったのだろう。猛将の異名を持つ員昌が なみたをなかし申候 と記すのは奇妙だ。

どうも小法師が何やら噂をしていたことに員昌は衝撃を受けた様子だ。
我等式事は けし毛頭ほとも小法師殿之儀如在又は片心にも不存忘候
このように 員昌は片時も小法師の事を忘れていない とも記している。更にそうした揺れ動く小法師の心中を聞いたのだろうか
御おさなき御心中にも きとくなる御覚悟迄 聞人毎にかんし入申候
等とも記す。

使となる新三とは五月に員昌が還俗させた嶋宗朝で 若狭入道は彼の父にあたる。
また差出人で 磯丹 と記しているところが面白い。

ところで今井家が元祖本拠としていたのは江濃国境であるが この当時治めていたのは真っ先に織田へ転じた堀秀村である。嶋記録を信ずると小法師と秀村の間柄は 母が姉妹同士の従兄弟と相成る。ただ小法師の母は姉川合戦後 配下の田那辺氏と再嫁している
そうしたところで小法師と嶋氏の今井家中は堀配下の織田派とも考えられるが 結果的に彼等は誘引により元鞘の浅井氏配下となった。嶋記録の書状を見るに翌元亀三年(1572)三月十七日 浅井長政は今井小法師丸に知行を宛がったのである。

結果的に員昌と今井小法師はこの書状を以て決裂したと見て間違いないだろう。

元亀三年(1572)

この年の員昌の動静は僅か一件で 後世編纂された史料を含めると二件となる。

三月十四日・吉田兼見に北郡八幡之社の再建について報じる

兼見卿記 によると この日磯野丹州より書状が届いたという。
その内容は 一揆により江州北郡八幡之社が炎上したので 先令造立假殿 本式之儀追而可得御意之由 とて 今は仮殿が造営されたが本格的再建も 員昌の御意にあったようだ。
この八幡は今の 長浜八幡宮 である。長浜市史は 八幡荘民の長浜八幡宮への信仰の深さがうかがえよう と記すが ここでは員昌の信仰への深さも窺えるとしたい。
ところで書状が発給された日付は定かでは無いが 三月十一日には織田軍が志賀郡の木戸 田中に攻め寄せている。その最中に員昌が北郡の八幡宮に関わる内容を兼見に報告したことは興味深い。彼は木戸 田中攻めに関わっていない可能性もあろう。

時に 江州北郡八幡之社今度依一揆之所行炎上也 とあるが ここでの 一揆 とは前年元亀二年(1571)五月六日に発生した 箕浦合戦 に関わるものと思われる。この戦いは裏切り者の堀秀村を征討するために浅井軍が一向一揆と結び 浅井七郎井規を大将に攻め寄せたが 織田方木下勢の攻勢に敗北を喫した戦いである。
原本信長記 によれば浅井軍 一揆は湖岸沿いを さいかち浜 や下坂 八幡を経て小谷へ敗走した。その際に 箕浦八幡迄之間打捨 五月十一日付秀吉書状 木下勢の追撃が凄まじかったことを物語る。
この追撃戦の過程で北郡八幡は炎上したのであろう。

吉田兼見との関わり

さて伊藤信吉氏は 磯野員昌と神社ー吉田家の日記を素材としてー の中で 員昌は吉田兼右 兼見 兼和であるが便宜上兼見に統一 親子と関わりがあると指摘する。
どうやら員昌は永禄の初頭から吉田家と関わり 次第に浅井家と吉田家との取次を行うようになったという。

伊藤氏は員昌について 神威を畏み と記す。
末裔が著した 近江の磯野氏 によれば 員昌の祖先は神職であったとされる。このように吉田兼見との関わりを考えると首肯出来る説だ。

田端泰子氏によれば 兼見は旧幕臣である細川藤孝 明智光秀と昵懇であり 更に公家でもあるから信長とも面識があるとする。
員昌が重用された事には 織田との関係が悪くない吉田兼見との関係に依るところも考えられそうだ。

ここで一考するに 八幡荘 長浜 の民はかねてより磯野員昌の神道 吉田家との関わりを存じていた。そうしたところで員昌を頼りにしたと考えられるだろうか。
また当時北郡を管轄していたのは横山城の秀吉であるが 彼が員昌を頼りにしたとも考えられ 恐らくは早い段階で近江の織田家中に 近江国内の神社に関することは員昌へ との共通認識が持たれていた可能性も考えられるだろう。
なお現在新庄の大善寺境内の宝塔に据えられている 水盤 手水艘 元々 江州坂田郡八幡宮 に置かれたいたことが彫字 銘文 からわかるそうで 長享三年(1489)に 左衛門尉藤原秀隆 なる人物が寄進したとも記されているそうだ。近江の石造美術 2 より
恐らく再建に携わった員昌への礼として新庄 大善寺に寄進されたのであろう。
2022 年には歴史家の太田浩司氏が現地を訪れている

祇園に居た員昌

さて 柴田勝家 和田裕弘 では中川重政事件 柴田家中と重政家中との間で発生した事件 にて 事件収拾のために明智光秀が坂下 坂下 佐久間信盛が永原 磯野員昌が 祇園 長浜 からそれぞれ常楽寺へ馳せ参じたとある。これは八月の話であるらしい。

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員昌が祇園に居たと重政の後裔に伝わる点は大いに興味深い。
この時期は織田軍全体が虎御前山に陣を構えていた時期で 磯野員昌が北郡に居ることは自然に思われる。しかし彼が 祇園 から常楽寺へ駆けつけたという点は 違った視点を考えることが出来る。何より祇園は八幡宮から西に一キロ程の距離にあり 員昌が軍事目的ではなく 八幡宮再建に携わるために滞在していたと見ることも出来よう。とても素晴らしい示唆を与えてくれる後年の史料だ。

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とはいえ本格的な再建が何時頃始まったのかは定かでは無い。高島郡では五月から六月にかけて木津郡の 三坊 を巡る攻防が繰り広げられていた。再建が七月以降であれば織田軍の虎御前山在陣と連動して行われたと思われるが 七月以前に再建が始まっていたのであれば 磯野員昌は高島に配されながらも高島郡に於ける軍事指揮権を有していなかったと考えることもできる。
果たして何方であったのだろうか興味深い限りである。
画像は地理院地図に関連地名をプロットしたものである。横浜村 今浜村の推定は太田浩司先生の動画を参考とした。

員昌の書状

某年九月三日に員昌は草山与次郎 上坂八郎兵衛 今井孫八郎 中村宗左衛門 今津吉介 槽谷内蔵介 浅見左衛門 杉立町介の八名に対し 次のような書状を発給している。

其方長々御苦労候 弥無御油断 可被入御念候 此方普請漸出来候間 近日ニ可相帰候條 以面可申候 其間之儀肝心無油断 可被入御精義管用候 恐々謹言
 九月三日      丹
           員昌 花押
   草山与次郎殿
   上坂八郎兵衛殿
   今井孫八郎殿
   中村宗左衛門殿
   今津吉介殿
   槽谷内蔵介殿
   浅見左衛門殿
   杉立町介殿
       御宿所 彦根市史資料 667 上坂文書

この中で員昌は普請に携わり 近日中に変えることを通達している。
彦根市史は普請にまつわるものであり佐和山城へ入った永禄四年(1561)頃と推定している。筆者も永禄年間の書状で 特に永禄九年(1566)の赤田信濃守への指南に関わるものであるかと考えた。
しかし末尾の杉立町介は永禄九年(1566)頃であれば新参の類であったと思われるため 若干の疑問を抱いていた。
さて員昌は宛名の八人衆について 長々御苦労候 と述べている。永禄九年(1566)であれば対六角で愛知川沿いに駐留していたと考えられ そこからすると 在陣 という語句が用いられるべきではないか。つまり八人衆は在陣すること無く 長々御苦労 その身柄が戦地にあったと思われる。
それに該当するのは当年の高島郡の情勢では無いだろうか。
春より員昌は坂田郡八幡の再建に取りかかり その隙に木津庄山徒のような反織田派が蹶起。一度は明智光秀に依って掃討されたが 直ぐさま朝倉軍が出張してきた。これにより高島に残った留守居達は相当な重圧があったことだろう。

八人衆の一人 上坂八郎兵衛 について小竹文生氏は上坂氏の系図を参考に 小谷城落城後に伊賀守意信が山籠もりし徹底抗戦し 天正二年(1574)に秀吉に降った後 八郎兵衛 に復し秀長付の家臣となった としている。羽柴秀長の丹波福知山経営 上坂文書 所収羽柴秀長発給文書の検討を中心に
しかし長浜市史のなかで田端泰子氏は伊賀守意信 信濃守定信兄弟と 上坂八郎兵衛 は別人物であるとしているようだ。確かにこの書状が永禄年間であるとしても永禄年間に上坂八郎兵衛が登場している事となり 八郎兵衛意信が伊賀守を称したという系図は成り立たないように思われる。そのようなところで元亀四年(1573)八月十二日に浅井長政は 上坂八郎右衛門 に対して加藤内介跡と家来共を宛がっている。恐らく徹底抗戦したのは此方の可能性があるかもしれない。
また田端氏は

上坂八郎兵衛尉は天正五年(1577)ごろ秀長のもとで 五人給人衆中 と呼ばれる給人組織の中に返済されている。五人とは 上坂八郎兵衛尉 磯野 赤尾ら近江の国人衆である。五十石分の外出米が多少に寄らずあった場合は この方 平野土佐入道 へ申し上ぐべきである などとのべていることからみて 五人給人衆中 は平野土佐入道の寄子的存在であったかもしれない

とも記している。この 五人給人衆中 が如何なる組織であるのか 未だに該当する史料を読んだことが無いけれど非常に興味深く 磯野や赤尾といった国人衆が組み込まれている点も興味深い。
もしも当書状が元亀三年(1572)のものであるのなら 員昌内衆 配下に端を発する上坂八郎兵衛たち国人衆は 天正五年(1577)頃に郷里の北郡へ帰還を果たした事となろうか。その時期は後に触れるとおり員昌の隠居と重なる部分がある。

元亀四・天正元年(1573)

この年 信玄が急逝し足利義昭が畿内を去り 朝倉浅井が滅びる。激動の一年に磯野員昌の活動は活発化する。

二月二十八日・嶋新右衛門宛書状

元亀四年(1573)二月二十八日 員昌は嶋新右衛門 秀淳 の忠節に報い 知行を宛がった。
新右衛門は先に出た若狭秀安の二男で 宗朝の弟にあたる。
書状を読むと 数年御届御忠節之儀 とあるから 嶋秀淳は員昌と共に高島に居たのだろうか。また 委曲田屋端介方可有伝達候 とある点は興味深く この時既に海津の田屋党を手中に収めていたとも考えられるだろう。

ところで二月二十八日という時期も興味深い。この二月は将軍足利義昭の蹶起と今堅田 石山の戦いが勃発 さらに史料を読むと隣郡志賀の木戸でも騒乱が発生した事がわかる。
そうしたところで高島を領す員昌としても警戒すべきところはあったようにも思われるが 木戸での争乱は二十四日までには鎮圧されていたので 革島家文書 革島市介宛光秀書状 落ち着いて政務を行えたのではないか。

なお翌三月には朝倉義景が高島の有力者多胡宗右衛門に書状を送っている。果たして敵方のこうした活動に員昌が何処まで把握していたのか 定かではない。

七月一日・竹生島宝厳寺宛信長朱印状

足利義昭が再び不穏な動きを見せるこの頃 信長は竹生島の宝厳寺に対し坊舎及び寺領を安堵する朱印状を発行した。
その文末は 猶磯野丹波守可申届之状如件 と結ばれており 員昌の介在を見る事が出来る。この 竹生島文書 には信長と竹生島 そして磯野員昌の働きはもう何件か見る事が出来るので追って紹介しよう。

八月十六日・多胡宗右衛門宛信長朱印状

刀根坂の劇勝から日も経たないこの日 兵を休めるべく敦賀で逗留していた信長は高島の有力者多胡宗右衛門に対し所領安堵の朱印状を送ったと 田胡家由来書 には伝わるようだ。
その安堵は 本知 當知行輿力 寺庵 被官人で 更に新知を 磯野方ゟ可申付候 という破格の好待遇である。
大日本史料に収まる書状の文末には 并不可破城之状如件 と結ばれている。これは今一つ意味がわからないが 破城を認めないという意味になるだろうか。許可無く破城するべからず という事なのか。
しかし 信長文書の研究 に収まる同書状では 并山々破城之状如件 と意味のわかる内容になっており つまりは宗右衛門に高島の山々に存在する城の破却を命じている事となろう。
高島郡の山城で代表的なものが林氏の打下城 越中氏の城 清水山 田中氏の城であるが こうした城を破却し後世言われる新庄の城に集約したと思われる。
ただ打下城の破却は天正三年(1575)夏以降まで掛かった事も記しておこう。

さて長らく抵抗を続けてきた高島郡が片付いたのは ここから二週間あまり前の事である。
七月二十六日の総攻撃により 木戸 田中城は呆気なく開城。高島表を悉く放火されたと信長公記には記される。また 永禄以来年代記 の翌二十七日条には 国衆降参 と記される。
面白いのは何れも殺戮の描写が見られない点で 信澄 信重 の寺社焼き伝承にしても信長公記にも焼き打ちのみで済まされている。
特に多胡宗右衛門は朝倉義景や甲斐の穴山信君と誼を通じた人物で 高島郡の有力者で数少ない名前が残る人物でもある。
そうした人物を生かした事が 員昌の高島処理の特徴と言えようか。ただ同時に生きる事を許されなった人間が居たのもまた事実である。
また多胡宗右衛門の名前はこれが終見となる。

九月六日・竹生島青葉の笛

恐らく浅井氏を滅ぼした祝いとして 竹生島の宝厳寺は名物 青葉の笛 を貸し出したのだろう。
しかし好奇心が旺盛な信長は 笛が竹生島に寄進された子細 元の所有者 添えられた小笛の由緒などを竹生島宝厳寺に尋ねるように員昌に命じると 更には自らも宝厳寺へ同内容の朱印状を認めている。また朱印状には 静御前が所持した小鼓の蒔絵は雷と聞いた。見てみたい と記すと 猶磯野可申候 と結ばれている。

九月初旬・杉谷善住坊逮捕

竹生島の笛をめぐるやり取りと同じ頃 信長公記によると 杉谷善住坊 なる僧侶が 九月十日に高島から岐阜城へ移送されたという。彼は三年前の五月に千草峠で信長を狙撃した男である。
捕らえたのは磯野員昌であり 高島郡における磯野員昌を代表する活動である。
その逮捕時期を逆算すると八月末から九月にかけてだろう。

さて杉谷善住坊について西島太郎氏は 戦国期室町幕府と在地領主 のなかで山徒であると指摘された。実は延暦寺大講堂高嶋河上庄給主の二十五人を記した 河上庄地頭廿五房田数帳 という史料の 廿五坊之次第 こちらの二十一番に 善住坊 と記されている。
最も同史料の時代と杉谷善住坊の時代は少し離れており 給主 善住坊 と彼が同一であるかは定かではない。
ただ一説によると 新庄城からほど近い阿弥陀寺に潜んでいたところを捕らえられたそうで 何やら高島郡との関係が深いところをみると西島氏の指摘通りなのかもしれない。

十月十日・横山親子の死

永禄以来年代記 によると 霜月十日 江州高嶋ノ横山父子首京へ上 という。
つまり十一月十日に高島の横山父子の首が京に上った という話である。
高島で横山 というと西佐々木七人の横山氏が思い浮かぶ。
考えてみると 京へ上る ほどの身分の人物だ。やはり西佐々木同名中の横山氏だろう。
そうなると十一月に磯野員昌は横山とその息子の身柄を捕らえ処刑したのだろう。または誅殺の可能性もあるだろうか。
この横山氏は永禄五年(1562)に坂本日吉神社で行われた足利義輝の 御礼拝講 にて名前が見られる 横山三河守 の可能性が高い。

また逸話として 海津之城私考 には天正の初めに七兵衛が 地頭 郷士を殺害し 城を破却させる 田屋淡路守を討ち という記述がある。
地頭 郷士の殺害については横山親子の死と合致するとみても良いし 城の破却は多胡宗右衛門宛の信長朱印状内にある 井山々破城之状如件 が合致するだろう。
田屋淡路守 は一見実在性を疑うが その名前は天正三年(1575)仲冬十五日 陰暦の十一月 現在の暦で十二月から一月 の大處神社棟札にて 淡路守藤原重頼朝臣 と見ることが出来る。これは大處神社というが西島太郎氏の 戦国期室町幕府と在地領主 によると 酒波大菩薩新玉殿の建立 に纏わる棟札らしい。
つまり田屋淡路守は少なくとも 天正三年までは生きていたこととなる。

十二月二十一日・竹生島宝厳寺宛請取状

この日の書状は 磯丹員昌が金子を受け取ったとの旨が記されている。
つまり竹生島の宝厳寺が殿様 つまり織田信長に金子を送ったという事になるだろう。
こうした 請取状 は広橋家に仕える藤堂氏の文書にも存在するが 員昌にも存在する事には驚いた。

十二月二十四日・朽木商人衆中宛書状

山本家文書に収まる 従諸侯頭載之御証文数通 新古御検地帖面座役米年用無地高訳并諸手形諸書物其外船木材木座仲間由緒書載之写 正徳五年以降 船木の材木座に伝わる由緒書である。
信重の記事の中でも既に触れているが 改めて読み直してみると員昌の書状も収まって居ることに気がついたので紹介しよう。

当谷材木入買令停止候
自然至而兎角之儀者
別相支可有注進候
可加成敗 恐々謹言
  天正元     丹波守
   十二月十四日   員昌御判
       朽木
         商人衆中
右者 織田信長公天正元年酉之年 天下ヲ知而丹波守江
高嶋一郡被遣 高嶋郡之内新庄ニ御居城之由

信重も同様の書状を出しているが その書状に出てくる 丹州可為如置目 とは当書状の事であろう。
朽木の商人に 朽木谷の材木の独占を承認した書状であろう。
また由緒に員昌が新庄城に居たことを示す記述は 後世の記述であっても貴重と言えよう。

天正二年(1574)

養子の於坊が織田家の中での歩みを始めたのが当年である。

三月十三日・員昌、正伝寺に禁制を出す

新旭町誌 には磯野員昌が天正二年(1574)三月十三日に発行した書状が収録されている。
それは正伝寺の侍衣閣下に宛てられた書状で 内容は
みだりに竹木を筏捕する事を停止しました。これを破る輩が居たのなら御注進下さい
との旨だ。
内容を考えると この書状は禁制の一種と考えられ信長文書にも似たような禁制を幾つも見る事が出来る。
この正伝寺は今も新庄城跡の北側に健在である。

十二月三十日・員昌、賀茂別雷社に三十石寄進する

戦国期室町幕府と在地領主 を読むと高島郡は荘園が入り組んでいる事を理解する事が出来る。それはこの時代も変わらずにいて この書状は高島郡に賀茂社領が健在であった事を示すだろう。
なかでも 於藤江之内 は特筆すべき地名であり 古く 安曇川御厨 が存在した安曇川河口の地である。安曇川御厨とは上賀茂神社に納める梁が設置された地域に近い。ただ最も同書と安曇川御厨の関連は定かではない。

安曇川御厨は西佐々木同名中の経済基盤として 田中氏が所務職 能登氏が地頭職を務めていた。
織田軍は元亀三年(1572)からの二年間 高島郡を焼き尽くした。城館のみならず寺社をも焼いた。高島郡誌 には燃やされた寺社の伝承 滋賀県中世城郭分布調査 8 高島郡の城 には城館の伝承が纏められている。
藤江周辺では能登氏が本拠とした船木城 その出丸で松下氏が構えたとされる普門寺城が元亀年間に落城したと伝わる。寺社についての伝承は存在しない。ただ推測でしかないが 安曇川御厨も無事では済まなかっただろう。

今回員昌が寄進を行ったのは 賀茂領の支配がそれまでの西佐々木七人から員昌による支配体制へと変わった事を明確に示すものとなろう。

天正三年(1575)

それまで文官としての仕事しか見られない員昌に 鎗働きの記録が唯一見られるのが当年である。

三月二十二日・吉田兼見を訪ねる

兼見卿記によると 磯野丹波守三荷三種持参 面会 と記されている。
これは祝い物の類を持参したのだろうか。

八月・対越前一向一揆

朝倉旧臣の抗争が泥沼の一向一揆へと変貌したのが前年の事。特に苓北嶺南の境 木ノ芽峠にまで一揆は押し寄せ 守将の堀家家宰樋口直房は無断講和を図り城を捨て その年の内に処刑されてしまった。
ところで木ノ芽峠の要害に磯野員昌も守将として入ったとの話を聞くが どうやらこれは後世に創られた 総見記 を出典とするようで 阿閉 磯野の浅井旧臣三将が交代で番となったと記されている。だがこの話を裏付けるものが無い以上は 論じる必要も無いだろう。

八月十四日に吉田兼見と勧修寺晴豊が 高島新城 に宿泊した事が 兼見卿記 に記されている。これは信長を訪ねる道中で 前夜は坂本状に宿泊していた。
新城 という表記が気になるが 恐らく 新庄城 の事ではないか。
兼見たちが高島を発った八月十五日 信長公記には大良越口から乱入した三万の軍勢に磯野員昌 七兵衛の名を見る事が出来る。
この後七兵衛は十八日に柴田 丹羽両将と共に鳥羽城を攻めて五~六百の首を獲った。その一方で員昌の活躍は信長公記に見る事は出来ない。

東浅井郡志四巻に収まる 竹生島文書 には 香水左近秀徳なる人物が竹生島の年行司に当てた書状のなかで 員昌帰陣被仕候者 八月十一日 相残所員昌御帰陣次第ニ 此方に被成御越 萬相濟申候様ニ 可有御才覺候 霜月十三日 それぞれ員昌の出陣が示唆されている。
それぞれ年次未詳史料であるが 天正三年カと付記される点から便宜上此方に記すが 検証が必要な史料である。

九月二日・林与次左衛門の処刑

戦後の九月二日 北之庄の普請場にて林与次左衛門が処刑された。
これは志賀の陣で反織田勢力に属したいたことを 今更咎められての処刑である。

思い返せば林は 舟手である一向門徒 一揆 との協働による力を有していた。
この処刑は舟手 水軍力 の直轄化にあるのではないかと考えるが 具体的な事例は皆無である。

もう一点 後に大溝城が築城された事を考えると この処刑は同地域の直轄化ありきと考えることも出来るだろう。
打下から大溝にかけては西近江路が通る陸地が狭く 水面が接近している。
古よりの荘園権利事細かな高島郡にあって 織田政権が自由に出来る土地は少なかったのではないか。西佐々木七人が居したとされる城は多くが山城で 唯一能登家の城が船木にあったが戦国時代末の同地は既に商人中の地であり これを自由に扱うことは出来ないだろう。
新庄城は西近江路から離れ 更に安曇川に面するとて琵琶湖からも遠い。
そうした中で織田政権の琵琶湖戦略に能う地は 打下から勝野の一帯にしか存在しなかったのである。

こうしたグランドデザインを描いたのは 員昌でも信重でもなく 他でもない織田信長その人ではないか。
彼は元亀元年(1570)の若狭 敦賀出兵 元亀三年(1572)の高島攻め 元亀四年(1573)の湖西攻めの計三回 高島を訪れている。
特に元亀四年(1573)の湖西攻めでは 高島攻略に際して打下に陣を構えている。すると彼の頭の中には 早くから同地の支配という構想が浮かんでいたかもしれない。

相論と領主

さて越前攻めが行われた頃の高島内外では境目相論が発生している。
大名 領主の治世というのは こうした在地の者から出る訴えを上手い具合に裁定するもので 高島郡内では木津荘 饗庭荘 と善積荘の間で山境相論が発生している。

山境相論

新旭町誌 今津町史 によると まず八月某日に赤尾新七郎と杉立町介が連署書状を以て裁定を下している。
書状の中には 木津庄善積山堺之儀 丹波守自身山御上 と記されている。山とは相論の対象となった 俵山 の事だろうか。
そうなると員昌は俵山に登り実地検分を行ったのだろう。
この俵山については員昌書状に登場する。
また赤尾 杉立裁定書状には
先規以山門之書物筋目無相違
裁定の根拠を 先規 に求めている。この先規は どうやら永正四年(1508)の 山門西塔院執行代祐憲が定めた境界 であると新旭町誌は記している。
山門之書物も同様に員昌の書状にも登場する。
さて八月の連署書状は 千手坊 木津庄百庄中 へ宛てられた書状である。
この 千手坊 には見覚えがある。そう永禄九年(1566)の浅井長政侵犯で 長政と饗庭三坊を取り持った 千手坊 である。時代も然程離れては居ないので恐らくは同一人物と考える事が出来るが 山徒の彼が比叡山没落後も高島で勢力を保っていた事は実に興味深い。

ところで千手坊が取り持った饗庭三坊の中で 定林坊 が生き残っていた事が 大日本史料の天正二年雑載にて判明した。
これは 饗庭昌威氏所蔵文書 饗庭定林坊自分并家中田畠帳 六月吉日 とも記されている。その年次は天正二年(1574)のものと比定されている。
饗庭三坊は元亀三年(1572)明智光秀の攻撃により燃やされ 落去したとされているが どうやら饗庭定林坊は生き長らえたようだ。

饗庭昌威氏は定林坊の末裔で 饗庭村長 新旭町を歴任した傍ら郷土史家としても名高き 多くの史料を保管されていたらしい。
その所蔵文書の目録を水野章二氏の 中世の人と自然の関係史 で読むと 七月十日磯野員昌書状 なるものが目に留まる。翻刻されていないのが残念であるが まだ見ぬ員昌書状として実に興味深い。
同書では他に霜降村正伝寺明細帳に収まる日吉二宮社明細帳内に 磯丹波守殿陣所ゟ寄物礼状 多胡宗右衛門殿陣所ゟ知せ状 があるとも記されている。こうしたまだ見ぬ員昌書状の解明は この時代の高島郡と磯野員昌を研究する上では欠かせない史料となるので 一日も早く翻刻されて欲しいものである。

そして九月二日には改めて員昌が裁許 裁定状を認めている。
また今回は磯野家が永正の前例を参考にしているが 慶長二年(1597)には前田玄以が員昌の前例を参考に裁定を下しているそうだ。
員昌書状では木津庄が 饗庭庄 と記されている。この書状から饗庭庄の成立は当年夏と考えても良いだろう。

さて二人は 磯野丹波守内 とある事からわかるように 員昌の内衆である。
杉立は先に述べた磯野書状にも名前が見える者 赤尾は江戸時代の大溝城下絵図に名前が見えるなかで数少ない実在が認められる人物である。恐らく員昌の妻赤尾氏の一族であろう。

郡境相論

員昌とは直接関係の無い話だが 郡境の相論も発生している事も記しておきたい。
高島郡の南端は打下城の辺りだ。境を越えると志賀郡の北小松という地がある。
ところがこの打下と北小松の中間に 鵜川 という地域があって そこが問題となったのだ。

まず十月二日に光秀は北小松の惣中に対し 鵜川の稲を早々刈り上げろ と命じている。
その一ヶ月後の十一月二十一日 光秀は 境目は先規の如く と裁許した。この先規というのは過去に定められた事のようであり どうやら高島側の分が悪いのは昔からのようである。山境相論からわかるように基本的に前例主義である

さてこの論争は何方がふっかけたのか というところだが十月の書に 打下の百姓存分 十一月の書に 打下違乱の儀 とあるので 恐らく打下の衆が北小松の衆に何か起こし 北小松の衆が光秀を頼ったのだろうと推測する。

天正四年(1576)

忙しくした前年と違い 一気に動静が減る。

四月・海津天神寄進との伝承

四月に員昌は海津天神に寄進を行った。これにより同天神は再興することが出来たと マキノ町誌 には記されている。

十月十日・信重書状に見える員昌の隠居

さてこの日に信重が船木朽木の商人に書状を送ったが その書状には 材木の事は丹州が定めた法の如くなすべし もし背く者があれば堅く成敗する と記される。
この文書には 右者 磯野丹波守 左馬頭御養子二して高嶋郡之内今津より南を知行〆 今津より北者丹波守御隠居ニ領ス由
と断片に付記されている。ここから天正四年(1576)に信重と員昌は領地を分割したと考えることが出来る。ただ 左馬頭 とあるのはよくわからないところである。
今津町史 のなかには 今津両浜 北浜と南浜 員昌領と信重領が 中ノ川 で分割されていた事に由来するのではないか との推測が載る。なお海津の中ノ川ではないから注意が必要だ。

上坂八郎兵衛が翌年に羽柴家の 五人給人衆中 となったのは この員昌の隠居に伴うものである可能性も考えられようか。

天正五年(1577)

マキノ町誌 には田屋氏に纏わる幾つかの史料が紹介されている。その中に 天正四年 五年に磯野丹波守のへ……云々 とある。これは前年もしくは当年 または両年に磯野員昌が田屋界隈で何か動いた事が伝えられたのだろう。

八月十二日・土宮仮殿遷宮造営料を寄進

大日本史料データベースによると 九月十二日に皇大神宮土宮の遷宮が行われた。この遷宮 土宮造替の費用を出したのが磯野員昌であると 度会氏年代記 には記されているらしい。
ただ 神社建築の研究 福山敏男 によれば天文十五年(1546)の土宮遷宮も磯野丹波守の寄進によるとも伝わるそうだが 員昌が台頭するのは永禄年間なので俄に信じられない。

このようなところで参考になるのが伊藤氏の論考である。最も事実確認に留めては居られるが
さてはて伊藤氏は 外宮遷宮記 をもとに 天正五年八月十二日土宮暇殿御遷宮次第行事 磯野丹波願人 寄進者 北監物取次 を示す。

更に 永正九年宮司引付 からも 土宮仮殿造替が 江州磯野〻丹波守立願 中嶋監物 との記述を見出し この土宮遷宮に磯野員昌が関わっていたものとしている。
また北監物と中嶋監物 中嶋は地名 は同一人物の御師であり 員昌が北監物を御師としたと示している。

造営料は 黄金肆枚 引付 とある。
宗国史 を参考にすると 黄金は一枚で二百石分であるという。すると員昌は八百石ほどを寄進したことになる。

某年七月・十一月音那志甲斐守宛書状

史料編纂所データベースで日本古文書ユニオンカタログを叩くと磯野の書状が幾つか表示される その書状のうち二通は 紀伊續風土記 第三輯 の古文書部 牟婁郡三里郷 に収録されている。こちら
掲載順に記すと 十一月二十六日 七月二十六日で年は不詳である。データベースには 元亀二年 と記されているが その根拠は不明である。

熊野本宮御戸開儀付而音那志早斐守被上洛候當年新宮御戸
開之問何扁可爲來年之儀候條先御下國候樣御異見肝要候委
細之段口上ニいたし候恐々謹言
  十一月廿六日      磯野丹波守判
     社 家 中

七月廿六日付の書状については下記で少々検討を行いたい。

十一月廿六日付書状は熊野本宮の社家へ宛てられたものだ。
記される内容は難しが音那志甲斐守の上洛と 御戸開 が目に留まる。
御戸開き は熊野本宮で執り行われる儀式の一つと見られる。現代では年に一度 一月一日の午前二時からの二時間 宮司が本殿の 御戸を開き祈りを捧げるという。
恐らくこうした儀式に関して社家の音那志甲斐守が上洛し 新宮 速玉大社 御戸開 に関して話し合ったと思われる。話し合った先は織田政権と見られ 員昌は両者を取り次いだのだろうか。

天正六年(1578)二月三日・磯野員昌の引退

ここまで織田家中の磯野員昌を見てきたが 彼の生涯で最も有名なのがこの日の出来事だろう。
信長公記には 員昌が上意に背き処罰を畏れ逐電 のみ記されている。
そして信長は高島一円を七兵衛に与えたとも記される。
一体何が起きたのか定かではない。しかし後世の史家は 家督 を巡ったトラブルが発端であると説く。
然りとて書状を読むと 天正四年(1576)には織田七兵衛尉信重が実務を司っている様子が見て取れる。
つまりは二年前の天正四年(1576)には員昌から信重への権限委譲が行われていたと考えられるのだ。
変わったところでは 五百石の隠居料で郷里磯野村に戻ったとする説もある。これは員昌の後裔とされる磯野太郎氏が著した 近江の磯野氏 に伝わる内容だ。
結局のところ この出来事の解明に近付く史料が出ない限りは何も語れないのが実状だ。
私としては員昌に敬意を表し一先ず 引退 と呼ばせてもらう。

大溝城

通説では此の日の員昌の引退と同時に大溝城が用いられるようになったと語られる事が多い。
城というのは突然完成するわけでは無いので 当年に利用が始まったとしても築城の期間が存在する。一般的に普請は一年 天守の造営に二年程度掛かるそうで城自体がシンプルで 天守も小規模の大溝城なら一年程度というところだろうか。
大溝城の発掘調査では安土城と同等の工法 同型の瓦が見つかっている。恐らく安土城の対の城として 同時期の天正四年(1576)頃から築城されたのではないか。また計画自体は天正三年(1575)の林処刑以前から存在した可能性もあるだろう。

一方で新庄城は僅か五年という短い期間で郡の中心としての役割を終えた。
些か勿体ないようにも思われるが 安曇川に面しているとはいえ湖から離れ 北国街道から外れる立地では不便であるから 湖に面し北国街道を抑える大溝に移転する意義はある。また新庄城について多胡氏の館であったとする言い伝えは興味深く 新庄城が老朽化していた可能性もあるだろう。

また大溝城の城下には 今市 南市 新庄 を称す町場がある。今市は越中氏の清水山城下に 南市は田中氏などに因む町場でそれぞれ北国街道に位置する。新庄は磯野員昌の治世に発生した町場だろう。こうした町場が信重の時代に大溝へ集められたと考えると同時に 員昌の時代となっても今市 南市が栄えていたと考える事が出来る。
何より百年 戦乱があっても栄えていたのだから対したものである。そうした根強い町場を大溝に集約できるのは強大な権力を持った緒田氏だから出来た荒技だろう。
ここで一つ説を挙げてみると移転に一肌脱いだのは 員昌では無いだろうか。すべての泥を被り 養子信重の滞りない大溝城移転に尽力したのでは無いか。
その過程で何か不都合 商人の訴えが信長のもとに届き その沙汰として員昌は郷里磯野村へ退いた。こんな説はどうだろうか。

某年七月文書を読む

さて上で熊野本宮社家中宛員昌書状を紹介したが ここではもう一通の書状を紹介したい。
これは某年七月廿六日に同社家の音那志甲斐守へ宛てた書状で 紀伊続風土記 に掲載される書状にはギッシリ書き込まれている。大きな文字の右横にビッシリと書き込まれている。
そのまま読んでしまうと 単語が分断されてしまい意味が通らない部分があるので 恐らく大きな文字が本文で 右横の文は二周目の文章であろうか。一体どのように記すか迷うところだが 括弧にしておくと共に別にそれぞれ抜き出して記す。

尚々被抽御懇祈候て可被下目出度罷出任存分候て自身参籠申候て晦日二之
鳴新六所まて爲御尋御折紙拝見候如仰不慮之儀に高野山
御山之御戸をひらき可申候晝夜無油斷御祈念奉賴候以御神力信長へ罷出くわ
之住居仕候令外聞實儀迷惑ニ候間被入鄕精候て御祈念奉賴
いけいのはしすゝき申度候たゝ御祈念奉賴候へく候此人被急候間書中不申入
候就其御茶五袋被懸御意候御懇信難申盡候返々軈而罷出如
候此外不申候恐々
元一郡をも被申付御神慮のきとくと申樣晝夜御祈念所申候
今度ハ人々依申成かようの進退に罷成候問兎ニ角三之御山
之御祈念奉賴候少も不可有御如在候恐惶謹言
  七月廿六日        磯野丹波守
   音那志甲斐□御宿所江

鳴新六所まて爲御尋御折紙拝見候如仰不慮之儀に高野山
之住居仕候令外聞實儀迷惑ニ候間被入鄕精候て御祈念奉賴
候就其御茶五袋被懸御意候御懇信難申盡候返々軈而罷出如
元一郡をも被申付御神慮のきとくと申樣晝夜御祈念所申候
今度ハ人々依申成かようの進退に罷成候問兎ニ角三之御山
之御祈念奉賴候少も不可有御如在候恐惶謹言
本文

尚々被抽御懇祈候て可被下目出度罷出任存分候て自身参籠申候て晦日二之
御山之御戸をひらき可申候晝夜無油斷御祈念奉賴候以御神力信長へ罷出くわ
いけいのはしすゝき申度候たゝ御祈念奉賴候へく候此人被急候間書中不申入
候此外不申候恐
二周目の文

この中でに 鳴新六所まて と記されているのは興味深い。彼は 嶋記録 で知られる嶋秀安の孫にして その父は元亀四年(1573)二月に知行を宛がわれた新右衛門秀淳の子息 嶋新六のことであろう。
同記録によると彼は 信澄 信重 に仕えると小山城合戦の際に二十二歳で討ち死したとある。小山城攻めとは 天正六年(1578)大山城攻め の事と考えられ すなわち生年は弘治三年(1557)と逆算される。
そうなるとこの書状が元亀二年(1571)当時の書状ならば 新六は弱冠十五歳の時分となる。そこに不自然さを感じるところはあるが 父である嶋秀淳が元亀四年(1573)に 数年御届御忠節 と知行を宛がわれているほどの家臣 重臣である事を踏まえれば その子である新六がこの時期に活動している事に違和感はないようにも思える。
一連の書状の価値は員昌の活動の一端を垣間見るだけではなく 嶋記録の信頼性を向上させる意味でも非常に価値の高い史料と言えよう。

本文を読む

しかし安直に元亀二年(1571)として良いのだろうか。
ここで一度文の内容を見てみたい。

まず員昌は自らについて 鳴新六所まて爲御尋御折紙拝見候如仰不慮之儀に高野山之住居仕候 高野山に登っていることを示唆している。
そして 令外聞實儀迷惑ニ候間被入鄕精候て御祈念奉賴候 なので 御祈念奉頼候 とにかく祈祷を依頼している。
理由としては 元一郡をも被申付 からはじまる一節が当たるのだろうか。そして かようの進退に罷成 此方も祈念を求めている。
員昌は何らかの事情によって それまであった 一郡の職 を解かれてしまった。そして 御神慮のきとく と受け入れ 昼夜祈念をしている。兎ニ角三之御山之御祈念奉賴候 なり振り構っていられない状態であると見える。この 三之御山 とは 熊野三山 を指す言葉だろう。

二週目の文を読む

二周目の文章で興味深いのは 晦日二之御山之御戸をひらき可申候晝夜無油斷御祈念奉賴候以御神力信長へ罷出くわいけいのはしすゝき申度候 との節である。
二之御山 は熊野三山参詣で二番目に参拝するとされる 熊野速玉大社 新宮 を指すのであろう。文中新宮の 御戸 が晦日に開かれると員昌は述べるが 現在ではそのような儀式はよくわからない。ともかく 彼はその際に 昼夜 祈念をすることで 信長に対して くわいけいのはしすゝき たいと述べる。

くわいけいのはし 会稽の恥 と書き 中国春秋時代の故事に因む 敗戦の恥辱 他人から受ける酷い恥辱 コトバンク 精選版日本国語大辞典 との意味がある。
磯野員昌は信長に対して会稽の恥を雪ぎたかったらしい。

この 会稽の恥を雪ぐ という表現は二年後に信長から佐久間信盛 信栄親子へ宛てられた 十九条の折檻状 の中にも見られる。信長は 敵を平らげ会稽の恥を雪ぎ帰参するか 討死するか と親子に求めている。同時に 親子頭を丸め高野へ隠居し赦免を待て とも記している。信長が信盛追放の為に認めた折檻状は こうした員昌の行動を念頭に置いた可能性もあるかもしれない。

逐電後の員昌

以上磯野員昌は織田信長より酷い恥辱を受け 一郡の職を解かれてしまった。恥辱と解任はイコールであるかもしれない
員昌はそれを 御神慮のきとく つまり 神の思し召し であると受け止めた。ただし 不慮之儀 とも受け止め 彼は高野山へ上った。
こうして見ると この書状の年次というのは 信長公記 にて 員昌が上意に背き処罰を畏れ逐電 と記される天正六年(1578)に他ならないだろう。

一体員昌が何を以て 上意に背いた のか判然としないが ともかく信長より何らかの恥辱を受けたと認識したようだ。
二月から数ヶ月 いったいどのようにしていたのか定かでは無いが 七月にはその身は高野山にあった。文中から察するに 七月の晦日に熊野を詣でようと企図していたのか。はたまた毎月の晦日には熊野を詣で御戸に赦免でも祈っていたのだろうか。
高野山からは小辺路で本宮へ そこから新宮速玉大社や那智大社へと歩くことが出来るので 員昌も僅かな供回りを引き連れ往復していたのだろうか。
員昌が熊野三山を頼ったのは それ以前にあった本宮社家 音那志甲斐守との交流に 彼自身が神道に通じていた部分が大きく寄与したのだろうと思われる。

なお嶋新六は天正六年(1578)夏に丹波小山 大山 で討死したと嶋記録にある。員昌と音那志甲斐守間の往復の後に高島へ戻り そのまま戦地へ向かい討死を遂げた。
そもそも何故新六がこのような役目にあったのだろうか。祖父と佐和山以来の個人的な好意に依るものか はたまた信重によって附けられていたのか。そして新六が員昌のもとを去った理由も何であろう。員昌から役目不要を言い渡されたのか 信重から戦準備のために呼び戻されたのだろうか。
全くの偶然であるが 信重は同年の丹波攻めを最後に丹波戦線を離脱し 津藩の編纂史料に依るところ藤堂高虎は小山攻めの後に羽柴家へと転じている。

何れにせよ磯野員昌は本願成就叶うずして 何時頃か郷里磯野村へ帰ったらしい。

員昌が高野山へ上った二年後 織田政権と高野山の関係は悪化した。
一つの理由に荒木村重残党が逃げ込み それに対して織田方は高野聖を殺害するという事件が発生。更には高野山内部でも織田派 反織田派の対立が発生したらしい。
そして天正九年(1581)には 亡くなった佐久間信盛の遺品の取り扱いを廻りトラブルが発生。これが高野山攻めへと発展したのである。
員昌はこうした時期に山を下り 磯野村へ帰ったのであろう。

高島郡司・磯野員昌の実像

一般的に磯野丹波守員昌は姉川で勇猛果敢な活躍を見せたと伝わる猛将で或る。
しかしこうしてみると彼に文武両道を見出す事が出来 優秀な頭脳を感じ取ることが出来る。
高島郡司としての員昌がまず直面したのが 高島に於ける反織田勢力の浸食だろう。員昌に出来たのは養子の兵力を使いながら 反織田勢力に属すると見えた寺社を焼く程度の各個撃破で 高島一郡の制圧は元亀四年(1573)七月まで待つ事となった。
高島郡司の員昌は苛烈な郡司ではなかった。確かに横山氏を害し西佐々木同名中を歴史の闇に葬り去り 林与次左衛門も死んだ。ただ林に関しては織田信長の裁量に於ける部分が大きい為 どこまで員昌の関わりが見えるのか定かではない。
むしろ朽木氏を懐柔し 多胡宗右衛門 饗庭三坊の定林坊と山徒千手坊を生かし また燃やした寺社も天正年間に再興したという伝承が幾つも遺されている事から 硬軟使い分ける領主 像が見える。
またかつて自分が父を死なせた今井小法師の扱いにも頭を悩ませ 不器用ながらもどうにかつなぎ止めようと苦心した様子に彼の人間味を見る事が出来る そして失脚した後に熊野三山の神々へ祈る姿は 彼の神道家としての側面 厚い信心を際立たせるものだ。

磯野員昌が遺したものを考えた時 僅かに人と神社と 相論の裁決が思い浮かぶ。
神社は神宮土宮 海津天神が代表例となり 人では子どもたちと藤堂高虎だろう。
先にも触れたが員昌の裁決は先規として 後年前田玄以の裁決にも役立てられた。

員昌の子どもとしては 後年石田三成の忠臣そして藤堂高虎の功臣として名を挙げた磯野右近行信 秀長の右腕小堀新助に嫁いだ娘(1)が代表的である。特に後年藤堂家で同僚となる岡本道可の家伝に於いて 行信が織田七兵衛に仕えていたとの記述が見られる。あくまでも説の一つであるが興味深い記述である。
また 近江の磯野氏 の著者は行信の弟を祖とし 海津に残った娘の一人は明治初期高島に蒸気船を通した磯野源兵衛の祖とも記されている。こうした家伝の類は比較的信頼度が低いが 話としては面白い。

また 松江藩の基礎的研究:城下町の形成と京極氏 松平氏 西島太郎 には 磯野善兵衛なる京極高次の家臣が 彼と妾の間に生まれた子 忠高を匿い庇護したことで 正室の怒りを買い浪人を余儀なくされたエピソードが載る。

そして藤堂高虎三番目の主君が員昌である。
彼が如何にして 何時頃員昌に仕えたのか実状は定かではない。比較的早い時期に編纂された 藤堂家覚書 では 阿閉淡路守で牢人分として過ごした後に磯野丹波守にご奉公とある。その石高は八十石という。
藩の編纂史料 高山公実録 では 天正元年(1573)に阿閉家中で中間二人を斬り殺し立ち退いたとも記される。
しかし員昌に仕えた際の逸話の類は記されず 何時の頃からか七兵衛に仕えている。
編纂史料をもとにした通説では天正四年(1576)に高島を立ち退いているが 編纂史料に見られる 籾井城攻め と覚書に見られる 小山城攻め を検討すると どうやら天正六年(1578)の夏頃までは高島郡に居たと考える事が出来る。
つまり員昌の引退後もしばらくは高島郡に居たのである。

員昌の内衆がその後どうなったのか定かではない。嶋記録では嶋新六が小山城攻めで命を落としたとあるが これは天正六年(1578)夏の丹波大山城攻めと考えられる。すなわち員昌の内衆はそのまま七兵衛の配下に組み込まれたと考える事が出来る。
また内衆の速水喜四郎は 七兵衛の重臣渡辺与右衛門の妻速水氏と何らかの関係があると思われる。恐らく彼も難なく七兵衛の配下に収まったのだろう。

近江の磯野氏 によれば 引退し磯野村に戻ると天正十八年(1590)九月十日に六十八歳で亡くなったとされる。
その養子七兵衛は八年前に大坂で渡辺与右衛門や堀田弥次左衛門と共に討たれ その家中も歴史の闇に消え去った。救いは七兵衛と渡辺与右衛門の妻子が無事に生き長らえた事だろうか。

磯野員昌公高島入郡 450 周年記念

(1) 秀長の右腕小堀新助妻 から ~に嫁いだ娘 に変更/20240719