多胡宗右衛門を考える

高島郡における元亀争乱を考える上で重要となるのが 多胡宗右衛門 なる人物である。
戦国時代の高島郡であれば 一般的に 高島七頭 当時の呼び方ならば 七佐々木 西佐々木七人 と呼ばれる有力者が存在するが 彼ら以上に動いていたのが他でもない 多胡宗右衛門 である。

多胡氏を考える

その姓氏を探す際に わざわざ系図を鵜呑みにして 遙かまで遡る御仁も居られるが 何もそこまでしなくても良いだろう と思う事がある。

多胡氏の登場

さて高島郡を調べる上では 西島太郎氏の 戦国期室町幕府と在地領主 が欠かせない。

清水山城に貢献した男

文安四年(1447) 高島郡の清水寺は突如として武士と神官に襲われた。
神官は河内宮 大荒比古の そして武士は 多胡氏 であり 寺は瞬く間に押領され 越中家の城と相成った。
寺側は直ぐさま蛮行を訴えると 多胡たちを 唐崎に沈めてくれ と厳罰を望んだが その訴訟の結果は定かではない。しかし 越中家が長らく 清水山 を収めたとの伝承を踏まえると 清水寺は負けてしまったのだろう。

雲州多胡宗右衛門

康正二年(1456)の 拝賀 では京極勝秀の隊列 その七番目に 垣見代 として 多胡宗次郎 次世代デジタルライブラリーで 多胡宗右衛門 を調べると 文明二年(1470)六月二日に 三澤対馬守に黨したる為め其知行を押置かれたる人々 に名前が見られ 文明三年(1471)十一月九日に 多胡宗右衛門跡 が某忠から尼子刑部少輔へ替地として宛がっている。大日本史料

また文明六年(1474)十一月九日に幕府から奉書を受け取っていた事がわかる。島根県史 大日本史料 生尾五郞左衞門 村井又次郞 多胡宗右衞門に命じて出雲意宇郡木兵庫助知行分を尼子清定に交付せしむ

つまり多胡宗右衛門は三沢氏の一揆に加わり没落したが 文明六年(1474)には復権を果たした事になる。

十五世紀末の多胡氏

高島に関連する多胡氏が登場するのは 延徳二年(1490)から明応二年(1493)にかけてのことで 北野社家日記 に越中氏の一族とみられる 佐々木四郎左衛門 その若党に 多胡宗兵衛 が現れる。

さらに明応七年(1498) 越中は若狭街道の保坂に新関を設置したが その代官を 田子新兵衛 に仰せつけている。西島 戦国期室町幕府と在地領主

多胡宗右衛門という男

本稿の主役となる多胡宗右衛門は 元亀争乱の最中に武田氏や朝倉氏と連絡を密にし その戦後に織田信長から安堵された人物である。

その名前は文明年間に雲州で活動していた人物と同じもので 恐らく文明以後に近江へ帰国を果たした多胡宗右衛門の末裔が 永禄から姿を現す多胡宗右衛門ではないか。

雲州での活動 下向 の後に 近江へ帰国したと思しき人物の例は 時代こそ三十年近く遡るが 藤堂九郎左衛門 の事例も存在する。

さて 私は元亀争乱を調べる中で 福井県史に現れる元亀四年 一五七三 が彼の初見であると見ていたが 二年間で様々な史料を探す中で それ以前に多胡宗右衛門が登場している事を理解した。

多胡宗右衛門の登場

永禄四年(1561)十二月十五日 六角氏の重臣である布施淡路入道公雄は 多胡宗右衛門に対し次のような書状を発給した。

当郡善積庄二 竹生島領天女日御供米之事 当所務御押領之由候 自島 御屋形様江被申上候処 彼御供米之事 非可被仰付之儀候 先年之姿二と被仰出由候 従往古島領散在之儀無之候由 被申上候間 急度其方へ申届候へと 被仰出候 貴所御事も 連々天女御しんかう之儀候 第一引懸も迷惑之由候 不可然存候 急度有御尋 彼領之儀 被返渡可然候 上にも懇可申越之由候 為其態申入候 恐々謹言
           布施淡路入道
    十二月十五日     公雄 在判
   多胡宗右衛門尉殿
           御宿所
遺文八四九号 竹生島文書

これは善積庄 今津 の竹生島領が押領された事に関し 懇切丁寧に返して欲しい と伝える書状である。
この書状に対応する書状が 同日深尾民部丞賢治から 花蔵院と桐実坊に対し発給された。

竹生島日御供米之儀 多胡権介押領之儀二而 従 島御屋形様江被申上 布施淡路入道殿を以 早々可被返付之旨 多胡方江被仰出候 従貴所此書状急度被遣 慥有御届 御返事可給候 従此方人を可越候へ共 幸御両所 天女御信仰之儀候間 憑存候 恐々謹言
            深尾民部丞
    十二月十五日     賢治
    花蔵院
    桐実坊
       御房中
遺文八五〇号 竹生島文書

この書状から押領を働いた人物が 多胡権介 である事がわかる。恐らく宗右衛門の一族郎党であろう。
残念ながら この騒動の結末は定かではない。

また文中に見られる 御屋形 について 遺文では 承禎 東浅井郡志では 義弼 としている。

永禄年間の西佐々木氏動向と多胡氏、そして浅井長政

元亀争乱の後半には その動向が途切れてしまう西佐々木七人であるが 永禄年間では動向が確認できる。

例えば永禄五年(1562)十一月十二日の 御礼拝講之記 には 越中大蔵大輔 が登場し 永禄九年(1566)には浅井長政は饗庭三坊や 多上 を誘引する際 河上庄六代官 のうち 朽木殿分 を饗庭三坊に 田中殿分 を千手坊に与える事を約している。

饗庭三坊

饗庭三坊とは高島の北側 今津との境目に位置する山門領 木津荘 に根付いた山徒代官を指す。後述するが 史料に見られる 饗庭三坊 と思しき人物は 永禄九年(1566)に浅井長政から誘引を受けた 西林坊 定林坊 宝光坊 使者の 千手坊 も後の史料から饗庭の人間である事が分かっている。朝倉始末記 には 三方 サンホウ ノ寶仙坊 宝仙坊 が見られる。
後世の軍記 浅井三代記 には 伊黒の法泉坊 新庄法泉坊 吉武法泉坊 等が見られるが これらは定かでは無い。

彼らが何処を治めたのだろうか。
東浅井郡志 によれば 定林坊 は霜降村 饗庭家書上 を治めたようだ。確かな史料と言えるのは定林坊ぐらいで 残りの饗庭三坊は不明である。
ただ高島郡誌や新旭町誌には 日爪の山城に 西林坊 五十川に 吉武氏 法泉坊 がそれそれ治めていたとの伝承が記されているが これはあくまでも参考程度である事を留意する必要がある。

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多上について

多上 とは 東浅井郡志四巻 来迎寺文書第三号にて以下のように見られる人物だ。

来迎寺文書第三号 浅井長政安堵状

就知行方之儀 最前多胡方迄 御両人以起請文 被仰合由候 此方深重申談之條 多上白然雖違変候 達而異見可申候 不可有踈略候 恐々謹言
 永禄九          浅井備前守
  卯月十八日          長政 花押
   西林坊
   寶光坊
     御宿所

この 多上 高島郡誌 新旭町誌 に見られる 多胡上野介 の可能性が考えられるが この一節だけでは同一人物と判断する事は出来ない。同様に 多上 が多胡宗右衛門の一族とも考えられようが 此方も定かではない。

その後の西佐々木七人

さらに永禄十一年(1568)九月二十七日の義昭入洛に際して 神楽岡に 江州北郡衆 高島衆八千計 元亀元年(1570)秋の志賀の陣では 高島衆が坂本まで出陣と 何れも言継卿記に記録されている。なお後者は反織田 義昭方としての出陣である。

このように永禄期も西佐々木七人は散発的に動向が見られ 特に 越中刑部大輔 などは多胡宗右衛門が仕えたと思しき人物と言えようか。西島 戦国期室町幕府と在地領主

その後 永禄十一年(1568)十二月十二日には 朽木彌五郎に対し浅井長政 久政の父子より起請文が提出されている。

浅井長政の高島掌握

さて東浅井郡志は来迎寺文書四通を示し 浅井長政は高島を掌握したとする。
しかし浅井長政が 一体どの程度の規模で高島郡を支配していたのか その力がどのように高島郡に及んでいたのか明確に示す史料は少ない。

状況で語るなら 元亀元年(1570)に織田信長は若狭 敦賀出兵に於いて往路は高島郡を通過し その撤退戦では朽木のみの通過に留まっている。
更に志賀の陣では 浅井長政と朝倉義景の合流地点は高島郡内であると言われ 郡内の一向門徒 高島一向一揆 三浦講 海津 今津 西浅井郡大浦 も動員されている。

これらは高島郡内が概ね浅井長政の影響力を受けていた証左と言える。
また後世 十八世紀の正徳五年(1715)以降に 船木の材木座が記されたとされる由来書 従諸侯頭載之御証文数通 新古御検地帖面座役米年用無地高訳并諸手形諸書物其外船木材木座仲間由緒書載之写 山本家文書 には

元亀四年卯月廿二日付備前守長政御判あり
其郡寸別年領之事
去月永禄拾三年当年迄之
分相済候 但貫数両度二七百
本并米三石相越候 雖為少
種々就理如此也 委曲
中嶋又助可申候 謹言
  元亀四     備前守
    卯月廿二日     長政御判
        高嶋
          材木屋中
右者 足利高氏十五代目足利義昭天下之時 浅井三代目之長政
江州之内を知行し沢山に御居城ス 高嶌郡も領地之由

とて居城 沢山 小谷城 の誤りと思われるものの 浅井長政が高島も領地としていた旨が記されている。
その本文は元亀争乱終盤に発給された書状で 永禄十三年(1570)には既に浅井長政が高島の材木座 船木の湊を掌握していた事が窺える。

西佐々木七人の終見

斯くして浅井長政の伸長と共に 朽木以外の西佐々木七人 六人 は勢力を失う。

永禄十一年(1568)に 高島衆 との記載が見えるが 具体的では無い。
具体的な終見でいけば 越中大蔵大輔 山崎三郎五郎 能登 永田伊豆守 横山三河守 田中兵部大輔は 永禄五年(1562)の 御礼拝講 が終見となる。

また元亀元年(1570)六月十七日の 佐々木下野守宛御内書 は浅井攻めに関する義昭 高島御動座 に関わる書状で在るが 宛名の 佐々木下野守 なる人物は 近江輿地志略 に見られる 横山下野守 であると佐藤圭氏 若越郷土研究 姉川合戦の事実に関する史料的考察 は指摘し 西島太郎氏は田中家には 下野守 の受領名の例が応永 永享にある点から同家の人物だと指摘する。

近江輿地志略 は様々なところで引用されている江戸時代の史料で在るが 中世の記述に関しては不確かな部分が多い。
何より横山氏は永禄五年(1562)に 横山三河守 が記録に残る。対して 横山下野守 そうした江戸時代の史料以外に見ることは出来ないのである。

依って私は西島太郎氏の説が首肯出来ると考えている。

天正元年(1573)秋には 横山父子 の首が京に上る。この父こそ 御礼拝講 に見られる 横山三河守 であろう。

元亀争乱終盤に於ける多胡宗右衛門

そんな多胡宗右衛門が最も多く登場する時期が 元亀争乱も終盤の元亀四年(1573)の事である。
その書状群は年次不明であるが その内容から同年と比定されている。

見出し 多賀宗右衛門 多胡宗右衛門 へ/20240904

正月二日付多胡惣右衛門尉宛穴山信君書状(武家手鑑)

如芳札義景 長政申合至当国出張之処 遠三如存分属本意候 殊二俣落居 則向浜松進陣候之処 敵馳向遂一戦 於徳川家中為宗者二千余討捕之候 於摸様者 備前見聞之間 不能委細候 畢竟隣国并国中 以御才覚 御調可為肝要候 毎事当方之事 不可有疎意候 随而青皮一枚如御書中到来 喜悦候 委曲雇備前口上候之条 不能具候 恐々謹言
   正月二日                       信君 花押
    多胡惣右衛尉殿
           御返報
織田信長文書の研究上巻 武家手鑑

これは多胡宗右衛門が穴山信君へ 青皮 を贈った事に対する返礼で 三方ヶ原の戦勝を伝える内容となっている事から 自ずと元亀四年(1573)正月に認められた書状と比定される。

青皮 は牛革の一種もしくは 漢方の薬物との意味がある。果たして宗右衛門が贈った 青皮 が何れであるか定かではない。

時に漢方 青皮 を調べると胃腸に効能があるという。
些か論理を飛躍させると この時期に武田家中で腹を痛めていた人物とは やはり武田信玄その人と考える事も出来る。すると多胡惣右衛門は 信玄の病状を把握していた可能性もあろうか。

三月十八日付多胡宗右衛門宛朝倉義景書状

至其表信長相衝之由 切々注進 得其意候 仍而十乗坊江以早船加勢之旨 先以可然候 重而急度合力尤候 佐左馬用客同前候 其方城之儀者此方人数申付 差越候之間 堅固可申談事肝用候 委細鳥居兵庫助 高橋新介可申候 恐々謹言
   三月十八日        義景 花押
       多胡宗右衛門尉殿
福井県史資料二中世 尊経閣古文書

この書状から 多胡宗右衛門は朝倉氏とも往来があった事が理解されよう。

十乗坊 とは元亀三年(1572)三月以来 絶えず反織田方として活動してきた志賀郡木戸の砦である。
主体的に活動していた国人馬場兵部丞は 前年夏に浅井長政から知行を宛がわれ 更に元亀四年(1573)には下間頼充 朝倉義景 鳥居 高橋 浅井長政から感状を給わるが 一連の馬場文書から 彼ら親子が今堅田に籠もり その後に木戸十乗坊へ転戦していた事がわかる。

織田は元亀三年(1572)の三月に木戸表へ付城を築き 包囲戦を行っていた事が 信長公記 から理解できる。そうした付城をかいくぐり 一年を超える長期戦を可能としたのは このように朝倉方の加勢によるところも大きいだろうか。

佐左馬用客について

義景は 佐左馬用客同前候 としている。
これは 佐左馬の要害 についての指示と思われるが 具体的な地点は定かでは無い。
佐左馬 とは 佐々木左馬 であると思われるが この時代の同名人物は定かでは無い。東浅井郡志は 佐々木左馬允 の略とするが その根拠は不明である。この説(1)に従えば田中坊に 左馬 を称する人物が居たことになるが 今一つよくわからない。

湖西の佐々木氏で 左馬 といえば江戸時代に製作された 大溝城織田城郭絵図面 に見られる 永田左馬 が思い浮かぶ。もっとも彼は信重期の一次史料には見られない。(2)
確かに居たと言えば居たのだが 天文七年(1538)に 永田左馬丞 が討死。その後天文十二年(1543)に 永田左馬助 が見られるが それ以降見られない。永田氏自体では天文七年(1538) 弘治二年(1556) 永禄五年(1562)に 永田伊豆守清綱(3)を見ることが出来る。

高島郡志 では五番領の天満宮について これは山崎氏の鎮護で 山崎氏は元亀年間 山崎左馬介 が織田氏に滅ぼされたと述べる。その根拠は定かでは無いが ひょっとすると五番領も 佐左馬要害 たり得る地である可能性を念の為示しておこう。(4)

(1)通説→この説 /20240907
(2) 佐左馬について永田左馬説を加筆の上で改変 また佐左馬田中説を見直し/20240907
(3) 永田伊豆守の諱追加。兼右卿記 天理ビブリア 弘治二年(1556)六月二十一日条 江州佐々木長田伊豆守清綱妻五十歳 に依る。/20240904
(4) 五番領説を加筆。なお山崎氏では永禄五年(1562)の御礼拝講に 山崎三郎五郎 が現れる。/20240907

三月十九日付多胡宗右衛門宛鳥居景近高橋景業連署副状

至其表敵相働付而 人数追々被申付候 然者兼々如被申合御実子為人質可給置旨被申候 為其笠松三介被差遣候 無別儀御渡肝用之由 以直書被申候 猶相心得可申入旨候 恐々謹言
   三月十九日         景近 花押
                 景業 花押
   多胡宗右衛門尉殿
           御宿所

これは上の義景書状とは別書状の副状であるが 宗右衛門に対し実子人質を求めている。

卯月七日付多胡宗右衛門宛朝倉義景書状

就信長上洛 公儀御難儀条可致参陣之旨 雖被 仰下候 江北表普請依申付延引候 仍和邇 朽下 木か 其外拘切取敵城之間 軍勢并人足等往還不輒之条 彼要害共令一味 如先年此方人数入置候様 急度於才覚者 対 公私可為忠節候 委細申含西楽坊差越候 猶鳥居兵庫助 高橋新介可申候 恐々謹言
    卯月七日         義景 花押
       多胡宗右衛門尉殿
福井県史資料二 尊経閣古文書

この書状は四月七日に発給された書状であるが その内容は信長の上洛に伴い公儀つまり足利義昭が難儀している事から加勢に出たいとするも 江北の普請のために延引している為に断りを入れたものである。

和邇とは三月に落ちた木戸表と見え 朽下は朽木の事で 彼が元亀四年(1573)の四月頃には 浅井朝倉 義昭と手を切って織田方に居たことが読み取れよう。
これは返報と見え 恐らく宗右衛門は今堅田等の陥落と 反織田勢力に与した足利義昭の動静を伝えたものと思われる。このようなところは 多胡に幕府有力者 西佐々木七人 に仕える者としての気概を感じる部分だ。

織田信長は三月二十九日に上洛すると 四月二日から四日にかけて洛中洛外を焼き払った。これは足利義昭を威圧するもので 六日までには講和が成立している。

つまり多胡宗右衛門が この書状を得た頃には既に 事態は鎮圧されていた為に 義景が動いたところで遅かった可能性が考えられる。
この時期の義景に動いた形跡は見られないので 彼らも間に合わない事は自覚していたのかも知れない。

一方で京都と高島は至近距離で 将軍の動静や京都の様子を越前よりも早くに捉えることが出来る。果たして多胡宗右衛門は どのような心境にあったのだろうか。

また こうした部分に関して 木戸表 の分析も行う必要があるだろう。

一揆との結合

詳しいところは別の記事にて述べるが 元亀争乱の高島軍勢というのは海津 今津を中心とする一向一揆が主体であったとする論考がある。
これは新行紀一氏の 石山合戦期の湖西一向一揆 日本仏教宗史論集第六巻 に依るもので ここに多胡宗右衛門に代表される 国人層 侍衆 山徒 更に浅井長政の安堵を得た神社に属する衆中 浅井氏知行地の衆中が結合していたものと考えられる。

しかし志賀の陣で反織田勢力であった打下の林氏と一揆衆は 元亀二年(1571)の二月には織田方に降り磯野員昌を移送。
元亀三年(1572)五月十四日に信長軍が高島へ乱入 信長高嶋へ乱入 百姓等家ヲ焼失シテ 十八日江南へ引返 永禄以来年代記 十九日に明智光秀は 饗庭三坊落去 と幕府臣 曽我氏へ報告している。さらに七月後半に海津浦が湖上より攻撃されている 信長公記

また三月や八月には 信澄 の軍勢により高島郡内の寺社が焼かれ寺領が没収された逸話が遺るが この時期に 信澄 の軍勢が攻め入ることには疑問が残る。また家臣 森半兵衛為村 逸話以外に登場しない人物であるから実在性が疑わしい。
つまり こうした逸話というのは 概ね五月の織田軍高島乱入の際の出来事では無いか。

話が逸れたが このように磯野員昌の高島入郡後 高島の地も戦場となった。

元亀四年(1573)までには 高島郡の反織田勢力というのは 一揆の中核を為した三浦地域のうち国人層と侍衆が切り崩され 山徒と神社の衆中は攻め滅ぼされている為 元亀元年(1570)の勢力には及ばないところがあったと推測される。
それでも高島一向一揆と多胡宗右衛門は兵を集め 今堅田や比良にまで兵を出していたようであるが どの程度活躍したのか定かでは無い。

軍記に見る多胡氏

多胡宗右衛門と義景の音信は 四月の書状を以て途絶えたと見ても良かろう。
一方で朝倉氏が滅ぶまでを描いた 朝倉始末記 には 夏の話として興味深い記述が見られる。

同七月上旬ニ 江州西地多胡左近兵衛氏久處ヨリ 三方ノ寶仙房心違シテ 信長殿へ内通仕ケル間 早々先一勢可被成御合力 一戦之事ハ拙者涯分仕リ打散候ヘシト 飛脚到来之間 先山崎長門守吉家 河合安芸守 其外中郡之衆 都合三千余騎打立テ 江州西地三方ノ城ヘソ押寄ケル 城中ヨリ即足軽ヲ打立テ 双方矢軍在之 日モ暮方ニナリケル間 吉家ハ敵ノ城ノ向ノ山ニ対陣取テソ居タリケル 然レハ則西地へ越ヘケル諸勢山崎長門守以下モ北郡へ馳向イケリ 山崎ハ仙房ヲ宥テ 人質ヲ取テ来リ 篠嶽 賤ヶ岳 ノ麓ニ居陣候也

これは大日本史料の天正元年(1573)八月十日条 信長の小谷城攻めと 浅井救援のために出陣した朝倉義景に関する項目に参考文献として引用された 朝倉記 始末記の別名 である。なお引用に際し漢字を現代ひろく用いるものに変え 引用箇所も高島郡に関わるもののみを抽出した。

内容は 七月上旬に三方の寶仙房が織田方に内通したので 多胡左近兵衛氏久より援軍を求められ 山崎長門守以下三千の部隊が押し寄せた。
一戦を経た後 山崎らは三方の城の向かいの山に陣を取った。その後 八月の義景出陣に際して山崎は寶仙房から人質を取り 北郡方面へ転戦した。

多胡左近兵衛氏久を考える

朝倉の勇将については 今更触れる必要も無かろうとて割愛する。

まず 多胡左近兵衛氏久 であるが 彼は大日本史料同年四月七日条の義景出兵延引に関する項目に 参考文献として引用される 朝倉記 にも 信長の上洛を義景方へ注進した人物として登場する。
史実にも現れる 多胡左近兵衛 宗及自会記 の天正九年(1581)六月三日条に見られる信重の内衆 多胡左近兵衛 である。

既に示したとおり 義景は四月七日に多胡宗右衛門へ書状を認めたが その内容は同記と概ね相違がない。
即ち同記に現れる 多胡左近兵衛氏久 とは 多胡宗右衛門 に比定され 同時に置き換えることが出来る。

逆説的に言えば 朝倉始末記 の筆者は 多胡左近兵衛 は存じていて 更に左近兵衛の諱が 氏久 である事も存じていたとも考えられよう。

三方ノ寶仙房を考える

出てくる登場人物で よくわからない人物が 三方ノ寶仙房 である。
まず高島には 三尾 という地名はあれど 三方 ミカタ という地名は存在しないと見る。同じ地名は若狭に見られる事から 書物によっては彼を若狭の人間と比定 山崎の若狭出兵と記すところもあるが 多胡氏が介在している以上は高島郡であると考えるべきだろうか。

記録に残るなかで高島郡に 寶仙坊 は存在しない。しかし であれば 永禄九年(1566)卯月十八日に浅井長政から秋波を送られた三人の内一人に 宝光坊 が存在する。
この三人は 饗庭三坊 の面々と言われる。せっかくここで この名を出したのだから 三方 とあるのは ミカタ ではなく サンポウ である可能性ぐらいは考えても良かろうか。

これは後年の記述に依るものであるが 高島の名のある人物に 法泉坊 が登場する。
彼は 伊黒の法泉坊 新庄法泉坊 吉武法泉坊 等と その存在は曖昧である。

身も蓋もないが これ以上の検証は史料に欠けるため困難だ。

後に述べるとおり 七月の末には織田信長直々に湖西制圧戦が行われた。
何より同時期に朝倉勢が居たのであれば 史料や信長公記にて そのように記録されるべきである。しかし史料に於いて朝倉勢の気配は見られない点から このような 朝倉始末記 に見られる記述は非常に疑わしいものと言える。

ここでは 元亀四年(1573)の七月に山崎吉家率いる朝倉勢三千が 織田方を牽制するために高島に兵を出した可能性がある とするに留めるべきか。しかし史実を見ると 少し違ってくるようだ。

元亀三年(1572)の朝倉軍高島出兵

史実として朝倉勢が高島に兵を派兵したのは 元亀三年(1572)五月の事である。

既に 一揆との結合 で述べたとおり 永禄以来年代記 は五月十四日に信長軍が高島へ乱入 と記す。実はそれに続き 是ヲ聞越前衆二万余ニテ高嶋へ合力 然共信長引退跡ニテ 合戦事ナシ と記される。
つまり信長が江南へ戻った五月十八日以降 朝倉勢二万の大軍勢が高島に到来したのである。

先に明智光秀が 饗庭三坊落去 を伝えているが 始末記にある 三方 の一人が信長に内通した旨を多胡が通報し 朝倉が高島に出兵した事は 大まかな流れとして史実との相違が無い。
異なるのは年次と兵数である。

さて大日本史料の六月三十日条には次のような書状が収まる。


近曽疎遠之式 慮外候 抑去時分長々依御在陣 高嶋表之儀 御理運之姿珍重候 弥浅備被相談 無油断御行肝要候 爰元調略之儀 方々相試様候 追而可申展候 就中任現来 段金十端 右下 進之候 左少々 右下 々委細趣頼充法眼可申入候間 不及詳候 穴賢か
    六月晦日             ー 光左
      朝倉左衛門督殿
顕如上人御書札案留 元亀三

これは在陣する朝倉義景を慰労する顕如の書状である。
果たして朝倉義景が高島にまで出兵していたか定かでは無い。

信長公記に依れば七月十九日に信長親子が虎御前山城が着陣すると 二十四日頃から堅田衆に打下の林が加わり 湖上から海津浦をはじめとする浅井方諸浦と 竹生島への攻撃が行われた。
同記は七月晦日までに朝倉義景が一万五千の兵を率い 北郡 小谷 大嶽 に到来したと記す。
五千は高島に残したのだろうか。

その際に山崎吉家は饗庭三坊の者から人質を以て和し 賤ヶ岳の麓から小谷方面へ向かったという 朝倉始末記 の一節に至るのだろう。

なお朝倉勢は師走まで在陣するが 前波 富田の両将が織田方へ降り 軍道の破壊も出来ずに終わっている。

国衆降参

斯くして 朝倉始末記 の元亀四年(1573)七月の記述は 元亀三年(1572)五月から七月にかけての状況と相似していることがわかる。
そうなると元亀四年(1573)の高島を考える上で 朝倉始末記 は無視しても良かろう。

では史実として この頃の高島では何が起きていたのだろうか。
大日本史料を読むと 年代記妙節 の七月二十七日条を示し

信長坂本マテ下向 高嶋へ入 国衆降参

以上のように述べる。また 信長公記 の七月二十六日条も引用する。かいつまむと大船を以て木戸 田中を攻め落とすと両城を明智十兵衛与え 高島に攻め入り 浅井進退之知行所 に御馬を寄せ 打下の林方に参陣すると 當表 を悉く放火した。

多胡宗右衛門の終見

彼の動向がわかる最後の書状は 天正元年(1573)八月十六日に発給されたとされる 信長の朱印状である。
この書状は 信長文書の研究上巻 に収まるもので その底本は 田胡家由来書 であるそうだ。

一 信長公ゟ多胡家先祖へ被下候御朱印左之通り
 本知 当知行与力 寺庵 被官人 如前不可有相違 新知之義 磯野方ゟ可申付候 井山々破城之状如件
   天正元八月十六日                    信長御朱印
    多胡宗右衛門尉とのヘ
右之御判物有之

この書状が発行された八月十六日は 刀根坂の激戦から二日明けた頃である。
既に山崎吉家も河合安芸守も この世には無く 朝倉氏の滅亡は必至の状況であった。

許された多胡宗右衛門、そして磯野員昌

この史料の性質は 朱印状写 であろうか。
この頃の信長は朱印を用いているため 同書状に用いられることに何ら違和感はない。

元亀争乱の後半で 湖西に於ける反織田勢力の首魁とも言える活躍を見せた多胡宗右衛門は総てを赦された。
それだけではなく 新知 も約されたことは 破格の好待遇であろう。

唯一の処分となるのは 山城の破城 を命じられている点であろうか。
高島郡には山城が多く存在する。南から林氏の打下城 田中家の田中城 越中家の清水山 海津田屋党の城等である。
果たして宗右衛門の城は何処にあるのか。一説に新庄城が多胡氏の城と伝わるが これを真に受けると彼の城は破城の対象とはならない。

また 磯野方ゟ可申付候 とあるのは 磯野員昌が元亀争乱下の高島郡に渡っていた事を立証するものある。
最も高島郡に渡った員昌は活動場所等 不明に近い点が多い。

多胡宗右衛門の武功説

なぜ多胡宗右衛門は赦されたのだろう。
織田信長文書の研究上巻 において奥野高廣氏は 軍功がとくに大きかったから としている。
しかし見てきたように 多胡宗右衛門は四月頃まで確実に反織田勢力にあった。
軍記を信用すれば七月までに広がる。

しかし一月後に 斯様に安堵されたのである。
何よりも七月二十六日から二十七日にかけての 信長による湖西攻撃により 国衆降参 が発生している。
多胡宗右衛門が降参したのも この時と考えるのが自然ではないか。

そして この書状を以て多胡宗右衛門の動向は途切れてしまう。

総括・多胡宗右衛門

永禄九年(1566)に姿を現す多胡宗右衛門は 元亀四年(1573)に活発に姿を見せた。彼は 越中家など西佐々木七人といった主役の消えた高島郡で 反織田勢力の代表的存在として振る舞った。

その力は 当所は浅井長政のを通り越し朝倉義景と甲斐武田の重鎮 穴山信君にも聞こえるところであり 彼が元亀四年(1573)までに兵力こそは定かでは無いものの 彼が一定以上の権限を有していたことが判る。
元亀争乱後半 多胡宗右衛門は木戸十乗坊の戦いに顔を出した。
果たして軍勢の規模から 一揆勢の参加の有無までは定かでは無い。
しかし元亀争乱の最中 高島郡の一向門徒が戦闘に動員されていたことを踏まえると 多胡宗右衛門の兵力には一揆勢力が含まれていた可能性も存在する。

しかし乱世の徒花とも言える多胡宗右衛門は 乱世の終結と共に姿を消した。
多胡氏全体で見ても 織田信重の内衆 多胡左近兵衛が天正九年(1581)六月三日に現れるのみで その他の動静は掴むことが出来ない。
ただ後世に 田胡家由来書 信長文書の研究上巻 が伝わることは 彼らの血脈は天正の動乱をも乗り越えたと考えることが出来る。