高島入郡以前の磯野員昌
20260404 に高島郡司磯野員昌の実像から分離。まずは高島郡司記事を読んで、 そこからこちらを読んでいただきたい。
こちらは員昌以前の磯野氏から姉川の戦い直後までを書き連ねた記事である。
前史・磯野員昌までの磯野氏
磯野氏末裔が昭和に執筆された 『近江の磯野氏』 によれば、 磯野氏は神官から侍に転じた家系と言われている。後に磯野員昌が吉田兼右と入魂であったことは、 その傍証と言えようか。侍に転じたのは 『近江の磯野氏』 に見られる系図にあるように、 京極重臣上坂氏との関係に依るものであろうと思われる。(一説に上坂氏から養子に入り、 伊香具神社の神職を務めた磯野刑部少輔が系図にあるという)
磯野氏の登場
戦国時代の磯野氏を考える中で 『応仁別記』 に応仁二年(1468)の戦いで安居院口から讃岐上田衆と共に 「近江国ノ今井、 磯野衆相向フ」 と記述があるのは興味深い。恐らくこれが磯野氏の初見であろうと思われる。
これは大日本史料に従えば同年十月のことで、 既に京極勝秀が没して四月のことであった。つまり彼らは京極持清の被官勢力となる。磯野氏の初見は持清被官としての活躍であった。しかし被官とはいっても今井のように 『江北記』 に名前が出てくるような 「根本被官」 ではなく、 それより少し低い位にあったのだと思われる。
磯野種貞・継貞・宮寿丸
さて 『近江の磯野氏』 によれば、 浅井三代記には永正期に 「磯野右衛門大夫」 なる人物の活躍が描かれるという。同書に収まる系図にも磯野右衛門大夫は 「員詮」 「実信」 として登場する。実のところは如何であったのだろうか。
この時代の磯野氏の具体的な名前は意外なところで見ることが出来る。東浅井郡志に収まる文明十一年(1479)と思しき 『清水寺再興奉加帳』 である。
多士に並び 「江州伊香磯野右衛門三郎種貞」 「江州伊香磯野十郎三郎継貞 ・ 宮寿丸」 が見える。彼らは何れも系図には見られない。
東浅井郡志一巻は応仁元年(1467)の高野瀬城攻めの項で、 潔く 「磯野右衛門三郎種貞」 としている。恐らく軍記に名高い磯野右衛門大夫や、 応仁別記に見える 「磯野衆」 というのは 「磯野右衛門三郎種貞」 を指すのであろう。
ところで奉加帳には浅井亮政の実父浅井直種の名が見られる。名前から考えるに、 磯野種貞は浅井直種から偏諱を受けた可能性もあるだろうか。
磯野弾正忠
次に磯野氏が現れるのは延徳元年(1489)のことで、 前年八月に近江から逃亡した京極政経の復帰に関わっているようだ。『江北記』 によれば上坂治部、 浅見、 磯野弾正忠が尽力したとある。一方で大乗院寺社雑事記は細川政元の尽力としている。結果的に政経の復帰で京極高清が坂本へ追われることになった。
この 「磯野弾正忠」 を系図に求めると右衛門大夫員精の三男員綱であるようだ。彼は叔父で宮沢城の弾正少弼員氏の養子となり 「宮沢弾正忠員綱」 とも称したらしいが定かでは無い。また奉加帳に見られる 「十郎三郎継貞」 や 「宮寿丸」 との関連も不明である。
磯野員昌の前半生
さて磯野員昌が生まれたのは大永三年(1523)とされている。系図では父が磯野員宗とか実信、 員吉とある。一説には父は元々宮沢氏であったが磯野員吉の養子となったともある。何れにせよ実のところは定かでは無いとする外無い。
『戦国期社会の構造とその歴史的特質の研究 (宮島敬一)』 によれば 『永享七年勧進猿楽奉加帳』 に 「磯野宮沢」 が見えるという。永享七年(1435)のことで、 応仁の乱から遡ること約三十年前のことである。
これは地名の磯野に住まう宮沢氏を指すと思われるが、 当時から磯野氏と宮沢氏は関わりがあったものと想起される。ただそれ以外の史料に欠けるため、 こうした系図の立証は困難に近い。
員昌登場以前
この年は北近江の情勢が大きく動いた年で、 京極高清 ・ 高慶、 上坂信光が浅見を首魁とする抵抗勢力によって没落した。磯野氏は系図に上坂氏との関係を誇るが、 恐らくかなり厳しい立場に立たされたものだろう。事実三月十二日には上坂与党の安養寺氏が北郡衆に攻め込まれている。
北郡衆は六角と結ぶ事で高清 ・ 上坂を追い落とした。東浅井郡志には十二月二十日付の六角氏奉行某高祐 ・ 後藤高雄の連署状 (遺文二三八号) が載るが、 安養寺と磯野は飯高寺領の警固を仰せつけられている。彼らは何とか生き存えたらしいが、 この磯野氏の具体名は不明である。1
員昌以前の書状への疑念
さて 『伊香郡誌』 『近江の磯野氏』 には、 天文初頭に上坂治部大輔から送られた右衛門大夫宛感状と京極高清からの丹波守宛感状、 浅井亮政からの丹波守宛感状が収録されている。
しかしその三通は 『東浅井郡志』 『浅井氏三代文書』 には収録されておらず、 真贋不明瞭である。
「上坂治部大輔」 とは天文七年(1538)に六角定頼の助力を得て五郎高慶を補佐した 「上坂治部 (定信)」 なのであろうが、 惜しいかな彼は 「上坂治部丞」 であることが天文十三年(1544)の禁制 (大原観音寺文書) から窺える。また史料的に磯野丹波守は員昌以外には見受けられない。
何れも恐らく員昌の活躍を盛るためであるか、 受領名 「丹波守」 が代々のものであるかのように見せるために後世制作された書状ではないか。
磯野村と浅井氏重臣たち
天文二十四年(1555)七月廿日、 浅井長政の伯父 ・ 井口経親の書状 (三田村文書) に 「夜前磯野者」 「磯野百姓者」 という単語が登場する。
これは浅井久政の政治に代表される用水相論に関するもので、 磯野村は大井の末流として分水を享受していた。この年にあった渇水に際して用水利用に一悶着起きた事による相論だ。
この相論では井口氏や三田村氏、 赤尾氏など浅井氏を支える国人の活躍を見ることができるが、 この書状は井口氏が赤尾新兵衛に磯野村への説得を託している。
『兼右卿記』に見られる磯野氏
2022 年に伊藤信吉氏の論文 「磯野員昌と神社 : 吉田家の日記を素材として (伊藤信吉 ・ 皇學館論叢,2016)」 に出会ったことをきっかけに、 伊藤氏の磯野八郎三郎=磯野員昌説を踏襲して本稿も書いていた。
しかし同時期に天理大図書館で行われていた 『兼右卿記』 の翻刻の完遂によって、 少々事情が変化したのである。
詳しいところは全て 「兼右卿記に見る浅井久政周辺(202507)」 で書いているが、 永禄二年(1559)一月十七日の 「磯野八郎三郎」 以前、 弘治三年(1557)九月十九日に 「磯野四郎三郎」 が登場している。
伊藤氏は永禄二年(1559)一月十七日条に見られる磯野八郎三郎と員昌を同一人物としていたが、 それよりも前に 「四郎三郎」 の存在が明らかとなった以上は、 同一人物と言い難い状況となった。
僅かな材料で刺激的な論考を提供した伊藤氏に感謝しつつ、 2026 年 4 月現在の考えを述べる。
何より永禄二年(1559)時点で三十七 ・ 八ぐらいの頃であった (後世猛将と語られる) 員昌が、 四十手前まで幼名然とした名前であったとするのは不思議である。確かに後年織田信雄の嫡男秀雄は、 十三歳頃にも 「三法師」 と呼ばれていたが、 それでも不可思議である。ここで見えるのが 「善兵衛」 であったのならば、 確実に員昌であると言えるのだが。
ただそれでも 『兼右卿記』 を見るところ、 磯野氏は浅井氏や河瀬氏と共に吉田兼右と音信があった一族であるのは間違いない。こうした部分は先祖が神職であったとする説を想起させる。
こうした磯野氏と神社の関わりについては 『三重県史資料集中世 3』 所収の 「来田文書」 にも見受けられるので、 年内に加筆できたらと思う。(本項 20260404 大幅修正)
永禄三年(1560)十二月十四日・磯野善兵衛尉員昌の登場
さて永禄二年(1559)、 六角承禎は肥田城の高野瀬氏を攻めるも失敗に終わった。
この原因は翌永禄三年(1560)七月の承禎の弾劾状から知る事が出来るが、 義弼の親義龍路線に承禎が反対するものであった。結局これは承禎が折れたようだ。
当の弾劾状文を読むと、 義龍は浅井と義絶することへの疑問、 今度は浅井は越前朝倉と手を組むだろうとの予測を示す。結果的に承禎の読みは当たった。浅井氏の動きが怪しいという情報が承禎にもたらされたのかもしれない。
同年十一月、 坂田郡は宇賀野の国人若宮氏が浅井方へ奔った。
月末には賢政が若宮藤三へ注進を謝する書状を発給しているが、 承禎の出馬の風聞 ・ 若宮の在所宇賀野への攻撃が述べられている。そして 「磯善兵折紙令拝見候」 と、 員昌が前線にて働きを見せていることを伺い知ることができるのだ。これが磯野員昌の初見である。
緊迫する情勢の中、 美濃の斎藤氏は国境を越え 「かりやす尾」 へ兵を出すという風聞は十二月十二日の若宮宛賢政書状に見える。刈安尾は京極氏の本拠地であるが、 六角氏は前年九月に京極高佳を入国させていた。一方で若宮氏の戦乱では京極被官の今井 ・ 堀氏も浅井方へ通じており、 京極高佳も同様にしてあっさりと浅井方へ吸収されたのではないか。
そうした京極被官系の 「謀反」 を承禎 ・ 義龍は咎めるために兵を出したのではないか。
員昌の感状
十一月十四日朝、 四ツ木表で戦闘が行われた。『島記録』 には当主今井定清が 「中村道心兵衛」 を討ち取った島新右衛門の戦功を賞した感状が収まる。
そして磯野善兵衛尉は同日、 若宮藤三郎の武功を賞する感状を発給した。その諱は 「員昌」 である。この時点で員昌は係争地に出張し、 更には感状を発給する立場にあった。登場からして既に重臣層に位置していた。
現場指揮官として 「磯野善兵衛尉員昌」 が現れる点からすると、 亮政晩年 ・ 久政期に北近江を席巻した 「京極六郎の乱」 で何らかの武功があったと見るのが自然だろう。2
そのようにして永禄三年(1560)は暮れる。
竹生島文書には十二月二十六日に多賀三郎右衛門尉公清が瑠林坊へ宛てた書状を見ることが出来るが、 前日の公事に関わる内容である。その中で 「賢政公事も指合、 磯善も無隙候而」 と、 員昌の存在が示唆されている。
磯野員昌の後ろ盾
永禄三年(1560)の暮れは今井家中の調停を赤尾美作守清綱が行うなど、 慌ただしいものであった。
ところで 『近江の磯野氏』 に収まる系図には員昌の妻が 「赤尾駿河守教政女」 とする系図が掲載されている。
史料には 「赤尾駿河守清政」 の名前が菅浦文書 ・ 飯福寺文書に見えるから、 赤尾清政の婿である可能性が高い。3
清政は美作守清綱の父である。
赤尾清政は亮政の重臣であり善兵衛が前線に出張したのも舅 ・ 義兄弟である赤尾氏の威光があったのかもしれない。
さて天文二十四年(1555)の相論で赤尾新兵衛が磯野村の百姓を説得しているが、 東浅井郡志では赤尾新兵衛は 「清世」 とされる。恐らく一族だろう。ただ後年清政の孫清冬が 「新兵衛」 を名乗って居ることから、 天文末の新兵衛は清綱を指す可能性もあるだろう。4
果たして員昌と赤尾氏が何時頃結ばれたのか定かでは無いが、 天文の末には赤尾氏と磯野村に接点は存在したのである。
永禄四年(1561)・磯野員昌の謹慎(太尾攻め)
明けて永禄四年(1561)、 高島郡で騒乱が発生した。これは菅浦と今津新保の相論を巡るもので、 某年に起きた今津梅原での合戦に纏わる賢政書状には 「委曲磯野丹波守」 とある。これが当年のものであれば、 磯野善兵衛尉員昌は二月までには 「丹波守」 を受領していたことになる。
賢政は二月を忙しく、 境目の大原観音寺や総持寺に禁制などを発給する。特に観音寺へは 「遠藤喜右衛門尉直経」 が登場し、 ここに赤尾 ・ 磯野 ・ 遠藤の長政三老が出揃う。赤尾と磯野は恐らく義兄弟、 遠藤は今井家中の重鎮田那部式部の義兄である。また磯野氏は上坂氏との関わりが深いと見えるが、 上坂氏も坂田郡の有力者であったため、 磯野 ・ 遠藤はちょっとした 「坂田閥」 の要素もあったことだろう。それは長政の坂田郡確保の思想によるものだろうか。
賢政が忙しく大原観音寺や総持寺に禁制を発給したのは、 一昨年に義絶し前年に近江に侵入した美濃斎藤氏へ攻勢をかけるためであった。あまり良質な史料には恵まれないが、 二月二十一日に起きた戦いで氏家卜全が配下の西尾氏の活躍を褒賞した感状が寛政譜にあるという。
逆に、 浅井方が発給した感状の類は伝わっていない。わざわざ北大垣駅周辺に出張した長政であったが、 返り討ちに遭ったのだろうか。
浅井軍撤退
その最中、 六角方が佐和山城に攻め寄せた。承禎の河瀬官兵衛宛感状が残るから、 その先駆けは佐和山城周辺の中郡の六角方勢力だったのかもしれない。佐和山城を守る百々氏は天文の末から六角の規律を乱す反乱分子であり、 ここで賢政の蹶起に乗じたことで征伐に至ったのだろう。
時に河瀬官兵衛宛感状は三月廿八日付で、 六角方の佐和山城攻めは一月かかったのか、 支度に時間がかかったのか定かでは無い。また浅井方も百々を救うことは出来なかった。むしろ百々 ・ 賢政間に連携は無かったのではないかとさえ感じる部分もある。
これは竹中氏が大原口に兵を繰り出し浅井を威圧したからで、 承禎は竹中 (半兵衛の父) に感状を発給している。
寺倉表の戦い
佐和山城を奪取した六角方は更に北進し、 寺倉表で今井家中と交戦。井戸村小次郎の父が中村方、 これは前年の四ツ木で討たれた中村道心兵衛の族であろうが、 それを討ち取るも小次郎の父も敵に討たれたという。翌日の閏三月晦日に今井定清が小次郎に感状を送っている。
六角勢は北郡勢力に取り込まれた坂田郡を制圧 ・ 回復せしめるために兵を出したと思われ、 後の情勢を踏まえると佐和山城と太尾城を北進の根拠地としたようだ。
混迷の浅井軍
閏三月十三日、 赤尾清綱は大原観音寺が横山入城衆に濫妨を受けた件について中島日向守に謝した。姉川合戦の係争地 ・ 秀吉出世の横山城は大原観音寺の真裏で、 浅井賢政はどうやら横山城を最前線の砦と定めたらしい。その中で兵が観音寺に対する不忠があったという。赤尾清綱はこの年謝ってばかりいる。
四月廿五日、 備前守賢政は竹生島が石清水八幡再建のために納付すべき用脚を納めている。これが二月十四日以来名乗ってきた 「備前守賢政」 の終見で、 六月以降 「備前守長政」 を名乗ることとなる。抜閑齋承禎入道六角義賢から与えられた 「賢」 の字を捨て、 遂に六角方への対抗を鮮明にした。なお父久政が左兵衛尉から新九郎へ戻したことで、 浅井親子揃って新九郎の時期があった。この煩わしさから、 賢政は祖父亮政の受領を継いだと思われる。
時に浅井備前守長政の初見史料は内容が興味深い。
垣見助左衛門が 「一族垣見新次郎は自分の与力なのに赤尾新兵衛 (清綱の子 ・ 清冬) が取っていってしまった、 元に戻してほしい」 と訴えた件に 「とりあえず拙者が預かり置くので、 一陣が済んだら返します」 とした書状である。
このとき浅井方は六角方の太尾城を攻め寄せていたと思われるが、 どうも兵力的に不利であったことが窺える。対する六角勢は上洛軍を整えながら守山で歩を止めたが、 これは北郡の情勢を見極めていたのだろう。
今井定清事件
手をこまねいた浅井方ではあるが、 島記録によれば伊賀衆を雇う財力はあったらしい。
弓兵数多堅い太尾城へ伊賀衆を偲ばせ火の手を合図に一挙攻め寄せようという作戦での攻略を考えた。これを発案したのは遠藤直経で、 妹婿田那部式部を通じ今井家の主 ・ 今井定清に具申させたという。
しかしこの作戦は太尾城に雪崩れ込む軍勢で同士討ちが起こり、 失敗に終わった。
よりによって同士討ちで命を落としたのは寄せ手の大将格で浅井長政最大の同盟相手 ・ 今井定清であった。彼は磯野員昌の兵に突き殺されてしまった。
今井定清の父は天文二年(1533)に浅井亮政の謀によって殺害された。その為に今井家中は南へ奔り、 六角定頼の庇護のもと多賀貞隆を救援するなど驚異の武功で定清を養ってきた。
長政の坂田郡確保作戦に於いて、 米原周辺を抑える今井家中は重要な存在で、 よりにもよって飛ぶ鳥を落とす勢いで台頭する磯野員昌の兵に討たれたとなれば重大な事態である。
七月五日、 磯野員昌は今井家中へ謝罪の起請文を提出した。そのなかで 「一先山中のすまひ仕候」 とあり、 早くも任を解かれ謹慎の身となった。磯野員昌、 四十歳の大失敗である。
島記録によれば定清は小谷城の加勢を乞うたとある。これは遠藤直経の献策なのだろうが、 磯野員昌が加勢の兵であるのか、 彼が軍監 ・ 浅井方先駆け大将であったのか。個人的には後者だと思う。
員昌の謝罪に先駆けて七月三日に赤尾清綱が今井家中へ謝罪している。義兄弟にして長政の重臣が真っ先に出張った。
またここで員昌は 「霊社起請文」 を提出しているが神道に通じる彼の起請文は、 霊力確かであったように思われる。
斯くして浅井方の自滅を見届けた六角勢は堂々と京都へ攻め寄せた。
磯野員昌の通称と、近い時代の磯野姓人物
さて史料上磯野員昌は善兵衛が通称で、 そのお目見えから早くも 「丹波守」 の受領名を得た。
磯野善兵衛
時に 「磯野善兵衛」 は後年京極高次の家臣として登場するが、 この磯野善兵衛尉信隆は系図上で員昌の弟であるとする。
実のところは定かでは無いが員昌の引退後にも磯野氏は高島に残り、 員昌の養子織田七兵衛尉信重の死後も高島に残っていたのだろうとも推察できる。「信」 の名前も、 信重から拝領したのかもしれない。
この 「磯野信隆」 は高次が打下の有力者の娘を孕ませた際に、 娘とお腹の子を守り、 遂には高次正室浅井氏から指名手配を受けたかわいそうな経歴で有名。浅井氏の没後にようやく赦され、 お腹の子 ・ 京極忠高に招かれたという。
磯野新兵衛
磯野氏で言えば 「磯野新兵衛」 という人物が某年正月十三日の浅井亮親書状の宛名に登場する。これは新兵衛から 「両種一荷」 が贈られた事に対する礼状であった。(東浅井郡志 ・ 八木文書)
この名前で調べると 『愛智郡志』 の豊国村 (現愛荘町) 豊満神社の社蔵文書にて見られることがわかった。
天文二十年(1551)卯月二十四日付磯野新兵衛 ・ 葛巻久助宛村田秀治 ・ 佐藤忠恒 ・ 杉立高政 ・ 葛巻定勝 ・ 杉立高秀 ・ 市村良忠連署書状である。その内容は同社に纏わるもので、 南北争乱下に北郡の磯野氏が中郡の同社に関わるのは不思議5である。
磯野又三郎
他に磯野氏を探すと永禄十年(1567)の霜月に磯野又三郎が亡くなったという記録が徳昌寺文書に見える。彼も員昌の族であろう。
磯野小平次秀代
『多賀大社叢書文書篇改訂版』 の五五には 『磯野小平次秀代等連署書状』 が収まる。
これは内堀内進、 柴田又一への返報で、 多賀大社の神事に関して百姓と多賀社中の人間に紛議があったが、 百姓に神事を務めるよう明日申し付けるとの内容である。時期について 「京極殿、 承禎御一礼披見二不及之由」 とあることから、 永禄以降であろう。
その署名は 「磯小平秀代」 とあるが、 よくわからない人物だ。員昌の一族で、 佐和山城で奉行でも務めていたのだろうか。連署で名を連ねる 「意斎」 も員昌の内衆である可能性もあるだろう。
中郡には 「磯崎」 なる人物も居るが、 とりあえず 「一応」 のところ、 磯野氏であるとしておこう。
永禄五年(1562)~七年(1564)・謹慎明けの員昌
六角勢は京都で三好方と越年戦闘を繰り広げ、 翌年六月に帰国した。
その間に観音寺の統治機構は充分に機能し、 永禄五年(1562)三月には佐和山城周辺地域へ 「御屋形十六条」 を発給して、 多賀氏や米原氏にこれを徹底して統治させたようである。
さて同月の末、 磯野員昌は旧京極領長岡郷を支配する一人 「光扱房」 から鏡新田の安堵を申請されている。恐らく彼の謹慎は三月までには解けたのだろう。
八月十四日に長政は嶋四郎左衛門に対し、 諸事置目は討死した故備中守 (今井定清) の際と変わらぬ事を示している。(嶋記録所収文書)
観音寺騒動・中郡出兵
永禄六年(1563 十月一日、 六角義弼は重臣の後藤父子を殺害した。
この事件を受け、 六角家の家臣は観音寺の屋敷を焼き、 それぞれの領地へ退いた。長政は二日か三日頃には報せに接したと思われ、 十月四日に某へ騒動の実否を究明している。
南之儀、 不慮之次第候、 仍高宮江御状被遣可然候、 彼依存分、 何様ニも可申談候、 路次之儀、 鎌刃江御案内候者、 不可有異議候間、 早々可被御遣候、 御油断有間敷候、 片時も御急簡要候、 為其令啓候、 恐々謹言
十月四日 長政 (花押)
文書が伝わったのは速水の柴辻家ということで、 阿閉や渡辺周辺か、 文面を見ると鎌刃の堀周辺何れかへ宛てたものと推察される。なお東浅井郡志は磯野員昌もしくは若宮藤三郎を示し、 後者へ宛てた可能性が高いとする。
急ぎ兵を出した長政は六日に犬上 ・ 高宮 (長享年後畿内兵乱記) へ入ったと思われ、 同日に山脇氏や明照寺の知行などを安堵する書状 (保勝会所蔵文書) を発給した。明照寺は現在彦根市平田にあるが、 慶長四年(1599)に移転するまでは山之脇村 (現在は町、 彦根口駅のそば) に存在した寺である。この地域は佐和山城の南にあり、 高宮からは西北に位置する。
彼がこの出兵中に行ったのは、 清水寺成就院への 「佛前常燈」 の寄進 (八日 ・ 成就院文書)、 大原観音寺への陣僧二名の要求 (九日 ・ 観音寺文書)、 多賀大社及び町衆中への禁制 (十三日 ・ 多賀大社文書) などである。
十月二十五日に長政は勝楽寺へ宛て境内山林、 寄進保五町地頭職、 甲良三郷内に散在する田畑、 浄江院領を安堵する書状を発給している。この書状は明確に 「永禄六」 と記している。甲良三郷は尼子の本拠地にして藤堂のある甲良郷、 上之郷、 多賀の本拠地下之郷を総称するものであるが、 果たしてこのとき浅井の支配というもの、 どの程度の効力があったのか定かでは無い。
好意的に捉えると浅井方に高宮や山脇といった犬上川北岸 ・ 芹川流域の国人を引き込み、 高宮を前線とした点は評価出来ようか。
こうした最前線の書状発給にて、 磯野をはじめとする重臣中がどの程度関わっていたのかは定かでは無い。
南北和睦
明けて永禄七年(1564)、 三月には永源寺が六角家臣の内訌 (小倉氏の乱とされる) によって焼亡。また同月には池田氏でも内訌が発生したと思われ、 甲良三郷の多賀新左衛門が出兵している。
五月には義弼は浅井へ人質と誓書を以て和睦をしたようで、 承禎は 「今更浅井ニ可繋馬事当方恥辱候」 と書状に認めた。(遺文一一五七)
実際のところ浅井家中でどのような動き ・ 働きかけがあったのか定かでは無いものの、 四月に長政の出兵が取りやめとなり、 十一月二十七日に渡辺甚助へ五分の一易地として善積 ・ 河上 ・ 酒波寺領のうち六石を宛がっているのは、 和睦に依るものなのかもしれない。
永禄八年(1565)の員昌
先より筆者は永禄七年(1564)に浅井長政と六角義弼の間で和睦が為されたとの自説を打ち立てている。
正直なところ自信は無いが、 永禄八年(1565)の正月には浅井長政に代わり多賀大社の神官中へ充てて書状を発給する立場にあったことは確かである。
恐らく永禄七年(1564)の和睦で浅井方は佐和山城を得て、 員昌が通説のように佐和山城に入城したことに依るのであろう。
正月十一日・磯野員昌置目
一月十一日多賀大社神官中宛て ・ 多賀大社の神官へ置目を発給した。
この掟書は、 敏満寺地蔵院が甲斐武田に祈祷の使僧を遣わせたことを浅井長政が咎める内容が述べられている。
かねて武田信玄は多賀大社に厄除けや安産の祈りを捧げてきたなかで、 どうやら敏満寺地蔵院が介入し謂わば多賀大社の縄張りを邪魔したらしい。
員昌が長政の指示を受けたことは 「浅井備前守長政請内証七ヶ条書付、 進置候」 とある点から明白である。
この敏満寺との騒動に関わるのか、 二月二十五日には長政が多賀大社へ禁制を発給している。
敏満寺には浅井長政の襲撃を受けた伝承が存在するが、 これらとの関連は定かでは無い。
二月七日・沖島権益
某年二月七日、 中島宗左衛門直親と磯野丹波守員昌は諸浦地下人中に対し 「先例の如く堅田衆に役儀を沙汰すべし」 と命じている。諸浦に高島郡の海津 ・ 今津が入るか定かではないが、 こうした書状から浅井長政は湖上交通の権益を目的に高島郡へ手を伸ばした可能性を見ることが出来る。
東浅井郡志ではその年次を永禄八年(1565)とする。その論拠は参考として示す沖島共有文書だ。
四巻にて本文を読むと、 永禄八年(1565)の十二月二十日に長政から沖島惣中へ宛てられた沙汰状であるらしい。浅井氏三代文書集の年表によると、 沖島に矢銭を課す代わりに船の上下を免許する内容のようだ。
つまり長政は永禄八年(1565)の十二月までに、 沖島の権益を獲得していた事がわかる。
永禄九年(1566)・南郡侵攻と員昌
永禄九年(1566)は浅井が攻勢をかけた年であった。
四月十八日には高島郡木津庄の山徒を誘引し、 同じ時期には今村肥後守 ・ 浅見対馬守が中郡の赤田信濃守 ・ 山崎源太左衛門を調略していた。
しかしこうした調略に磯野員昌の存在は見受けられない。
三月八日・兼右との音信
『兼右卿記』 の三月八日条には、 次のようにあるという。
自江州浅井備前守誓事許事申之間、 調遣了、 為礼十二貫到来了、 磯野丹波守二百疋到来、 禅空入道指下之
この記事について伊藤氏は
恐らくは神々に誓った誓言を破約してその祟りを恐れて兼右に御札を依頼し、 兼右が護符類を 「調遣」 わしたものと類推される
とする。
員昌は長政の依頼されたのだろう、 兼右に二百疋を贈っている。伊藤氏が述べるように浅井家中に於いて吉田兼右との音信は、 員昌が独占していたようだ。
この 「破約」 とは定かでは無いが、 その後に起きる出来事から逆算すると、 永禄七年(1564)に義弼 (義治) との間に結ばれた 「和睦」 を破ったことが該当するのかもしれない。
七月二十九日・蒲生野の戦い
七月二十九日、 浅井軍と六角軍は蒲生野で交戦した。
栖雲軒 (三上士忠) の書状 (遺文九二一) によれば、 山崎源太左衛門を先手に、 二番赤田 ・ 高宮、 三番堀 ・ 今井と中郡の諸衆が続き、 四番に 「磯野丹波」 が見える。
員昌は今井家中を指南 ・ 取り次ぐ立場であったとされるが、 この戦いでは今井家中の次に記されるのが興味深い。今井定清事件からもわかるように員昌は自らも軍勢を持っていた。後に高島郡司の員昌を支えた赤尾新七郎などであろうか。
山崎や赤田は新参と思われるから、 後方より働きを監視していたのだろうか。また実質的に前線の指揮官を員昌が担っていたとも考えられようか。
結局この戦いは三上衆の活躍により申刻 (午後四時頃) に長政が四十九院へ、 員昌は八目、 「其外諸勢」 は愛知川へ退いた。
閏八月十三日・若宮左馬助の死と取次
蒲生野の戦いから二ヶ月後の閏八月十三日、 長政は 「若宮左馬助殿御まつ御料人々」 へ宛て、 「御しむふ (親父) 御うちしに、 中〱申はかりも御入候、 御はたらきと申、 度々の御忠節にて候、 我らも御心に」 と左馬助の死を悼み、 遺児に左馬助の知行安堵している。その取次を 「いそ野丹波守申つたへ候べく候」 と員昌が務めている。なお左馬助が何時何処で亡くなったのかは、 この時期に合戦が起きたことを示唆する史料がこの一件のみであることから定かでは無い。蒲生野で負傷したが、 その後亡くなったのだろうか。
若宮氏は永禄三年(1560)に宇賀野の若宮藤三郎が登場しているが、 左馬助は嶋氏と同じ飯村の人物と伝わる。
員昌が取次を務めていることは、 若宮氏がその指揮下にあったことを示唆するのだろうか。
九月九日・江州大合戦
九月九日、 「江州大合戦」 が発生し、 六角軍は三雲賢持と高野瀬兄弟を喪った。
この戦いが何処で行われ、 六角軍と誰が戦ったのか定かでは無いが、 概ね浅井との戦いであるとの見方が強い。一方で浅井側には史料が見られない。
『多賀町史』 によれば、 永禄四年(1561)頃の八月二十九日、 馬場宗左衛門頼景が屋守城 (対杉立親子) の戦いで苅間の三嶋氏を討ち捕る武功を挙げ、 九月五日に長政から感状、 高宮右京亮宗存 (権九郎、 豊宗の子) の副状が発給されたという。
屋守 (矢守) も苅間も、 宇曽川の南岸 ・ 愛知川の北岸と両河川に挟まれた地域にあり、 同地で合戦が起きたのならば、 愛知川を越える軍事活動を行った端緒とも言うべき永禄九年(1566)に他ならないのではないか。
杉立町介
さてここで杉立氏が登場するが、 後年磯野員昌の内衆には 「杉立町介」 が存在した。[^存在]彼は奉行として務めており、 永禄年間に配下に加わったのなら新参となろう。
しかし新参でありながら員昌の信頼を勝ち取った点は、 町介の優秀さと員昌の家中支配に実力主義を見出すことが出来る。
ところで員昌の一族と思しき人物として後に述べるが 「磯野新兵衛」 が挙がる。ここで彼に触れるのは 『愛智郡志』 の豊国村 (現愛荘町) 豊満神社の社蔵文書にて見られることによる。
天文二十年(1551)卯月二十四日付磯野新兵衛 ・ 葛巻久助宛村田秀治 ・ 佐藤忠恒 ・ 杉立高政 ・ 葛巻定勝 ・ 杉立高秀 ・ 市村良忠連署書状である。
新兵衛は恐らく神官の類であるが、 天文の末に杉立氏と関わりがあったのが興味深い。
不幸にも敵味方に分かれてしまったが、 町介が取り立てられたのは、 こうした豊満神社の関わりもあったのかもしれない。
ただし町介の登場する相論史料は近年太田浩司氏によって 「後世の作成」 との指摘があり、 町介の実在性も揺らぐことになった。
赤田への指南
嶋記録には九月晦日に赤田信濃守興が嶋若狭入道へ、 員昌の在陣と屋敷普請について伝えた書状が収まるが、 これは東浅井郡志で永禄九年(1566)のものと推定されている。(嶋記録内では姉川の頃とされる)
今度者、 我等身寄之者、 不慮之働付、 御国之御造佐、 彼是手前失面目候然處各依馳走、 員昌御在陣、 外聞實儀大慶候、 殊更屋敷普請早速出來、 別而内々得御指南候之處、 種々御懇意難忘候、 御在陣中、 こま〱と御礼可申儀候へ共、 無其儀、 併疎意ニ相似、 令迷惑候、 向後是非共無等閑儀所希候、 何か事不届様子万々無御面目口惜敷候、 心事追而可申述候、 恐々謹言、
九月晦日 赤田信濃守
嶋若狭入道殿 御宿所 興判
ここで身寄りの中から六角勢に通じた者が居たが、 員昌が在陣したことで 「外聞実儀大慶」 となったと述べている。
普請について誰から指南を受けたのか、 これは一瞬嶋氏かと迷うが員昌のことであろう。
嶋若狭入道へ宛てたのは、 赤田が 「御在陣中」 に細々と御礼をしてきたが、 員昌がそっけなく対応したようで、 その態度に何か自分たちに不届きがあったのか 「口惜敷」 としていることに依るらしい。
員昌が何故そうした態度を見せたのか定かでは無いが、 最前線に立つ将として神経を尖らせていたのかもしれない。
年次不明の員昌関連史料
ここで員昌に関連する年次不明史料を紹介したい。
正月十二日・河瀬氏と高宮氏の相論
河瀬氏は長く多賀大社の神官を務めた家柄である。
永禄二年(1559)に河瀬二郎と母、 河瀬権右衛門尉 (筑後守受領) の三名が磯野八郎三郎と並んで兼右卿記に見える。
さて河瀬筑後守は某年に高宮新右衛門と相論を起こした。土田豹介家より買徳した件に関する相論だ。
その際に員昌は多賀社神官中に対して、 神官中で解決せよと命じたのである。(多賀大社叢書文書篇改訂版、 高宮城跡Ⅲ)
これは長政と義弼が和睦し、 員昌が佐和山城へ入ったと思われる永禄七年(1564)以降のことであろう。
五月二十七日 ・中島直親違乱について
先に中島直親について紹介した。
彼は竹生島の奉行も務めていたが (宮島敬一 ・ 戦国期社会の構造とその歴史的特質の研究)、 彼は某年蓮華会に関わる竹生島側の訴えに取り合わなかった。
そこで 「竹生島年行事御坊中」 は員昌に訴え、 員昌は五月二十七日に返事を出した。
結局この一件は七月十一日に長政から竹生島四人衆に対し、 蓮華会の催行を約束したことで落着したようだ。
某年六月二十九日・年貢の不足
某年六月、 浅井長政は員昌が収めるべく米の内、 六三六石が不足していると某に通達した。
員昌江八木四千六拾石事、 以五升米雖申付候、 其内六百参拾六石餘不足候、 此砌何共難調候二而笑止候、 聊非如在候、 然共時分柄候、 連々可申付候、 可令疎略儀二て無之候條、 心底之趣、 具可有傳達候、 恐々謹言、
六月廿九日 長政判
(宛名欠)
これは 『中村不能斎採集文書』 に依るものであるが、 東浅井郡志は元亀三年(1572)のものと比定している。ただしその論拠は不明瞭であり、 元亀三年(1572)は既に員昌の離反後で、 長政が員昌の年貢不足分を通達することに違和感がある。
恐らく永禄年間のものだろう。
先に赤田信濃守への素っ気ない態度を見たが、 年貢に不足分があるなど、 少し抜けた愛らしいところがある。
同時に神道に通じた文官肌な部分とは、 似ても似つかぬと感じるところでもある。
永禄十年(1567)・城の鎮守と調略
三月二日、 吉田兼右は自記に次のように記した。
二日戊午 江州北郡磯丹波守申来云、 目賀田城、 肥田城、 佐和山城、 何以鎮守為十禅寺、 此内佐和山社号千代宮、 丹波守令存知候間、 無其祟候様ニ鎮札所望之間、 銘々調了、 又与南郡衆就調略之儀、 立誓言、 然共双方相破了、 無其祟之様、 札之儀所望候間、 調遣了
『磯野員昌と神社 (伊藤信𠮷)』 にもあるように、 磯野員昌はかねて吉田兼右と入魂で、 神社にも造詣が深い人物であった。
鎮守社
伊藤氏に依れば目賀田城、 肥田城、 佐和山城は何れも 「十禅寺 (日吉山王社の十禅師社)」 を勧進し 「鎮守社」 としていたようである。
特に佐和山城については 「千代宮」 が鎮座しており、 員昌は両社に関連する祟りが無いように、 兼右に 「鎮札」 を調えるよう依頼している。
伊藤氏によれば目賀田城は十禅師社は鎌倉時代に春日神社に合祀された。春日神社は現在も同地に残るため、 それが兼右の指す 「十禅寺」 なのだろう。
また肥田城の十禅寺社は、 高野瀬氏の菩提寺崇徳寺に存在した 「崇徳寺山王または山王権現社あるいは鎮守堂」 である可能性があるようだ。
佐和山城の鎮守 「千代宮」 は度々遷座が行われ、 今は彦根城の南西に座している。
目賀田氏について
さて村井祐樹氏によれば高野瀬氏は前年の江州大合戦以降の動静が不明で、 彼らが大人しく北郡方に降ったと考えることが出来る。
その一方で目賀田の目賀田貞遠は、 永禄十年(1567)の書状にも見られるため、 恐らく本拠地目賀田を去ったと思われる。
後に安土城が建てられた山は、 それ以前は 「目賀田山」 と称していたという伝承が残るそうだが、 貞遠は本拠地から同地へ退去したとも考えられよう。
目賀田に関しては某年一月十五日に長政から員昌へ宛られた書状にて、 枝村紙商売人について目賀田方の言うとおりに安堵すると伝達されている。
南郡衆調略之儀
そのようなところで 「又与南郡衆就調略之儀、 立誓言、 然共双方相破了、 無其祟之様、 札之儀所望候間」 と記されているのは興味深い。
これは員昌が南郡衆を調略して誓言を取り交わしたが、 双方が破った際に祟りが無いように札を所望したというものである。
ここで員昌が当時南郡衆を調略していたことが理解できると同時に、 情勢いかんでは結んだ縁が絶えることを留意していたことがわかる。それは前年に起こったことでもあった。
しかしこの記述のみでは、 員昌が調略していた南郡衆の具体名はよくわからない。
永禄十一年(1568)・足利義昭上洛
永禄十一年(1568)九月、 足利義昭が上洛を果たし、 六角氏は国を追われた。
義昭、小谷入城
上洛のため美濃を目指した足利義昭一行は七月十六日に 「江州浅井館」 へ動座した。美濃へ入ったのは二十二日と多聞院日記にはあるから、 小谷城で六日間滞在したことになる。
員昌も饗応の場にあったと思いたい。
信長、佐和山城訪問
義昭が美濃へ動座した数日後の八月七日、 織田信長が佐和山城を訪れた。
これは信長公記に依るが、 佐和山城で信長は六角承禎へ上洛への合力を要請、 その返事を七日間待ったという。
その場に於いて員昌は湖国の地勢を信長に説明したのかもしれない。
ところで 『川角太閤記』 には長政の嫁取りにて、 磯野氏がお市の方を推挙し迎え入れたとの話がある。『近江の磯野氏』 ではこれを、 員昌がお市の方を護送したため、 とするが、 実のところは定かでは無い。
八月十四日に織田信長は承禎 (左京大夫) に対し、 上洛軍への合力を要請する書状を発給している。(遺文補遺 ・ 四六、 これは村井氏の六角基礎研究本にも収まる)
しかし六角は信長の圧力に屈することは無かった。
信長の禁制
さて信長は八月日付で柏原の成菩提院、 多賀大社に禁制を発給している。
時に柏原も多賀も浅井長政の影響下にある地域である。こうした地域に信長が禁制を発給するのは些か不適当なように思われるが、 恐らく成菩提院と大社が戦火を懸念し信長に禁制を求めたのであろう
上洛戦
『足利義昭入洛記』 は永禄十一年(1568)の十一月には製作されたと見られる成立の早い軍記である。
伊勢 ・ 尾張 ・ 三河 ・ 美濃四ヶ国の兵を率い岐阜を九月七日に出立した信長は、 八日には高宮に陣し、 その先陣は愛知川、 後陣は摺針峠 ・ 小野宿に陣を敷いた。
その後、 十二日に箕作城を何とか陥落させ、 十三日に観音寺城を占拠。それから数日の間に六角勢は落ち延びるか降参したという。(承禎 ・ 義治親子は城を捨て甲賀 ・ 伊賀へ落ち延びた)
斯くして無事に義昭の上洛は成功し、 晴れて十五代将軍と相成ったのである。
そこに近江衆、 浅井長政たちの関わりは見ることが出来ない。
主を喪った近江南郡は、 後藤。進藤 ・ 永田 ・ 池田 ・ 蒲生などが独立し織田信長の配下となり、 更に信長の重臣 ・ 佐久間、 柴田、 中川などが入った。それぞれ信長重臣の与力ともいわれている。
そして十一月には久政 ・ 長政親子と朽木弥五郎の間で起請文が取り交わされた。
永禄十二年(1569)
新将軍足利義昭を支える立場となった浅井長政、 そして磯野員昌。この年に彼らは上洛を果たし、 更に伊勢へ兵を出すことになった。
長政の上洛
『兼右卿記』 によれば長政は二月頃に上洛を果たし在京していたという。
この年の正月には三好三人衆が本国寺 ・ 足利義昭を襲うも奉公衆や守護池田氏によって撃退された 「本国寺の変」 が発生していた。その知らせを受けた信長は急ぎ岐阜から馳せ参じ十日に上洛するが 『言継卿記』 の十二日条には 「尾張、 美乃、 伊勢、 近江、 若狭、 丹波、 攝津、 河内、 山城、 大和、 和泉等衆、 悉上洛、 八万人計云々、」 とあり、 近江衆に北郡 ・ 浅井方の上洛を想起させる。
『言継卿記』 に依るところ月末には信長が将軍の御所、 義輝の 「古城」 を再興をはじめ、 自ら奉行を務めたという。
二月二日条には、 尾州から播州に至るまで 「少々上洛、 石持之」 とあるが、 もちろん 「江州」 も含まれている。
ともあれ何れの期間に長政 ・ 員昌は上洛し三月二日に吉田兼右が彼らを訪ねた。
浅井備前守去月已来令上洛、 為礼太刀一腰 ・ 百疋持向了、 磯野丹波守申次、 三十疋遣之、 河添大和守二十疋遣了
兼右は太刀一腰と銭百疋を贈り、 員昌に三十疋、 河添大和守に二十疋を贈っている。河添はよくわからない人物だ。
その際に兼右を取り次いだのは員昌であり、 兼右の員昌への信頼が窺える。
浅井側からすると一昨年より吉田兼右には神威 ・ 祟りを回避するために世話になっており、 直接会うことで謝意を伝えたかったのだろう。
六月~七月・今井家中の内紛
この年、 今井家中では内紛が起きた。
『嶋記録』 によれば亡き定清の妻 ・ 小法師丸の母を巡るものであったらしい。
六月二十二日、 員昌は 「今井殿御家中衆中」 に対し、 「各内輪之儀、 小法士殿御幼少」 だからといって 「新儀非分之儀」 はあってはならないとして (長谷川裕子 ・ 戦国期畿内周辺における領主権力の動向とその性格)、 「長政江申聞起請文申付」 としている。
そのようにして 「今井殿御家中衆」 は六月晦日、 浅井長政から 「御家之置目 ・ 諸知行田畠、 毎時古左衛門尉 ・ 備中守殿如御代之可有裁判候」 という内容の起請文が提出されたようだ。
浅井長政は 「小法士殿御若年之条、 万端付而新儀非分并自堕落仕出仁」 と、 小法師丸の身元を保証すると同時に家中へ厳命している。
そしてわざわざ触れるまでもないが、 「委曲員昌可有傳達候」 として員昌が今井家中と長政を取り次ぐ存在であった。
さて 『嶋記録』 の江戸時代に作られたと思しき叙述部分には小法師丸の母の 「寺参り」 に 「空念仏」、 「聞人耳をけがし、 みるものうしろゆひをさして」 とて糾弾されている。どうやら後々の叙述からみると彼女は今井家を出て姉妹が嫁いだ堀家へ向かったように思われる。その為に小法師丸の身元が保証される必要があったのだろう。
一方で田那部式部の台頭が目覚ましいと伝えられたのか、 器量よく弁舌利口に任せ、 当時の最先端をゆく性格 (当世ハ何事もさらりとして) で人気を集め、 彼の門前には 「市をなし、 追従するものおほかりけり」 と述べている。
田那部式部は長政の右腕にあたる遠藤直経を義兄にもち、 その人気は直経の威光 ・ 人気に依るものでもあったように思われる。
何処まで正しいのかはわからないが、 家中の均衡を保つために員昌 ・ 長政を頼ったのであろう。
だが事態は思わぬ方向へ進み、 七月半ばに顔戸 (今井家中の領内) で一人の男が夜中に騒ぎを起こしたという。
曰く今井殿の内なる嶋に逆心があり、 今日小谷で生害させられると言う。しかしこれは皆田那部の仕業であると噂をした。
結局嶋親子は三名の連署で 「無実」 の誓紙を提出したという。
ここまでは嶋記録の叙述部分で真偽は定かでは無いが、 七月十二日に長政は嶋若狭入道へ誓談を披見し、 「向後弥無油断、 万端可有馳走事肝要候」 としている。
八月~十月・大河内攻め
八月二十日、 信長は八万の大軍勢を率いて伊勢の守護北畠氏を攻めた。(多聞院日記)
原本信長記に依れば、 南の山に進藤 ・ 後藤 ・ 蒲生等旧六角派、 西には堀 ・ 樋口 ・ 阿閉淡路守 ・ 息孫五郎 、 北者には浅井備前守人数 ・ 磯野丹波守の名前を見ることが出来る。
しかし堀 ・ 樋口 (鎌刃)、 阿閉親子 (山本山)、 員昌の名が、 「浅井備前守人数」 と別に記される点は興味深くそして不審である。その当時から織田家は彼らの独立性を認めていたのか、 はたまた大田牛一が後年に便宜的に記したのか定かでは無い。
そしてこの合戦に於いて北郡 ・ 浅井方がどのように戦い、 どのような活躍を見せたのか信長記にも他の史料にも見ることは出来ない。
この戦いは結局十月に北畠の降伏、 信長次男の養子入りによって終結した。
十二月二十九日・多賀大社神事について
師走、 長政は 「被官衆御中」 に対し、 多賀大社の神事に関して、 犬上郡中の百姓等に近年名字を名乗り神事の役を勤めず、 在所で狼藉を働く者が居たらしく 「向後至猥族者、 急度可有注進候」 と通達した。
こうした名字つまり侍を自称することで神事役を回避する不良百姓、 宮人に狼藉を働く輩は天文の末から見られ、 六角氏も対応に苦慮していた。
興味深いのは員昌ではなく長政が発給している点だ。一体何の理由に依るのだろう。
元亀元年(1570)野村合戦(姉川の戦い)と員昌
いよいよ元亀争乱がはじまる。員昌が生まれてから約五十年親しんだ北郡勢力として過ごす最後の一年間である。
ところで太田浩司氏は員昌が佐和山城主となった時期について、 元亀元年(1570)四月以降と推定6している。
佐和山が当時既に 「信長領国」 となっていた近江南部との境目であることから、 信頼できる家臣の員昌を 「臨時の軍事配備」 として送り込み、 そして天野川流域の家臣たちを寄子とした、 との論である。
確かに永禄十三年(1570)、 浅井長政は六角承禎蹶起に浅井長政も呼応して、 五月に信長が岐阜へ帰る際には鯰江城まで浅井兵が出張している。(『原本信長記』) こうした最中に江濃国境の封鎖の一環として、 永禄年間に坂田 ・ 犬上方面の最前線を担当した員昌を要地へ据えて、 坂田郡の有力国人である今井家中を預けることは理にかなっているように感じる。
ただ 『兼右卿記』 によると員昌は永禄十年(1567)には佐和山城を始め、 肥田 ・ 目賀田城に関して城の鎮守を吉田兼右に依頼している。然らば、 この当時に三城を支配していたのは員昌のように思えるが、 今のところ考える材料に欠ける。
ここで磯野員昌が佐和山城を支配したのが、 あくまでも 「臨時の軍事配備」 であったとする太田氏の説を留意する必要がある。
野村表の戦い
この年の四月、 織田信長を大将とする幕府軍が若狭 ・ 越前を攻めた。かねて長政の子息を一乗谷へ人質に出したとする説があるほど、 朝倉氏と親しくしていた浅井氏はこの軍事作戦に対し幕府からの離脱で抗議を示した。幕府軍は浅井の離反に接し混乱に陥ったが、 果たして実際に浅井方が軍事作戦を行ったのか定かでは無い。
六月二十八日、 横山城を巡り浅井朝倉連合軍と織田徳川連合軍が激突。浅井軍は遠藤直経や国人などを喪い、 織田軍は本陣深くまで攻め込まれた。
この一連の流れで浅井朝倉連合軍は江濃国境の長比 ・ 刈安 ・ 鎌刃つまり堀氏 (樋口氏)、 街道筋の要衝横山城を喪うが小谷城は死守。対する織田軍は浅井征伐こそ失敗に終わったが、 横山城を得ることで小谷城に匕首を突き付け、 坂田郡の過半を手に入れ岐阜から京都への交通の確保に成功した。
この戦いでは軍記物語を根拠とする通説にて、 磯野員昌の武勇が語られるが、 近年 「十一段崩し」 は否定されつつある。更に言えば佐和山城主である磯野員昌が、 どのようにして浅井朝倉連合軍と合流出来たのか疑問も持たれ不在説も出て来ている。
員昌は参戦したのか
確かに員昌や今井家中といった坂田郡の国人がどのようにして合流したのか疑問はあるが、 『言継卿記』 に 「江州北郡軍有之、 浅井討死、 其外七八千計討死云々、 磯野丹波守同、 (六月二十九日条)」 とあったり、 この戦いに関する員昌の感状が残る点、 島記録に 「於戦場丹州に頸見せ」 「於戦場丹州二乗馬借シ」 とあるから、 彼が戦場で関わっていたことは事実のように思われる。
織田軍は一度、 二十一日に小谷城を攻撃しているが返り討ちに遭い二十二日に弥高 (京極氏縁の地) の麓まで徹底している。員昌が佐和山から本軍に合流するなら、 この時であろう。
佐和山城へどのように帰城したのかも定かでは無いが、 敵勢の正面突破以外に策はない。「ダイナミック帰城」 とか、 それこそ後世島津が見せた 「正面突破」 のようなものであったか。
野村から敵勢を抜き、 東上坂、 顔戸、 岩脇と帰還したのだろうか。
珍説を披露するなら、 員昌や今井家中たち佐和山の兵は伏兵として織田徳川連合軍の背後に現れたとも考えられよう。本軍と共に挟み撃ちである。
ともあれ遠藤直経の討死、 徳川軍が朝倉軍を押したことで戦局が悪化、 員昌は戦場を離脱し帰城したとみるのは変わらない。
一方で島記録には一部の将士が小谷城で首実検を行ったとか、 負傷し小谷城へ退いてから佐和山へ帰還したとある。何れも同家に遺された覚書の類によるのだろうが実のところは定かでは無い。
籠城、感状
原本信長記によれば織田軍は七月一日に佐和山城を包囲。寄せ手は百々屋敷 (鳥居本) に丹羽五郎左衛門、 北の山 (物生山) に市橋九朗右衛門、 南の山 (里根山) に水野下野守、 彦根山に河尻与兵衛である。(滋賀県教育委員会佐和山城跡ブックレット)
天文頃から反六角の急先鋒であった百々氏はあっさりと織田方に降ったらしい。
なお 『言継卿記』 七月三日条には 「今日江州北郡佐和山之城磯野丹波守、 信長へ可渡云々、」 とあるが、 先の浅井や磯野の討死同様に根も葉もない雑説であろう。しかしそうした風聞が洛中に聞こえていたのは興味深い。信長が明日にも上洛するとの記述もあるので、 織田方が流したのだろうか。
島記録には戦後直ぐから十二月に至るまで五十二名が佐和山に籠城したとある。敵の目もある中で大した忠義心と、 しっかりと記録を残した若狭入道の行動に感心するばかりだ。また若狭入道の記録に依れば田那部式部は頸取り高名を挙げ、 子息の満牟介が討死を遂げたという。なお叙述部分で 「小野 ・ 草山 ・ 相撲等」 が籠城したとあるが若狭入道の記録には見られない。
籠城7の最中、 員昌は感状を発給している。
まず七月五日、 今井家中の島宗朝 (若狭入道の三男、 禅僧) に対し、 籠城への感謝と安養寺 ・ 宝尺坊、 民部跡、 藤村新八郎跡、 同又右衛門尉跡の知行を約している。
更に十日には島新右衛門 (若狭入道二男) へ野村河原合戦での忠節に対して法勝寺十五条公文名五拾石、 南郡供米三分二申付を約している。
九月五日には雨森菅六に対し兄次右衛門の野村表での討死と、 太刀疵数カ所を負っても比類無き高名をあげた管六に対して跡目と知行五分一を安堵した感状を発給している。次右衛門は西路梅原での争闘に活躍した男で、 当時も員昌が取り次いでいたことから、 兄弟揃って員昌の配下にあったのだろうか。
なお文末に 「従是長政前申究可置候」 とあることから大嶋紫蓮氏は 『浅井氏の滅亡にみる家臣団の構造』 の関連文書一覧にて 「長政の取次」 と判断されている。
そしてこの発給は磯野丹波守員昌の浅井方としての最後の発給となるのである。
九月から十二月にかけ朝倉浅井連合軍は志賀の陣を繰り広げるが、 佐和山城の員昌は蚊帳の外であった。
志賀の陣の終結で 「江濃越一和」 が成ると北郡のうち三分の二を織田家、 三分の一を浅井家が支配する事と相成ったらしい。(尋憲記)
その配分は定かでは無いが、 朝倉義景は 「山門之儀」 について 「佐々木定頼時之」 とて山門三院執行代へ認めている。(歴代古案 ・ 十二月十五日付)
同じように天文七年(1538)九月に定頼が國友河原で勝利を収め京極高慶を復帰せしめた際の、 姉川を境とした配分が適用された可能性があるだろう。
事実、 信長は明けて元亀二年(1571)正月二日、 姉川から朝妻まで商人などの通行を停止させている。信長は帰国の際にわざわざ佐和山城下の磯村を経由しており、 員昌は同村の磯崎氏が織田方に降った事実に直面したことだろう。
佐和山城は孤立し、 正月早々高宮が私怨と古くからの因縁で久徳氏を攻めるも返り討ちに遭っている。
最早開城は時間の問題であった。
池田高祐→某高祐へ変更。東浅井郡志では池田と比定されたが、 村井祐樹氏は 『戦国大名佐々木六角氏の基礎研究』 で不明としていた。/20240915
⇧四ツ木表の戦いの日付を十二月から 「十一月」 に変更。これは太田浩司氏の 「浅井氏家臣 ・ 磯野員昌の動向」 に依るが、 実は 『東浅井郡志』 の 「若宮文書」 では十二月なのに対して、 「大脇文書」 では同内容なのに十一月である。史料編纂所で同文書の写本を閲覧したところ、 確かに十一月であった。また 「現場指揮官として~自然であろう」 まで加筆。/20260404
⇧太田浩司氏は 「清政と教政が同じ人物と見なせるか不明 (浅井氏家臣 ・ 赤尾氏の基礎的研究[初出は 2014]/戦国大名浅井氏と家臣団の動向/2025)」 としている
⇧太田浩司氏は 「新兵衛は当主若年時の通称と考えてよいこと」 として、 清世について 「清綱の先代か先々代」 としている。また弘治年間に 「久右衛門尉清彦 (阿部文書)」 が登場していることから、 太田氏は 「時代的には清世―清彦―清綱という家系も想定できなくはない」 としている。(太田 2025 同上)
⇧文書の真贋含めて、 ということ/20260404
⇧太田浩司 2025 より 「浅井氏家臣 ・ 磯野員昌の動向 (初出は 2017)」。本項 20260404 に加筆
⇧太田浩司氏は姉川合戦後の籠城について、 長政から委譲された形で完全な軍事指揮権を所持していた、 と推定している。(太田 2025 同)
⇧