元亀争乱下の高島郡(二)

本稿では元亀二年(1571)から元亀三年(1572)の高島で何が起きたのか考えていきたい。

元亀二年(1571)の動向

和睦を遂げたとは言え 近江と美濃の間は課題が山積みであった。
まず中山道への出入り口となる横山城が織田家の支配する城と相成り 国境の鎌刃城は変わらず織田方で 更に寛政重脩諸家譜によれば京極高吉は上平寺城へと入城を遂げたそうだ。

高宮対久徳

つかの間の静謐は十二月二十七日に壊された。それは犬上郡で起きた。高宮氏が隣郷の久徳氏を攻めたのである。
久徳氏は早くから義昭信長政権へ転じ 姉川の戦いの直前である六月二十六日には知行安堵の朱印状を信長から発給されている。十一月二十五日には木下秀吉から書状を送られたが 志賀の陣にも加わっていたのかもしれない。
当主久徳左近兵衛は見事高宮を撃退し 正月二日に信長直々に感状を賜る。逆に言えば この感状があって初めて 𦾔冬廿七日 つまり十二月二十七日に戦闘があったことを知る。
この戦闘は 通説として永禄以来の両者の因縁 浅井長政の南侵に伴って高宮が久徳氏を滅ぼした事に依る とされてきたが 様々調べてみると高宮氏が久徳氏を滅ぼしたとされる伝承は史料的裏付けに欠ける。そうした伝承も信じたいところなのではあるが 江戸時代に近江で歴史創作家が活躍していたことを踏まえるとどうしても二の足を踏んでしまうのだ。どうかご了承いただきたい。

高宮と久徳の因縁

しかし多賀町史には両氏を巡って史料的裏付けのある興味深い記述を見ることが出来る。
弘治三年(1557)に栗栖の農民等が水争いで喧嘩を起こしたので取り調べるも 尼子出入りの公事下地で差し押さえできず そのうち正樹院の下地一反を加えて先の作事人分は取り上げ 正覚院が預かり耕作する旨を高宮参河 この頃だとギリギリ秀宗 信経か に報告して欲しいという内容を 永禄元年(1558)五月二十六日に敏満寺の正覚坊徳好は認めた。
つまり水争いの調停を試みたところ 犬上川南岸を拠点に大きな影響力を有していた尼子宮内少輔賢誉が出入りする公事下地であった為に差し押さえが出来なかったのである。
この栗栖は久徳から芹川の上流に沿って北東に位置し 彦根の鳥居本へ抜ける道と 醒ヶ井へ抜ける道が分岐する地である。京極六郎の乱の際に尼子賢誉が守備したとされる 久徳口 恐らく同地を指すのでは無いか。残念ながら尼子氏と久徳氏の関係性は史料に乏しい。義賢の時代に尼子氏は 多賀庄一円 多賀荘全体 もしくは久徳の北にある一円という土地 での水利相論に関わっていたが この相論は六角の奉行が裁定を行っている。遺文 一一二三 某年六月晦日尼子殿宛六角義賢書状 旧武家手鑑
久徳は多賀庄にあり 一円は隣接している。ここで何らかの関わりがあっても不自然では無かろう。また伝承の類に視点を移せば 久徳氏は多賀氏の一族であるという。その多賀氏は尼子氏と共に甲良三郷を拠点にしており やはり何らかの関わりがあったとみても違和感は無い。
何よりも尼子氏は義昭 信長政権から 京極殿同浅井備前 同尼子 とて 京極高吉を盛り立てる存在として認識をされており地位は高い。
このような相論の積み重ね 尼子方への不満 鬱憤が爆発して高宮氏は久徳を攻撃したとも考えられる。

ただし尼子氏は時期不明ながらどうやら河瀬氏と共に義昭 信長政権を離脱し 甲良三郷をかなぐり捨て六角父子の地下活動に身を投じたらしい。本ページで扱う元亀二年(1571)に 彼らの六角方としての行動を見ることが出来る。

ところで元亀二年(1571 の高島郡に戦乱の史料は存在しないから簡略に説明してしまおう。

二月・佐和山城、磯野員昌の開城

高島郡に関わる大きな出来事というのは 何よりも磯野員昌の降伏であろう。
一般的に姉川の戦いで武勇を馳せた磯野員昌であるが 山科言継は元亀元年(1570)七月三日に 佐和山之城磯野丹波守 信長へ可渡云々 と気になる事を記している。
これは開城交渉と解釈するのか定かでは無いし その行方も定かでは無い。確かに 島記録 によれば七月五日に嶋宗朝へ籠城への感状 十日に嶋新右衛門に野村河原 姉川 での感状を発給しており それ以降に城を明け渡せそうにも感じられるが 嶋記録の 秀安留書 十一月六日付四郎左衛門尉宛浅井久政書状 から七月以降も籠城が行われていたことがわかっており 恐らく員昌も籠城していたとする通説が正しかろう。

十二月には織田と浅井の間で和睦が行われ 北郡のうち三分の二を織田家 三分の一を浅井家との配分が行われた。この割り当ては何を以て行ったのか定かでは無いが 恐らく横山城を最前線つまり姉川で線引きを行ったものと思われる。これにより織田方は江濃国境の確保をに成功し 信長自身も岐阜城への帰路には佐和山麓に近い磯村を経由している。
最も佐和山城自体は中郡であるから ここは紛れもなく織田方の地域に当たる。この二月に磯野員昌が城を明け渡した事は 単純に丹羽長秀を介して処遇条件闘争を行っていた結果であるのかも知れない。
そもそも永禄十二年(1569)時点で磯野は浅井と同格の単独領主であった 信長公記 勝ち負けの結果というよりも 城を明け渡した員昌が何処に移るかという部分が大きいように感じられる。

幸か不幸か員昌には高島郡が宛がわれたが 同じように籠城していた今井氏はそのようにもいかず 五僧越 の江濃国境たる 時山 に引きこもったそうだ。長谷川裕子 戦国期畿内周辺における領主権力の動向とその性格ー近江国坂田郡箕浦の今井氏を事例として 二〇〇〇年 史苑/立教大学史学会 編 六十一
このように雌雄決する場で何方につくか判断に迷った領主が 山に上がり籠もる事は 中世ままある事であった。
最も今井氏を支える立場である嶋一族の中には 新右衛門親子のように員昌に付き従う道を選んだ者も居た。

員昌移送

二月十七日 丹羽長秀は堅田諸侍へ次のような書状を発給した。

磯野丹波方高嶋へ被相越ニ付而 当所舟之事申越候 林与次左衛門尉方儀 当所衆無心元可被存候歟 然間磯丹一札林かたへ遣候 可披見候 此分二候間 少も不可有異議候 次一揆衆万一此方之儀無心元候者 明智十兵衛へ被申 人質被預 舟之儀廿日以前二 百艘之分至松原浦可有著 岸候 不可有疎略候 惣分之御馳走専一候 委細鈴村兵次 申含候 惣中へも磯丹一札在之由候 可被入魂候 恐々謹言
        丹羽五郎左衛門尉
  二月十七日   長秀 花押
 堅田
  諸侍御中
大日本史料より堅田村旧郷土共有文書 括弧内は新行氏論文から

これは員昌の高島移送についての書状で 堅田の侍衆に加え 林かた 一揆衆 の協力にこぎ着けたこと 移送のために人質と百艘の舟が用いられた 佐和山の湊に当たる松原浦から移送されたことがわかる。

  尚以 当所之事 自前篇 廉か 令馳走儀候 勿論向後不可有疎略候 已上
御折紙畏存候 仍当所舩儀 可被仰付之由 先以本望候 勿論雖不可有御油断候 片時も急可被仰付候 早船事弥入念候 殊磯丹人質取替候 旁以早舟之儀者 可御心安候 上下共二無異議様ニ申付候 磯丹も其段ハ請取申之由候 城中ニお 其方舟之儀を待かね在之儀候 各被出御精之段 具可申上候 随而為御音信鳥目百疋被懸御意候 畏悦之至候 御懇志之程不少候 期後音之時候 恐々謹言
       丹羽五郎左衛門尉
   二月廿日    長秀 花押
    堅田
     諸侍御中御返報
大日本史料より

この二十日付返報は 丹羽長秀からの礼状と見る。すると十八日か 十九日に移送が行われたのだろうと考えられようか。
島記録では 員昌は織田方の高島一郡を宛がう条件を呑まず 若狭の武田を頼るべく佐和山を退いたとある。この員昌の行動を 浅井長政は謀叛と捉え人質の老母を磔にしたともある。
しかし上の二通を読むと 概ね開城から日を置くことなく高島へ移送された事が分かり 島記録の記述は信憑性に乏しいと言わざるを得ない。恐らく江戸時代の編纂時に脚色されたのだろう。同様の記述は大日本史料にて 丹羽家譜伝 にも見られるが 何方かを参考にしたのだろう。

打下招降

しかし高島に移送された磯野員昌が 高島郡の中で何処を拠点としたのかが定かではない。
まず員昌が 高島の何処へ移送されたのかを見ていこう。

先に見た丹羽長秀の十七日付書状には 林かた 一揆衆 の文字列が見られる。これについて新行紀一氏は 打下の林が織田に与し 一揆衆は人質を得ることで身の安全が保証され佐和山城から高島への運送に従事したと述べる。
こうした部分で 打下の一揆衆 が舟手である事もわかる。

後に記すように 打下の林は元亀三年(1572)次の高島攻撃に参加していることから 同年までに湖西 西路 高島に於ける反織田勢力の一角であった打下の林と一揆衆が織田方に与し 降っている事は確かである。
その具体的な時期というのは この磯野員昌の開城と同時期であり 高島郡の入り口と言える打下の彼が織田に与することで員昌の移送が叶ったと見るべきで これ即ち員昌は松原浦から打下へ移送されたとみるべきであろう。

高山公実録 によれば 員昌は 小川 なる場所に移ったとされる。しかしこれは 浅井三代記 に依るそうなので 気にするだけ無駄であり 現状では打下を根幹地とした可能性を示したい。
今に林与次左衛門の諱は 員清 と伝わるが 高島に渡った員昌が偏諱を行った可能性も考えられるだろう。

員昌移送後の高島

元亀二年(1571)の高島郡は戦禍も無く 元通り平穏な地域となった。
他方 浅井長政は五月六日に浅井七郎井規を以て鎌刃の堀秀村を攻めるも 箕浦にて横山城の木下軍に襲われ敗れた。
同じ頃織田信長は長島に手を焼き 足利義昭の養女と筒井順慶の婚姻に伴いかねて筒井と敵対した三好 松永が政権を離脱 朝倉義景は本願寺顕如の子息と娘の婚姻を整えた。
高島郡の平穏が嘘のように争乱は再燃したのである。

朽木元綱の復帰

七月五日 信長は朽木弥五郎に書状を発給した。

今度使者被差越 内存之通承届候 別而忠節之至祝着候 須戸庄請米之事 如前々可申談候 并新知之儀 磯野二申含候 不可有相違状如件
  元亀弐
   七月五日          信長朱印
     朽木弥五郎 殿
朽木文書三八号

この書状は須戸庄 首頭庄か の請米承認と 新知行の保証を約すもので 磯野ニ申含候 としている。高島での員昌の働きは この書状が初見となるだろう。
また 内存 の表現から 前年の撤退線に於いて政権側に協力した朽木氏が一度は政権を離脱していたことがわかる。これは勿論 志賀の陣で朝倉 浅井方に与したことを示し 言継が把握した 高島衆 が彼らであることを示唆するのだろう。

果たして磯野員昌の調略に依るものであるのか見当はつかない。しかし可能性を考えるならば 横山三河守や田中とされる佐々木下野守など 朽木以外西佐々木七人にも調略を行ったと考えることも出来よう。それが束の間の平穏に繋がったのではないか。

比叡山焼き打ち

元亀二年(1571)で特筆すべき出来事は 九月十二日に発生した比叡山延暦寺の焼き討ちであろう。
織田方が焼き討ちに至るまでの様子を述べると 八月十八日に小谷城攻めと余呉 木本放火が行われ 九月一日頃には新村 志村 小川 金ヶ森に籠もった湖南一揆を制圧している。この一揆は六角承禎が裏に存在した可能性がある。

この時期の遺文を読むと六角義治は石谷 今の東近江市 の倉垣勘八郎に対し 八月十七日と九月十三日の二度に渡り書状を発給している。
八月十七日の書状 遺文九八一 は尼子 河瀬を 造作 したことに対し 祝着 庄内の 諸事馳走 神妙 としたものである。どうやら承禎 義治親子に付き従っていた尼子 河瀬を倉垣が世話したことに対する感状と思われる。
九月十三日の書状 遺文九八二 従肥田表日野江通路相留之由 無油断働最神妙候 肥田から日野の通路を封鎖するよう具体的な指示を倉垣に与えている。
さて比叡山焼き打ちに続く形で 同じ天台寺院であることを理由に湖東三山の西明寺が焼かれたとされる。また焼き討ち後の九月二十一日には高宮右京亮一類が丹羽五郎左衛門や河尻与兵衛の命で佐和山城に呼び出され 生害と相成った。信長公記は先の野田福島の戦いで一揆方へ走ったことを罪に問われた記す。

時に焼き打ちの直後である九月十三日に六角義治が通路封鎖を指示していた点 更に西明寺が同時期に焼かれたとされる伝承は興味深い。あくまでも憶測であるが西明寺が焼かれた理由には 六角氏の兵や六角派の土豪 煽動を受けた一揆衆が蹶起に及び 同寺もそれを支援した可能性もあるのではないか。実際に義治は霜月三日に倉垣と黒川六右衛門に対し 其表江敵取詰付而 早速懸付 籠城之由尤神妙候 遺文九八十四 と感状を発給している事から 何かしらの城を巡る攻防戦はあったようだ。
同様に高宮氏は再度敵方に奔ったことを罪に問われたのではないか。斯様にも考えることが出来るが これは定かでは無い。
最も高宮氏に関して云えば 状況的には前年十二月末の久徳攻めを原因とするのが筆者の中で有力である。永禄以来の高宮と久徳の怨恨を 高宮氏を滅ぼす事で解決を図ったのである。

また尼子氏は説明不要の佐々木一族であり 河瀬氏というのは高宮氏と並ぶ中郡の名族である。八月十七日の書状は彼らが六角親子に従い活動していたことを示す貴重な史料である。
特に尼子氏は天文末期に起きた 京極六郎の乱 で六角義賢の指示を受けた尼子宮内少輔の一族と思われ 更に彼らの一族には浅井久政の生母も輩出したとされるからこの元亀争乱に於いても重要な人物であろう。

他方八月二十八日に摂津で和田惟政が池田勢に敗れ敗死している。長島の一揆勢力も変わらず力を維持し 西は反政権側の動きが活発。そのような最中に 比叡山延暦寺を襲撃し燃やしたのである。
この戦で大きく活躍した明智光秀は 坂本の地を得た。

延暦寺と高島

さて比叡山延暦寺は古く 山門 と呼ばれ その領地は 山門領 と呼ばれる。
高島では 木津荘 が山門領とされ 同地に根付く饗庭氏は山門領の代官と伝わる。
彼らにとってみれば焼き討ちは 寄る辺を失くしたようなものである。

ともあれ元亀二年(1571)の高島は極めて平穏で 特に軍事行動の伝承も見られない。

元亀三年(1572)の高島郡

高島で戦端が開かれたのは元亀三年(1572)の五月の事であった。
これは饗庭三坊を巡る織田方と朝倉方の攻防であるが 直接対決には至らなかった。しかしその攻防には近江で三度決起した一揆との関連も考えられる。まずは道筋と情勢を整理したい。

まず本願寺顕如は前年元亀二年(1571)の十一月二十四日 北近江情勢の打破を図るべく朝倉 浅井へ便りを送っている。
こうした水面下の動きに いち早く動いたのが六角承禎親子である。
明けて元亀三年(1572)一月二十日頃 彼らは一向門徒を誘い金森 三宅両城にて決起した。織田は事態の収拾を図り 二十三日には佐久間信盛が南郡の侍 坊主に対し 一味内通仕間敷由 と加担しないよう依頼している。
この一揆は七月鎮圧され その規模も小規模であったとされる。

しかし磯野員昌が三月二十四日 吉田兼見に対し北郡八幡社 長浜 が一揆によって炎上したため仮殿造立を報告 更に本式の再建も匂わせている。
この 一揆 とは果たして何であるのか定かでは無い。
状況を整理すると三月六日に織田信長は横山城に入り その翌日に小谷城から山本山城にかけて また更に余呉 木之本を放火している。史料には見られないが この出陣は北郡一揆に関連している可能性もあろうか。
北郡で一揆が動員された浅井の軍事行動といえば 前年元亀二年(1571)五月六日に発生した鎌刃攻め 箕浦合戦 さいかち浜の戦い であるが 八幡宮から箕浦は離れている為に該当しないようにも感じられる。

木戸・田中の蹶起

そうした中で志賀でも蹶起が起きた。その対処に信長が直々に動きを見せたのが三月のことである。
兼見卿記に依れば信長は三月十二日に上洛しているが 原本信長記には次のように記される。

三月十一日志賀郡へ御働 和迩に御陣を居させられ 木戸 田中推詰 御取出被仰付 明智十兵衛 中川八郎右衛門 丹羽五郎左衛門両三人被入置 三月十二日信長直に御上洛 二條妙覚寺御寄宿

同様の記述は 当代記 にも見られ ここに二年に及ぶ戦いが始まった。
しかし史料に於いて元亀三年(1572)の蹶起に纏わる史料は僅かで 八月十二日に浅井長政が馬場兵部丞に対して発給した 和邇 小野村の知行を約す旨の書状程度である。

和邇之内小野村之儀 十乗房任被申談之旨 一圓進之候 御知行不可有異儀候 弥可被抽粉骨事肝要候 恐々謹言
                    浅備
    元亀参
      八月十二日          長政 花押
        馬場兵部丞殿御宿所
馬場文書 大日本史料

文中に 十乗房 の名が見えるが 彼は元亀四年(1573)に比定される書状に多く見られる人物で 江戸時代の地誌 近江輿地志略 にある以下の記述と一致しており 木戸城の主と考えて差し支えないだろうし 木戸城を指す人物名でもあるだろう。

木戸古城跡 荒川木戸村 西の山にあり。今其名を城の尾にといふ。里民傅云う 十乗坊といふ者在城すと

ここで馬場は十乗房からの指示を仰ぐ立場にあったと見え 彼が木戸に立て籠もっていたとも考えられる。

他に 田中 とあるが 現在の志賀駅周辺の地名に見られる 木戸 とは異なり志賀郡に於いて田中の地名は見られない。
しかし 中世城郭分布調査 9 によれば北比良の真宗寺院 福傳寺には 田中城 田中坊 であったとする 由緒 が存在するため 現在では同地が 田中城 とするのが有力である。

木戸・田中の蹶起時期の検討と承禎

ここまで動きを見てきたが 南郡 志賀での反政権側の動きには 通路の封鎖 という共通点が見受けられる。南郡の金森 三宅の蹶起は東山道 中山道 から琵琶湖志那浦へ至る志那街道の封鎖 志賀の木戸 田中の蹶起は西近江路の封鎖といった具合だ。
何より両城は 十乗坊 田中坊 と表現され 特に田中は現在の福傳寺とされるので仏教勢力の関わりが感じられる。
先に金森 三宅の蹶起に際し 佐久間信盛が南郡の侍 坊主に対して加担しないように依頼をしている点を見たが 志賀に於いては木戸に馬場兵部丞という土豪が関わっており 此方も南郡と同じように志賀の両城も侍と一揆衆が共に籠城した可能性は高そうである。

そうなると不明であった蹶起の時期は 金森 三宅と概ね同時期と考えても良さそうではあるし 史料には見られないが北郡でも十ヶ寺による一揆が起こり 北郡八幡宮を燃やした可能性も考えられるだろう。

なお六角親子が指揮した南郡の一揆は 織田方の引き離し工作により七月には鎮圧されたと述べたが 一方で木戸 田中は 後項で述べるが五月までには鎮圧された可能性が高い。

以下に図を掲示する。

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饗庭三坊を巡る攻防

元亀三年(1572)は織田軍が高島郡で軍事行動を行った最初の年である。
その構図は饗庭三坊を巡った争いで 織田と朝倉の双方主立った戦力が高島に兵を進めたものである。しかし先に動いた織田勢は当地を制圧すると撤収し その直後に朝倉が到来と直接的な衝突には至らずに終わる。その後朝倉勢は約一月の間駐留し 七月には北郡へ転じた。

この攻防を纏める前に 志賀の木戸 田中城に触れたい。
両城の蹶起は 恐らく正月の承禎蹶起と同時に起きたとみられるが 織田軍は三月になり信長が直々出馬をして両用害を包囲する砦を築かせ 明智光秀 中川重政 丹羽長秀それぞれに守備を任せている。
その明智光秀が五月に高島 饗庭三坊を攻めた事は 同月までに両城が片付いた事を示唆するのではないか。

織田軍の高島侵攻

永禄以来年代記 の元亀三年(1572)五月十四日条に依る。

信長高嶋へ乱入 百姓等家ヲ焼失シテ 十八日江南へ引返 是ヲ聞越前衆二万余ニテ高嶋へ合力 然共信長引退跡ニテ 合戦事ナシ

この記述に対応する書状が二通ある。

  尚々 尤致出京雖可申上候 重而註進次第可相働
  与存無其儀候 此旨御取成頼存候 以上
高嶋之儀 饗庭三坊之城下迄令放火 敵城三ヶ所落去候て今日令帰陣候 然処 従林方只今如此註進候 可然様御披露肝要候 相替儀候ハヽ追々可申上候 恐々謹言
            明智十兵衛尉
  五月十九日        光秀 花押影
   曽我兵庫頭殿
        御宿所
史料で読む戦国史 明智光秀二十五 明智光秀書状写 信長文書の研究 三二六 細川家近世文書目録付 三二四

五月十九日 明智光秀は幕臣曽我助乗に饗庭三坊の城下を放火し 敵城三ヶ所を攻め落とした旨を報告した。

   返々上中 上野清信 三大 三淵藤英 細兵 藤孝 早々御出尤候 談合可仕候 不可有御油断候 以上
明十兵衛従高島之注進之折紙進上仕候 御人数早々坂本まて可被下候 談合可仕候 此旨きと御申専用存候 恐惶謹言
              木藤
   五月廿一日         秀吉 花押
   菅兵
     人々御中
豊臣秀吉文書集一 八八九 某年五月廿一日付菅兵宛書状 宇和島伊達文化保存会

これは年次不詳であるが 内容が高島に関する話題である事から 同年中であると判断した。十九日に帰陣を報告した光秀と 二十一日に光秀の動向を記した秀吉といった構図だ。秀吉から書状を送られた 菅兵 は湖西の舟手だろうか。

朝倉の高島出兵

年代記には 是ヲ聞越前衆二万余ニテ高嶋へ合力 とある。これに合致するのが 越州軍記 朝倉始末記 に見られる。これは元亀四年(1573)七月の話であるが その内容は年代記の記述と相違せず 更に織田の高島攻めを補完する内容となる為 この年の高島出兵であると判断した。

同七月上旬ニ 江州西地多胡左近兵衛氏久處ヨリ 三方ノ寶仙房心違シテ 信長殿へ内通仕ケル間 早々先一勢可被成御合力 一戦之事ハ拙者涯分仕リ打散候ヘシト 飛脚到来之間 先山崎長門守吉家 河合安芸守 其外中郡之衆 都合三千余騎打立テ 江州西地三方ノ城ヘソ押寄ケル 城中ヨリ即足軽ヲ打立テ 双方矢軍在之 日モ暮方ニナリケル間 吉家ハ敵ノ城ノ向ノ山ニ対陣取テソ居タリケル 然レハ則西地へ越ヘケル諸勢山崎長門守以下モ北郡へ馳向イケリ 山崎ハ仙房ヲ宥テ 人質ヲ取テ来リ 篠嶽 賤ヶ岳 ノ麓ニ居陣候也

内容は 七月上旬に三方の寶仙房が織田方に内通したので 多胡左近兵衛氏久より援軍を求められ 山崎長門守以下三千の部隊が押し寄せた。中郡とは若狭の中郡を指すのだろうか。
一戦を経た後 山崎らは三方の城の向かいの山に陣を取った。
その後 八月の義景出陣に際して山崎は寶仙房から人質を取り 北郡方面へ転戦した。そして朝倉は滅亡に至るといった流れである。

軍記故に曖昧な話ではあるものの 元亀三年(1572)に朝倉方が高島に在陣していたことは顕如の書状から確認できる事実だ。


近曽疎遠之式 慮外候 抑去時分長々依御在陣 高嶋表之儀 御理運之姿珍重候 弥浅備被相談 無油断御行肝要候 爰元調略之儀 方々相試様候 追而可申展候 就中任現来 段金十端 右下 進之候 左少々 右下 々委細趣頼充法眼可申入候間 不及詳候 穴賢か
    六月晦日             ー 光左
      朝倉左衛門督殿
顕如上人御書札案留 元亀三

元亀三年(1572)五月の出来事が何故翌年七月の出来事になったのか 恐らくは作者が時代の混同を起こし翌年の話になってしまったものと思われる。
作者の混同であれば この時代に高島で活躍した 多胡氏 多胡宗右衛門 であり 多胡左近兵衛 は後年に信重の内衆に見られる人物で これも混同を起こしていた可能性が考えられる。

饗庭三坊の動向

高島に 三方 という地名は存在しない。しかし読みを サンポウ サンホウ とすると 自ずと 饗庭三坊 が浮かび上がる。

饗庭三坊は新旭の北端 今津の南に位置する木津荘を支配した山門徒の一団である。
その歴史は古く 応永元年(1394)に建立された今宮権現の神輿を建立した碩主が饗庭三坊であるそうだ。福田徹 安曇川下流域における条里制の復原
具体的な名前は 永禄年間に浅井長政の勧誘を受けた 西林坊 定林坊 宝光坊 となるだろう。彼らの名は時の当主名を示すのか 代々の継ぐ名 もしくは機関名であるのか定かでは無い。

しかし元亀二年(1571)九月に 彼らの属す山門つまり比叡山は織田信長によって焼かれてしまった。この一件により山門の影響力は大幅に低下し 饗庭三坊は反織田を続ける勢力と親織田に傾く勢力に二分されたのだろう。考えるに 切り崩しを図ったのは磯野員昌であるかもしれない。

こうした高島郡内での暗闘というのは 先に触れた 寺社焼き討ち として現れた可能性もあるだろうし 承禎の決起に呼応した一揆の可能性もありそうだ。また先に触れた酒波寺周辺や海津の田屋の存在もあるのだろうか。

総括・饗庭三坊を巡る攻防

饗庭三坊は高島南北の中間に位置し 織田方にとっても朝倉方にとっても西路計略の上で重要な地域である。

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織田方は少しでも支配域を拡げたいし 朝倉方は京都方面への南進ラインを北に押し上げられる事は避けたい思惑もあろう。
特に安曇川北岸新庄を拠点にし朝倉氏との繋がりを持つ実力者 多胡宗右衛門等は 饗庭三坊を織田方に奪われてしまうと自らの拠点も失うこととなる。そうした危機感を抱き 織田に靡いた山門徒を折檻するべく派兵を要請し 時を同じくして織田に靡いた山門徒や磯野員昌は織田信長に派兵を要請したのだろう。
何方も膠着した戦況を打開するために高島に兵を出したと考えられよう。

緒戦こそ織田方が饗庭三坊の城下を焼き払い落去せしめた。しかし光秀たちは朝倉方との対決する事無く 三坊を退いてしまった。
そこへ山崎吉家率いる朝倉方が三千 朝倉記 もしくは二万 年代記 でやって来た。兵数の差はよくわからない。
その戦の内実は軍記に 城中ヨリ即足軽ヲ打立テ 双方矢軍在之 両者互角であったように受け取られる。
後に 日モ暮方ニナリケル間 吉家ハ敵ノ城ノ向ノ山ニ対陣取テソ居タリケル とあるが 周辺の山城 清水山城 日爪城 には朝倉式と思われる改修痕跡が見られるようなので 両城を朝倉方が陣取った可能性があるだろう。地図で見ると両城に近い城は 五十川城 であるが 此方は 宝光坊 の城と伝わる。軍記に見られる 寶仙房 とは の字が一致している点が興味深い。
そうなれば五十川が織田方であった可能性が浮上する。しかし後年織田の時代に名前が見られる 定林坊 焼かれた吉武城がある霜降地区を拠点としていたと伝わる。この点は明確な史料が無く推論が続くが 多胡宗右衛門の新庄と定林坊の霜降は近く 城を失った定林坊は多胡と行動を共にして反織田活動を行っていたと考えられるだろうか。

しかし朝倉方は安曇川南岸や朽木方面へ攻め入るといった軍事行動を行わなかった。
年代記と顕如の書状を組み合わせると高島に約一ヶ月在陣している事がわかる。
軍記でも七月に出陣し 八月に北郡へ転じているから その在陣期間は一ヶ月とみるのが妥当だろうか。

一方で 信長公記 に依れば 信長は七月十九日に嫡男の具足始を兼ねた小谷城攻めを開始している。この小谷城攻めで特筆すべきが 織田方が小谷城正面の 虎御前山 を支配し築城を開始した点である。

越州軍記 の正しい元亀三年(1572)条によれば 浅井方より虎御前山築城の注進を受け 七月中旬に景鏡五千 七月末に義景率いる三万二千が到来したとある。ここに高島在陣の話は見られない。
以上を踏まえると高島の在陣は約二ヶ月となるだろう。ただこれも推測に過ぎない。

繰り返すが在陣の間に朝倉方は何も起こさなかったのである。
もちろん親織田勢力に圧をかけた事もあるだろうし 彼らは南進よりも北郡浅井長政を増援する主目的があったのだろう もちろん高島郡に残る朝倉式の山城改修の時期であった可能性もあるだろう。

信長公記と元亀三年(1572)の越州軍記では七月の末 元亀四年(1573)の越州軍記では八月に朝倉本隊が北郡に到来している。
また後者に依れば高島に在陣していた山崎吉家は本隊に合流すべく饗庭三坊の者から人質を以て和し 賤ヶ岳の麓から小谷方面へ向かったという。
果たして これも真偽は定かでは無い。

海津火攻め

信長が北郡へ出陣する少し前 信長は沖島惣中に対して次のような書状を発給している。

  尚々 於様体者 中川八郎右衛門可申候
今度北郡へ可出馬候 其付以早船三艘被馳走 自身乗候て 林与二左衛門尉并堅田衆相談 可有行候 此刻別而可被入精事 可為忠節候 恐々謹言
    六月廿七日           信長 朱印 天下布武
      沖嶋
        惣中

これは北郡への出陣にあわせ 沖島に対し打下の林と堅田衆共々船を出すことを要求した書状である。
この書状に対応する記述が信長公記 原本信長記 に見ることが出来る。
七月二十四日頃 打下の林 明智光秀 堅田衆 山岡玉林等が 湖上囲舟から海津浦 塩津浦 余呉の入海 浅井方諸浦 を焼き払い 竹生島には火矢 大筒 鉄砲により攻撃が行われた これは一揆を企てた事が原因とあるが 確かに海津は 三浦講 と呼ばれる一揆の拠点であるから 一揆の拠点を潰す効果はあろう。

同時期には余呉 木本の伽藍を焼き払うと 一揆が起きた草野谷にも火を放ち 近里近郷の百姓等が逃げ込んだ大吉寺は 木下藤吉郎と丹羽五郎左衛門の夜討ちに遭い一揆僧など多くが切り捨てられたという。

兵数の差

同記は七月末に朝倉義景が一万五千の兵を率い 北郡 小谷 大嶽 に到来したと記す。この兵数に関しては越州軍記の景鏡五千 義景率いる三万二千と差違が見られる。年代記 では二万許としている。
これは高島に進出した兵数の差違同様 よくわからない点である。

元亀三年(1572)の行く末

この北郡での対陣にて 大きな軍事衝突はなかった。
十一月三日に虎御前山が浅井七郎等に攻め込まれたが 難なく撃退された。

むしろ朝倉方が在陣を始めたばかりの八月八日 九日には 前波九郎兵衛父子 富田弥六 戸田与次 毛屋猪助が織田方へ降る事件が発生している。

織田方も穏やかならず 甲斐の武田信玄が動いた。
かねて微妙な立ち位置に居た武田信玄は 正月に顕如より織田背後を脅かす旨の依頼を受け 更に幕府から上洛要請を受けて 十月に美濃 三遠駿への二方面作戦を開始したのである。
一ヶ月で信長との係争地である東美濃の岩村城を攻略すると 同時にかねて敵対する徳川家康の領土を侵した。
その間に信玄は朝倉義景と 美濃の遠藤氏を通じ浅井長政と連絡を取っていた。また高島の多胡宗右衛門は重臣穴山信君と音信があった。
武田は小谷城の膠着を打開するべく進軍したと見て良いだろう。

しかし朝倉義景は十二月三日に越前へ引き上げてしまった。
それを知らない武田信玄は二十二日 三方ヶ原で織田徳川連合軍を打ち破ったのである。

政権側も 反政権側も 心穏やかではない師走であった。
そうした中で信長は将軍足利義昭に対し 異見十七ヶ条 を突きつけたのである。ここに政権は破綻を迎えた。