藤堂高虎の誕生
2023-0206
藤堂高虎の誕生
弘治二年(1556)、 藤堂源七郎の弟与吉が生まれた。
その生年は今まで疑問を抱いたことは無く、 流石の藩史も、 自身の家系に無頓着であったように見せかけた高虎本人も、 自分の年齢こそ間違えることはないだろう。
もしもここが違えば大変なことになるのだが、 実は高虎の年齢を示す確実な史料というのは藩史以外には存在しない。それでも、 例え高虎であっても自分の年齢に無頓着であると云う事は無いだろう。
誕生日について
通説で彼が生まれたのは正月六日とされる。
この誕生日について 『高山公実録』 にて
高山君御誕生の月日不及見候処正月六日御誕生の由高豊公御意有之と云 (累世記事)
と記されているように、 どうやら江戸時代は藤堂高豊の代である享保二十年(1735)から明和六年(1769)の約三十年間に定められたらしい。恐らく編纂事業の一環だろうが、 正月六日の根拠は定かでは無い。
さて江戸時代の公家山科言緒が記した 『言緒卿記』 の下巻、 元和五年(1619)四月二十日条に興味深い記述が見える。
チヨホ藤堂誕生日トテ餅 ・ 錫持來了、
この 「チヨホ」 は言緒の女官である。恐らく京都の藤堂家屋敷で高虎の誕生祝いを受け取り、 山科家へ持ち帰ってきたのだろう。当時誕生日の主役が人に物を配る文化が存在したため、 高虎もその例に則ったのだろう。
余談ではあるが声優 ・ アイドル ・ アーティストとして活躍する芹澤優さんは、 令和四年の誕生日とコンテンツのライブが重なったため、 出演者にちょっとしたプレゼントを振る舞っていたが、 まさしくこうした文化を図らずも行っていたことと相成る。
斯くして正月六日に加え、 四月二十日を誕生日とする説が加わった。しかし後者は山科言緒の記述一件のみであり、 此方も根拠に乏しい。
とりあえずは 「藤堂高虎は弘治二年(1556)に生まれたらしい」 とするのが適当だろう。
高虎が生まれた家
近年藤堂高虎の出自を 「農民にまで落ちぶれていた」 「農民同前」 と貶める俗説が見える。
しかしこれは大きな間違いで、 永禄年間には浅井長政から蚊野常学坊跡 ・ 安食弾正跡といった私領を安堵され、 臨済宗の僧 ・ 煕春竜喜が訪問した 「藤堂九郎左衛門」 という有力者が存在している。
高虎もこの 「藤堂九郎左衛門」 の一族と考えられるから、 その時点で落ちぶれていたとは思われない。
最もこの藤堂九郎左衛門自体どのような地位にあったか定かでは無い。
天文初頭の藤堂九郎左衛門尉家忠は年貢について、 尼子の代官に指示を仰いでおり、 尼子郷で尼子氏の下にあったと見られる。
高虎が生まれた時代もそうであったのかは定かでは無い。
多賀氏との関係
さて編纂史料や系図を見るに、 藤堂源七郎と高虎の母は多賀氏で、 更に多賀氏からも藤堂氏に養子 (勝兵衛 ・ 新助) が入っている。
多賀氏は尼子郷 ・ 藤堂氏の拠点と思しき 「さいし村」 からほど近い、 甲良三郷の下之郷に根付いた勢力で、 天文の時代は多賀豊後守貞隆が活躍していた。
そうした中で多賀氏が尼子郷の、 それも尼子に指示を仰ぐ立場であった藤堂氏と結ぶ事は興味深い。
多賀氏にとっては隣郷の藤堂氏を或る種の 「庶家化」 として取り込み、 藤堂氏にとっては多賀氏と結ぶ事で、 尼子氏からの脱却を図っていたのだろうか。
高虎が生まれた家
実情は不明であるが、 「有力者藤堂九郎左衛門の一族に生まれた」 「母は甲良の実力者多賀氏の一族」 とするのが実情に即したところ、 となるだろうか。
重要なのは高虎が六角の勢力下に生まれたことである。
高虎が生まれた地域
高虎が生まれたのは現在の滋賀県甲良町在士とされている。
編纂史料を元にすれば 「藤堂村」 で生まれたするのが良いだろう。高山公実録では 「藤堂村」 であるが、 実はこの出典は明記されておらず、 引用史料にも誕生場所については記されていない。
『藤堂家覚書』 にも生まれた場所についての記述は見られない。
藤堂村、在士村
ところで藤堂村か在士か、 通説では井伊家が藤堂家に敬意を表し 「在士」 としたエピソードがあるように、 江戸時代には消えてしまった地名であるという。
だがこの説には疑問がある。
天正十九年(1591)四月に十七日の 『江州犬上郡御蔵入目録 (彦根市史)』 によれば、 ここで 「さいし村」 なる村名が登場する。これは間違いなく現在の 「在士」 を指すのだろガ (他に見当たらない)、 当てはまる漢字が定かでは無い。
考えると井伊家が藤堂家に敬意を表し 「在士」 としたエピソードというのは、 敬意を表し 「漢字を当て嵌めた」 ということでは無いだろうか。
ともあれ定かでは無いので、 話はこれ以上膨らまない。
実情、 村名が定かでは無い以上 「甲良三郷の尼子郷で生まれた」 とするのが良いように思われる。史料に即するのなら、 生まれた地を 「さいし村」 としても良いだろう。
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私領で生まれた可能性
最も厳密な場所が高山公実録の一節のみであるのならば、 これは生まれた場所はわからないと言われても仕方が無い。
ならばこそ、 藤堂九郎左衛門が永禄年間に安堵された 「蚊野常学坊跡 ・ 安食弾正跡 ・ 御内将監跡」 を高虎の出身地に当て嵌めるのも良さそうであるが、 具体的な地域が定かでは無い為に、 提示だけでやめておく。
一応蚊野は現愛荘町、 安食は彦根市から豊郷町にかけての地域であろうと推測はしている。
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高虎が生まれた時代
高虎が生まれたとされる弘治二年(1556)からしばらくは、 どういった時代であったのだろうか。
少なくとも弘治二年(1556)は落ち着いた時代であった。
事態が動いたのは翌弘治三年(1557)の春のことである。
六角軍は北伊勢を攻め、 北郡からも兵の動員があったようであるが、 この 「勢州御陣」 にて高虎の父虎高や多賀氏、 尼子氏といった甲良武士も出兵した可能性はあるかもしれない。
米止令
弘治四年(1558)三月六日、 六角家の重臣能登忠行 ・ 平井定武は諸浦に対し 「米止令」 を通知した。(遺文 ・ 七八一)
この 「米止令」 を解説した論考はわずかで、 村井祐樹氏が対浅井氏との関連を示唆したもののみである。(『佐々木六角氏の基礎的研究』)
村井氏は翌永禄二年(1559)二月十二日に承禎 ・ 義弼親子が伊賀国人に宛てた書状 (遺文 ・ 七八六、 七八七) を含めて、 対浅井に向けた準備との考えを示した。
しかし承禎の 「島原諸侍宛書状」 には 「三好対其国、 鬱憤深重条」 と見え、 これは対浅井では無く対三好である可能性もあるだろうか。
しかし浅井が三好と結んだ可能性を考慮すれば、 米止令と伊賀国人宛書状は、 対浅井の流れにあるとする村井氏の説が正しいのかもしれない。
六角遺文を読むと米止令は永禄二年(1559)四月十日にも出されていることがわかる。(遺文 ・ 七八八)
幼少期の高虎
こうした争乱の足音が近づくなか、 高虎はすくすくと育った。
『高山公実録』 には、 そうした高虎の逸話が収まる。
まず 「玉置覚書」 という史料であるが、 これに見える幼少期の高虎は寛永十八年(1641)の 「村瀬市兵衛書付」 によるものである。家系図には虎高 ・ おとらの養父良隆の実の娘に 「村瀬伊豆室」 が見え、 藤堂氏と村瀬との間に 「村瀬市兵衛吉成」 が生まれたという。
佐伯朗氏の 『藤堂高虎家臣辞典』 によれば、 吉成は正保二年(1645)に没したとあるので、 書き付けたのは高虎の従兄弟にあたる村瀬吉成で間違いなかろう。
本文に 「今年十三歳与吉ハ七つなるに兄より一寸せいたかし (略)」 とあるが、 高虎が七歳の頃合いは永禄五年(1562)であるから、 吉成の書付は永禄五年(1562)の記録をもとにしたか、 記憶を述べたものか、 想定したものであろうか。
そのようなもので同書の真贋は定かでは無いが、 藤堂高虎のキャラクターとして高身長 (六尺二寸) は定着しており、 今更否定する声も皆無であるから、 ここは信用して紹介したい。
高虎出生伝説
それにはまず高虎の出生に関して母おとらが
左のわきより朝日入ると正しく夢を見て二三か月して懐妊をおほへ胎内にても大かたならすうごきはたらき難儀に及しなり
とて懐妊の様子から、 妊婦時代の苦労談が見える。少なくとも前半の懐妊に纏わる 「左のわきより朝日入ると正しく夢を見て」 というのは荒唐無稽な話であるが、 太閤秀吉の日輪伝説に通じる部分があり、 正保年間には成立していた事が興味深い。
後半の 「胎内にても大かたならすうごきはたらき難儀に及しなり」 という節は、 現代でも妊婦さんの苦労話で耳にするものであり現実的だ。
生まれた頃の高虎
幼少期の高虎は次のように述べられている。
御誕生の時より壮年の乳母一人の乳にてハ中々まいりたらす追付二人めしかゝへ候得共猶まいりたらす家来共の乳持の女ひたと乳をあけ三つの御としからハ餅をひたと上り五つ六つの御年にハおとなのたべ申程御めしまいり候御誕生の時より泣給ふ御声を乳母共もつゐにきかす御行跡あらくうち損し給ふ事度度なれ共ついにいたきと仰せられ候事もきかす御子なからも中々只人とハおほしめさす荒人神の化身かと思召候兄源七郎もつねの子供よりせゐたかく逞しく今年十三歳与吉ハ七つなるに兄より一寸せいたかし筋骨ふとく逞しく手足長く手足のかつかうよりハすくれて指長く十貫からけの銭を自由に持ちあるき給ふ藤堂の末繁昌ハ此子にあるへしと末たのもしく思召候由御夫婦あそはし御語被成候
まず 「乳母一人の乳にてハ中々まいりたらす追付二人めしかゝへ候得共猶まいりたらす家来共の乳持の女ひたと」 とある。
弘治二年(1556)から四年 ・ 永禄元年(1558)にかけ、 乳を飲み育ったようだ。現代では五ヶ月から六ヶ月で離乳食に入るが、 当時はそんなものは無いから三歳の自分で食べられるようになるまでは、 乳を飲んでいたのだろうか。
その乳も乳母では事足りず、 乳持ちの家来の女も呼んだそうだ。
別に高虎は巨漢の大男と伝わるから、 こうしたエピソードに何ら違和感は無い。
ここで注目したいのは 「家来共」 と述べられている点で、 虎高はそれなりの地位にあったと推測されるのである。
幼年期の高虎
さて 「三つの御としから」、 というのは永禄元年(1558)以降の話である。湖国が何やらきな臭くなってきた頃、 高虎は餅を食べ始めるようになった。
「五つ六つの御年にハおとなのたべ申程御めしまいり候」 とあるのは永禄三年(1560)から永禄四年(1561)の頃で、 まさに浅井と六角の 「南北戦争」 が再開した時期に当たる。また六角家では承禎 ・ 義弼親子の対立、 三好との対決など、 世情騒がしい頃合いだ。
甲良の郷は六角と浅井の境目 ・ 佐和山周辺に近いため、 六角側最前線とも言える地に位置する。果たして虎高をはじめ多賀氏、 尼子氏といった甲良武士がどのように関与していたのか定かでは無いが、 与吉は餅を食べ続けた。
そのようにして七歳の頃、 つまり永禄五年(1562)には 「今年十三歳与吉ハ七つなるに兄より一寸せいたかし筋骨ふとく逞しく手足長く手足のかつかうよりハすくれて指長く十貫からけの銭を自由に持ちあるき給ふ」 と、 もはや少年を通り越し、 青年 ・ 大人同前にまで成長したというのである。
そのような高虎の姿を見て虎高とおとらは 「藤堂の繁盛はこの子にかかっている」 と語ったらしい。
信用性について
また後に藩の御用商人となる菱屋林家の 『林次郎兵衛家乗』 には次のような記述が見られる。
源助様一所罷在高虎公御誕生其後高虎公へ兵法御相談申上武具等の物数奇衣服金銀の御用相達是高虎公御生質只人に非す何卒御出世被遊候様に仕度志願に因てなり
林は生まれたばかりの高虎を一目見るや、 高虎に投資することを決めたという。
林の家乗は高虎の節目節目に登場するが、 都合が良すぎて逆にそれが訝しい。というのも、 こうした家乗は藩に対する貢献度を由緒として示すものでもあり、 家の正当性を示すためなら盛ることもあるだろう。
性格が悪いように思われるが、 藩史にはそれくらいの気概で臨まないと情報量に飲み込まれてしまう。
書付の成立時期の検討
そのような視点に立つと村瀬吉成の書付も、 全般的に信用して良いものであるのか悩ましい。
村瀬の書付というのは 「或時藤堂新七郎同作兵衛匹田勘左衛門南部次郎右衛門 (南部藤兵衛の父) 村瀬市兵衛御内証にて御ふるまひ被下御夫婦御二人して御かたり被成候」 から始まる。
新七郎、 作兵衛、 疋田、 村瀬は何れも父か祖父が藤堂氏を娶った高虎の親戚にあたる。父か祖父、 としたのは、 時代が特定できない点による。
新七郎、作兵衛
新七郎と名乗るのは藤堂新助 (おとら弟) の子で一般的に知られる高虎の従弟良勝からで、 作兵衛が藤堂氏を名乗るのは箕浦作兵衛 (忠秀) の子息作兵衛 (忠光) が慶長の唐入りで戦功を挙げてからであり、 この 「二つ」 の名前がある以上は以降の話となる。
そして寛永十八年(1641)の書付となれば、 新七郎は二代目良精、 作兵衛は三代目の忠季の頃だ。
疋田勘左衛門、南部次郎兵衛
しかし疋田勘左衛門、 南部次郎兵衛はよくわからない。
疋田勘左衛門は兄常重が慶長の唐入り、 弟常重が冬の陣で討ち死。高虎没後の分限に疋田勘右衛門と八郎兵衛が見えるが、 これが常重の子息になるのか定かでは無い。ただ分限に見える 「勘右衛門」 が 「勘左衛門」 であるならば、 寛永十八年(1641)当時に高虎の従兄弟を祖とする家の当主が集まり、 高虎の幼い時分の昔話を検討した可能性はあるかもしれない。
南部氏については皆目見当がつかない。
南部藤兵衛は文禄元年(1592)に仕えたとされ、 関ヶ原の折には側室長氏の籠もる大坂屋敷への使者となるが捕縛され、 夏の陣では無断で出陣した出雲高清の留守を名張で守った人物である。
その出自は定かでは無いものの、 『新東鑑』 によれば、 高清に従い夏の陣で活躍した遠藤勘右衛門は 「南部藤兵衛と由縁」 の者であるという。
この遠藤は浅井長政の重臣で姉川での散り際名高き遠藤直経の孫であるが、 藤兵衛と遠藤の間柄が 「由縁」 であるのならば。南部藤兵衛は近江の人である可能性が高そうだ。
そこで高虎の従兄弟の集まりに呼ばれるのであれば、 系図には見られないが、 南部氏もまた藤堂氏と関係がある一族であるのかも知れない。
もしも疋田勘左衛門が常方や常重、 南部次郎兵衛が文禄から家中に加わった南部藤兵衛の父であるのならば、 こうした 「昔話」 は慶長の末頃で高虎が存命の時代に行われた可能性も考えられるだろうか。
何れにせよ、 話としては面白いが、 詳細な成立時期が不明である 「逸話」 であろう。
あばれん坊少年
しかしながら村瀬の書付や、 編纂史料に載る逸話には、 高虎を顕彰するようには思えない内容も述べられていることがある。そうした不格好で高虎にとって恥ずかしい内容が、 逆に逸話のリアリティを高めると言えよう。
今回紹介した村瀬の書付にはこんな記述も見られる。
御誕生の時より泣給ふ御声を乳母共もつゐにきかす御行跡あらくうち損し給ふ事度度なれ共ついにいたきと仰せられ候事もきかす御子なからも中々只人とハおほしめさす荒人神の化身かと思召候
高虎は生まれた頃より声が大きく、 乳母の言うことも聞かないぐらいのあばれん坊、 さらに只人では無く荒人神 (悪霊の類) の化身かもしれない、 といった内容である。
それほど暴れてた男の子が、 天下の計略に関わり三十二万石の大名にまでなったのだから大したものである。
郷土資料の叙述
『甲良町史』 や 『下之郷の歴史』 における戦国時代の記述は疑問に感じる箇所が多い。しかしこれは史料の乏しい時代の産物であるから、 先人に敬意を払わねばならぬものだ。
それでも幾らか見るべきところのある記述は存在するが、 それは石塔や仏像に纏わる記述である。
まず下之郷には 「二階堂」 と呼ばれ小字が残る。これは同地にあった西大寺末寺 「宝蓮院」 の本尊阿弥陀如来を安置するための堂が、 吹抜二層つまり二階建ての堂であったことに由来するらしい。
二階堂宝蓮院の阿弥陀如来は、 天正六年(1578)の安土 ・ 浄厳院建立に伴い移設されたと伝わるから、 高虎の幼少期にはまだ下之郷にあったのである。
阿弥陀如来の高さは二メートル七十四センチと、 威風堂々たる平安末期の傑作仏の一つであるが、 高虎少年はこの阿弥陀如来を見て育った可能性がある。
ところで浄厳院の楼門というのは、 もとは六角ゆかりの慈恩寺の楼門であった。津田徹英氏によれば、 この楼門は長浜田村寺から買い取った仁王像を修理し、 安置するために造立されたらしい。注目したいのは造立の統領が 「甲良左衛門五郎」 とされている点だ。(『滋賀 ・ 浄厳院蔵 木造釈迦如来立像― 佐々木氏頼 (一三二六~七〇) 発願の旧慈恩寺本尊―/美術研究四二六』 注二十八)
まさしく日光東照宮の作事で活躍した甲良宗広の祖にあたる。町史に依れば、 宗広は法養寺村に生まれたとされる。法養寺村は上之郷であり、 下之郷の東側、 在士の南側に隣接している。大きな高虎少年のことだから、 御近所の大工集団として親しくしていた可能性もあるだろう。
かつて甲良には甲良西に二メートル級、 在士に六メートル級の石塔があったという。『高山公実録』 の引用する 「在士村記」 には 「高丈五許」、 つまり五メートル級の石塔が存在したが、 編纂の時代には壊れ散逸したと記されている。
湖東には金剛輪寺 ・ 西座という優れた石工集団が居り、 こうした石塔もこうした石工たちによる優れた石材造形と考えることも出来よう。
ある郷土資料には、 「このようなスケールの大きな石塔があったからこそ、 高虎はスケールの大きい人間に育った」 と専門家の話を伝えるが、 まさに卓見である。
藤堂高虎は優れた仏像、 建築集団、 石塔に囲まれ、 湖国の大木にまで成長を遂げたのである。
次回は永禄二年(1559)に立ち戻り、 今一度浅井長政の蹶起と六角家の動きを見ていこう。