永禄八年の動静と永禄九年の中郡戦乱

date: 2023-06-15

永禄八年(1565)

永禄八年(1565)は室町時代の末期にあって 重大な事件が発生した年である。
兄源七郎が十五歳 与吉が十歳の頃合いだ。
藤堂家では源七郎 与吉兄弟の従弟 おとらの甥として新助と藤堂氏の間に新七郎 幼名は不詳 が生まれている。

浅井氏の中郡支配

正月十一日 磯野員昌は多賀大社の神官に対し 七箇条の掟書を発給した。
この掟書の特徴的なのは 敏満寺地蔵院が甲斐武田に祈祷の使僧を遣わせたことを磯野員昌が咎める内容が述べられている。かねて武田信玄は多賀大社に厄除けや安産の祈りを捧げてきたなかで どうやら敏満寺地蔵院が介入し謂わば多賀大社の縄張りを邪魔したらしい。

敏満寺を攻めた長政?

その趨勢は定かでは無いが二月二十五日には長政から大社の社家中へ禁制が発給されている。
東浅井郡志は 最前成敗 について永禄六年(1563)十月の禁制を指すものとして 当時浅井氏の兵が中郡に在陣していたとする。
別の見方をすると浅井軍が永禄八年(1565)の二月末に多賀大社周辺で軍事行動を起こしたことを示唆するようにも思われる。

犬上郡に於ける浅井長政軍事行動は軍記や伝承によるところが多く 史料的裏付けにかける。ただこうした伝承が興味深いのもまた事実である。
久徳史 は浅井三代記 淡海秘録 淡海古説を参考とし 永禄三年(1560)に磯野員昌等が久徳を攻め久徳氏を滅亡に追い込み 永禄五年(1562)九月には久徳氏を後援したという理由で敏満寺を急襲したとある。
しかしこれまで見てきたとおり 浅井が犬上郡に進出するのは永禄六年(1563)以降のことであり こうした史料的裏付けに欠ける。
そうした中で永禄八年(1565)正月の掟書と 二月の禁制は何か 敏満寺攻め伝承 が現実に起きたように錯覚してしまうところがあるが これ以上の論考は留めたい。

中郡支配という観点で見ると このように浅井方磯野員昌が多賀大社 敏満寺へ指示を与えている点は 前年末までには浅井方が犬上郡の過半を支配するところにあったのではないか。それは前年の義治と長政の和睦に依る割譲の可能性もあるだろう。藤堂九郎左衛門が私領を安堵されたのは こうした流れにあるのかもしれない。

pic

敏満寺が襲われた例

ところで室町時代に敏満寺が襲われた例が存在する。
応仁略記 中世における犬上川扇状地左岸の再開発についての基礎的考察–水利復元を中心とした景観分析による地域史研究に向けて / 橋本道範 によれば 応仁元年(1467)六月二十八日に郡司が敏満寺を攻めた描写が見られる。
これは ふもと井水の論 によるもので 橋本氏は犬上川左岸一ノ井と右岸二ノ井の争いに他ならないとし 扇央部 甲良 に城館を構えた京極勢力が犬上川の水利秩序に深く関与していたとする。
敏満寺は京極勢 持清の配下 郡司は多賀高忠か? に放火されるも 山門が訴訟を起こしたお陰で 逆に甲良庄は山門へ寄進された。これが 応仁略記 に見える顛末である。なおこの騒動に関して橋本氏は裏付ける史料は他に見当たらないそうだ。

ここで注目したいのは相論の帰結として敏満寺が燃やされた点である。
何分理由もなく寺院を焼くことは中世と言えど有り得ぬことで 江戸時代の軍記等にある 加勢をしたから燃やす というのは中世の論理に合わないのではないか。
そうしたところでいけば 多賀大社と敏満寺の争いの帰結として浅井軍が敏満寺を襲うことは中世の論理に合っているように思われる。
何れにせよ史料的裏付けに欠けるものであるし 何より久徳氏との関連も不明である。
こうしたところで敏満寺新谷氏の系図が浅井長政の行為を伝承するが 馬部隆弘氏は同系図は 椿井文書 椿井政隆の創作 偽書 であるとしているから注意が必要である。

永禄八年(1565)の出来事

この年の大きな事件は五月十九日に発生した義輝殺害事件であろう。その原因などは現状定かでは無いし そうしたところについては諸兄が論じているので そちらを読んで戴きたい。

足利義秋の避難

近江に関係することと言えば 義輝の弟 一乗院覚慶僧都が幕臣細川藤孝や和田惟政の手によって七月二十八日夜に奈良を脱出したことで 甲賀の和多カ城 多聞院日記 を経て 六角家の支配下 矢島に辿り着いた。
これにより六角承禎 義治親子は次期将軍になり得る一乗院覚慶僧都を保護することになった。かつて六角定頼が朽木や坂本に避難した足利義晴 義藤 義輝 親子を保護 庇護した例を思い起こす。北郡に謀反を起こされても 家臣の内訌があっても 六角親子の存在は三好勢力と対抗出来る京都に近い最大の勢力として 覚慶を支える幕臣たちは判断していたのであろう。結果的にこれは過大評価であった。
確かに覚慶は翌年二月に還俗し義秋を名乗り 矢島から各所へ御内書を発給しているが それ以上の行動は出来なかった。

浅井・六角の動き

ところで永禄八年(1565)の浅井長政 六角親子の動向というのは僅かで 空白が多い。
例えば遺文を読むと 五月十一日の望月吉棟宛書状 九〇四 六角義治 の初見となり 同日までに義弼は義治と名を改めていたことがわかる。
対して浅井長政は多賀大社への禁制を除くと 十二月二十日に沖島惣中に船の上下を許し矢銭を免除 二十九日には観音寺の寺領を安堵している。
概ねこれだけである。しかしながら浅井長政が沖島に矢銭を課している点は大いに興味深い。沖島はかつて六角の重臣池田氏が大きく影響力を有してきたが ここで浅井長政が大きな権益を獲得したことが理解できよう。池田氏は前年に内訌を起こしていたが その隙を浅井が突いたのだろうか。
北郡には大浦 菅浦 塩津をはじめ 尾上 早崎 八木浜 中島などの湊が存在し 永禄年間には坂田の朝妻筑摩や磯 松原などを獲得したと思われる。そうした数多の諸浦 を抱える浅井が 琵琶湖の廻船を担う沖島に影響力を及ぼすのは自然だろう。

永禄九年(1566)

源七郎十六歳 与吉十一歳のこの年 膠着していた情勢が大きく動いた。浅井長政の南侵と足利義秋を巡る戦塵であった。

布施山を巡る争乱

正月二十二日 本願寺の顕如は六角家中の 布施山御進発之儀 尤珍重候 遺文九一三 と認めている。どうやら正月の早くに家中で布施山を巡る争乱が発生していたようだ。
布施山は蒲生郡にある重臣布施氏の本拠地とされ 広橋家の家領であった羽田は山の北西部に位置している。
その原因から六角の敵となった勢力は定かでは無い。布施山を巡る争乱であることから重臣布施淡路入道公雄が反旗を翻したとする説も見られるが 一次史料からは確認出来ない。

pic

高島郡調略

既に様々なところで述べているが 四月十八日には浅井長政は高島郡の山徒西林坊 定林坊 宝光坊を誘引している。

饗庭について

以前 饗庭三坊調略 と説明したが 地域名称としての饗庭が登場するのは天正以降のことである。
しかし古く海津の饗庭氏が同地にも権益を有していたことは確かで 饗庭昌威氏所蔵文書を調査した水野章二氏によって 享禄二年(1529)十二月に霜降の定林坊が借財に苦しむ饗庭又三郎秀頼から 比叡新荘内とそれにともなう所務帳などを買得したことを明らかにしている。
饗庭氏ついでに述べると高島太田神社に天文三年(1534)の鰐口寄進者に 饗庭対馬入道覚音 という名前が見える。
饗庭秀頼の没落後も 饗庭氏は高島郡の中心部で活動を行っていた形跡が見えるのだ。最も対馬入道覚音と定林坊をはじめとする山徒の関わりは定かでは無い。
遺文には十五年後の天文十九年(1550)七月五日 進藤山城守貞治から 饗庭定林坊御坊中 への書状が収録されている。遺文六八一

饗庭三坊

一般的に西林坊 定林坊 宝光坊は 三坊 と称される。
それぞれの関係性は不明であるが 本拠地については史料から理解出来るらしい。
すなわち応永二十九年(1422)の 木津荘検注帳 西林房東 宝光坊西 宝光坊東 という地名が見えるようだ。金田章裕氏の 江国高島郡木津荘域条里プラン 熊谷隆之氏の 木津荘の開発と村落 水野章二 中世村落の景観と環境 によれば 西林房東 一五条二里一六坪 は日爪地区に比定され 宝光坊西 一五条三里二八坪 宝光坊東 一五条四里四坪 は五十川と推定される。
定林坊に関しては その文書が饗庭昌威氏所蔵文書として伝わるために その本拠地が 霜降 であることが理解出来る。

pic

時に高島郡の 三坊 については後の元亀争乱に突然見られる名称で 明智光秀が 饗庭三坊之城下迄令放火 敵城三ヶ所落去候 朝倉始末記に 三方ノ寶仙房 と元亀三年(1572)の争乱に纏わる記述に登場する。
考えてみると幕臣であった明智光秀は 同地が元々饗庭氏が権益を有する地で尚且つ現在は 三坊 が支配することを把握していたのかもしれない。それは朝倉も同様であろうか。

さて水野章二氏は定林坊が 特定の荘園との関わりではなく 荘域を越えた経済活動の中から成長した存在 と説いた。
他の二名も同様の経済によって台頭した勢力で 使者となった千手坊も同様の存在であるかも知れない。
とかく浅井長政は永禄九年(1566)にようやく高島郡の木津荘周辺にまで進出を遂げた。しかしその先 西佐々木七人の筆頭越中家や多胡宗右衛門といった国人たちに どのような対応を見せたのか定かでは無いことによって つまり高島全域の支配には至らなかったと思われるのである。

小川孫三郎理氏の死

遺文には興味深い書状が収録されている。

史料一 三雲新左衛門宛六角承禎書状 蒲生郡志所収永田文書 遺文九一八
去廿三日 小川孫三郎布施山至干壁降攻上 被鉄炮疵死去之儀 若年働無比類者也 然処同日国領孫九郎愁歎之余 成黄泉供奉之思 切腹令自害云々 不便之至 誠以感入畢 定而父孫左衛門愁褒両般之心底察之候 併於彼家忠意不浅之旨 可被申聞候 恐々謹言
    五月廿五日      承禎 花押
   三雲新左衛門殿 賢持

史料二 国領孫左衛門尉殿几下宛三雲賢持書状 切紙 蒲生郡志所収永田文書 遺文九一九
封紙ウハ書
         三雲新左衛門尉
 国領孫左衛門尉殿      賢持
        几下       
今度理氏於布施山討死之儀付而 御子息孫九郎殿成供奉之思被切腹段 希代名誉 感被思召 対私如此被成下御書候 無比類眉目候 併於小川家御忠節 為我等得其意可令申由候 恐々謹言     五月廿五日      賢持 花押
   国領孫左衛門尉殿
          几下

二通の史料から 布施山で鉄砲よる疵を負った小川孫三郎理氏が五月二十三日に亡くなったこと 同日国領孫九郎が殉死したことが理解出来る。
一見すると小川が五月二十三日に発生した戦いで討死したように思われる。一方でそれ以前に受傷した小川が同日治療のかいなく亡くなったようにも思われる。
こうしたところで他文献に判断を求めたいが 残念ながら五月に布施山で合戦があったとの記述は見受けられない。
そうした現状では兎角五月二十三日に小川孫三郎理氏が亡くなり 国領孫三郎が殉死した事実だけを述べるに留める。

さて承禎の書状には 布施山至干壁降攻上 被鉄炮疵 理氏が受傷した様子が述べられている。これが六角家中に於ける初めてとなる鉄砲による受傷 討死の記録である。
恐らく布施山に至り 壁降攻上 というのは 布施山城の壁を 降り攻め たのか 布施山城の壁を攻め上がったのだろうか。
結局はこれだけでは 布施氏を攻めたのか 布施氏の援助で攻める敵と戦ったのか定かでは無い。
寄せ手もしくは守兵 布施氏が鉄砲を所持していたのは興味深い。
考えてみれば畿内洛中で鉄砲による死者は天文十九年(1550)年に起きた細川晴元軍と氏綱 三好軍の戦いにて 三好弓介 長虎 の被官が討死したのが 初見であった。それから十六年経って 近江にも新時代の風が吹いたと言えようか。

小川理氏・国領孫九郎について

両者の関係について幾つかの文献によって異なる内容が見受けられる。
近江蒲生郡志 では国領孫九郎は理氏の 従士 としているのに対し 近江神崎郡志稿 では理氏と孫九郎を兄弟としている。神崎郡志稿は同氏に伝わる系図を元にしているらしい。
しかし実のところは定かでは無い。ただ理氏と孫九郎が十代半ばの少年であったとしている点は共通している。

時に小川理氏は元亀争乱 本能寺の変 関ヶ原の合戦で名高い小川祐忠の一族であるようだ。
神崎郡志稿 によれば小川祐忠は孫一郎 土佐守と称したという。
小川は後に池田氏と同様に豊臣秀長に仕える 附けられる? ことで 高虎とは同僚になる。他に小川壱岐守や小川左馬助も天正以降の史料に見られるが ここでは割愛する。何れも小川一族であるが それぞれの関連性については不詳な部分がある。

pic

蒲生野の戦い

七月二十九日 蒲生野に北中郡の軍勢が進軍した。これを 蒲生野の戦い と呼ぶ。この戦いは山中文書に 浅井氏陣立 として遺ることから今に伝わる。当時の近江にしては珍しい 具体的な軍事編成が細やかに述べられた史料である。これは東浅井郡志に収録され 遺文では九二一号文書として載る。

蒲生野陣立書
    北中郡人数於蒲生野相立次第事
 舟岡山之さきより
一番       山崎    布施在所義は畠まで山崎手ヘ首一ツ取候
二々       前田 赤田 高宮
三々        堀     今井
四々        磯野丹波
五々       狩野 三田村 浅井 越中 河毛
浅井備前守ハ小幡 同馬廻さきハあての木 町屋辺
申刻ニ四十九院江 浅井ハ打入候 磯野丹波ハはちめに在陣 其外諸勢愛知川辺
蒲生野江北衆出候人数ハ 八手余可在之と申事 浅備馬廻ハ此外候事 国中衆之次第 一番三上 恒安 池田衆 平井 定武 人数 都合二千余
上羽田放火時手向次第事
池田衆ハ布施之請手 三上は放火衆 平井ハ内堀屋敷之請手
内堀屋敷より平井手へ鉄炮放 人数も少々出候へハ 平井衆あしくに候つるを 三上衆すけ申て手負四五人在之候事
 七月廿九日之働 為後見残如此候
    栖雲軒 三上士忠
    □□まいる

とまあ長い栖雲軒 三上士忠 の書状である。
要点を示すと 北郡 中郡の兵が八手で布施山に攻め寄せ 対する六角軍は僅か二千で迎え撃ったという。東浅井郡志は 八手 八千 となっているが 北中郡を含め八千の兵力を動員出来るものか疑問である。
表記揺れであれば二番の 前田 は東浅井郡志では 赤田 となっている。北中郡で前田氏は存じないので 此方は東浅井郡志の 赤田氏 とするのが良いだろう。
浅井 越中 とあるのは 浅井越中守井演 である。

山崎氏・赤田氏

この中で一番 二番を務めたのが中郡の山崎氏 赤田氏 高宮氏である。
山崎は荒神山に近い山崎 高宮は高宮 赤田は下之郷の八町を治めた士とされている。後者赤田氏に関しては通説では八町の者であるとされるが 同じ下之郷の多賀氏や甲良三郷の尼子 藤堂氏との関連性は今ひとつ見られない。
何れにしても東山道 中山道 沿いの土豪である。

このなかで興味深い史料を紹介したい。

赤新兵迄御状拝見申候 赤信無別義旨候條 昨日委細令啓候 赤就其誰々成共可相越由承候 各御馳走儀候間 不及申段候 殊更御起請文之上者 互不足不可有之事候條 旁以不入子細候 山源煩付て不罷出由候 涯分被指寄 一途之儀可為尤候 永々御辛労難申尽存候。猶以無御油断 御調儀此節候 万事期後音候 恐々謹言
    四月八日          淺井備前守
                      長政 花押
    今村肥後守殿
    浅見対馬守殿
        御旅所

これは東浅井郡志と浅井氏三代文書集に収録される浅井長政の書状 南部文書 である。
重臣格の今村 浅見両氏に対し 八町の赤信 赤田信濃守 調略の労を労ったのだろうか。起請文まで取り交わしている。
それまでの彼らが甲良三郷の下之郷にて どのように歩んできたのだろうか。
この頃の多賀氏や藤堂氏が北郡 仇敵の浅井とどのように向き合っていたのか定かでは無く 無根拠ながら北郡は甲良三郷を構成する赤田氏を切り崩しているように思われる。赤田氏のみならず甲良三郷の諸氏や 周辺地域の土豪も交渉が行われたのか定かでは無い。
その一方で 山源 これは山崎氏の源太左衛門片家と 賢家 される人であろうが 彼は 煩付て不罷出由候 と穿った見方をすれば サボタージュ しているようにも思われる。同じような態度を取った者は他にもあったかも知れない しかし結局は山崎は一番手を命じられてしまった。

長政が述べているように今村と浅見の交渉は長く続いたようで 四月八日以降も山崎との交渉が続いたようにも感じられる。
充所の 御旅所 は判然としないが 高宮や関係が深い一向宗の四十九院道場近辺であろうか。

その他軍勢

三番の堀 今井 四番の磯野は何れも境目の衆である。興味深いのは 通説で先手の大将と説明されることの多い磯野員昌が 四番手であることだ。ここから攻める地域に近い勢力が先手を務めることが理解出来る。
こうしたところで 北中郡 とされるのだから 家格でも勢力でも誰よりも多賀氏や尼子氏が大きいように思えるのに 彼らの名前は見られない。無論藤堂氏もどのようにしていたのか定かでは無い。


便宜的に甲良三郷 尼子多賀藤堂も記してるが 彼らがどうしていたのかは定かでは無い。また作図の都合上 尼子と藤堂は実際の館跡地ではなく 少々ずらしている。

pic

戦いの流れ

ここで東浅井郡志の解釈をもとに戦いの流れを見ていきたい。
まず先鋒の山崎等は 舟岡山之さきより 布施山へ迫ったようだ。浅井長政は舟岡山から北に観音寺城が近い小幡 五個荘 に陣を張った。観音寺城の眼前に八千の軍勢がぞろぞろと居並ぶ様な形であろうか。

対する六角軍は上羽田を放火し 池田衆が布施を引き受け 三上は放火に徹する。平井は 内堀屋敷 を引き受ける。
平井が引き受けた 内堀屋敷 には 北中郡の先鋒が既に居たのだろうか 内堀屋敷より 平井手へ鉄炮放 と銃撃を以て迎え撃った。
銃撃に平井勢は悪しくなり それを見て三上衆が援護した。手負いの者が四 五人発生したそうだ。また 山崎手へ首一ツ取候 とあるのは 三上衆が山崎勢の一人を討ち取ったのだろうか。

斯くして北中郡の軍勢は劣勢となり 浅井長政は申刻 午後四時頃 に四十九院へ 打ち入り 磯野丹波は八目に 在陣 其外諸勢 は愛知川まで退いたという。この北中郡勢が退いたとするのは東浅井郡志の解釈であるが 宮島氏は文の通りに解釈をする。つまり浅井長政が四十九院 磯野員昌が八目に在陣し その他が愛知川に陣したとするものだ。

整理

三上氏が述べているだけあって 三上氏の活躍が目立つ。
そのなかで 池田衆ハ布施之請手 とあるのが目を引く。そもそも 請手 の意味が今ひとつ判然としない。私は現代に多く用いられる 引き受ける とする意味合いで解説を行ったが これが正しいのか今ひとつわからないところがある。布施氏が北郡に通じたとする通説を踏まえると 彼ら六角方が布施山や上羽田の内堀屋敷を攻めたことになるが こればかりはよくわからない。
また六角方が後藤氏の本拠地に近い上羽田に火を放ったのは興味深い点だ。
このように蒲生野の戦いは何を目的としたのか 勝敗も判然としない。しかし北中郡勢が愛知川を越え六角方の懐深くまで進軍したこと 鉄炮を用いていた点などのように興味深い点が多く見受けられる。

pic

八月の戦い

なおも北郡勢は六角方への攻撃を激化させた。
東浅井郡志に依れば八月十三日に某所で起きた戦いで 若宮左馬助 が討死し 閏八月十三日には浅井長政から遺族に対し感状が発給されている。
蒲生郡志には同閏八月十三日付で 仍山城守 進藤賢盛 今日帰陣候 とある左右神社文書 神藪六兵衛定信書状 が載るが これは遺文には見られない。

年次不明の戦い

さて九月までに起きた北郡方と六角方の戦いというのは 多賀町史 にも見ることが出来る。
町史の説明に依れば 永禄四年(1561)頃の八月二十九日 馬場宗左衛門頼景が屋守城 対杉立親子 の戦いで苅間の三嶋氏を討ち捕る武功を挙げ 九月五日に長政から感状 高宮右京亮宗存 権九郎 豊宗の子 の副状が発給されたという。
屋守敵立籠候処 為啓被馳向三島被討捕候 誠高名之段無比類 長政感状
去月廿九日 屋守攻破刻令粉骨 於手前三島討捕無比類働高名是非候 副状
以上がそれぞれから抜粋したものである。

何より町史は永禄四年(1561)頃とするが ここまで見てきたように浅井が中郡に権力を及ぼすのは永禄七年(1564)以降である。屋守 矢守 も苅間も 宇曽川の南岸 愛知川の北岸と両河川に挟まれた地域にあり 同地で合戦が起きたのならば 愛知川を越える軍事活動を行った端緒とも言うべき永禄九年(1566)に他ならないのではないか と考え当年の項に記載した。
なお杉立氏は磯野員昌史料に 杉立町介 が見えることから この戦い以降に浅井方へ降った可能性があるだろう。また愛智郡志によれば 三島 は杉立氏の重臣 満島孫市 であるというが その論拠は定かでは無い。

先の若宮左馬助の討ち死からもわかるように 蒲生野以降北郡方と六角方は中郡を舞台にして戦いを繰り広げていた可能性がある。

pic

足利義秋の上洛失敗・脱出

斯様な南北争乱の最中 矢島御所の義秋は上洛へ向けて動き出していた。
そこで頼りとしたのは未だ美濃すら攻略出来ていない尾張の織田信長で 空手形を信じきっていた義秋以下幕臣一行は伊賀の国人へ 上洛の目処が立った としていた。
しかし織田信長は美濃攻略を果たせず それを知った三好三人衆は足利義秋一人への対応に集中することが出来た。
多聞院日記は斯く記す。

閏八月三日条 去廿九日夜 上意様 義昭 ハ矢嶋ヲ御退座 若州御動座了 三人衆六角方と申合謀叛之故ト云々 浅猿々々 若狭も武田殿父子及取合乱逆と云々 いかゝ可成行哉

八月二十九日 なんと六角は三好三人衆と結び 義秋に対して謀反を起こしたという。それを受けて義秋一向は夜間矢島を脱出し若狭へ逃れた。

この混乱の中六角定頼の妻 承禎の母 義治の祖母が亡くなった。閏八月二十七日には顕如が 慈受院御遠行 について承禎へ書状を認めている。遺文九二二

江州大合戦

慈受院の死から四十九日も済んでいない九月九日 村井 六角定頼 近江で南北の合戦が起きた。その場所は定かでは無い。
その直前九月四日に承禎は山中大和守の遅参を咎める書状を発給している。遺文九二三
果たして甲賀の山中勢が間に合ったのかは定かでは無いが この戦いで六角方は重臣三雲新左衛門賢持 遺文九二四 参考 10 高野瀬兄弟 遺文参考 10 を喪ったという。
高野瀬兄弟について愛智郡志所収の過去帳には見られない。また東浅井郡志は高野瀬兄弟の討死から この合戦が肥田城を巡る争乱ではないかとの見解を示している。

永禄九年記 は斯くの如く記す。
九月十三日 去九日江州大合戦打死人数三百計南衆打死云々

一方で浅井方は大勝利を遂げたにもかかわらず この合戦に纏わる史料は皆無である。

赤田屋敷普請

東浅井郡志は嶋記録所収文書から年次不明九月晦日付 嶋若狭入道宛赤田信濃守興書状を 同合戦に纏わる史料として掲示している。
この中で赤田は 今度者 我等身寄之者 不慮之働付 御国之御造佐彼是手前失面目候 身寄りの中から六角勢に通じた者が居たことを報告している。しかし 然処各依馳走 員昌御在陣外聞実儀大慶候 殊更屋敷普請早速出来 別而内々得御指南候之処 種々御懇意難忘候 員昌が在陣し 屋敷普請をはじめ指南を受けたことに感謝している。宛所の嶋氏は今井党として磯野員昌の配下にあったので 赤田もその関係で謝意を伝えたのであろう。

合戦の地域

こうして検討を続けたところで江州大合戦と呼ばれるものが 何処で起きたのかは定かでは無い。
前後の史料 幾つかは持論に沿った恣意的な解釈となるが 何れも宇曽川から愛知川の流域での出来事だ。
そこから江州大合戦が同地域で起きたと類推するのは自然であろう。この年の争乱は中郡を舞台にしたものであったと思われる。また次回に述べる内容でもあるが 翌永禄十年(1567)三月には磯野員昌が知己の吉田兼右に対し目賀田城 肥田城 佐和山城の鎮守の為に 鎮札 を調えるように依頼している。つまりこの合戦の後に目賀田城 肥田城が北郡 浅井方のものと相成っていたのである。
そのようなところで 高野瀬兄弟 が討死したことが史料 遺文参考 10 智光院頼慶覚書 に見られることは興味深い。ただし同史料は村井祐樹氏によって内容に検討を要すマークが付けられているから 十割鵜呑みにすることは禁物であろうか。最も高野瀬氏自体は翌永禄十年(1567)六月には六角軍に名を連ねており 城を捨てて観音寺へ逃れたか 高野瀬一族の中に南北で敵味方に分かれたのだろうか。

pic

さて同地域で起きた戦いでは浅井長政の鮮烈初陣として名高い 野良田の戦い が有名であろう。最も野良田の戦いは一次史料に認められないものであるが それでも合戦が実在したと考えるのならば 江州大合戦に当て嵌めても考えるのも良いだろうか
最も軍記に見られる 野良田の戦い というものは高野瀬氏を救援する文脈で語られる。それが智光院頼慶覚書とは異なる点である。

その頃の藤堂氏

くどくどと述べているように 藤堂九郎左衛門は浅井長政によって私領を安堵されている。その日付は九月二十一日のことで それは年始から始まった中郡の争乱が一段落した頃合いである。
特に 蚊野常学坊 という私領は争乱の舞台となったと考えられる愛知郡と思しき地名であるから 一連の争乱との結びつきを考えるのは当然であろう。
仮説を述べるのならば それまでの六角と浅井の堺目にあった甲良三郷は 一連の争乱の帰結を以て浅井の勢力下に転換した。浅井としても境目の土豪 それも旧京極有力被官であった甲良三郷が従うことは境目 前線防衛を固めることになるから 私領の安堵という無条件を呑んだと見える。
このような交渉は その後の藤堂高虎との縁を考えると磯野員昌が行った可能性も考えられよう。

永禄九年(1566)、その後

承禎が山中氏へ三雲新左衛門の討死を告げる書状を発給した九月二十日 小松庄種徳寺が大破に及んだことについて 某康明と蒲生定秀が 小松庄伊藤同名中 へ指示を与えている。遺文九二五 十月から十二月にかけて浅井長政は竹生島への徳政に関連する政治を行っている。

戦後の近江は静けさを取り戻した。しかし 取り戻したように見えるだけ であり 六角家中で進藤氏と後藤氏の間に借銭をめぐる相論が発生していた。遺文九二〇
そして何より六角方は南北の争乱 南北楯鉾 が終結していない認識を持っていた。手痛い敗戦 家中の相論を抱えながら 六角家中は家臣の指導で改革が進められていくこととなる。