藤堂高虎と元亀争乱(二)姉川の戦い

ここまで姉川の戦いに至る道を述べてきた。
いよいよ近江を代表する 姉川の戦い が始まるのでが 同合戦については古今東西語られるところであるし 近年では太田浩司氏が奇襲説を唱え 本稿で下敷きにしている佐藤圭氏の論文でも主題として触れられているから わざわざ私何ぞが触れる必要も無かろう。

敢えて触れるのであれば 信長は日程も決めてまで浅井征伐を目論んでいたのに小谷城撤退戦と横山城攻めの二度にわたり 背中を見せた挙げ句奇襲されるというのは 何だか らしくない と思う部分もある。

本稿の狙い

巷間同合戦に参じた浅井方というのは明確な史料に依らず 概ね 甫庵信長記 浅井三代記 の記述を頼っている。
残念なことに大日本史料をオンライン上で閲覧出来る時代にもかかわらず 未だ江戸時代の軍記とそれらを元にした小説や刊行物の影響は根強い。
また太田氏や佐藤氏によって合戦の実のところが明らかになりつつあるが この合戦にどのような近江国人が参じていたのか迄は明らかにされていない。
本稿はそうした既存研究の不十分な部分に微かな光を当てると同時に 果たして藤堂高虎は姉川の戦いに参加することが出来たのかを検討するものである。

姉川の戦いに於ける浅井方兵力の検討

根本として浅井方はどのような顔ぶれがあったのだろう。
合戦で浅井 朝倉勢は多く 言継卿記で九千から五千 信長記で千百あまり 討たれたが 戦後の感状や 原本信長記 などから 誰が戦場に散ったのか その一端を知る事が出来る。そこで今回はそうした史料から浅井勢の内訳を考えてみたい。

郡志に見る死者

まず 高野山浅井家過去帳 東浅井郡志 には討死した遠藤直経の戒名が記されている。既に遠藤について解説は行っているから詳細は省くが 彼は織田方の手に落ちた長比にほど近い須川の出身である。実は嶋記録によれば宇賀野にも屋敷があったとされるが 今一つ確証も無いし 既に須川と定めてしまった固定観念から割愛している。

他に 成菩提院過去帳 坂田郡志 に七月二十四日竹腰久右衛門道永が戦死とある。坂田郡志は大原支流の竹腰氏信が姉川戦前 信長の戦禍に没せしとする。曖昧ではあるが一応姉川での戦没として記しておく。

感状から考える兵力

次に感状をリストにして見ていこう。

日付宛名差出内容出典
七月五日嶋宗朝磯野員昌籠城感謝島記録
七月十日島新右衛門磯野員昌感状 野村表島記録
八月四日垣見助左衛門浅井長政知行約状三代文書
八月五日渡辺周防浅井長政感状 辰鼻表三代文書
八月□日付小之江彦六浅井長政感状 辰鼻表三代文書
九月五日雨森菅六磯野員昌感状 野村表 兄次右衛門討死東浅
翌年五月五日阿閉甲斐守浅井長政感状 辰鼻表 子息五郎右衛門討死三代文書

この中で雨森次右衛門 阿閉五郎右衛門が討死。島一族 垣見氏 渡辺氏 小之江氏 雨森氏 阿閉氏が従軍していたことが窺える。
このうち島氏は坂田郡 残りの諸氏は北郡の将士となる。
また島氏と雨森菅六は磯野員昌の配下として戦ったと思われる。
なお嶋宗朝宛書状では元亀元年 新右衛門宛書状では永禄十三年としているが これは何れかが後世の改変と考えられる。
員昌は九月五日の雨森管六宛書状にて 元亀元 としており 新右衛門宛が嶋記録編纂の過程で改変されたものと推測する。

雨森氏

雨森次右衛門は高島計略で活躍した人物で 西島太郎氏に依れば諱を 清能 というらしい。また代々名主として渡岸寺 高槻 に居住していたようだ。弟の菅六は十六歳で諱を清次といい 紆余曲折を経た後に藤堂家の重臣となった渡辺勘兵衛に仕官している。西島太郎 松江藩の基礎的研究 Ⅳ松江藩士への道 第九章戦場の目撃証言
恐らく天文初頭下之郷合戦で討死したと言われる雨森弥兵衛の一族と思われる。

この感状で気になるのは磯野員昌から発給されている点で 九月五日は佐和山城籠城中の出来事である。文中 従是長政前申究可置候 とあるが これは実現されなかったと思われる。
彼は磯野の与力や内衆的立場にあったのかもしれない。
なお大日本史料では 雨森藤六 となっているが 東浅井郡志では 雨森菅六 である。西島氏も菅六としており それに従った。

阿閉親子

討死した阿閉五郎右衛門の名は 菅浦文書 一二三六 包紙断簡 にて 某年菅浦惣中へ書状を発した 阿閉五郎右衛門尉清房 が見える。最も年次が不明であるため 清房が討死した五郎右衛門と同一であるのか定かでは無い。
また雨森氏や赤尾氏 月瀬氏には諱に が入る人物が居り 五郎右衛門清房も同様のパターンとなり興味深い。京極高清の偏諱だろうか。

阿閉甲斐守と討死した五郎右衛門親子の一族が山本山の主 阿閉貞征と見られるが 彼は浅井久政の相婿と相成る。つまり重臣格の一族が犠牲となったと思われる。

渡辺周防守

渡辺周防守は諱を任といい 渡辺勘兵衛の養父とされる人物だ。
任の妻は阿閉貞大の娘とか 井口氏と言われているが 勘兵衛の妻が阿閉氏と言われているので 恐らく任の妻が井口氏と考えるのが自然かもしれない。勘兵衛から見ると周防守任は父のいとこに当たる。任の父と勘兵衛の祖父が兄弟

小野江彦六

小野江彦六は山本山の西にある尾上浦の人物であろう。
同地の尾上城は浅見対馬守が治めていたとされるが 彼の与力であったのか定かではない。ちなみに尾上の地は 江北記 にて反上坂国人の蹶起と京極六郎擁立の舞台として知られている。
特徴的なのは感状にて 委曲阿閉万五郎 渡辺周防守可申述 とある点で 縁者である貞大 任が長政の取次を担っていたことが窺える。

垣見助左衛門

垣見助左衛門は京極六郎の乱が勃発した際も浅井久政方を貫き 太尾城を巡る攻防では与力で一族の垣見新次郎が赤尾新兵衛に取られた一件で浅井長政に訴え出た経歴を持つ人物だ。
ふるさと長浜 の垣見氏項によれば 垣見氏は姉川南岸の宮川 今の宮司 の一族であるらしい。
助左衛門はその後も浅井長政に従い続け 元亀四年(1573)には籠城忠節を労う感状を賜っている。

信長記に見る討死人名

信長公記 には浅井雅楽 齋之助 狩野次郎左衛門 次郎兵衛 細江左馬助 早崎吉兵衛の六名が記される。こちらも北郡の将士となる。

浅井氏

浅井雅楽 齋之助は浅井一族の将士と思われるが 詳細は不明だ。

狩野氏

狩野氏は天文二十四年の多賀大社梵鐘に 狩野弥一 永禄二年(1559)兼右卿記に 狩野勝六 永禄九年(1566)の蒲生野の戦いにて 五番狩野 三田村 浅井越中 河毛 に名が見える。
次郎左衛門 次郎兵衛は彼らの一族だろう。

三田村や浅井越中守井演に先んじて名前が載るというのは 彼らも長政に重用された可能性もあろうか。
西島太郎氏の 戦国期近江多賀社の勧進と奉加者―天文二十四年銘梵鐘の研究 に依れば 永禄十二年(1569)に浅井氏奉行人に 狩野上野守助光 がいるそうで 菅浦文書 奉行衆なら三田村などに先んじて名前が載ることも理解出来る。
また古く明応二年(1493)に難波牛頭天王社へ田地を寄進していることから 西島氏は 難波村かその近くの土豪 としている。

細江左馬助

細江左馬助は相撲の北 川道の南に位置する細江の士と思われる。

早崎吉兵衛

早崎は尾上の南 八木浜や川道の北に位置する早崎浦の士であろう。竹生島への渡場としても知られ 後に秀吉の代官として早崎家久が活躍するが 彼は吉兵衛の一族と考えるのが自然だ。更に彦根藩には同名早崎吉兵衛が仕えたとあり 三名は同じ系譜であるのかも知れない。

宗徒

原本信長記 では早崎に続いて 此外宗徒之者 千百余討捕 とある。
小和田哲男氏は 近江の城下町 のなかで 明らかに一揆勢が浅井 朝倉連合軍に加わっていたことが知られる としている。
ただ太田牛一は宗徒の表現について 天正十年(1582)に織田信忠主従が滅ぶ際に 御一門歴々宗徒之家子郎党等 史籍集覧 19 信長公記 とも表現している。これは明らかに家臣を指す 宗徒 である。
つまり土地柄十ヶ寺と呼ばれる本願寺派の有力寺院が存在するから 一向一揆 を指す 宗徒 もしくは単純に浅井家中を指す 宗徒 という二つの可能性を考えることが出来る。

嶋記録に見る浅井方兵力

感状の部で島氏に触れたが 有り難いことに島記録には姉川で討死 手負い 高名の名が列挙されている。
これは嶋若狭入道が当時記録したと付記があり それなりに信用出来る史料とみている。
ここに記される人名は概ね坂田郡の者と見られる。

まずは討死の仁を見てみよう。

名前備考
田那部満牟介式部息 遠藤直経甥
河口新十郎若州子 養父與助 嶋若狭甥
嶋勘左衛門飯村住人
細見満介田那部式部甥
河瀬七介常喜住
大澤清右衛門山中衆
丹下新五郎
河尻孫右衛門
田那部源右衛門
伴藤助三郎伊か
森野一右衛門ミノ浦住
北村與介
遠藤與太郎

丹下新五郎について次のように付記されている。

感状衆四人之内にあり 手負い候て以後 果て申し候かと存じ候 宇ノ善之ヂイ也

野村合戦討死上下三十人内侍分書付申候。此外又若黨 中間等略之 とあり 以上十五名の他に奉公人十五名が犠牲になったことが窺える。
滋賀県中世城郭分布調査報告に依れば森野 河口は箕浦に居住した土豪 丹下は箕浦の対岸 西円寺の者という。

次に手負いの仁を見る。

名前備考
嶋久右衛門
伊藤十介鑓疵 梅ヶ原衆なり
河口平五
井戸村與介
井戸村又右衛門太刀疵二ヶ所
池勝介太刀疵
宮路源右衛門鉄砲疵
藤井藤二郎藤五郎甥
田中市右衛門
岡田喜介

嶋久右衛門については次のように付記されている。

鑓疵鉄砲疵合三ヶ所 但従戦場小谷へ入城 同八月十七日南浜より船にのり すくに籠城 為嶋権左衛門父也|

続いて高名衆を見る。

名前
嶋四郎左衛門
浜彦八
河尻孫次郎
田那部式部丞

嶋四郎左衛門について次のように付記されている。

四郎左衛門高名 於戦場丹州に頸見せ 又小谷にて首実検に入り申し候事 後々まで磯丹誉被申候 忠左可承候由被申候 感状うせ申し候

この他に 同合戦留守居衆付籠城不詰帰衆 澤山籠城被相詰衆之事 無籠城人数之事 のリストも載るが 本筋とは関係が無いので割愛した。籠城衆には井戸村氏などの名前も載っている。
また永禄年間に赤田信濃守與から嶋若狭入道に対しての書状が載るが その説明として 信州姉川合戦二討死と見へたり 赤田信州姉川合戦小谷衆ノ内二在 と叙述するが その論拠が定かでは無い為に除外した。

今井家中

嶋記録は今井氏に仕えた嶋氏に関する史料を中心としたものであるから 当然今井氏に従う土豪たちの名前が並ぶ。また彼らは取次 指南役 長谷川裕子 戦国期畿内周辺における領主権力の動向とその性格 である磯野員昌と共に戦っていたと考えても良い。
この中で興味深いのは嶋久右衛門 四郎左衛門の記述で 久右衛門は一度小谷へ帰り籠城に加わった点 四郎左衛門は小谷にて首実検があったとしている。
どの程度まで信憑性があるのかよくわからないが 戦後の織田軍は横山城を奪取しただけで まだこの当時は姉川以南の完全な掌握というのは果たせなかった事 佐和山城の包囲も湖上では不出来だったことなどが思い浮かぶ。

甲賀衆の関わり?

大澤清右衛門 山中衆 に関して 戦国大名の支配権力の形成過程 横山晴夫 國學院雑誌 は甲賀の山中衆との見解が示されている。
浅井長政は永禄十一年(1568)に甲賀へ手を伸ばしていたし 甲賀は当時六角承禎を戴いていたので かつての調略と争乱の中心にあった承禎の思惑による援軍という側面があったのだろうか。
また 伴藤助三郎 なる人物も記されているが 彼も甲賀伴氏とも考えられようか。ただし東浅井郡志では 伊藤助三郎 の可能性も示唆されており その場合は梅ヶ原衆伊藤十介と同族であるかも知れない。

浜氏

浜彦八 なる人物は少々興味深く 後に藤堂新七郎の家士として登場する 浜市右衛門 との関連がありそうである。浜氏は島記録の籠城名簿に彦八と共に 浜丹後守 なる人物が記されている。

浅井方兵力図

以上北郡や境目地域から姉川の戦いに参じた面々と相成る。
信頼出来そうな史料から見る討死数は二十数名となる。
これらを大まかかにわかる範囲で地理院地図へプロットしたものが次の図である。
黒×は討死 赤丸は感状手負い高名衆

pic

御覧のように 浅井勢力下に満遍なく散らばっている。当たり前と言えば当たり前である。
残念ながら史料的制約によって北郡の山側や江濃国境には点が見られない。伝わる死者数からすれば 地図上が黒で埋まると考えている。

磯野員昌・遠藤直経の活躍に関する考察

ここからは姉川の戦いに関わる疑問点を考えてみたい。

私はこの戦いで浅井勢の先駆けを務めたのは 磯野員昌と遠藤直経の両名であるように思っている。
何より磯野員昌隊の勇敢さが後世逸話として語り継がれている点 遠藤尚経の墓は織田勢の深くにあり 逸話として信長本陣に乱入したと語り継がれている点が要因として挙げられる。
両人を結びつける存在が今井家中で 直経はその重鎮田那部式部と義兄弟であり 員昌は家中を指南 取次する立場で 今井家中があってこそ佐和山城主として成り立っていた側面もあろう。

遠藤直経の動機

かねて述べているように遠藤直経は旧京極本拠地域の出身であり この当時郷里は係争の地となっていた。ただでさえ義昭 信長によって顔に泥が塗られていたのに それに加え堀 樋口の離反などに依って面子を潰されていた。戦への動機と熱意は十二分にあっただろう。

磯野員昌の動機

対して磯野員昌はどうだろうか。
まず既に述べているように今井家中と堀 樋口は縁戚として深い仲にあった。それ以外にも堀の鎌刃は佐和山城と対となる境目の要衝で 此方も員昌と関わりが想起される。
彼が城主として君臨する佐和山は江濃国境のなかで中 南郡側の出入り口となる。既に両郡の反織田勢力は弱体化しており 刈安尾 長比が突破され横山が敵の手に落ちた場合 次なる攻略目標が佐和山になることは必須であった。
横山城が奪取されると姉川以南が織田の手に落ちると同義であり 佐和山と小谷の連絡が遮断される。員昌にとっても存立危機事態であった。

今井家中の動機

今井家中の面々は浅井亮政の時代こそ反浅井であったが 紆余曲折を経て親浅井勢力として活動していた。
定清の具足は浅井家からの品であったり 娘婿が三田村氏であるなど 何かにつけて浅井氏の世話になっていた。
時に織田勢を招いた堀 樋口は今井家中とも関わりが深く 堀次郎は今井小法師丸と従兄弟同士であり 樋口三郎兵衛も田那部式部と従兄弟同士であったと嶋記録は述べる。
このように境目地域で一体的であった筈の堀 樋口が呆気なく離反したことは衝撃的であったと見える。
逆に考えると よくぞ樋口三郎兵衛は織田方へ転じる決断が出来たものである。

行動

ところで姉川の戦いに於ける員昌の行動については 高島郡司磯野員昌 でも述べたとおり少々気になるところがある。
何より彼はどのようにして佐和山城へ帰還したのか というところである。巷説員昌は合戦に参加していない等と囁く向きもあるが それは既に挙げた感状から否定されよう。こうしたところで 島記録 の叙述を見てみたい。

小法士丸をハ磯丹州居城沢山へのほせ置 家中ハ小谷へそ参ける 同六月廿六日 姉川合戦にも 今井か勢ハ磯野か手につき 粉骨をぬきんて 敵の中を懸ぬけ おほくハ沢山の城へたて籠り 又ハ小谷へも打入けり

以上どこまで事実か定かでは無いが このようにある。
ここで注目したいのは 敵の中を懸ぬけ とある点で 地図で見ると確かに敵中を突破せねば佐和山城へ帰ることは出来ない。
つまり後年語られるところの磯野員昌の突撃というのは 或る意味島津の陣中突破にも似た要素と 攻撃と帰陣を兼ねた行動の様にも感じる。
他に突飛な発想をすると 員昌等は佐和山城から出撃し織田軍の背後を衝いたという考えは如何だろうか。

遠藤直経の行動は如何であろう。
彼の墓は織田陣中の深いところであったと思しき地にあるとされるので 恐らく員昌同様に敵陣へ突撃をしたのだろうと思う。
地図だけ見れば天野川流域にさえ出てしまえば 宇賀野でも須川でも 帰陣 は叶うのである。

結論姉川の戦い

最も史料に欠ける状態では何も論じることが出来ない。
結局のところ この戦いで浅井長政は遠藤直経をはじめ二十数名の将士 数多の兵を亡くし 姉川から江濃国境を失い 横山城を奪われ 佐和山城は織田勢によって囲まれた。

藤堂高虎、中郡の人々と姉川の戦い

以上浅井方の兵力を考えてきた。
ここからはようやく主役である高虎の登場である。

初っ端から申し訳ないが 藤堂高虎が姉川の戦いに参加していたとしても それが何方の立場であったのか定かでは無いとするのが 本稿の結論である。
それは佐和山以南 中郡の勢力が元亀元年(1570)六月当時どのような立場にあったのか これを裏付ける史料に乏しいことによる。

参戦したと思しき中郡の人々

調べた限りでは中郡から参戦したと思われる人名は高宮宗之と野木弥八郎の二名である。
野木は愛智郡誌の 高野瀬氏家臣戒名一覧 に依る。
命日が六月二十八日の 野木弥八郎定兼 は姉川の戦いで討たれたとある。

高宮宗之は高宮氏系図 高宮城跡Ⅲ発掘調査報 にて六月二十七日に卒した 高宮宗之 が見られることに依る。但し彼の命日は戦いの前日となり これは表記揺れに依るのか前段階の戦いで命を落としたのか定かでは無い。

二名の立場

結局のところ彼らが何方側であったのか定かでは無い。

野木弥八郎は高野瀬の家臣であるなら 野洲河原の戦いで主従犠牲になったとも考えられるし 野洲河原で敗れた後に降参して織田方として参戦した もしくは反織田の意志を貫き浅井方へ転じた 両方が考えられる。

高宮氏に関しては 甫庵信長記 に磯野丹波守に従う兵の筆頭に 高宮三河守 の名が叙述され 大字大和守 山崎源太左衛門 赤田信濃守 蓮大寺が続く。
勿論同記は江戸時代はじめの軍記であり 鵜呑みにすることは出来ない。大宇氏とは定かでは無いが 河瀬氏の一族で大宇 現在の宇尾 を領したとの説がある。蓮大寺も河瀬一族ゆかりと見られ 今も 蓮台寺 という地名が残る。
最も実のところは定かでは無い。
こうした甫庵の叙述からわかることは 江戸時代の早い頃 既に中郡の人々が佐和山の磯野員昌 そして浅井長政に従っていたとする認識が存在したことであろうか。

久徳左近兵衛

何度も述べているが久徳氏は多賀大社に近く また霊仙山を越えて柏原へ抜ける 霊仙越 美濃へ抜ける 五僧越 の口を本拠とした一族である。彼らは尼子氏の影響を受けて居たことが史料からわかっており また一説には多賀氏の一族であるとも言われている。
一説に永禄の頃に浅井長政によって滅ぼされたと言われ 生き残った一族は六角氏を頼り 彼らが敗れ去ると織田氏を頼り再興を企図したという。最も実のところは定かでは無い。

六月廿六日付信長感状

大日本史料には次のような信長の久徳左近兵衛宛感状が載る。

就今度之忠節之儀 多賀庄 石灰庄 敏満寺領諸入免 右以三ヶ所都合参千石分令支配候 本知新知共分一諸役一圓令免許之状如件
    元亀元六月廿六日        信長 黒印
             久徳左近兵衛殿
集古文書

これは時期的に龍ヶ鼻の陣中にて信長より出された書状である。
今度之忠節 とあるからして 左近兵衛がこの時期に信長のもとへ馳せ参じたのは間違いないだろう。考えると直前に行われた小谷城攻めにも加わっていただろうか。
そして二十六日に彼が龍ヶ鼻にあったことは 二日後に行われた戦いに織田方として参戦したことを示唆する。

藤堂高虎と姉川の戦い

以上久徳左近兵衛が織田方として参戦したとみられること 高宮宗之や高野瀬家中 野木定兼が姉川で討死したらしいことを見た。
この三名が中郡から参戦した人物であるが 高宮宗之 野木定兼の二名が織田と浅井の何方であったの定かでは無い。

そうした中 中郡から浅井方に参戦していたと称する人物が一人存在する。
藤堂高虎である。正しくは遺された家臣たち と言うべきなのかも知れない。

高山公実録の記述

まず初めに高虎没後十年の頃に制作された 藤堂家覚書 では浅井方として参戦した姉川の戦いを初陣としている。

和泉様御幼少之時は白雲様と御一所に江州浅井殿に被成御座候姉川合戦之刻十五に而高名被成其より小谷山三年籠城之内にも度々高名被成候由之事

それから約百年後に制作された藩史 高山公実録 には次のように記されている。

親筆留書 元亀元年六月十五歳にて姉川合戦の刻首取候事
石丸三蔵家乗 高山様江州に被遊御座候頃より格別御懇意被成下御陣中へも御召連被遊姉川合戦之節御馬の口に付添御供仕其頃度々切付御用被仰付三蔵切付ハ水馬に御用被遊候ても水を含不申宜候旨殊の外入御意其後諸家様へも被進に相成申候

実録上で姉川の戦いに関する記述はこの程度で 中でも 親筆留書 藤堂家覚書 と概ね同内容となる。

石丸三蔵家乗と騎馬武者高虎

一方で 石丸三蔵家乗 の記述は興味深い。
文からも読み取れるように 切付 とは馬具の一種で 何でも 水馬に御用被遊候ても水を含不申宜候旨 と姉川のような水場の戦場で三蔵の切付が具合が良かったらしい。そうなると この石丸三蔵というのは馬具職人と考えられようか。アスリートをスポンサードするメーカーは アスリートに製品を提供し使って貰うことが定番であるが 石丸三蔵と高虎の関係も似たようなものであったのだろうか。初陣の時点で注目されていたのか。
また 水を含不申宜候旨殊の外入御意其後諸家様へも被進に相成申候 という部分は 高虎が商品を気に入り宣伝していたようにも受け取られる。そうした宣伝技法は現代でも通販媒体で見ることが出来る。若き高虎は商品の評判を広めることが出来る影響力があったのだろうか。想像が膨らんでしまう。

よく 高虎は足軽から立身出世した と語られることがあるが 少なくとも石丸三蔵の記録では 高虎は馬に乗る身分からのスタートであったと考えるのが自然だ。高虎が早くから馬上の仁であったことは江戸時代の 武家高名記 も述べるところであった。

織田か浅井か

ところでここまで見てきたなかで根本的な問題が発生する。
それは 藤堂高虎は何方側で姉川の戦いに参じたのか というものだ。
既に何度も述べたように高虎は中郡の甲良三郷に生まれた。元亀元年(1570)七月まで甲良三郷の立場は定かでは無いが その後の多賀氏の動向からして 同地域は早くから幕府 織田方へと転じた可能性を私は考えている。
それは高虎が 浅井長政に仕えた とする記述への疑問を生じさせる。

尼子と久徳

こうした疑問の中で久徳左近兵衛が織田方にあったことは大変興味深い。
まず久徳氏は尼子氏との関わりが深く 高虎誕生の数年前には尼子氏が久徳口を守備し 六角義賢から久徳のある多賀庄一円の水利について裁定結果を通知されたこともあった。
また高虎の誕生翌年には久徳に隣接する栗栖の水論で尼子氏が出入りする公事下地であった為に差し押さえが出来なかった事もあった。

このように高虎誕生の前後 尼子氏は甲良三郷の尼子郷のみならず多賀大社周辺にも影響力を及ぼしており 久徳氏が織田方であったのならば 尼子郷の藤堂氏も同様に織田方であったと考えることも可能であろうと思う。
少々ぶち上げるなら犬上川の南北で今井家中の様に 尼子家中 が形成されていたと想像することも出来る。

不明瞭な動向

結局のところ元亀元年(1570)七月まで 甲良三郷はどのような立場にあったのか知る術はない。
津藩では浅井方にあったとするが 元亀年間に彼らが浅井方にあったことを示す史料は見られない。
確かに高虎は生前既に 小谷住人 と称す程であったが これを客観的に裏付けることは現状不可能である。
とはいえ高虎の自称も尊重せねばならぬ。その場合 高虎たち藤堂家は多賀や久徳たちと敵味方別れ 無謀にも情勢的に不利である反義昭 信長方へ奔った。このようになる。
しかし後年の機を見るに敏な高虎の姿からは考えられない。失敗を経て 転職 成功を掴んだと思う向きもあるが それでも一族多賀氏の動向からすると違和感を覚える

本稿より先 一応は両論併記の原則として 高虎動向 も載せていくが 基本的にはこのようにある程度史料から動向がわかる一族 多賀氏を下敷きに考えていきたい。