藤堂景盛

ここでは藤堂景盛について榎原雅治氏の 藤堂家始祖 三河守景盛 の素顔 歴史書通信一九七 二〇一一年九月 を下敷きに考察を行う。

藤堂家の祖

どの文献でも共通するのが この男が藤堂高虎の祖という事である。
彼の官途は 三河守 一次史料では 参川 とか 参河 とも記されてる。
公室年譜略 高山公実録 によると 藤堂という姓は彼が石清水八幡を知行地に寄進した際 同八幡より藤の株を分けて貰った事に由来するそうで 藤の堂 が転じ 藤堂 となったようだ。

成立年代の不詳

しかし具体的な藤堂氏の成立年代は 藤堂家史料には記されて居らず一次史料にも確認することが出来ない。
唯一甲良町の解説には

応永 2 1395 京都石清水八幡宮 いわしみずはちまんぐう から分祀の時 藤一株を持ち帰って植え 子孫繁栄を祈願しました。

と記されているが 此方もあくまで伝承であり確実とは言えないようだ。

諱について

なお 景盛 という諱は古記録には見ることが出来ないが 歴名土代 では景盛と記されているので 景盛 で良かろう。

藤堂家編纂史料に見る景盛

公室年譜略

まず 公室年譜略 先考之大略 にある景盛概説を見ていこう。
なお原文は読点などが振られて居らず 更に送り仮名が片仮名なので読みにくい。ここでは平易な表現に直して引用を行う。

姓は中原 江州の人なり。その先人 皇三十三代崇峻天皇第三の皇子定世王の子 左大臣中原常世の苗裔愛智の大領成行の十代の後胤なり

以上の前半部分は非常に胡散臭い。

世々江州犬上郡甲良庄に住みし 始めて藤堂を称号とし 足利の将軍家に奉仕し参河守に任ず

つまり景盛の先祖代々は甲良に住み 景盛の代から藤堂氏を名乗り足利将軍家に仕えると 三河守に叙任されたと見て取れる。

景盛君 或時京師勤役の節 石清水八幡宮に詣し玉ひ 子孫繁栄を祈誓ありて終に江州犬上郡藤堂村に勧請し 其の社辺にある所の藤を祠前に移し植玉う。是よりして藤蔓次第に繁茂。俗に云 此藤は当家と倶に栄を同うせんと景盛君八幡宮に誓い玉うと云う

ここでは景盛が八幡宮を寄進した由緒が記されている。しかし詳しい年次が記されず 更に既に藤堂村となっている。

高山公実録

次に 高山公実録 から景盛に纏わる項目を引用したい。といっても 玉置留書 のみとなる。

江州五社八幡と申は 参河守景盛朝臣始て藤堂氏と号して京都将軍足利家に仕へ給ふ。石清水八幡宮を御信仰浅からす 上下ともに参詣にて藤堂の名字長く繁昌し弓矢の冥加世上に勝れ申候やうに と御祈誓の余り石清水八幡を犬上郡在士村へ勧請し給ふ。石清水の紫藤一枝を袖にして 此藤繁栄せは我家もともに繁昌すへしと神前に御手つからさし給ふ 以下省略

この内容は年譜略の内容に近しい。恐らく年譜略も此方からの引用と考えられる。また此の記述から 改めて藤堂氏を初めて名乗ったのが三河守景盛である と断言するに至るのである。
一方で詳しい年次は不明であり その出自というのも不確定と言わざるを得ない。

没年推察

彼の生没年は定かでは無い。
まず 兼宣公記 という史料は 兼宣が亡くなる一年前の応永三十五年(1428)までであり 同年以降の記録は途絶えている。
八木書店版の 兼宣公記 2 では応永三十一年(1424)十二月十八日に兼宣と宣光親子の南都下向に従った記録が最後である。
榎原雅治氏の論文では八木書店版には見られない 応永三十三年(1426)と応永三十五年(1428)の動向が紹介されている。それを踏まえると 藤堂景盛という男は広橋兼宣が亡くなる前後まで仕えていたと考える事が出来るだろう。

三河守

ところで榎原氏の論文によると 三十七年後の寛正六年(1465)十二月二十七日に 三河入道明誉 という者が 大乗院寺社雑事記 に登場するようだ。景盛は三十五年も入道を貫いたのか。それは否であり 榎原氏は彼が嫡男の 藤堂景能 であると解説しておられる。しかし私は彼は景富だと考えている。

では景盛の入道号 法号 は何と言うのだろう。
高山公実録 御系譜考 という項目に収録されている 公室系譜一本中原系図 には 景盛の横に小さく 明赤 と記されている。
この系譜も 津藩の編纂者自身が怪しんでいる代物ではあるが 嫡男の景能が 明誉 を号している事を踏まえると あながち間違いではないと言えるのかも知れない。
すると 三河入道明赤藤堂景盛 となるのだろうか。

結論としては景能が入道となった寛正六年(1465)までに 景盛は亡くなっていたと考えられる。

景盛の子息

景盛の妻は不詳だが 四人の子息が居るのは判っている。
それぞれ景能 景富 景勝 景長の四人。これは 高山公実録 公室系譜一本中原系図 公室年譜略 の系図にも共通しており 信憑性は高いだろう。
裏付けとして 歴名土代 でも四人の名を見ることが出来る。
公室一本中原系図 では 景盛の末子に 興憲 との名が見られるが これは景能の子であるから誤りだ。

また広橋家の史料によると 兼宣公記 では景能のみ 兼宣の孫綱光が遺した 綱光公記 には景富と景勝のみが見ることが出来る。
残念ながら現状閲覧が出来る広橋家の史料に景長の存在を確認することは出来ない。しかし別の古記録に景長と考えられる人物が記録されている。この四人については 別記事にてそれぞれ解説を行おう。

藤堂景盛総括

三河守景盛の出自を特定するのは至難の業である。
しかし彼が広橋家に仕え 更に甲良庄に所領を宛がわれると 同地に八幡を創建し藤の花を植えた事から 藤堂氏 と名乗ったという伝承は 概ね正確とみて良いだろう。
甲良町の解説によると その創建は応永二年(1395)と伝わるが定かではない。

兼宣公記に景盛が登場するのは応永十一年(1404)なので 創建の約十年後である。
それ以前の記録を現状知る術はない。しかしこの期間は兼宣の父である広橋仲光が存命の期間であり 景盛もまた仲光の頃から広橋家に仕えて居たのだろうと推測できる。

代々家人也

広橋家に於いて藤堂氏の同僚となるのが速水氏である。調べていると 彼らは下北面の家柄を名乗っていることがわかった。
兼宣の孫綱光が遺した 綱光公記 には享徳三年(1455)の六月に 綱光が病身の家人速水越中入道浄誉信景を訪ねた模様が記されている。その中で綱光は信景について 代々家人也 と記している。
この速水信景という男は 兼宣公記では応永二十三年(1416)に初登場する人物で 景盛の嫡男景能と並んで記される。
そうなると 同様に藤堂氏も 代々家人也 であったのだろうか。

石高論

公室年譜略や高山公実録では 在士村をはじめとする十九ヶ村を掲示し一万四千八百一石を 御代々知行した給う と記す。高山公実録によれば これは 玉置覚書 の記述で 在士村の無足人陌間太郎右衛門と申 年八十許になり申候者 常常語り申 とある。寛永十九年(1642)正月十七日に 村瀬市兵衛書付扣 と著述したようだ。
陌間は逆算すると永禄六年(1563)頃の生まれと相成る。村瀬市兵衛とは高虎従兄弟の者か その子息だろうか。

問題なのが 果たして藤堂氏はこれほど領していたのだろうか という点だ。
まず掲示の図には 尼子村 が記されている。尼子は京極氏ゆかりの地域で 応永初期には既に成立している。つまり同村はどう転んでも藤堂氏が治めることは不可能である。
また伝承ベースには成るが下之郷城の成立も応永初期とされるため 下之郷村も藤堂氏が治めることは不可能である。
依って藤堂氏が 約一万五千石を治めた 大領主であったとする記述は事実として認められず 先祖を良く見せたいが為に脚色もしくは捏造したと捉えるのが自然であろう。
最も高虎が没して十二年というなかで こうした行為が行われた点には驚きがある。
同様の事例は西嶋八兵衛の 西嶋留書 にも見ることが出来るが 先祖への探求から 伝聞形式をとった創成 に至ったのだろうか。実に興味深い。

中原氏

さて兼宣公記を読むと 気になる人物が目に止まる。まず応永初期に登場する 中原爲景 という人物。彼は応永七年(1400)に北山殿七佛薬師法に関して登場すると 応永十三年(1406)までの六回登場する人物である。もう一人が 中原盛尚 なる人物である。彼は応永二十二年の七月に神事礼等を命じられた人物で 下家司 と記されている事から 広橋家に仕えた景盛の同僚だと推察できる。

藤堂氏は中原氏

時に藤堂氏の本姓は中原氏である。これは 公室年譜略 高山公実録 にも記されている事で 戦前に出された 津藩史稿 の中では 明治十二年 中原氏に復姓した と記されている。この三冊は信頼できる史料であることから 藤堂氏の本姓が中原氏であることは限りなく事実だと言える。

中原から藤堂へ

推察してみると 応永以前の景盛は 中原景盛 という人物で 中原爲景や中原盛尚同様 広橋家に仕えた中原一族の人間なのだろう。
榎原氏は菅原正子氏の 中世公家の経済と文化 を参考に
中世の公家の家司に家領と関係のある在地の武士が登用
藤堂景盛も元来近江の住人であったものが 家領支配の関係で広橋家と接点が生じ 広橋家に仕え 朝廷の官位を得るようになったのではあるまいか
と推察している。とても説得力のある論説だ。しかし広橋家の羽田荘と 景盛が治めていたと考えられる甲良郡は近くないのが 少し考えを難しくさせる。

何れにせよ確実に言えるのは 藤堂景盛というのは広橋家に仕えた中原氏から出てきた男なのだろう ということだ。

古記録に見る藤堂三河守

ここからは藤堂三河守という人物が 確かに活動していた事を見てきたい。

応永十一年(1404)

六月十三日「飯尾貞之書状」(兼宣公記一)

まず現状で最も古い動向となるものが 兼宣公記 の応永十一年(1404)六月十三日の項である。
その内容は
北山殿での法会で用いる鏡と衣が義満の娘から送られた
といったものであり 差出人は幕府奉行人の飯尾貞之で宛名は 藤堂殿 である。具体的に景盛を示していないのが残念であるが 八木書店版では景盛と注釈されている。
この法会は広橋兼宣が奉行として取り仕切っており この書状は景盛が取り次いだ事を示すものと考えられよう。

応永二十三年(1416)

三月十日・賀茂祭礼(兼宣公記一)

応永二十三年(1416)の三月十日には賀茂祭礼の馬事に 三河 と記されている。
これは明らかに 三河守 その人であろう 

応永二十六年(1419)

十一月三日、「藤堂三河守会尺等料足注文」(東寺百合文書)

意外なところで 東寺百合文書 に藤堂氏の存在を見ることが出来る。
まず応永二十六年(1419)十一月三日 藤堂三河守会尺等料足注文 として記録されている。
これは判りやすい例である。

百合文書に見える藤堂氏

東寺百合文書 には他に二件の記録が遺るが 何れも藤堂姓のみで特定には結びつかない。一応箇条で紹介する。

家僕藤堂は誰か

最勝光院評定引付には 家僕藤堂 と記される。この時代の藤堂氏でいけば三河守の他に右京亮 景能 が存在するが 家僕としての職を踏まえると三河守が有力と考えられる。
ただ根拠となるのは応永十一年(1404)の飯尾書状のみで やや薄い。
後年に羽田庄の代官に任じられる点も付け加えると 少しは厚くなるのだが。

応永三十年(1423)

四月二十日・羽田庄と三河下人(兼宣公記二)

応永三十年(1423)四月二十日 羽田庄が京極高數から広橋家領に復帰した 義持から返付という形 事を受け 羽田の地下人に 今朝所相触 との旨を披露した。この件について 以三河下人 と記される。
つまり 三河という人物の下人が羽田庄へ向かったと見て取れる。
この時期 広橋家で三河を名乗る人物はやはり藤堂三河守だろう。

五月十五日・羽田庄の代官三河入道(兼宣公記二)

兼宣公記のなかで景盛の表記に変化が訪れるのが 同じ応永三十年(1423)五月十五日で 三河入道 という表記へと変わっている。
その内容は返還された羽田庄の代官職を 如元可為三河入道之由 と三河入道へ任せたというものだ。
同月末の五月二十八日には羽田庄代官に他人も補されたといった記述が見られる。これは三河入道を補助する人員なのだろうか。

七月二十三日・「春日神主大中臣師盛書状」(兼宣公記二)

この日の卯の刻 春日の東回廊に大木が倒れた被害が出た旨を告げる急報を 藤堂殿 が受け取り そこには景盛と付記されている。
南曹弁殿へも 任例注進仕候了 師盛が兼宣の子 宣光への注進について触れているのが興味深い。

応永三十一年(1424)

二月十五日・朝食を食べる(兼宣公記二)

藤堂三河が広橋兼宣の信頼厚い人物という事は同公記から読み取ることが出来る。
具体的には応永三十一年(1424)二月十五日の例で 兼宣一家 兼宣 弟の慈恩院と安居院 後に宣光と名乗る新松丸 が三河入道の休所で朝食をとっている。
榎原氏によると 朝食に親しい人を読んで会食するのは 公家社会で広く見られる習慣だったそうだ。

十一月二十一日・兼宣、倒れる(兼宣公記二)

また同年の十一月二十一日には兼宣が腹痛に倒れた為 三河入道が幕府の使者と応対している。また粥の宴の差配も三河入道が行っている。

応永三十三年(1426)

三月二十五日・老堂の死に際して(兼宣公記、翻刻未刊行)

更に榎原氏によれば 応永三十三年(1426)三月二十五日に兼宣の母 老堂が亡くなると翌日 兼宣は死に接する穢れを回避するため 三河入道休所 で弔問客と対面したという。
この件は未だ翻刻本が刊行されていないので確認することは難しい。
ただ難しいといっても データベースれきはく から 館蔵資料 画像付き を選択 兼宣公記 と打ち込むと 17 番に当該条が収まる巻が表示されるので 15 枚目が当該条のある頁である。
くずし字を読むのは難儀するが 廿六日条の二行目にて
三河入道休
とあるのが確認できる。
国立民俗博物館データベースれきはく H-63-628 兼宣公記及暦記 自応永三十三年三月一日至五月二十九日 廣橋家旧蔵記録文書典籍類 15/53

以上が現状で把握出来る藤堂景盛の動向記録の全てである。
この先に刊行されるであろう兼宣公記三巻では これ以外の動向を見ることも出来るだろうから 刊行が実に待ち遠しい。