藤堂豊後守景持と因幡守景隆

本稿では藤堂景持 藤堂景隆の解説を試みる。

藤堂景持

藤堂景持は景富の子息で豊後守を名乗った。

津藩藤堂家編纂史料に見る景持

景持について 公室年譜略及び高山公実録では次のように記される。

景持従四位下豊後守

景持君景富君の一子にして父と同く将軍義政公に仕え 文明二庚寅年六月廿六日 異に十九日 従五位下に叙し豊後に任ず。後従四位下に昇進す。終年分明ならず 恐らくは文明十一亥年逝去か

歴名土代で検証してみると 文明二年(1470)六月十九日に正五位下に叙されている事は記されている。つまり編纂史料に従五位下とあるのは誤りである。
ただ歴名土代に景隆が登場するのはこの叙位のみで 従四位下に昇進した様子を確認することは出来ない。
また景持の官名は湯川版では定かならずも 群書版では 豊後守 に任じられたとあることを記そう。

また編纂史料や系図を見るに景持の子息には景兼と景隆兄弟が存在する。景兼が早逝したので景隆が跡を継ぎ 景高と改め 某宗益の子景元を養子にとった。また景高の子には高信が居り 彼の曾孫が高虎となる。
しかし歴名土代を読むと 景持と景隆が同日に正五位下に叙され 景兼には 兵庫助景教子 と付記されている。更に景隆の叙位年文明二年というのは景兼の生年であるから 編纂史料に見える記述は全く以て信用が出来ないものである。
すなわち景持の妻子は一切不明である。

藤堂豊後守

ところで 藤堂豊後守 なる人物は十五世紀の後半に その動向を見ることが出来る。
この時代に豊後守を名乗った事がわかる藤堂氏は 景富と景持の親子二人である。
期間でいくと享徳三年(1454)の 豊後景富 から 長享三年(1489)の 藤堂豊後 まで計三十五年間となろう。しかし編纂史料では文明十一年(1479)に景持が亡くなっていた可能性を示す。

では文明十一年(1479)以降に見られる藤堂豊後は誰なのだろうか。
榎原雅治氏が 藤堂家始祖 三河守景盛 の素顔 歴史書通信 の中で示した系図には 景隆も豊後守と記されている。しかし景隆の官名は 因幡守 である事が歴名土代に記されているので 当たらないだろう。
可能性があるなら景持の子息とも考えられそうだが 残念ながら景持の妻子についての史料は皆無であるから何もわからない。
とかく文明十一年以降の藤堂豊後守が景持であるか否か全くわからないが 数も少ないので景持項にて解説を行う。

古記録に見る藤堂景持

なお 兼顕卿記 データベースれきはく 国立歴史民俗博物館 を利用し 引用を行ったことを予め示す。

文明七年(1475)

十月十八日・藤堂豊後守雑任所望(實隆公記一上)

早速だがよくわからない内容が出てきた。豊後守とは景持だろう。
文字通りに捉えるならば 景持が雑任を所望した となる。
雑任とは下級官人を指すようだが これは 従四位下に昇進す と関連はあるのだろうか。また所望の結果はどうであったのだろうか。気になるところであるが その後どうなったのかは定かではない。

文明九年(1477)

八月七日・藤堂豊後守朝飯まいらせ候也(山科家礼記三)

これは景持が大沢久守もしくは山科言國の家で朝飯を食べた という意味だろう。

文明十年(1478)

七月十日・籾井から七夕用具返却請取状の宛先に藤堂豊後守(兼顕卿記)

兼顕卿記に景持が登場する。すなわち景持がこの時代に広橋兼顕に仕えていた事がわかる。
書状の送り主は籾井代の森五郎左衛門入道浄満なる人物だ。

十二月十八日・豊後、言國方で朝飯。また朝食後に大沢久守と碁を楽しむ(言國卿記三)

今日朝飯ニ豊後來也 長門守トメシ以後コヲウチ畢 とある。
景持と久守は囲碁仲間として親しくしていたのだろうか。

文明十一年(1479)

四月四日・月次連歌会にて脇句後頭景持沙汰也(兼顕卿記)

明確に景持の名前が現れるのがこの日の連歌会である。
綱光公記を読むと父景富も頭役を務めているが 景持もこのように連歌会で名を残している。

不詳・沢良宜村割注に「給主広橋藤堂豊後」(近衛家領目録)

戦国期摂津国における近衛家領 鶴崎裕雄 湯川敏治 という平成二十年(2008)の論文に紹介されている。これは 近衛家領目録 に収められているという。
近衛家についての論文に登場するのは 広橋家が近衛家の家礼を務めていた為である。つまり藤堂氏は近衛家の仕事も熟していたのである。
なお論文中で行われた藤堂豊後の特定では 景元を 景富男 として紹介しているが 歴名土代の年月日が上に記した年月日と同一であることから これは景持と景元を間違えた誤植であると指摘できる。
また特定の結論として 景富か景勝のいずれかであろう としているが 景勝は 三河守 である可能性が高いため こちらも誤りだと指摘できよう。すなわち文明十一年に豊後守を名乗る藤堂氏とは文明二年に叙された景持その人と考えられる。

文明十二年(1480)

正月五日・守光の使・藤堂豊後(山科家礼記三)

さて藤堂家の編纂史料では景持について文明十一年に逝去との可能性を示している。果たしてその論拠が一体何処にあるのか探りようがない。
しかし景持と同じ 藤堂豊後 が以降も出現している事は興味深く 津藩編纂者が記した説に一石を投じるものである。もちろん文明十二年から出現する藤堂豊後が景持である根拠はないが 歴名土代に景持以降 豊後 を名乗った藤堂氏が見られない点から 私は景持は文明十一年以降も生存していたものと考えている。

文明十三年(1481)

正月五日・大沢久守が年賀に参り、藤堂豊後が応対(山科家礼記四)

二年続けて藤堂豊後が現れる。むしろ文明十一年より三年続けて とでも言うべきか。
左衛門大夫も応対しているが これは藤堂かも不詳ながら 藤堂なら景敦 明全 明金 と推測される。広橋左衛門大夫説もある。

長享三年(1489)

四月四日・廣橋殿御使ニ藤堂豊後出来候也(山科家礼記五)

またしても藤堂豊後が守光の使として現れるが これが藤堂豊後守の終見となる。
興味深いのは 二年前から前年にかけて発生した 長享藤堂事件 を生き延びた点である。

藤堂景隆

藤堂家編纂史料では景持の次男とされるのが景隆である。
しかし景持の項でも示したとおり 兄とされる景兼は 景教 の子息でる。また歴名土代から景持と景隆の叙位は同日である事が読み取れるため 景隆を景持の次男と考えるのは改めた方が良さそうである。
また叙位が同日である事から兄弟の可能性が浮上するも 明確にそれを示す史料は存在しないために言及は避けたいが それをすると 景隆は景富の次男である と書けなくなるので困る。
一先ず 景持と同じ日に因幡守景持が正五位下に叙された とだけ覚えれば良かろう。

津藩藤堂家編纂史料に見る景隆

ここで公室年譜略の記述を見てみよう。

景高君 景持君の次男なり。兄の遺跡を受て家を継き 因幡守景隆と改む。文明十六甲辰年十月九日正五位下に叙す。私に曰 文明十一亥年従五位下に叙すか 嫡子を因幡守景元と号す。是は初老に及び子なきに依て 宗益か子を義子として家名を譲る

しかし歴名土代と照らし合わせるも 文明十六年に正五位下に叙された藤堂氏は存在しない。文明十一年に従五位下に叙されたのは兵庫助景教の子 景兼である。
また兄の死後に 因幡守景隆 と記されているが 景兼は長享二年に没している。するとそれ以前に 景高 であったと考えるべきだが 同じように歴名土代には 景高 を見ることは出来ず 更に景兼が生まれた文明二年には 因幡守景隆 が存在していた。つまり年譜略の景隆に関する記述を裏付ける事は出来ず その信憑性には難がある。

景隆の妻子は不詳であるが編纂史料の類を尊重すると 景元が養子となるのだろうか。
なお高山公実録下巻の御系譜考に収録されている 一本中原系図 には 景盛系統とは別系統ながらも景隆の子息として景元と 掃部助藤原宗益妻 越中守正益朝臣母 が記される。
つまり速水宗益の妻に藤堂氏が居た可能性がある。最もこれは立証できないので定かではない。身も蓋もない話をすれば 一本中原系図 自体が概ね信用ならないものなので 一説に留めておくべきだろう。

古記録に見る景隆の動向案

今回の調査では明確に景隆の動向を捉えることは出来なかった。ただ見方を変えてみると 景隆とみられる人物の動向は僅かに一件採集する事が出来たので紹介したい。

文明二年(1470)

六月十九日・景隆、正五位下(歴名土代)

景隆について湯川版では 藤堂因幡守 群書では 播磨守因幡守イ と記されている。ただ現状で 藤堂播磨守 を確認することは出来ない。

文明九年(1477)

六月十三日・近日因幡上洛之由(兼顕卿記)

兼顕卿記で景隆の名を見ることは出来ない。試しに 因幡 と入れ調べてみると この上洛記録が出てきた。もちろんこの 因幡 が景隆である傍証は無い。

以上である。