藤堂景永

本稿では藤堂修理亮景永の解説を試みる。

藤堂修理を名乗る人物は文明十年(1478) 兼顕卿記に 修理亮景家 が登場する。
修理亮景永が登場するのは年後の永正九年のことである。
景家と景永の関係性は不詳であるが 高山公実録 の御系譜考に収まる 一本中原系図 には 景盛の四男景長から景家 景永と連なる。ただ景長にも 修理 と振られているが 彼は美作守と歴名土代に記されるため否定される部分である。
恐らく系図の作者は 修理亮家 として立てておきたかったのだろうと推察される。

編纂史料に藤堂景永が現れるのは 一本中原系図 のみで 公室年譜略 には見る事が出来ない。

古記録に見る藤堂景永

残念ながら 歴名土代 に景永の姿を見る事は出来ない。
例によってまずは表に景永の動向を示そう。

年月日動向出典番号
1512永正九年
0709立阿弥より七夕行事に関する書状1
1514永正十一年
0303前日の後柏原天皇女房奉書 相添書状に関し 以修理遣者也2
1515永正十二年
0102広橋家雑掌請取状を担当3
L0203令一覽 以景永返修理者4
0404不出様可申入事景永申5
0919安楽光院事 以修理申送蓮泉院者也6
1518永正十五年
1212速水家益と共に禁裏御煤拂に参加7
十三日条内
永正年間
0116書状あり 十五年か八上8
1522大永二年
1227安楽光院に関し借銭を返済せざると幕府に訴える9

以上九件が修理亮藤堂景永の動向と相成る。

七夕と藤堂修理

永正九年(1512)七月九日条は景永が立阿弥から七夕と禁裏への花瓶と御盆に関する書状を担当している内容である。
これに対応する内容として 七月七日条の 即以左京亮令申者 が挙げられる。これは左京亮 景俊 が七夕立花についてと担当している内容である。
七夕行事といえば 兼顕卿記 の文明十年 一四七八 七月十日条には藤堂豊後守が七夕で用いた花瓶と盆を籾井の幕府御倉への返却を担当している。
また同年七月十四日には 修理亮景家 広橋家禁裏進上盆灯籠制作者 として登場する。
系図を信ずるならば修理亮景家は父となるだろう。即ち修理亮親子は宮中行事に造詣深い親子と考える事も出来る。
行事参加でいけば永正十五年(1518)十二月十二日に 速水家益と 禁裏御煤拂 に参加している点も欠かせないだろう。

以修理遣者也

永正十一年(1514)三月三日条には 前日の後柏原天皇女房奉書 相添書状について 以修理遣者也 と記される。女房奉書は山王祭 小五月會 祇園會等に関する内容で 守光の相添書状は尊勝院光什に宛てて出された書状である。この尊勝院光什とは 守光の叔父 町広光の弟 で延暦寺尊勝院の僧である。その内容は四天王寺の別当に関してのものだ。つまり景永が尊勝院へ遣われたとみるべきだろう。

某年一月十六日書状について

永正年間 守光公記では無いが 八坂神社文書 の九〇 社務執行實壽院顯增書状案 正月十六日 にて藤堂修理亮の名を見る事が出来る。
年次について史料編纂所データベースの 日本古文書ユニオンカタログ では 室町後期 とされる。ただ同文書一通目の書状に 永正 端裏書 十五二月 魚住隠岐守方へ披遣候 と記される点から これは永正十五年(1518)の書状ではないか。

さて同書状は二通の書状で構成され 次のように内容概略も記載されている。
一社領廣嶺内ノ公用ヲ納む 一守札牛王巻敷ヲ魚住隠岐守ニ贈ル朝倉孝景

書状の一通目は二月三日に 顯増 實壽院 から 魚住隠岐守 に宛てて出された書状であるが 文頭に 尚々藤堂修理亮殿可披申入候 景永の介在が見受けられる。
二通目は正月十六日に 藤堂修理亮 に宛てて出された書状であるが その年次は定かでは無い。恐らく一通目に対応するものと捉えるならば やはり永正十五年(1518)の書状だろう。また差出人は不詳であるが 魚住隠岐守だろうか。
また内容と概略は真逆であり 一通目が 守札牛王巻敷ヲ魚住隠岐守ニ贈ル朝倉孝景 二通目が 社領廣嶺内ノ公用ヲ納む となる。

この 魚住隠岐守 なる人物は どうやら同年五月に祇園社領広峯本所分の代官となった人物で 姫路市史第八巻に収まる八坂神社文書を見るに その諱は 能安 魚住隠岐守能安となる。

さて二通目の景永へ宛てられた書状にある 廣嶺 広峯 は同じもので 今の姫路市にある広峯神社と見て間違いなかろう。調べると八坂神社は広峯神社から分祀されたのだという。そうした関係から 広峯神社の近辺に八坂神社の社領があり公用銭を納めたのが二通目の書状と推察できる。
つまり修理亮景永という人は守光の雑掌を務める傍らで 八坂神社とも関わりを持っていたと推察できる。

ところで姫路に纏わる書状に越前の朝倉孝景が登場する事は些か不可解だ。八坂神社文書では 一通目に登場する 御屋形樣 を朝倉孝景と比定している。これは後年朝倉氏の重臣に魚住氏が現れた事が大きいだろう。
しかし調べると魚住氏というのは 元々が東播磨の魚住 明石市 を発祥とする家柄である。即ち播磨国で屋形と呼ぶ事が出来る大名は 播磨の守護赤松氏であり 書状の 御屋形様 とは永正十五年当時の当主である赤松義村ではないだろうか。

安楽光院

大永二年(1522) この年の十二月二十七日に藤堂景永が 安楽光院の借銭を返済せざる と幕府に訴えた。これは大日本史料に見えるもので 賦引付 なる史料から 藤堂修理亮景家申状 が引用されている。そこには 諏信 つまり幕府奉行人の諏訪長俊の名前も記されている。
残念ながらこの訴えがどのように解決へと向かったのか定かではない。

さて守光公記を見ると二巻の永正十二年(1515)九月十九日条に 安楽光院事 以修理申送蓮泉院者也 昨日令申旨同心也 珍重珍重 と記されている。
この 安楽光院事 とは何であろうか。
それを解く鍵が大日本史料データベースに存在する。
見出しは 泉涌寺安楽光院をして 同院領加賀横北荘を直務せしめんとし 重ねて 本願寺をして 之を斡旋せしむ というものだ。これは守光公記を引用したものである。こうした記事を読むと同年閏二月三日条のも安楽光院の訴えに関わるものであるようだ。
結果としては同荘の年貢は安堵されたらしい。

景永の仕事

ここまで行事参加や寺社との対応に関わる景永を見てきた。
もちろん景永も景元 景俊の二人と並び 広橋家雑掌 としての活動を僅かに見ることが出来る。
永正十二年(1515)正月二日 景永は広橋家雑掌請取状を担当している。これは室町殿 つまり足利義稙から拝領した美物に関しての請取状だろう。宛名が記されていないが 伊勢守使來 とあれば 伊勢貞陸方へ宛てられたものだろうか。
さて大永二年(1522)以降 景永の動向は定かではない。その終年も妻子も不詳である。