広橋家の家司速水氏について

2021-06-06 速水氏について 弊サイトでは既に信重の重臣渡辺与右衛門の妻が速水氏であるとして 更に筑後守勝が若い折に速水を名乗ったことは記している。

一方で私が調べ取り扱うなかでは この速水氏とは別の速水氏も存在している。それが公家侍の速水氏である。

公家侍の速水氏を知ったのは 昨年藤堂高虎の先祖を検討する過程である。
高虎の曾祖父高信の義兄弟に藤堂景元が存在する。勿論彼は実在が確認できない高信とは異なり 守光公記にて名前が残り 確かに実在した人物である。

景元は藤堂家の史料 公室年譜略 先考之大略 にて
嫡子ヲ因幡守景元ト号ス。是ハ初老ニ及ヒ子ナキニ依テ 宗益カ子ヲ義子トシテ家名ヲ譲ル
某宗益の子が景高 景隆 の養子として 藤堂氏に入ったことが記されている。

宗益とは誰か

私はそれまで多賀氏を調べていたので 宗の字から京極材宗を想像した。しかし当時はそれ以上の何も調べる手立てを持たなかったので 棚上げし景元を先に調べることとした。それが良かった。

史料編纂所データベースをひくと 日本古文書ユニオンカタログに享禄三年の十月に藤堂景元と速水正益の連署がある事がわかった。益の字にピンときた私は 直ぐに検索をかける。
すると 下北面速水氏 なる系図がヒットした。また速水正益とは 広橋家の雑掌を務めていたこともわかった。

この八月一日の発見の数日前には 藤堂景盛たちが広橋家に仕えていた事を示す論文を見つけていた事もあり ここで一気に点と線が繋がった。

つまり 宗益とは系図に見える速水正益の父 宗益であった可能性が高いと考えた。
裏付けとして 歴名土代 には 宗益男 と記されている。

速水氏と藤堂氏の関係

そこから冬になる。
高虎の先祖を深く調べる中で 高山高実録下巻の系図群に二人の速水氏に纏わる藤堂氏の女を見ることが出来た。

  1. 藤堂景勝娘
    • 速水景益に嫁ぐ 信益宗益家益等母
  2. 景元妹 一本中原系図
    • 宗益妻正益母

この二番目の一本中原系図については 今ひとつ信憑性に疑義があるが 景元妹が宗益の妻となっている事には何か感じる部分があった。
景元は宗益の子であるのに その妹が宗益に嫁ぐ。これは不可思議である。

一番目については 景勝とは藤堂景盛の三男で 左衛門景敦の姉妹にあたる人物であるが そうして宗益が藤堂氏の血を引く人物であれば その子とされる景元が藤堂氏に入る事に疑問は無い。

勿論間違った部分もあって 景益の子は信益と家益のみで 宗益は信益の子である。

速水信益そして藤堂氏

年が明けた頃に私は歴名土代とは 新校群書類従 にも納められていることを知った。私は湯川氏版の歴名土代と 変わるところは無いだろうが一応読んでみたのが良かった。

藤堂景元について何と 故宣益男 と記されているのである。
これは衝撃的だ。故宣益 とは その読みを考えると 信益 となるのだろう。

こちらも信憑性に疑義が生じるが この記述により全ての疑問が氷解する。

その関係を上手く纏めることが出来る。辻褄が合うのである。

広橋家の家僕として

兼宣公記で藤堂氏 景盛と景能親子 を調べるなかで 速水信景は何度か藤堂氏と行動を共にしている事がわかる。
応永三十年三月二十三日条には 兼宣の伊勢参宮に速水掃部助 信景 と藤堂右京亮 景能 らが騎馬している旨が記されている。
景能と信景は兼宣の家司として 応永の時代に活躍していたようだ。

享徳三年 1455 六月五日 広橋綱光 兼宣の孫 は病身の家人速水越中入道浄誉信景を訪ねる。
近日以外増気間 為見訪也 老翁来予前 催老涙 誠可愍也 代々家人也 可悲 可惜可借
綱光と越中入道はこれが最期となる事を察したのか 思わず涙を溢す。
速水信景が六十歳でこの世を去ったのは この一月後であった。

綱光公記の寛正三年八月二十四日条には 綱光が放生会で八幡へ赴いた際 景敦と景益の青侍両人が騎馬とある。
藤堂景敦とは景勝の子で 左衛門である。

歴代残闕日記版の兼顕公記 文明十一年正月五日条には 侍一人として右兵衛尉藤原信益の名前が見える。
彼が景元の父だと考えられる速水信益だろう。
史料では藤堂氏との関わりは見られないが 兼顕には左衛門景敦などが仕えていたので 恐らく関わりは普通にあったと思われる。

守光公記には宗益の子 正益や 信益の弟 家益の名前が見ることが出来る。
藤堂氏との関わりも何度か見ることが出来るが 一番わかりやすいものが歴代残闕日記版に記されているので紹介しよう。
永正五年七月一日条 室町殿御昇進について同道者 一人侍正益 他に景元家益景俊景永の名前が見られる。
景元は宗益の兄弟と考えられる藤堂景元 景俊は左衛門景敦の次男 歴名土代 景永は一本中原系図では景盛四男の景長の孫とされている。

また景元と景俊の関係では 公室年譜略 の系図にあるように 景俊は景元の後裔とされている。
どうのような事情があったのか定かでは無いが 景俊以降景任~景豊 景久兄弟~景政と連なると この家系は後に久居藩重臣の藤堂八座を輩出。久居市史には 藤堂八座家系図 として所収されている。
景政は景久の子とされている

終わりに

突然 記事を書いたのは ひとえにツイッターにて速水氏の末裔氏よりリプライを戴いたことによる。
長々とこれまで調べたことをリプライで送りつけるのは些か増長であるし 何処かで速水氏記事を書いておきたかった自分にとって まとめるタイミングとしては非常にベストであった。

これでも簡略に記した方ではあり 本当はもっと長く展開することが出来る。それは また何処かで行うとしよう。

正益以降も速水氏は広橋家に仕えた。自分が江戸時代に興味を持つ 調べる範囲を広げるに至っていないので 詳しくは無いが 岐阜県のホームページには 女房奉書広橋大納言兼勝副翰速水安芸守書簡 が公開され 速水安芸守は広橋家の家宰である と記されている。
この速水安芸守は 家益の子で室町時代に安芸守を名乗った速水有益の後裔なのだろうか。

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