2024近江旅行記

出不精である。家が落ち着くタイプとも 手元不自由の砌 とも言うが ともかく他県に出ることが億劫になっていた。
一方でまだ見ぬ景色 行ったことのない場所に行ってみたいという想いも抱いていた。
こうした相反する心理状態を打破するまで 何年も掛かってしまったのである。

計画編

旅と目的意識

何故こうなってしまったのかと言えば 一つは目的意識の希薄さがあるだろうか。例えば本籍地の上野 伊賀 であれば 法事や墓参りが目的であるし 母の故郷半田も同様 住んだことのある地域 一度訪れたことのある地域であれば 再訪して思い出と変化を辿ることが目的となった。
また 乗り鉄 であれば ある種のコレクター的な部分から 目当ての路線を乗り潰すであったり 目当ての車両に乗りたい 見たい 記録したい というのが目的であった。

しかし縁もゆかりも無い場所であると なかなか目的が起きない。そこが学生以来の悩みであり弱点と言えるだろう。
こうしたところで本サイトで史料を元にした 研究 は刺激を与えてくれた。多賀氏 高虎前史では甲良や久居に 高島郡の戦国史を調べていると高島の地に足を踏み入れたくなる。
そして大溝城の考察では 打下から大溝城にかけて現地に赴きたくなった。
史料と地図が 私に目的意識を芽生えさせてくれたのである。

大溝城

私は大溝城の考察を纏める中で 遂にわからなかった部分を思い切って 恥を忍んで高島市に問い合わせた。私はとんだ恥知らずである。
そして回答を待たずに記事を公開した。
その四日後 たまたま家で休んでいると携帯 スマホ に着信があった。見知らぬ番号で折り返すか悩んでいたが ともかく毎度の作法として電話番号を検索。すると滋賀県からの電話とわかる。
一瞬 何のことかわからなかったのだが 数分後にこれが大溝城についての問い合わせの結果だろうと自分の中で答えを出した。
私は恥知らずなくせに本質的には臆病な小心者なので いつもメールやお手紙 はたまた電話での質問などは緊張の他に謎の罪悪感や後悔 怖さを抱いてしまい 日々恥ずかしさに悶えている。
そうしたもので一体何を言われるのであろうかと不安でしょうがなかったが 毎度先方の御厚意をあずかっているので 今回もそんな心配は杞憂であった。
高島歴民俗資料館の担当者氏からの回答は 大溝城考察記事に加筆するが お話しを窺うなかで
現地に行かなければ
という想いが自分の中で強くなった。

更に八月二十日頃には滋賀県から大溝城の探訪会に関するお知らせが届いた。天啓である。
九月二十三日なら参加できる。しかし集合時間が早く これでは居住地を始発で出てようやく間に合うぐらいだ。しかも繁忙期で宿泊にも難がある。昨今の害虫騒動による忌避感も影響している
だがその頃は自分も空いているから 簡単に諦める訳には行かない。そうだ前に元亀争乱下の湖西国人を調べたことがあるし 係争地鵜川 白鬚神社 四十八仏に打下古墳を自転車で巡ろう!
かくして九月連休の二十二日に大溝を訪問することに決めた。

計画変更

そうと決まれば行動は早い。フォロワさんに様々質問したり 月末には切符を取った。
しかし気象状況は最悪で 三日前には輪行を断念し切符を 荷物スペース付 から普通の乗車券に変更した。せっかくどんな具合か確かめたかったのに。
そうなると大溝城に着くのが一時間近く早くなり 天気の影響で打下地区や白鬚神社までの移動もままならないから滞在時間も短くし せっかくなので多賀大社へ移動することを考えた。
実は最寄り駅と高島はのぞみ号と新快速が最速であるが 米原からひかり号に乗ると少し安くなる。更に私自身米原~山科間を乗車したことが無かったので ここで乗り潰し欲求を満たしたいというところもあった。
寄り道では甲良三郷を巡りたい気持ちが一番であったが 天気が良くないところ 多賀町の H 先生にお世話になっている点と実は多賀大社と御縁がある点から
せめて多賀大社前駅ぐらいは
と寄り道を決めた。

旅行当日

旅立ち

前日の二十一日 能登を再びの災禍が襲う。それでも行く先は何事も無かったので計画に変更は無い。心苦しさを抱えながらの旅立ちとなる。
乗車するのぞみ 305 号は東京を朝 8 時ちょっと過ぎに出る。
当初の計画では自転車を運ぶ予定で 朝食を購入する時間や遅延対策のために三十分前には東京駅に入ることが出来るように計算していた。そうなると自ずと起床時間も五時となる。
これが始発だと三時には起きねばならぬから それよりはマシだ。それでも結果的にはもうちょっと睡眠時間を取るべきであった。やはり日帰りには無理がある。もう無理をする年でも無いから難しいね。

東京駅

七時二十二分に東京駅に到着するとサンライズ号が田町への回送待ちをしていた。この車は品川付近で寝ている姿をよく見かけていたが こうやって駅のホームで見るのは初めてかもしれない。いつ終わるかわからない車齢だから 絶対に乗りたい列車である。

斯くして七時半ちょっとすぎには朝食の鱒寿司を買い込み 新幹線ホームで頻繁に出入りする東海道新幹線を眺める。本当に繁忙期は本数が多くて飽きない。
そうこうしているうちに 乗車するのぞみが入線する頃になり乗車号車の列に並ぶ。ここで 指定席列の先頭で並ぶことができたのなら 自由席の争奪戦にも余裕で勝利できたのでは? という点に気がついた。繁忙期なので混んでいるとの想定だったが 流石に連休の二日目の日曜日で朝七時台はそこまでの混雑では無かったのである。
特に輪行しない選択をした時点で指定席の窓側は満席だった。取ったのは B 席である。しかし自由席なら A 席を取れただろうし B 席からチラチラ窓を見る不審者として隣客(1)に要らぬ迷惑をかけずに済んだのだろう。
また一本程度早い列車にも乗車することが出来た。が こちらは京都駅での乗り換え時間が増えるだけで そこまで意味は無かった。

ついでに述べておくと実は米原から湖北周りで行く方が若干安い。今回その選択肢を排除したのは 元亀争乱の舞台となった湖西線大津市内区間の車窓を眺めたかったところと 北小松から自転車で辿りたかったからである。そうした事情が無ければ 米原乗り換えの湖北経路を選んでいただろう。

(1) 臨客→隣客/20241024

京都まで(のぞみ305号)

この日の編成は N700A N700A として新製され 700 系を置き換えた形式 のトップナンバー G1 編成であった。これは幸先が良い。座席に荷物を置き 先頭の写真を撮りに行くと 列車待ちの間同じように発着する新幹線を眺めていた老紳士に記念写真を撮って欲しいと頼まれた。機嫌が良いのでこれに応じ トップナンバーだから運が良いですよ! と声をかけた。
八時五分 列車は定刻通り東京を発つ。品川 新横浜 名古屋。京都までは 3 2 時間少々の旅路である。

品川新横浜で客を拾うと 東京駅出発時点で空いていた指定席も満席になった。
私は品川を過ぎて鱒寿司を頬張る。朝食を新幹線で食べることは小学生や中学生の頃から馴れてはいるが とりあえず食べることが出来れば良いという時代はとっくに過ぎ カロリーや栄養バランスにも気を遣いたい時代にはたったの三切れ程度では物足りない。とはいえ自転車に乗る訳でも無いから これぐらいで動けたのは良かった。
これを言ってしまうと身も蓋もないが そうした目的であれば最寄り駅近くのコンビニでサラダやおにぎり プロテインドリンクなどを買い込んで行く方が摂取カロリー的にもコストパフォーマンス面でも都合が良い。駅弁は旅情をかき立てるが 様々な選択肢が広がった昨今では物足りなさは否めないだろう。

まあそんなことは乗車当時みじんにも思っていない。新横浜を出ると名古屋まで長い。窓際の席でも無いから ここは睡眠時間を稼ぐ。浜松辺りで起きたい物だ。と思ったら起きたら静岡手前であった。

車窓・愛知県内

そうこうして天竜川を越え浜松 浜名湖を越え豊橋に入る。ここで座席を立ちデッキへ。豊川で名鉄電車か何かと並走しているところを撮りたいと思ったが 並走は無かった。次に幸田付近で再びデッキへ行くと 懐かしい岡崎の平野を眺める。

座席に戻りチラチラ左目で車窓を眺めていると 名古屋へ到着する。四年ぶりであるが それ間にデビューした 315 系やひのとり 更にはリニア工事の大閤通口など変化を目の当たりに出来て良かった。
名古屋で乗客が入れ替わる。私も普段は降りる身である。考えてみると京都まで 30 新大阪までも 50 分程度で利便性が良い。フォロワさんや叔父のように愛知県に居ながらオリックスを応援する人が居るのは この利便性の良さもあるだろう。やはり住むなら愛知県近隣が宜しい。

車窓・江濃国境

ここからは人生でもそこまで乗ったことがない区間で 震災後に福井へ旅した以来だから十三年ぶりだ。しかし高揚感とは裏腹に西へ行くほどに雲行きは怪しい。このあたりは予報通りであったが それでも暗雲は好ましくない。何より京都へたどり着けるのか?という一抹の不安もあった。近年雨で新幹線が運転を見合わせることが多い
岐阜羽島を過ぎ いざ関ヶ原。江濃の戦乱舞台となった同地の山々から雲が湧く。慶長の戦乱では霧深い関ヶ原との描写がなされているが そうした実風景を想像するには十分なぐらいの迫力があった。程なくして(1)名神と別れると音が車内に響くほど 屋根を激しく叩きつける雨に襲われた。

関ヶ原のトンネルを抜けると いよいよ恋焦がれた湖国に入る。私を出迎えるのは京極の本拠地長岡だ。この頃には雨も収まり 伊吹山の麓に広がる豊かな土を見ることが出来る。暫く走ると再びトンネルに入る。家で地図を閲覧すれば ここが信長と長政が争った横山という。横山を抜け坂田の地に出て 米原を通過する。

(1) 尤も →程なくして

車窓・滋賀県内

米原駅の背後にある山は義賢と京極六郎が争い今井定清事件の現場にもなった太尾山で 間もなく中山道と並走すると近江鉄道を越し名神高速と再び接近する。このあたりが摺針峠 鳥居本 小野で 実は反対側が佐和山城であることは地図を見て初めて知った。
そうして彦根インターと過ぎると開けた土地に出る。ここからは中郡の始まりで 五箇荘までの間七キロに及ぶ扇状地地帯を高速通過する。ここは予習が無ければ 単なる湖東の良い景色であるが 藤堂高虎とその先祖周辺の研究をしている私にとっては宝の山だ。
こうも広い土地に尼子氏や多賀氏 高宮氏 目賀田氏 高野瀬氏や藤堂氏などが割拠していた。彼らには頼るべき詰めの山城も無いのに この扇状地で規模は小さいながら覇権争いを繰り広げた。そして京極六郎は この地を攻撃対象にしていた。
ただし N700A の最高速に迫る区間だからか 多賀大社や湖東三山の景色はよく見えなかった。
そうして湖東を駆け抜けるのぞみは広い河川を渡る。これが愛知川で この辺りが五箇荘。五箇荘を過ぎると進行方向右手に観音寺山が見えるが本当に一瞬だ。
むしろ滋賀県内の車中で記憶に残るのは間近に見える近江富士三上山で 視認した瞬間声が漏れ スローモーションのような感覚を味わったのである。隣の女性には気持ち悪い思いをさせてしまったかもしれない。
そうしていると瀬田川を渡りトンネルを抜け山科 ここもあっという間に通り過ぎ洛中京都駅と相成る。

京都駅

京都からは湖西線直通の敦賀行きに乗る。それまでに三十分弱時間があるので 0 番のりばで特急を眺めることにした。ここは記憶に無いが 物心つくまえに家族旅行の帰路にサンダーバードを利用するために使っていた写真が残る。それ以来 二十一世紀になって初めての訪問だ。京都駅自体は何度か利用したことがある。それでも修学旅行が最後なのでだいぶ前だ
それにしても聞いてはいたが京都駅の通路は あたかも国際空港に来たかのような盛況で驚いた。特に 0 番のりばに隣接する改札口から京都タワーを見るあたりは顕著で オーバーツーリズムの一端を垣間見た。
なおこのとき 時間あるし京都タワーや 改札外からサンダーバードの入線を撮りたいな と思い 途中下車しようとすると止められた。駅員氏に聞くと これは特例区間らしいとのことで 別に料金が掛かるらしい。すっかり失念していたが 良い学びになった。恐らく京都山科分の往復運賃が必要になるのだろう。
そうこうしてサンダーバード 15 号の到着を見守り 2 番のりばへ向かうと 雨が強くなった。既に一部列車が遅延しており一抹の不安が再びよぎるが 乗車する新快速敦賀行き 後方は近江今津止まり は平常通りで良かった。
余談ではあるがこのホームのアナウンスをしている駅員氏の声がなかなか可愛かった。人間可愛い方が良いので ああいったアナウンスには学ぶべきところがあるかもしれない。

新快速敦賀(近江今津)行き

そうして出発すると山科までは猛烈な雨雲と共に列車は進むが トンネルを抜け比叡山の麓まで出れば白い空が広がっていた。最悪の事態は免れたらしい。十時四十五分に京都を出た新快速 前方が敦賀行きの 223 後方が近江今津止まりの 225 であるが 高規格の湖西線に入ると唸りを上げる。大津京 比叡山坂本 堅田 近江舞子に止まり そこから各駅となり北小松を経て近江高島には十一時二十三分に到着する。
その間 おごと温泉 和田氏 堅田 真宗の拠点 小野~和邇 馬場氏 金蔵坊 和邇~蓬莱 船路 志賀 十乗坊 比良 田中 と元亀争乱の舞台を通過するが これは全くと言って良いほどわからなかった。ただ対岸に見える山の変化が面白く どこから三上山が消えるのかを考えながら眺めるのも一興で 更に湖面に伝統の魞のような設備が見えたときは興奮した。

北小松は高い建物も無いので あの辺りが伊藤同名中か と容易に想像することが出来 鵜川ではその広さに係争地であった理由を感じ取った。
そして白鬚のトンネルを抜けると打下 大溝城が見える。もう何度も展望動画で見た景色だが やはり自分の目で見ると感動もひとしおであった。

時に切符は北小松までであったので 乗り越し精算が必要だと思い改札へ向かう。ここで駅員氏が様々計算してくれたが どうやら値段は同じであったらしい。
次からは目的地まで買って下さいね
と注意を受けた。自分も申し訳なさと共に 本当は北小松から自転車だったんですけどねえ と意地を張ってしまったが 座席を変えるときに払い戻して買い直せば良かった話だった。普段 IC だから鈍っていましたね。気をつけます。

大溝

大溝のことは大溝記事に加筆するつもりだが とても良かった。
非常にコンパクトな城下町で 道に迷ってもロスが少ない。一瞬総門がわからなかったが地図サイトで確認して 何とかなったぐらいだ。
昼食は総門で教わった 高島びれっじ 手打ちうどんの店でエビフライの定食を戴いた。ここでも最初何処にあるのかわからなかったのは秘密
とても落ちついた雰囲気の店で ご飯もうどんもエビフライも美味であった。ただお会計の場所がわからず 少し後に来た一家が呼んでくれて 更に若いママ氏が 御先にどうぞ と言ってくれたので助かった。
優しい人たちの厚意によって今日も生かされています
昼食ですっかり元気になった私は 本丸を巡り 時間があれば現存武家屋敷を見物したいと思ったが これは時間の余裕が無く断念し近江高島の駅に引き返した。
散策の間 纏まった雨は降らなかったがたまにポツポツと落ちてきたし 折りたたみ傘を差そうにも風が少しあり難儀した。愛機 E-P7 は防水システムでは無いから こうしたときに防水のカメラが欲しくなってしまう。

新快速姫路行き

近江高島からは新快速姫路行きで一路山科へ向かう。十三時二十一分に高島を出るが ここで先頭車両に乗って旅を楽しんだ。やはり JR 西日本が誇る高速電車 223 系だけあって 迫力のある走行音だ。車窓も特段往路と変わりが無いが 近江高島出発直後に打下集落がよく見え 鵜川からは比叡山坂本方面を望むことが出来た。また湖面でマリンスポーツを楽しむ風景を見ることが出来たのは良かった。

新快速敦賀行き

山科には五十三分に到着。当初の予定では ここで十四時十二分発の米原行きに乗るつもりだったが トイレに行っても一本前の五分発新快速近江塩津行きに乗車することが出来た。これがラッキーで 湖南から湖東を時速 120km で爆走 彦根に四十八分に辿り着いた。当初の予定より二十分程早く到着し 彦根でも一本早い近江鉄道本線貴生川行きに乗ることが出来た。

さて新快速の車窓であるが 元亀争乱の舞台と共に事前に昔の鉄道ファン誌(2008-1)を引っ張りだし沿線の見所を地図に書き出していた。
まず瀬田川であるが 琵琶湖へ繰り出す遊覧船が目にとまり進行方向右手に見えるはずの係留船は見る余裕が無かった。次に南草津 草津間の草津川トンネル これは天井川の廃川であるが これは一瞬で 栗東守山間の三宅 金森もよくわからず 野洲川の天井川要素も 野洲電留線とは反対側に位置する永原城も住宅地に遮られ良くわからない。
同様に近江八幡周辺では永禄期池田家内訌関連史料に出てくる地名を地図に書き出したが 事前の予習通り西の庄の田園地帯が精一杯であった。
八幡山もどうも近江八幡駅のホームからは見えず それこそ西の庄を過ぎた辺りでようやく見ることが出来た。また甲良ゆかりの浄厳院はあっという間に通り過ぎた。
そうして進行方向右手に観音寺 左手に安土が見える。ようやっと安土城と邂逅することが出来た。
だがそれも束の間で ここを越えると湖東を驀進することになる。実はフォロワさんの御実家最寄りがこの辺りで 通過してしまったがなるほどなあと思った。また河瀬は地名からして河瀬氏の郷であろうし 藤堂九郎左衛門も私領を持っていたらしい。

近江鉄道・多賀大社参拝

さて彦根には四十八分に到着し 貴生川行きは五十三分に出発する。そして IC が使えないため 切符を購入する必要がある。ここで券売機なのか 窓口販売なのか予習していなかったので緊張しながら近江鉄道乗り場に向かう。
案の定窓口で前に三名ほど並んでいて 私の前の人が発券して貰う間に発車のベルが鳴る。前の人も私も焦る。
ただ駅員氏は動じることも無く 大丈夫ですよ~ と構えている。
結局発車が 1 分弱遅れたような気もするが 逆に言えば秒刻みの定刻主義が行きすぎているだけで これが本来の鉄道情景で牧歌的な風景でもあるのかもしれない。ちなみにここで発券された切符は硬券で嬉しかった。
そうして高宮で乗り換える。私は多賀大社行きに乗り換えるが 高宮から乗車する客の中には自転車を持ち込む人も居て そうだサイクルトレインをやっていることを思い出した。

高宮から多賀大社前はあっという間で 一見見所がないように思われるが犬上川北岸や霊仙の景色であったり 京極六郎が犬上川流域の多賀氏などに圧力をかけた男鬼入谷城など見所は多い。
ただし雨上がりの曇り空で 霊仙山などは望み薄であった。マニア的には多賀大社前の配線が面白い。これはかつての貨物線があった名残という。
多賀大社前には 15:10 に到着。降りるときにいつもの癖で何気なく降りると 運転士に止められた。そう 切符は回収されるものなのだ。せっかくの硬券が……とも思ったが 仕方ない。
一時間早く着いたから 予定と違い多賀大社に参拝することが出来た。

地方における公共交通と賑わい

駅からは道なりに 700m。しかし駅から参道 絵馬通りを進む中で 人の気は少なく本当にこの道で良いのか?と不安になったことは記しておきたい。流石に多賀大社の門前まで来たら賑わいを見せていた。どうやら平時は自家用車で参拝する人の方が多いのだろうか。
同様に大溝でも歩く人の少なさに驚いた。しかしお出かけの際に歩くという行動はあくまでも大都市近郊住民の特殊な慣習であって 少しでも外れると歩行よりも自家用車での移動が標準となる。後者が日本という国の一般的な風景なのだ。
そして公共交通も昨今の情勢では厳しい。こうした状況下で運転弱者は自由 人権や憲法で保障される権利が制限されてしまう。何かしらの解決策が欲しいものだ。

多賀大社は名神高速が近く 昨年には多賀スマートインターチェンジが多賀サービスエリアに設置された。近江鉄道はかねて存廃議論がつきまとう。彦根周辺は学校や工場が点在し 多賀大社線も高宮の次が工場隣接駅の スクリーン前 だ。故に当面は安泰とみられるが それでも厳しいのは変わりないのかもしれない。高島を走る湖西線も北陸新幹線の全通に付随して先行きが不透明だ。特に近江舞子以北は本数が減る。それは沿線を眺めていれば少々の厳しさは感じる。
そして高島市は滋賀県内の消滅可能性自治体でもある。多賀大社のある多賀町は何とか脱した。ちなみに高島と共に甲良町も消滅可能性自治体に数えられ 何だか高虎ゆかりの地域の二十一世紀は 厳しい現実との闘いになるのだなあと考えてしまう。

多賀大社と私

私は多賀大社と縁もゆかりもないと思っていた。しかし最近母方の叔父が町内会の集まりで多賀大社に参拝するという話を聞いた。そこで思い出したのが 亡き祖母も同じように多賀大社に参拝したことがあるという話だ。この話を聞いたとき ああ これも多賀講の一種か? と思った。
そしてこれも最近知ったが 高祖父 H の名が 多賀神社造営誌 昭和十三年 官幣大社多賀神社造營寄附者芳名 に見える。どうやら金一円以上を寄付したらしい。一瞬同姓同名かと思ったが 三重県にあるので確実に高祖父 H だろう。父親によれば昔当家は何かの事業をしていたので そこそこに富む家だったらしい。寄付することに何ら疑問は無い。

こうしてみると多賀大社とは縁もゆかりもあった訳で 尚更参拝せねばならぬ と思った。やはり祖母や高祖父の縁だろうか。もちろん私が高虎研究のために多賀氏や多賀大社文書を調べ 同町の先生のお世話 厄介 御迷惑 になっていることも 参拝する目的の一つになったのだと思う。あまりこういったことは言いたくは無いが 神々のお導きだったり 引き寄せられた とも言えるのでは無いか。かくして私も賽銭を投げ入れ手を合わせる。自分のことよりも 祖母がお世話になりました 高祖父と縁があるらしいです 多賀氏についてなど関してあること無いこと書いてすんまへん!!!!! と心の中で祈った。

敏満寺方面へ

参拝の後 どうしようかと思った。まだ 15 時半。帰りの新幹線は約 3 時間後。乗る予定の高宮行きまでもだいぶ時間がある。
フォロワさんからは門前の店での食べ歩きを勧められた。確かに揚げや甘酒や団子など 美味しい文字が浮かぶ。しかし大溝城下で食べた定食のカロリーで そこまで食欲は湧かなかった。
それでも甘酒や団子の他に 売り切れていた糸切餅にこれまた売り切れ閉店のコッペパンなど 食べることを目的に再訪したいなと思う。

地図で見ると 多賀大社から近いのは敏満寺跡地に立つ多賀サービスエリア。一方で以前から興味を抱いている久徳地区は芹川の向こう側で 目測でも少々遠いと感じた。今地理院地図で測ると二キロらしいので 勘もアテになるなと思った。
そうして多賀 SA を目指し絵馬通りを戻り 多賀大社前駅への T 字路を曲がらずに直進する。だんだんと名神高速を通行する車両の音が賑やかになり 名神高速にぶち当たる。私は地図を見るや ここで左に曲がり高宮池に沿ってサービスエリアを目指せば良いなと思った。これが失敗であった。
高宮池は近世に谷を溜め池にしたそうだが バンの鳴き声があり野鳥好きの心が癒やされる。
サービスエリアへ向かう坂道は 普段なら良い運動になると意気込むものだ。しかし早朝五時に起床し 折から睡眠が不足しがちな私は この頃には睡眠不足による頭痛が出始めており 大変過酷な上り道であった。スマートインターチェンジを抜けるとサービスエリアが見えてくる。
自分は運転してはいけないタイプの人間なので サービスエリアは縁が無いが 少ない経験と知識としてサービスエリアから徒歩で下道に出ることが可能な施設があることは知っていた。実際裏側から歩行者として入る経験は貴重で サービスエリアの賑わいは下手すれば多賀大社や彦根駅と同じぐらいのものであったかもしれない。そうした賑わいを眺めながらサービスエリア内にあるという敏満寺跡地の碑を探すが くまなく探しても見当たらない。
どうしたことか ここで検索してみると碑は上り側にあるらしい。そう 私は下り側に辿り着いたのだ。書いているように自動車関係に疎いと こういう事が起きる。逆も然りで 自動車に馴れている人には駅で困惑する人もあるかもしれない。
多賀大社からここまで 1.1km 時間は 15:56 である。上り線に行こうと思えば行けるが何分見知らぬ土地だ。そして三十分後に高宮行きの列車が出ることを踏まえ 碑は宿題として残し来た道を戻ることにした。

米原まで

程なくして高宮行きに乗り込むが ここでも最初いつもの癖で普通に乗ってしまったが 冷静に考えると無人駅だと何処から乗ったか証明するための整理券が必要になることに気がついた。多賀大社前駅は無人駅である。近江鉄道はワンマン運転で 進行方向前の扉 つまり運転室の後ろの扉が降り口となる。そして後ろのドアが入り口で ここに置いてある発行機から取る必要がある。すっかり IC しか使わなくなった人間には 面倒で仕方が無いが IC 以前けら視力の問題で苦手であったが 今は乗り換え検索が普及して手元で計算できるからまだマシだ これも地方交通の仕組みだ。それでいけば各駅でスタッフが声をかける伊賀鉄道などは 素晴らしいほどにサービスが充実 徹底していると感じる。

そうして高宮で彦根行きに乗り換える。乗り換えのためには線路を渡る必要があるが 素晴らしく古い構内踏切で 警報器や遮断機が設置されてるとは言え まだこんな前時代の設備が遺っていたのかと興奮してしまった。
タモリばりに左右を確認して渡り 暫くすると警報が鳴り彦根行きが入線。
これまた驚いたことに近江鉄道の古い車両 800 806 編成がやってきた。
行きも多賀大社線も西武鉄道そのままの顔であったが 行きは 100 104 編成 多賀大社線は 300 302 編成 彦根まで乗車した電車は これも元は西武鉄道の車だが近江鉄道で改造が施された形式である。
調べてみると行きと多賀大社線で乗車した車は何れも先頭車化改造された車で西武鉄道時代は中間車だったが 806 編成は元から先頭車で前面のデザインだけ改造された車であるらしい。
その車内は昭和四十年代の製造らしく懐かしい雰囲気が感じられ 座席もフカフカであった。
彦根に到着後 正面に止まっていた米原行きは今しがた写真を見ると 805 編成で連番並びとなったらしい。

そうして彦根から新快速敦賀行きに乗車 後ろ 4 両は米原止まりで 私は敢えて後ろに乗車した。
わずか四分であったが車窓には磯山を見ることが出来た。
16:55 米原に到着。これを以て東海道本線の未乗区間は岐阜県内の赤坂支線と京都から先の京阪神区間を残すのみとなった。

米原駅

それにしても 帰りの新幹線は一時間後だ。新快速の切り離しを見ても 米原駅は本当に何も無いなあと溜め息をついても時間が余る。
乗り換え改札に向かう通路で井筒屋のおばさまが駅弁を売っていた。元々そこで近江牛の弁当でも買うかなあと思っていたが 売っていない。新幹線改札内にも 井筒屋が あるか尋ねると 此処にしかない ホームにはない という。仕方が無いので一番人気の 湖北のおはなし を夕食として買うことにした。1400 昼も 1100 円だったから 普段外で食べるにしては奮発した部類だ。普段ケチケチしているのだから こういうところで使った方が良い。
その後改札内で何か無いか探すと キオスクがあり そこでも同じ弁当は売られていた。ここでも買えたじゃん と思いながら まあ井筒屋のおばさまと会話して買えたから良いと思いつつ 少しでも疲労を癒やすべくココア風味のミルクプロテインを購入した。

そうしてホームに上がり待合室で新幹線を待つ。流石に 17 時を過ぎると気温も下がり 長袖シャツだけでは寒気がして愛用のウインドブレーカーを羽織る。
充実感と同じぐらいの疲労感。もう動けないな と待合室でウトウトしてしまった。周りは集団で楽しそうに会話し 数分おきに米原を 280km の鉄の塊が通過していく。イヤーマフをつけてもうるさい。

帰路

52 ひかり 660 号が到着。N700 スモール A X51 編成だ。
このひかりは岐阜羽島と豊橋に停車するタイプのひかりで 豊橋からは新横浜まで停まらない。

座席に座り シートを倒して一息つこうと後ろの女性に声をかけるがイヤホンに夢中で困った。自分としては声をかけたので 普通に倒したが。
岐阜羽島に到着すると弁当を開く。これが美味で疲れた身体に染み渡る。普段こういったものはあっという間に平らげるのだが そんな力も無く珍しく二十分近くかけて完食した。気がつけば名古屋で ここで客層が入れ替わる。
食べながらホームを見ると自販機が目にとまる。ここで 5 分停車するが それぐらいあれば何かしら買おうと思えば買えるなと思った。東海道新幹線は車販が終了したので 例のアイスクリームなどもここで買った方が良い。それでいけば以前静岡駅に停まる列車で 通過待ちの間に適当なアイスを買って食べたことがあった。きしめんは流石に無理だろうが 停車時間があるとそうしたスリリングな楽しみも生まれる。
豊橋に着く頃には弁当もプロテインも片付き 新横浜ぐらいまで眠ることに決めた。

それから一時間で新横浜 確か小田原通過前後に目が覚めた。乗換駅品川には 20:05 分に到着する。実は休みの日の品川は東京駅よりも閑散としている。だから気分的に楽で 復路は品川で降りることが多い。元は兄が始めたことだが すっかり我が家では定着した。

乗り換えの列車が踏切の安全確認で遅れるハプニングもあったが それでも 21 時には帰宅できたので良かった。
それにしても東国の蒸し暑さには敵わない。雨上がりの湖国が如何に涼しかったのか思い知るのである。

感想など

長々と書いてきた。自分としても 旅の記録をこうして書き出すことは珍しい。しかし読むのは好きで 紀行文 鉄道雑誌のルポルタージュやフォロワさんのブログに載る旅記事はとてもよい。沢山読んできたからこそ ここまで書くことができた。

RAWでの記録

写真も様々撮って 400 枚近く撮影し RAW 画像も一緒に記録したので 10GB もした。当初は RAW で記録を取るか悩んだが 滅多に行かない 乗らないから RAW で記録しておこう そう考えたのが良かった。今一つ使いこなせていない E-P7 のカラープロファイルモードでは少々色合いが微妙なところがあり RAW でカラーモード設定の無い Natural の画像を吐き出せるのが大変有り難いと感じた。スナップ程度ではカラープロファイルによるカラーは面白いが 非日常の旅では Natural のほうが良さそうだ。
また露出も RAW 現像前提だと 適度な感度で絞り込みつつシャッタースピードを稼げるので気が楽だなあと思う。ただし HDD 容量との闘いになるのは微妙なところだ。
写真については Mastodon にアップロードする方法をとる。本当はサイトにアップしてしまうのがベターだが こちらも容量の問題もあるので外部に頼ろうと思う。

印刷した地図

また今回はサイトでも使用している地理院地図を印刷して そこに手書きで沿線情報を書いて活用したが これは中々面白かった。縮尺の都合で大ざっぱな地図になってしまうが 大まかな情報 特に湖西線から見える対岸の地理をスマホに頼らず把握できるのは良い。いやスマホの方が印刷されていない範囲の山々も確認できる。それでも充電とデータ容量を節約するためには 紙の地図もあった方が良いと感じていたので 実践できて良かった。

思うこと

そして思うところが一つあるので書いておきたい。私は一応は上方の言葉が混じる地域 三重弁とも言うが で暮らした経験を持つ。しかしそうした言葉遣いに染まる前に東国へ越してしまい すっかり所謂標準語とされる言葉遣いに染まりきってしまった。そして意地で使おうにも どうしてもブランクは似非関西弁と言われる三重弁が更に不自然な 似非 になってしまう。

滋賀も三重の言葉遣いに近いかなと感じて良かったが 同時に自己を省みた。やはりいたずらに溶け込もうとはせず 自分は標準語で生きた方が外聞 余所者とわかりやすいので良いだろう。
それはずっと焦がれてきた三重や上方 自己のアイデンティティとの断絶にもなる危機感ある。だが例え言葉遣いが東国の所謂標準語であったとしても 二十年間想い続けてきた一途さには及ばないのだろう。今までの意地張りは幼稚な思い出として ここは妥協することでまた少し大人の階段を登るのだ。

疲労

それにしても大変疲れた。寝不足による頭痛は次の日も軽く残っていたので 強行軍は健康に悪い。学生時代からあったものだが もう無理をする歳でもない。滋賀県には当分通うことになると思うので 次からは一泊二日するか 睡眠時間を確保する旅程 生活習慣に整えておかないと事故や病気に繋がってしまう。十分気をつけねばならぬ。

再訪へ

最後になるが私は滋賀県に通うことになると思う。
今回出来なかったサイクリングの実現に加え 高島郡の更なる見聞 甲良三郷や池田の郷の訪問 多賀大社門前の食べ歩きなど 滋賀県でやりたいことは山ほどある。今回と同じように日帰りを取るか じっくり宿泊するか色々試したい。
ともかく自分としても今後の人生において 魅力溢れる湖国との繋がりは大切にしたいと思う。

20241024 追記
大溝城探訪の様子を公開した。
打下集落と一揆 ならびに 大溝城を考える と共に御覧戴きたい。