大溝城を考える補遺・現地探訪記
本稿は 『大溝城を考える』 の補遺と、 九月二十二日に同地を訪れた際の探訪記をまとめたものである。
『打下集落と一揆』 ならびに 『旅行記』 の 3 記事を読んだ上で、 閲覧戴ければ幸いだ。
大溝城を考える補遺
以前の記事を公開した後、 私は 「総門」 の VTR ダイジェスト版を視聴し、 更に高島歴史民俗資料館の担当者様から御教示戴いた。そして九月二十二日には現地を訪問して見聞を深めた。
そうした情報に加え、 また新たに考えたことなどを補遺としてまとめたい。
総門のVTR
大溝陣屋総門の資料室ではこの春から十五分の VTR が上映されているが、 この VTR は天正期の大溝城が CG で再現されている。総門の VTR は八月にダイジェスト版が youtube にアップロード されている。
その CG は私が求めていた答えであり、 更に VTR は築城と同時に街道を現在の形に付け替えた関係を示す。満額回答といった具合だ。
もっと早く知っていれば、 こんなにも冗長な記事を書かなくても済み、 「何だ答えは意外とすぐ手に入ったのか」 等々思ったものだが、 やはり自分で検討に検討を重ねた経験の方が勝ると思いたい。
さて城部分の考証は当代一の三浦正幸先生であるが、 こうした地形はどのように CG で再現したのかと思ったが、 よくよく考えてみれば 「大溝城下古図」 といった絵図を参考にしたとするのが妥当であろう。
織田期・砂州の形態と打下
まず先方に問い合わせた中で一番気になっていたのは砂州の形態であるが、 こちらは自分が勘案した通り現在と概ね変わりないということであった。
そもそも砂州は鴨川の砂が湖流によって形成されるものであるらしい。
かつて読んだ 「琵琶湖西岸における底質特性について (京大防災研 ・ 昭和 60.4)」 という論文では、 乙女ヶ池 (内湖) は打下に流入河川も無いことから、 よくわからないといったニュアンスであったから鴨川から砂が流れているというのは驚きであった。
総門の VTR でも現在の形態と変わりの無い砂州を見ることが出来る。
砂州の水路
砂州を考える中で、 砂州を分かつ水路について疑問を持った。
「古代推定復原図 (高島町史)」 と 「明治期の低湿地」 でも砂州は水で分かれている。これは自然的なものなのか、 という疑問である。
結論として、 これは人工的なものではなく自然的なもの、 つまり昔からの川の流れ ・ 水路であるとのことである。
つまり砂州は一連なりでは無く、 川によって分断され、 その一部はあたかも琵琶湖と内湖の間に浮かぶ島のような様相を呈していたらしい。その北側に存在したのが大善寺だ。
打下、内湖のエコシステム
ところで打下集落 ・ 砂州上の家屋は内湖を向いている。内湖を向いていることで家屋から出る排水は内湖に溜まる。そして内湖で浄化された水は、 雨などで水位が上がり 「溝」 と欄干橋の二箇所から琵琶湖へ流れるというエコシステムが成立している。これも御教示戴いた一つである。
その後総門で拝見した VTR では、 排水によって内湖は栄養に富んでいると解説されていた。
元々 「かばた」 で高島を知り、 水野章二氏の著書にも影響を受けている自分としては、 こうした暮らしの話も伺うことができてとても良い機会であった。
萩浜の正確な位置
「萩浜」 についても教えていただいた。
かつて大善寺は 「萩浜」 にあったとする郡誌の記述もあったが、 これはアバウトな書き方で、 実際の萩浜は和田内川の北に位置し、 古来は 「真長浦」 と呼ばれていた浜辺でもある。そして萩浜と呼ばれるようになったのは昭和の頃からとのことである。
「勝野村地籍図」 の記述も郡誌同様にアバウトな書き方がみえたが、 当時の誤った認識に依るものなのかもしれない。
舟、内湖の水深について
更に内湖で利用された舟についても教えて戴いた。
琵琶湖で活躍したのが 「ひらた舟」 とよばれる舟で、 これが欄干橋をくぐることのできるサイズということで天守付近で発掘された 「船着場」 にはこの舟が発着していたと考えられており、 信長が用いたような大船は、 勝野の港であれば……とのことであった。私も乗り換える(1)なら 「そこだろう」 と考えていた。
似たところで内湖の水深は浅かったと伺った。後日別の目的で取り寄せた 『淡海文化財論叢第 11 集(2019)』 には宮崎雅充氏の 「大溝城跡石垣基底石から見た水位復元」 という論文が収まっており、 そこには水位が標高 84-85m の間にあったと想定されると述べられており興味深い。
(1) 乗り越える→乗り換える/20241104
石垣村はどこ
砂州の形態と共に課題とした一つが、 石垣 (いしかけ) 村の位置である。
結論から述べると、 やはり分部期に陣屋が置かれた字 ・ 郭内が石垣の一部ということらしい。さらに石垣村は現在も 「上石垣」 として残るようだ。以上の二点を御教示戴いた。
『高島郡誌』 によれば大溝の西側に位置するという。これは日吉神社の麓ということだろうか。
そうしたところで九月二十二日に大溝陣屋総門で伺ったところ、 やはり日吉神社にかけてが石垣となるようだ。
江戸時代は石垣は北門の外に 「石垣町」 として整備され、 現在は碑が残る。
つまり偶然にも、 私が 「勝野古絵図の道筋の図」 で、 「石垣村」 の文字を便宜的に分部期の武家屋敷部へ置いたのは、 あながち間違いでも無かったことになる。
三の丸の範囲について
大溝城の城郭のうち西近江路と近接しているのが 「三の丸」 である。
この 「三の丸」 の範囲は定かでは無いが分部神社の存在からすると、 駅前から伸びる道と現代の街道筋がぶつかる Y 字路の交差点付近までは広がっていたと思われる。同神社は交差点から若干南の病院側に鎮座しており、 その姿は近江高島駅山科 ・ 京都方面の 2 番のりばホームから見ることが出来る。
堀の北限
ところで総門で流れる VTR 上の再現 CG では三の丸の四方も堀が囲む。戴いたパンフレットに載る図でも同様だ。
かねて定かでは無いことが多い大溝城であるが、 この堀の北限 ・ 城下町側も定かでは無い。
だが戴いたパンフレット 『近江高島大溝の水辺さんぽ』 の 「江戸時代末期の地図」 と現存する道を比べると、 ある程度目星をつけることができる。ちなみにこの図を製作された志村清氏は地元を代表する歴史家ということである。(中井均 ・ 近江の陣屋を訪ねて)
小道の存在
それは Y 字路を城下方面に左折し、 現在の西近江路 ・ 県道 300 号線を北に歩き出して直ぐのところで、 脇の住宅の陰に 「小道」 が潜む。この小道は道路の反対側、 案内看板などの裏側 を抜け大溝港へと通じる。
現在の大溝港は江戸期に 「長刀町」 と呼ばれたエリア で、 西近江路共々東西南北 L 字形態のエリアとなる。今回取り上げる小道は、 ちょうど長刀町と西近江路の曲がり角 ・ L 字の直角部分へと通じるのである。
そしてこの 「小道」 は 「江戸時代末期の地図」 にも見え、 推測通り堀の北限が Y 字路の交差点付近であると言える。
同様に分部神社の位置も合わせて鑑みると、 三の丸の北限も交差点付近と言えよう。
交差点から見た三の丸の写真
近江高島駅から見た三の丸
以下は赤が西近江路、 黒が 「小道」 を示した図である。
小道の西端
ついでに述べると 「江戸末期の地図」 には三の丸と武家屋敷群の接片が描かれている。この接片が現代の地図上では何処にあるのか、 これも 「小道」 から推定することができる。
すなわち 「小道」 の西端は、 「江戸時代末期の地図」 で総門から南へ延びる道と接する。この道を挟んで 「人数溜」 が置かれていたようだ。
現代の地図上でも 「小道」 は南へ伸びる道と接する。最も北側は江戸時代末期から改変されたらしく、 総門へは少々曲がる必要がある。
「江戸時代末期の地図」 によると、 三の丸との接片は南への道の南端である。
この人数溜に沿う道は南端で西に左折する。これは現代の地図上でも変わらない。
小道の成立時期の検討
ここで、 最も早く成立した 「千石組絵図」 で道を探る。
まず前提としてこの絵図は道を探るのには不向きであることを断っておこう。
まず砂州の中央部を 「道」 であると仮定して、 黄色に塗る。そして堀を越える橋 (江戸時代には欄干橋と呼ばれた) も塗りつぶすと、 対岸に L 字形態が見える。これは 「江戸時代末期の地図」 に見える六軒町から長刀町の形態と一致しており、 自ずと 「橋」 と接する部位が道と判断できる。
L 字を塗りつぶすと T 字路にぶつかる。ここも 「江戸時代末期の地図」 に見え、 東に行くと舟入町と徳善寺、 西へ行くと江戸屋町へ通じる。江戸屋町で北へ進路を取ると本町、 直進すると総門へ通じる。
以上のことを踏まえると、 承応四年(1655)の道は江戸時代末期の地図と既に変わりない状態であったと考えられる。これは九年後に成立した 「大溝城下古図」 でも同様だ。
しかし二つの図と 「江戸時代末期の地図」 が異なるのは 「小道」 が成立していない点である。
「千石組絵図」、 「大溝城下古図」 の何れも長刀町の L 字部分から直進することはできない。「江戸時代末期の地図」 では L 字部分には 「倉ノ庫」 が並び、 その南際を内湖 ・ 堀の北端に沿って人数溜へと辿り着く。「倉ノ庫」 の裏には堀が流れ、 内湖へと注ぐ。「小道」 はここに橋を架けたのだろう。
「千石組絵図」 や 「大溝城下古図」 ではこの堀によって区画が寸断されており、 「小道」 は成立しない。
「江戸時代末期の地図」 は享保十七年(1732)に成立した 「大溝旧図」 をデフォルメしたと見えるから、 「小道」 が成立したのは享保十七年(1732)以前と考えられる。
そして 「大溝城下古図」 には 「人数溜」 にあたる部分の堀端に、 黒い線が見える。これが後の 「小道」 の西側になると思われるが、 どうやらその原型は寛文四年(1664)には成立していたらしい。
小道のまとめと大溝城の形
ここまで小道について考えてきた。
「大溝城下古図」 と 「江戸時代末期の地図」 を見ると、 この小道を抜けた先にある分部期の 「人数溜」 に沿う道の南端と、 三の丸の北西端は接している。分部期には武家屋敷群 (郭内) と接していたことになるが、 築城当初は城外の石垣村と接していたことになる。
『織田城郭絵図面』 はこの接片に 「門」 が置かれているが、 ここが城内外の境目である事を考えると蓋然性はあるだろう。同図面は製作時期が不詳で、 砂州が描かれず、 その人名に怪しいところが多いが、 少なからず見るべきところはあるかもしれない。
さて大溝城の二の丸 ・ 三の丸、 西近江路に沿った部分は基本的に長方形で構成されている。しかし三の丸と 「道」 の接片は長方形の上部横から四角形が飛び出しているイメージとなる。
こうした情報をオリジナルの図に落とし込み、 地形に準拠させると次のようになるが、 地形の水部に合わせた場合は少々歪な三の丸と相成る。こうしたところで本丸も同様に少し面白い形になる。
鎮守社について
城の守りといった部分で縄張りと同じくらい重要なのが鎮守社の存在である。
磯野員昌はこと城の鎮守を重要視しており、 佐和山や目加田での一幕は吉田兼右の記録に見ることが出来る。
高島郡であれば新庄城周辺の字には大将軍があることから鎮守社となり得る大将軍神社との関係が想起される。
そのようなところで大溝城は如何であったのか。
単純に考えると分部期に分部神社が置かれた三の丸に元となった鎮守社があったのか、 はたまた城から程近い石垣の日吉神社の何れが思い浮かぶ。
二つの日吉神社
高島郡の寺社の由緒をまとめたのが 『高島郡誌』 だ。この便利な資料によると二箇所の日吉神社について次のように述べられている。
石垣の日吉神社
まず石垣の日吉神社について。
祭神は大山昨命で、 元々長法寺の鎮守として坂本より山王権現を勧請とある。その後、 石垣村の産土神として崇められるも衰退していたようで、 分部期に社殿の修補が行われたらしい。そして日吉神社と改めたのは明治二年とあるので、 それまで長らく単純に 「山王権現」 か 「山王社」 と呼ばれていたのだろう。
山王権現を城の鎮守としている例は江戸城が有名で、 現在政治の中枢永田町に近い日枝神社がそれである。しかし郡誌の記述からは、 此の城が大溝の鎮守として扱われたとは読み取ることが出来ない。鎮守であれば廃れることは無かったのではないか。
打下の日吉神社
次に打下の日吉神社を見てみよう。
祭神は瓊瓊杵尊で、 明治に現行の日吉神社と改められるまでは十禅師宮であったようだ。伊藤信氏の 『磯野員昌と神社』 に依れば十禅師は日吉社山王七社の一角ということで、 広く見れば石垣の日吉神社 (山王権現) と同じと言えるかもしれない。
さてこの十禅師社は石垣の日吉 (山王権現) と同様に長法寺の鎮護社であったようだが、 西佐々木七人の祖といわれる佐々木高信 (高島) の崇敬によって社字を修築したことが郡誌に述べられている。
天文年間白鬚神社と同時期に六角氏によって改造され、 長法寺共々焼亡するも 「信澄」 が後に社殿を造営、 その後京極高次や丹羽長秀が社参し分部期には社参に加え社殿の造営が行われている。
このように中世以来、 武家の信心を集めていたことが由緒から浮かび上がり、 特に 「信澄」 以降大溝の主となった面々が社参していた点は同社が大溝城の鎮守社としての風格を醸し出す。(最も高次と丹羽長秀では順番は逆である)
ただ元禄二年(1689)に追放された社人が社記 ・ 古文書等を持ち去ったことで歴史が失われたようであり、 以上のことも何処まで正確なのか定かでは無い。
この 「十禅師社」 が大溝城の鎮守社である可能性は、 磯野員昌の先例に見ることができる。つまり永禄十年(1567)に員昌は吉田兼右に対して佐和山城の鎮守に関する要望を伝えているが、 その要望の中で目賀田 ・ 肥田 ・ 佐和山の何れも 「鎮守為十禅寺」 とある。
こうした由緒と、 国内での先例から大溝城や、 前史打下城の鎮守が現在の打下の日吉神社である可能性は高いと考えたい。
由緒についての注意点
なおこうした歴史の中で永正十五年に亮政による兵火を蒙ったとか、 海津政義の社参があり社殿を修補したとの記述、 更に天文十八年には久政の兵が乱入して狼藉を働いた、 元亀三年(1572)に織田軍の大溝攻めで長法寺共々焼亡したとの記述は史料的な裏付けに欠けるため省いている。更に兵火に遭った等という記述は諸般の事情から省いている。
同様に石垣の山王権現でも永正二年に高島玄蕃允が崇敬して社殿を修補し、 十五年の高島氏滅亡の後は衰えたとの記述が見られるが、 こちらも同様に省いた。
まず高島玄蕃允、 海津政義は軍記 『浅井三代記』 にのみ見られる人物であり、 永正十五年に行われたという亮政の攻撃も同様に 「浅井三代記」 の叙述でしか無い。残念ながら史料的な裏付けに欠けるし、 この頃の亮政は表舞台に登場する前で、 北郡の一国人に過ぎない。(亮政=推しを活躍させたいという江戸時代の作家の思いは素晴らしいと思う)
そして元亀三年(1572)に長法寺共々焼亡したとの記述であるが、 こちらは年代的には元亀四年(1573) ・ 天正元年(1573)の方が妥当と思われる。しかし打下は元亀二年(1571)には織田方に転じており、 攻撃を受けるいわれが無い。そして発掘調査でも長法寺本堂跡の礎石に焼けた痕跡が見られないことから、 焼亡したという伝承 ・ 由緒は事実から程遠いのでは無いかと考えることが出来る。
ただ天文十八年に浅井久政の軍勢が乱入したというのは、 これは年次や人物に誤差はあっても (久政が六角を離反したのは翌十九年とされる)、 実際にあったことかもしれないと考えている。というのも、 定頼期に北郡衆は音羽表に攻め寄せ、 元亀争乱下には小松の伊藤氏が打下方面に攻め込んできている。こうした戦いに同社が巻き込まれたこと話が、 天文十八年に久政兵の乱入という由緒へ変化したと考えることも出来よう。
織田城郭絵図面について
ここまできたら原点とも言うべき 『織田城郭絵図面 (以下絵図面)』 とも向き合いたい。
八月に記事をアップした際、 フォロワさんに 「惜しい&勿体無い」 との御言葉を頂戴した。自分としてもこのまま放置するのは作った当時の自分に申し訳が無い。
今回三の丸を探るなかで、 思いがけず 「小道」 と絵図面が一致することに気がついた。また本丸と二の丸を接続する部分も、 絵図面や城下古図など同様に考古学的な見地からも 「土橋」 が検出されている。このように、 絵図面のすべてが荒唐無稽という訳でも無く、 ある程度見るべきところはあるらしい。
そこで絵図面に現状の情報をインプットしたのが次の図だ。
まず絵図面に描かれる家臣のうち、 確実に実在した渡辺与右衛門 (重)、 堀田弥次左衛門 (秀勝)、 赤尾新七郎以外を削除。更に通りの名や施設名も削除した。
問題点
そして問題点として、 砂州の存在が考慮されていない点、 「江戸時代末期の地図」 と道筋が異なる点、 砂州同様に無視された石垣村の存在を明記し、 西近江路と城下 ・ 本町通りの接続部分を課題として記した。また総門部分と一致する門についても触れている。
そして 「江戸時代末期の地図」 や発掘調査の結果と合致する点として、 「小道」 と 「西近江路」、 本丸と二の丸の接続部分を一致する点として記した。(付随して二の丸 ・ 三の丸を記している)
更に便宜的に二の丸 ・ 三の丸付近に市民病院を記している。
このようにしてみると城郭の主要部分は正確であるように見える。それは絵図面の制作者が、 リアルタイムで見ていた景色を図面に起こしたことが大きな要因だと考える。または天守こそ移築されたとはいえ、 分部期にも概ね構造上の変化が無かったことを示唆するのかもしれない。さて 「織田城郭絵図面」 では 「小道」 が描かれている。「小道」 だけで考えると初期に成立した絵図二種よりも、 享保十七年(1732)以降の形態に近いといえる。そうなると製作時期というのも同じ頃ではないか。
そうなるとやはり信重の時代から百五十年近く経過した時代に作られた絵図面は、 どこまで信用して良いものかと考えてしまう。
ただし今後の発掘活動の進展によっては、 この絵図面を立証するような痕跡が検出されるかもしれない。長い目で追っていきたいところである。
大溝城の見え方
文献調査の過程でも現地を歩いていても感じたことがある。
それは大溝城は丸見えだったのではないか、 という疑問である。
まず大溝城の本丸を目指す中、 向かって正面右手の山中に白い頭が見えた。これは打下にある水道施設で、 この施設の建設過程で打下古墳が発掘されている。
二十年前には古墳周辺から大溝城はしっかりと眺めることが出来たらしく、 その景観は 『図説 高島町』 で見ることが出来る。ただ検索するところ近年は樹木の生長により眺めることは難しいようだ。
考えると平成時代に古墳から大溝が丸見えであったということは、 当時そびえる山々からも丸見えであったということが言えるのではないか。
いや、 山頂まで登るまでも無かった筈だ。
というのも現在湖西線の高架から天守跡を見ることが出来るが、 その高さは標高 90m 程度。古代北陸道が通っていたとされる山裾はそれよりも高く 100m を越え、 石垣の日吉神社 (山王権現) は 120m だ。
一見すると大溝城は山裾からも丸見えの城であったように思える。
最も山間部は今でも土地の権利関係で立ち入りは厳しく制限されているだろうし、 それは中世当時も同様だと思う。山から見ることは容易でなかったと、 ここでは考えたい。
同様に地図上だけで見れば砂州 (西近江路) から本丸や二の丸は丸見えだ。
しかしこれも曲輪には何かしらの壁があった筈で、 通行人が館を探ることは容易でなかっただろう。何より打下集落の住居は内湖に面して置かれていることから、 もしも中世時点でそのような形態であれば、 砂州上の街道から大溝城を覗き見ることは難しかったであろうと考えても居る。
大溝城からの見え方
天守跡に登ると立っているのは砂州方向を望むことが出来た。
そこが天守の一層部分であろうか。総門の VTR によると 2 層の天守であったから、 2 層目からは城下も、 街道の往来も、 琵琶湖も山側、 北に安曇川方面も見ることができたと思われる。
シンボリック、 詰めの天守というよりも、 そうした街道や琵琶湖の監視としての側面も見出したい。
現代では、 往時地域で最も高かったであろう大溝城天守と同規模か、 上回る建造物ばかりである。天守の背立つ立つ市民病院は地域で最も高く、 院内からはなかなかの景色が望めるのではないか。最も病院はそういった用途では無く、 お世話にならない限りは立ち入ることはできない。
一番安全なのが近江高島駅のホームから眺める方法で、 私が訪問した日は生憎の天気で眺望など望むまでも無かったが北に間近な武曽 ・ 田中の山は見えた。検索すると空気が澄んだ晴れた日には伊吹山や白山を見ることができるようである。
そして地図上で見ると大溝の対岸はお馴染み中郡であり、 高虎も晴れた日や冬の日には故郷を懐かしんでいたことだろう。
ところで信重の父は白山を信仰していたとされる。信重本人はどうだったのか定かではないが、 遠くに見える白山には何かしら感じるところがあったかもしれない。
そういえば VTR は対岸に安土城が見えたであろう、 とも語っていた。安土城が見えたということは、 それ以前の時代は観音寺城も見えたのではないかと思う。こうしたところで西の国人たちが六角派であったことは、 毎日観音寺を見ていたという視覚的な部分も影響したのか、 新快速に乗りながら思案したものである。
推定大溝城と地形
こうした高島歴民俗資料館担当者氏、 総門で得た情報を総合して、 今一度 「推定大溝城と地形」 を作図してみた。
ベースは淡色地図 ・ 明治期の低湿地 ・ 自分で作る色別標高図と八月から少し変えた。
「近現代西近江路」 から 「近現代」 を外し実線にした。付随して現在のカーブする道では無く、 資料を元にして道を描いた。現在の地図で見ると橋 (欄干橋) を渡り右手の大溝港 (これは近代にできた) に曲がる道こそが、 往時の西近江路なのだろう。
また 「推定城郭部部」 の文字自体を外した。更に総門で戴いた資料をもとに二の丸 ・ 三の丸も描こうとした。
このように出来上がった図であるが、 課題を述べるとすれば北側の様相であろう。本町の裏側とも言うが、 ここが往古どのような地形をしていたのか興味深い。
大溝城探訪記
ここからは九月二十二日の様子、 その中で大溝城を散策した記録を書いてみたい。既に当日の旅の様子は記事にしているので、 そちらも読んで戴けると嬉しい。
湖西線のトンネルを出ると、 下り進行方向右手に田園と並木の緑が豊かな内湖が見える。内湖を挟み東側には、 これまた生い茂る木と共に住居が見える。ここが砂州である。晴れていれば砂州の向こうに琵琶湖と対岸の景色、 地図だけで見れば中郡 ・ 磯山などを見ることができるのであろう。
田園地帯の高架を往く列車であるが、 進行方向左手山際には古代北陸道が通っていたらしいことを意識しておきたい。
近江高島駅に差し掛かると右側に高島市民病院が近づいて、 遠目に病院の駐車場と本丸天守台付近の木々が視認できる。駐車場には厳冬期除雪車としても活躍するホイールローダーが置かれている。ここが大溝城跡地であるが、 今回制作した図と照らし合わせると病院は内湖 (堀) で、 ホイールローダーが留め置かれている駐車場が 「二の丸」 となる。
実際の写真
総門まで
近江高島駅の改札口を出ると、 メルヘンチックなロータリーが出迎えてくれる。この辺りも昔は石垣村であったのか、 それとも大溝城を囲む堀であったのか判然としない。
ロータリーの北には高架下東西を横断する道路が通る。この道を横断し、 湖西線に沿うように北へ行けば分部期に武家屋敷が置かれた地区へ行くことができるが、 ここも古く石垣村と呼ばれた地域である。
近江高島駅から大溝城本丸や城下町へ出るならば、 この道を直進し Y 字路の交差点をそれぞれ行きたい方向へ右折 ・ 左折することになるが、 その道中右側に高島市民病院への入り口が目に入る。この辺りが 「三の丸」 となる。
帰り際に撮影した写真
西近江路
Y 字路を左方向、 つまり北に曲がると進行方向右手に滋賀銀行が見える。この交差点で同じ右方向、 東から来ている道が西近江路である。
ここから西近江路は北に真っ直ぐ延びる道を往く。ここが本町の通りで、 「高島びれっじ」 として親しまれている辺りは 「南市本町」 となる。その名の由来は安曇川流域を領した佐々木田中氏の拠点 ・ 田中郷にあった商人地 「南市」 を、 天正期の築城にあたりに移したことによる。
西島太郎氏によれば田中郷の南市 (高島南市) は郡内最大規模であり、 田中氏の経済基盤の一つでもあった。そうしたところから南市は高島門徒の拠点の一角でもあり、 城下に座す勝安寺 ・ 妙琳寺も元は南市にあったとされる。そして天文年間、 妙琳寺で指導者的立場にあった人物として明誓が挙げられるが、 同じ名前が永正年間に打下最勝寺にも見えることから、 両寺の関係性も興味深い。(講座蓮如第五巻 ・ 近江湖西地域における蓮如教団の形成と展開)
ちなみに滋賀銀行のある合流地点付近は 「蝋燭町」 といって分部期に整備された町だ。
実際の様子
本町の通り
総門へ
私はこの辺りで道に迷った。単純な予習不足が大きい。なるべくスマホを見ないでいきたかったが、 頼るべきは文明の利器だ。読んでいる方には、 ともかく滋賀銀行のところで再び線路側へ向かう、 これを覚えて置いて欲しい。
ここで通りを横断して西側 ・ 近江高島駅方面へ進むと、 進行方向左手 ・ 南側に 「総門」 が見える。
資料室で VTR を鑑賞したり、 パンフレットなど様々情報を収集するのが良い。私は紅茶党なので遠慮したが、 無料でコーヒーのサービスがある。
城下町を歩く
総門の正面は職人町、 ここから暫く湖西線の高架へ向けて歩くと北への通りと交わる。
通りがある町場は 「西町」、 越えて更に高架へ向けて歩くと民家の傍らに 「石垣町」 の碑と短いの道がある。言うまでも無く 「石垣村」 の名残で、 道は石垣町の通りだ。このあたりは分部期に整備された城下町で、 それ以前は広く石垣村であったのだろう。
写真
西町の通りを北に歩くと、 東へ通じる小道 ・ 路地が見える。その軒先を申し訳ない面持ちで進むと、 本町通りから分かれた道に行き当たる。正面が本町通り、 左手に同じように北へ延びる通りが見える。これが 「南市中町」 の通りだ。
名残惜しく 「南市中町」 を後にすると、 今度は進行方向右手に勝安寺が見える。この勝安寺の本堂は元々織田期大溝城の書院と伝えられており興味深い。本丸に建っていた可能性もあろう。ただし当日は山門から伺うだけで (失念していた、 予習不足だ)、 じっくり撮影していなかったのが惜しい。
写真
城下町の範囲は北の和田打川まで、 砂州からは南北一キロ弱となる。その最北端が新庄新町である。文字通り多胡氏や磯野員昌が治めた新庄城からの移転である。ただ今回は南市本町を軽く見た程度で、 城下町巡ることはできなかった。再訪の際は新庄新町まで巡ってみたい。
本丸を歩く
本町 ・ 高島びれっじのうどん屋で昼食をとった後、 件の Y 字交差点へ戻り、 今度は砂州の方向へ歩を進める。
道路を横断し分部神社の前を過ぎると本丸への細道が始まる。
写真 ・ 細道から砂州方面を眺める。
道なりに進むと介護老人保健施設 「陽光の里」 の裏側に出る。ちょっとしたテラス席に面しており、 晴れた日は利用者 ・ ヘルパーが過ごしているのだろうが、 この日は雨で人気が無く気まずい思いをせずに済んだ。コンクリートで舗装された道は苔の影響か、 雨の影響か滑りやすくなっていたので訪問の際は滑りにくい靴が望ましい。私は愛用しているアシックスのゴアテックシューズで難を逃れた。重心も低く歩いた方が良いかもしれない。
この辺りは堀の跡と思しき水路も流れているから、 転倒等によって自分自身やスマホやペットボトル、 カメラのレンズキャップなど細かな備品が水路に落下する恐れもあるから一層の注意が必要だ。
写真 ・ 細道と水路
施設の前を過ぎると草むした空間が広がる。正面左側 (北) に小高い林が見える。良く見ると石垣が姿を見せていることで、 これが大溝城の天守台で、 この空間が本丸の跡であることが理解出来る。
写真
土橋跡
さて今自分が立っている位置を制作した図で見ると、 堀 ・ 内湖の中である。堀の跡は僅かな水路として残り琵琶湖へと注いでいるが、 大体は埋め立てられ天守周辺以外は市民病院や福祉施設として活用されている。それ以前は水田として利用されていたらしく、 草むらからはバッタの類の昆虫が元気よく飛び跳ねる。
そうした辺りで、 さて本丸と二の丸を繋げる土橋の痕跡が検出されたのはどの辺りか、 特に案内が無いのでわからなくなる。仕方ないので道なりに進むといよいよ天守台の目の前に立つ。
写真
天守台へ
大溝城の天守台は小規模だ。無論崩されていたり、 草木が群れているからそう感じるのかもしれない。
いや私が見たことのある天守台が、 津城や上野城といった規模の大きな天守台ぐらいであることが影響が大きい。比べるのは酷ではある。逆に考えると藤堂高虎の築城というのは、 この大溝から始まったという説がある。築かれた時代は高虎が高島に居た末の頃にあたる。
その後高虎は人よりも多く城建築に携わった。打下の石工たちから石の切り出しや積み方を学んだのかもしれず、 この大溝は原点の一つと言える。
できあがったばかりの小さな天守を、 一人の若き大きな男が目にした。小さいながらも、 大きな男の夢を膨らませるには十分だったに違いない。
石垣に作彼岸花を尻目に階段を滑りに気をつけながら登る。
草木に覆われる石垣だが、 一方向だけ視界が開いており、 正面左側に福祉施設が見える。これが三の丸側の堀で、 正面には砂州を渡った L 字形態の部分が見えることになる。現代では内堀側も埋め立てられ宅地として利用されており、 僅かに残る水面が見えなければ面影を感じることはできない。
写真 ・ 天守跡と登ってすぐの景色。
天守からの眺め
後ろを振り返ると彼岸花越しに市民病院敷地が見える。土橋跡の位置と向きから考えると、 市民病院の敷地が二の丸と考えられる。そして絵図などから、 本丸と二の丸の間を堀 (内湖) が隔てていたことになる。
そして今一度琵琶湖の方向を見るが、 やはり望むことは難しい。天守があった頃、 また分部期には見ることが出来たのか興味深い。
二の丸、打下古墳を眺める
名残惜しいが天守台を跡にする。
実は本丸 ・ 天守から内湖へは散策する道筋となっているのだが、 時間の都合で来た道を引き返すことにした。
その道すがらフェンス越しに市民病院を見ると、 先に湖西線の車窓で望んだ除雪車両が留め置かれている。この辺りが二の丸になる筈だが、 何処までが堀であったのか発掘調査の進展が待たれる。
そして視線を山側に移すと、 湖西線が山へ向かい、 更に南東方向を見ると山中に白い頭が見えた。これは打下の水道施設であるが、 同時に打下古墳であることも示している。
打下古墳からは大溝城一帯 (砂州を含む) を一望する写真は閲覧したことがあるが、 城から打下古墳を眺めた写真というのは珍しいと思う。発見したときはとても興奮した。本当はここから湖西線でも見えないかな、 と思っていた。車内から見えたのだから、 時間が合えば見られる筈だ。
欄干橋・長刀町を歩く
来た道を戻り、 今度は欄干橋方面を行く。本当は砂州を進み打下集落を散策したいものだが、 生憎時間が無い。
とりあえず橋を渡り、 一歩だけでも砂州を歩いてみようと思い歩を進める。歩き出してすぐ、 建物の奥に林が鬱蒼としている。言われなければ、 これが大溝城の本丸だと誰も思わないだろう。
写真
欄干橋からの景観
大溝の町と砂州を繋ぐ橋は、 江戸時代分部期には架かっていて 「欄干橋」 と呼ばれた。それ以前はどうかわからないが、 ここに街道が通っていたと仮定するならば、 欄干橋の原型となる橋も架かっていたと考えるのが自然であろう。
写真 ・ 欄干橋
橋はそこまで広くもないので自動車が通る際には気をつけたい。この日はそこまで車の往来が少なかったので、 橋から大溝城 ・ 二の丸方面、 また反対側の景色をのんびり眺めることが出来た。
ただ大溝城を眺めたところで往時の姿とは程遠い。僅かに 「雰囲気のある水路」 感を醸し出しているのが救いであろうか。
そして反対側の景色であるが、 実は琵琶湖を望むことは出来ない。橋からは北側の景色、 もしくは本町の裏手とも言うか、 そちらの景色が見える。琵琶湖は画面右手、 そして画面左手が大溝港だ。
橋を渡ってすぐに石材店が出迎えてくれる。かつて打下には石工が暮らしていたと予習はしていたが、 実際に見ると古くからの石文化を感じて圧倒される。
名残惜しいがこの先は宿題として来た道を戻る。まだ少し時間があり、 橋を渡りすぐ右へ曲がる。ここが西近江路である。
振り返り欄干橋を眺める。現代では砂州もすっかり舗装されているが、 織田期はどのような姿であったのか興味深い。そして橋の下を流れる水は、 往古より、 織田期より変わらない水の流れだ。ここをくぐり琵琶湖と内湖を出入りする。数年前の発掘調査では本丸に船着場形態の構造物が検出されており、 大溝城本丸への舟の往来も、 ここを通っていたことになる。
西近江路・長刀町
この時点で、 この道が西近江路だとは思っていない。どちらかというと現代の港である高島港を見ておきたかったから、 この道を歩いていた。一応、 ここが長刀町であることを示す碑や道の風景を撮影していたが、 帰宅後の復習過程でここが西近江路であることに気がついた。言われてみれば街道沿いの町家の雰囲気が漂っているような気もする。
写真
近江高島駅界隈
長刀町を抜けると乗車する新快速の到着時刻まで程よい時間になったので、 近江高島駅へ向かう。その際に 「小道」 を通ったのか、 一度滋賀銀行 ・ 本町へ曲がる地点に出たのか一ヶ月経った今では記憶が定かでは無いが、 暫くしてから辿ったルートの記録を見ると小道を通ったようである。
その道中に市民病院を撮影し、 そのまま湖西線をくぐり武家屋敷を見に行こうとしたが時間がやはり僅かであるために、 大人しく近江高島駅に入場した。
近江高島駅からの眺め
武家屋敷への時間が無かったことは残念であるが、 近江高島駅の京都方面ホームからの景色も当初の目的の一つだったからトントンだ。
まず三の丸方面を眺める。家に帰ってから気がついたが分部神社がよく見える。やはり分部神社の存在が、 この敷地が三の丸であったことを示すから有り難い。
写真
一方で二の丸は眺めることが出来ない。ただ市民病院を写しただけになってしまう。
写真
ホームの京都方先端まで来ると、 打下を眺めることが出来る。狭隘の地という雰囲気だけは伝わるだろうか。
写真
反対に北側の景色は上手く捉えることが出来ない。天気が良ければ違うのだろうか。石垣の日吉神社方面の景色も、 予習不足で神社仏閣がどの辺りにあるかわからず、 とりあえず古代北陸道を想定して撮っただけなので曖昧な写真になってしまった。
写真
近江高島駅からは見える景色、 見えない景色があることがわかる。これも実際に見聞したお陰だ。その後新快速に乗って打下の景色を狙うと、 想定通り浄照寺や最勝寺を捉えることが出来たので良しとしよう。
写真
終わりに
つらつらと述べてきた。
実際はこんな深く考えていなくて、 電車の時間のために早歩きであったし、 最初は地理感覚も掴めずに 「どこやここ」 と思ったものである。
更に書きながら写真を見ていると、 全く良い写真が無くて悔しい。雨が降っていたし、 時間も限られていて難しかったと言い訳をするが、 写真を撮るためだけにも再訪したい。
それでも僅かな滞在時間、 天気が悪くても満足できるボリュームがあった。
考えてみれば城というものは津と上野、 または江戸ぐらいしか知らない。
いや書いていて思いだした。二十数年前、 修成小学校の遠足で豊津上野駅近くの公園に行ったことがある。ここは分部氏が大溝へ来る前に居城としていた上野城 (伊勢) 跡の公園かもしれない。
何事も無く触れているが、 津に居たということは分部氏とも縁があると言うことで、 そうしたところでも大溝には行きたかった。
大溝は津や上野 (伊賀)、 江戸と比べると圧倒的に小さい。(伊勢上野とは比べようがない)
津に住んでいた頃は、 近鉄の駅前にビルが建ち並ぶ四日市と比べ子どもながらに 「なぜ四日市が県庁所在地では無いのか」 等と卑下したものだが、 大人になると城の規模に圧倒されるばかりだ。
大溝はコンパクトな城である。それでも今回見ていない城下町北側、 石垣村 (日吉神社 ・ 大善寺)、 砂州 ・ 打下集落を含めると、 それなりの規模感にはなるだろう。
書きながら、 早くも再訪の気運が高まってきた。