久居旅行記

三月二十四日 ようやっと久居を訪問することが出来たので少し書き連ねてみたい。

久居について

久居に興味を持ったのは二十数年前 父の転勤の都合で津市に越してから暫くしたぐらいだ。
津市と松阪市の間に挟まれた謎の市 高茶屋は津市なのに久居は久居市。または梨が有名らしい。久居農林という高校がある といった曖昧なイメージである。
特に久居農林は地域の物産展や三重刑務所の矯正展にも顔を出しており 祖父にシクラメンを買ってもらった思い出がある。
確かあれは 2003 年のことだったか 祖父はそれから二年後に突然亡くなったから 奇しくも形見の花となった。1

久居に行きたい

祖父の命日は検視の結果 およそ三月二十三日と推定されている。それから二十年経って久居を訪問したのは何か不思議な縁を感じざるを得ない。
いや本来であれば十二月のクリスマス頃に行く予定だったのだ。しかしどうにも体調を崩し 行くことが出来なかった。その旅費で再訪しようと企んでいたが これは服代などであっという間に溶けて消えた。

そうして三月になり お彼岸あたりで何をするでも無く休みをとっていたところ 母から休みに何するのか問われ それなら久居でも行くかあと思い立った。背中を蹴られるまでは国会図書館でも行って資料でも探すかと考えていたが 突然脳内に久居がやってきた。

計画

兎にも角にも 手元不自由な砌 な自分にとって どのようにして久居に行くか悩みの種である。
十二月の計画では最初に津の昔住んでいた辺りを廻ってから バスで向かうつもりだったが2 それでは余計に金が掛かるし そもそも計画に無理があると思っていたので現実的では無い。昼飯のことなど考えてもいなかった。

そうなると名古屋からは近鉄一択であり 如何に名古屋までの料金を頑張るか というところになった。
そうしたところで EX 日帰り 1day は乗車する新幹線こそ限られるが 1000 円の電子クーポン付きなのに定価よりも約二千円安く東京名古屋を往復することができることを知った。
乗車する新幹線こそ限られるが 名古屋 19 時発なら滞在時間に余裕が持てるので 悪くないな と感じ即決。
実は今まで EX 予約は使ったことが無く そんなに乗る予定もないからとりあえず スマート EX に登録したが 非常に便利だった。
特に物を失くしやすい自分にとって 強迫的に切符の所在を確認せずに済むのは心理的疲労を和らげてくれた。

往路

朝が早いのは慣れたものである。しかし九月に近江を旅した際は 力尽き 15 時過ぎには頭痛に苛まれていた。だから週末は睡眠に気を配ったが それでも起床時間五時半に対して fitbit の睡眠スコアは辛口であった。

povo 1 日使い放題を課金した後に朝食をしっかりと取って 最寄り駅には 7 時。そこから電車に乗って東京駅には 7 時半には着いた。

のぞみ305号

早めに来たのは スマート EX のシステムが今ひとつ理解していなかったところに依るが 登録時に紐付けたモバイル Suica をタッチすると利用票が出てきた。これで自分の乗る新幹線と座席がわかる。
さっそくのぞみ 305 号のホームを探すと 15 番線。ホームに上がると始発だからか既にホームに据え付けられていた。
座席を確認し いつものように列車の先頭に行くと N700A G43 編成であることがわかった。

その後座席に戻ると幾つかの荷物を出す。
今回バックパックは学生時代に購入した宿泊対応の 30L である。近江旅行では小型のバックパックだったが どうにも詰め込みすぎて不便だったから 30L を選んだ。
今回車内で幾つか映像を見たかったので ヘッドホンを持ち込んでいた。事前に USB-C とヘッドホン端子 DAC 内蔵 のケーブルを購入。これでスマホとヘッドホンを繋いで見る算段。

そうこうしている内に列車は 7 54 分に定刻通り発車。車内は空いていた。新横浜で埋まるだろうと思ったが そこまででも無かった。ガラガラの新幹線で 満員電車の通勤客を眺めるのは奇妙なものである。
そうしてスマホとヘッドホンを接続し 現在 youtube で期間限定公開されている DIALOGUE+の 2024 年パシフィコ横浜ライブ LIVE2024 LIFE is EASY? を再生する。
DIALOGUE+は幾つか曲を知っていたり メンバー3も何人か存じているが しっかりと聴いたことはない。六月にリステとのライブが行われるというので こういう機会でしっかり聴かないとな と思った。
N700A の力強い安定的な走行音のなかで 自分だけが DIALOGUE+の世界観に包まれる体験は非常に面白かった。知っている曲の高揚感に加え 初めて聴いた曲4のお洒落感は凄かった。

時折車窓に目を向けると 春らしい薄曇りの静岡県。平日の静岡県 いつもと変わらない静岡県。いや静岡結構長いなと改めて。
それでも三河安城を通過すると 2 時間近い公演のうち まだ 30 分程度が残ってしまった。これは復路に回す。

近鉄特急

名古屋到着は 9 33 分。約 1 時間 39 分であったが ここで乗りたい近鉄電車は 9 50 分発の特急五十鈴川行き。20 分も無い。
実は当初 9 41 分発の急行松阪行きに乗ろうと考えていたが 久しぶりの新幹線 to 近鉄名古屋線の乗り継ぎで 8 分乗り換えは自信が無かった。自分自身近鉄のチケットレスも試してみたかったこともあり 津まで課金することにしていた。

新幹線改札から近鉄まで概ねダイレクトにいける通路があり 法事の折には何度か利用したことがある。今回もここを使おうとしたのだが 乗車した 4 号車は金の時計経由の通路を通るしかなかった。今し方名古屋駅の構内図を見ているが 三河安城を過ぎた時点で後ろの号車に向かい 南乗り換え改札からであれば例の通路が使えたと思う。
とはいえ やらかしたなあ と思いながらスナップしつつ近鉄の改札に降りると まだ急行松阪行きに間に合った!
乗るか?乗るまいか?
一瞬ブラウザで払い戻すか迷ったが ちょっと面倒くさそうだったので予定通り特急に乗ることにした。津から久居までは この列車に乗るので変わらないのだが 非日常を彩るには特急が丁度良い。更に言えば少し電話の用があったので特急は好都合であった。

五十鈴川行きは 6 両編成。事前の予約サイトでも一般車両での運用らしかったが 目に飛び込んできたのは古く赤い幕のアイツ。
12600 系である。番号を見るとトップナンバーで NN51 という編成。伊勢方の前 2 両は 22600 系の AT61 という組成であった。
正直 2 両のが 2010 年製と新しい車なのでうーん近鉄お馴染み格差特急という面持ちであったが 12600 系は乗ったことが無かったので我慢する。
古いといっても 1982 年製なのでビスタカーよりは新しい。それについ数年前まで 70 年代製造の 12200 系がゴロゴロ転がっていたことを考えると まあマシな方である。
車内は壁やモケットが更新されてはいるが それでも座席の節々の古さは否めない。今日簡易リクライニングシートとは……。
窓が広いのはありがたいが 海側だとカーテンをすると景色が楽しめない。帯に短したすきに長しといったところか。発車してから木曽三川を越えるあたりで電話の用をこなしたが モーター車でついつい声を張り上げてしまった。

それでも窓が広いのは 鈴鹿市内の風景を眺めるには良かった。これは良いところである。
車窓では塩浜の貨物に伊勢若松付近で 大黒屋光太夫 の出身地であることをアピールする広告を見たり 白塚で留置される車両を眺めて楽しかった。塩浜や白塚の風景は 20 年前から飽きない。
また鈴鹿から津に差し掛かるあたりでは伊勢鉄道の高架を眺めるのも良い。

近鉄・急行

そうして 10 39 分に津到着。代わり映えのしない景色に安堵し 難波行きひのとりを初めて間近で見て興奮 キハ 25 の回送に新鮮味を感じ 46 分に急行松阪行きが入線。
その先頭車両を見て驚いた。車番 1212……。そう名古屋線どころから近鉄を代表する珍編成 FC92 である。車番を見て一目でわかる時点で 私もなかなかだなと思うものだが 動かせるなら繋いでしまえという近鉄の精神性を象徴する車両を間近で見るのは初めてなので嬉しかった。

かつて線路際の学校に通っていた時代 この前と後ろが違う車を目撃して大変驚いたことが懐かしい。それで行くと 12600 系と仲間たちは顔がビスタカーなのに 2 階建を繋いでいない赤幕という奇妙さにも驚いたもので 祖父に「知らん?」と聞いて困らせたものだ。祖父が亡くなってからインターネットの世界に迷い込んでしまい 近鉄名古屋線の車について大方理解はできたのであるが。

そして後方には先ほど名古屋で見た車。1810 系の H27 編成である。この車は名古屋線生え抜きにして 1967 年製造の車と最古参の車である。
ここで貴重車に乗ることが出来るとは嬉しい限り。
モーター音に酔いしれながら津新町 岩田川や小学校 南が丘を過ぎ久居には予定通り 10 55 分に到着した。

久居フィールドワーク

さて往々にして昼飯について無頓着であるが 今回はリクルート期間限定ポイントがあったので何か使い道は無いかと探したところ 久居駐屯地の先にあった クレアドール という店を見つけ予約していた。
電話の用はその関係である。
久居駅東口で芭蕉の碑や上野博士とハチの像を眺め のんびりと駐屯地に沿った道を歩く。11 30 分からの予約だったので いつもより遅いペースが丁度良い。道中で梨農家を見られたのは良かった。
そうしてお店に到着したのは 5 分前の 25 分。
ランチに選んだのは ハンバーグシチュー。下調べが不十分だったが 食べ放題のパンは美味しいし ハンバーグシチューはしっかり煮込まれており それはもうニヤニヤしてしまうほど美味であった。更に余ったポイントでお土産のパンも提案して戴いたので ありがたく頂戴した。
普段の昼食より豪勢で これだけでも大満足。絶対リピートしたいと思った。
身体にも心にもエネルギーを補充したところで いよいよ 12 22 分に行動を開始した。

久居の中心へ

シチューを待つ間 地図で行動を考えていたが 久居の駅は陣屋から見るとやや北東に位置する。当初は久居の駅から大手門 郵便局 へ向かい 正面にある 久居文学館 で情報を集め南回りで 旅の終わりに久居八幡を見ていこうと大まかに考えていた。
しかし地図を見ていると駐屯地横の道から駅北側の踏切を渡ると 実はそこから八幡宮が近いことがわかる。
それなら先に八幡宮を見ていこうと決まった。

踏切を渡り久居駅西口を眺め 本来であれば交番の地点から更に西へ延びる道を行くのが近道であったのだが 何分初めての地で勝手がわからない。そのまま西口の大通りから一歩先に入った裏道を進んでいく。歩いているとどうにも趣のある並びで 東京では十条や大山なんかの駅前通りに通ずる部分があり もしかしたらここが昔のメインストリートなのかなと思った。5

暫くすると松阪久居線と交差するので 曲がって同線を西へ進む。百五銀行が八幡の裏手である。この辺りは 寺町 という地名で 寺が建ち並ぶ。

天然寺

その中で 天然寺 という寺には記憶があって さてはて誰の墓所だったかとスマホで国会図書館デジタルコレクションの 久居市史 を読んだところ そう旅の目的 藤堂八座 やくら の墓があるところであった。
早速門をくぐり境内に入るが そうした案内は見られない。どうしたものか 寺務所に訊ねるか…… と思ったが そもそもお昼時で迷惑だろうし 突然いきなり現れた人間が 藤堂八座 について訪ねても寺の方からすれば 誰? と思われるのが関の山だ。自分自身 まだ野蛮にはなれない というか一線を引いた方が迷惑にならないだろうと判断し 少しモヤモヤしながら八幡宮へ向かう。

奈良街道

この辺りで私はバックパックからクリアファイルに入れた地図を取り出した。
今回の久居フィールドワークに際して大手門から八座屋敷跡 そして服部竹助屋敷跡をマッピングした地図を製作していた。当初は情報と屋敷図を頼りにして地理院地図に向かって作っていたが もしかしたら町割りは昔と今もそこまで変わり ないのでは?と思って 全国 Q 地図 から谷先生の今昔マップ を引っ張り出し透過合成したところ ビンゴであった。
ただし久居農林周辺は後世の改変で道が失われているので そこは古い地図の道筋をトレースした線を引き 八座 竹助屋敷跡の他に八幡宮 子午の鐘をマッピング。それを印刷して持ってきていた。

地図を見ると どうも自分がいる地点は 奈良街道 であるらしい。そうして見渡してみると 確かに旧街道の風情ある町並みだ。
久居に対するイメージが薄かった私は ここまで久居に風情が残っていたことに衝撃を受けた。やはり自分の足で歩くことが一番だ。

大手門と久居ふるさと文学館

久居八幡宮を見物し いよいよ大手門と久居ふるさと文学館へ向かう。当然痕跡らしい痕跡は皆無であるが 見えないけど見える
大手門跡の正面にあるのが目的地の一つ久居ふるさと文学館である。かつては久居市図書館と言っていたらしい。
入り口で案内を見ると二階に展示があるようだ。そういえば十二月に電話で問い合わせた際も そのような案内があった。

二階へ上がり展示を覗くと なんと初見の資料 史料 が展示されているではないか!
これは撮影しておきたいなあと思ったが こうした施設ではちゃんと許可を得るのがマナー。そうして下に降りて司書の方に久居藩関連の資料を探している旨を伝え 同時に二階の展示は撮影出来ないか訊ねた。
実は十二月に文学館の蔵書を調べていると地元で出された 藤堂源助探訪 久居ふるさと郷土会 という書物に目を付けていた。これは国会図書館にも所蔵がないもので 今回の久居訪問では必ずチェックしたいと思っていた。

その後のことを詳しくは語らないが この久居ふるさと文学館訪問は大変貴重で有益な時間となった。お会いした皆様に御礼申し上げます。

武家屋敷跡めぐり

さてふるさと文学館に到着したのが 13 時過ぎである。文学館を出たのは 14 40 分頃。あっという間に時間が経っていた。
いよいよ武家屋敷跡や陣屋跡を廻る訳だが 自分の経験上 地図のこれぐらいの範囲なら一時間程度で廻れるだろうと目算していたので問題は無い。
ただ若干の降水確率のために天気が心配だ。

服部竹助屋敷跡

文学館から進路を南方向に取る。直ぐに十字路とぶつかるが 交差点の東側が推定 服部竹助屋敷跡のその 1 である。
今回国会図書館デジタルコレクションから 三重の近世城郭絵図集 (研究紀要 ; 5) 掲載の久居城図を印刷して持って行った。
文学館で地元の先生に御覧戴いたところ 先生は竹助屋敷跡その 1 が載る 久居古図 藤影記 を一目見るなり
これは寛文のだね
と仰った。

久居古図 藤影記 には 今西孫三郎 の名前が見えるが 彼は久居藩立ち上げ時の家臣今西景由のことであるから 先生の仰るとおり同図が極初期の家臣配置を記したものであることがわかる。
明治初頭の 久居絵図 福井氏蔵 では 服部竹介の屋敷は西へ移転している。
この場所は現在の久居農林高校の辺りで 私は二十年経って遂に久居農林高校を 訪問 することが出来たのだ。

服部竹助家がいつ頃移転したのかは定かではない。文学館で地元の先生に教わったところによれば 文政四年(1821)の大火 久居焼けの影響で 安政までの様子が不明ということらしい。惜しい哉 紙は火に弱いことをまざまざと突きつけられた。

久居農林高校校庭横を東西に延びる道筋6には ひっそりと案内板が立っていたが こちらも文字が掠れて読むことが出来ない。かろうじて 渡辺七郎右衛門 の文字は判別出来た。板も石7も風化に弱いことをまざまざと突きつけられた。

陣屋御殿跡へ

久居農林を過ぎると誠之小学校が突き当たりに見える。
ここを左へ曲がり 更に西向きに直角へ曲がると藤堂源助等が居を構えた家老屋敷となる。現在は久居農林の敷地となっているらしい。
屋敷の北側は小学校の校庭で 放課後の小学生たちが遊んでいて微笑ましい。私はあまり校庭で遊ぶような小学生では無かったので 楽しんでいるのはちょっと羨ましい。
そんなありふれた日常風景に 突然地図とカメラを持った小男が現れ 校庭を背に写真を撮ってニヤニヤしているのだから 学童の指導者か教職員かわからないが大人は緊張したものと思われる。平日の旅は 怪しまれる自覚を持って怪しまれないようにするのが重要だ。

こうした江戸時代そのままの町割りに突然割り込むのが県道 15 号線である。
とはいえこの道があることで 北へいけば目当ての 藤堂八座屋敷跡 があることがわかるので 有り難いものだ。また南を見ると坂が見える。これが久居陣屋の特徴的な地形だ。
めげずに道なりに進むと今度は久居中学校にぶつかる。文学館で戴いた 久居藩城下めぐり のパンフレットを見るとここから北に 校庭を縫うように進むとかつての陣屋 御殿跡 高通公園 に辿り着く。
校庭では生徒が部活動に励んでいて 学生時代スポーツを学んでいた者としては良い時間帯に来たなあと感じた。

公園では放課後の遊ぶ姿が見え微笑ましいが そこにのさのさとカメラを提げた人間が立ち入るのだから大変大変心苦しかった。特にこう思春期男女の何気ない日常風景に私が如き異物が入り込むのだから ちょっと申し訳ない。

御殿からの景色

でも公園から見下ろす雲出川の氾濫平野に一志の風景は 青春同様に素晴らしいものだった。よく見ると切り株が幾つかあったが この眺望のために木を伐採した判断は大正解だったと思う。
更に目を足下に向けると断崖がよくわかる。まさに天然の要害だ。また水も流れているが 帰ってから地理院地図で見ると 雲出用水 とある。
これが西嶋八兵衛が手がけた 雲出井くもずゆ用水 である。かねがね八兵衛の遺した史料には触れてきた訳だが こうした土木の実務家として遺した痕跡を見ることが出来て嬉しい。
そして眺望に背を向けるようにして 滑り台が設置されている。お誂え向きとはこのことか 日頃若く見られやすい小ささと軽さは こうした滑り台を利用するのに丁度良い。滑り台のハシゴを肩と腕の力で登り背後を振り返る。
するとどうだろう。素晴らしいまでのパノラマを目にすることが出来た!
この景色は御殿から歴代の藩主も目にしたのかもしれない。

久居陣屋の守り

感動的な満足感を抱いて高通公園を後にする。
その後はいよいよ藤堂八座屋敷跡へと向かうのだが ここで見たい場所が出来ていた。
それは文学館で地元の先生に教わった の存在である。

注意深く伊勢自動車道の横を歩いていると 鬱蒼と茂る藪があった。これは怪しいと恐る恐る覗くと あった!!!
人生 ここまで藪 溝に興奮したことは無いだろう。それぐらい興奮した。
西嶋八兵衛の仕事に続き 軍学者植木升安が遺した仕事の痕跡を見ることが出来て 素晴らしいフィールドワークだ。
この興奮は心拍数にも表れており 以降興奮のまま 110 拍以上を刻んでいた。

ちなみに溝を越えた先には後年裏門が設けられたようで その跡は高速道路と接している。自分自身 幼少の頃は父や祖父の車に乗って何度も通っていた訳だが そう考えると久居陣屋は知らぬ間に触れていたのだなあとしみじみ感じる。
ここら辺が裏門かなと思ってカメラを構えていると 学生や工事の方とすれ違う。ちょっと恥ずかしい。

藤堂八座屋敷跡へ

ここからはいよいよ 藤堂八座屋敷跡 を目指す。
その道中 住宅と住宅の間を縫うように水の流れていない水路を見た。これが先生のお話にもあった下水の一種なのかもしれない。
こうした所もカメラに収めるが 端から見れば……である 苦笑

気がつくと久居中が近い十字路に差し掛かる。
ここから県道 15 号線に出てアクセスするのも良いが ここは 上北町 の道筋を西から歩きたいので左折した。
道なりに進み直ぐの T 字路を右折。正面に久居幼稚園が見える。

そして梱包資材店の横を過ぎると見えた!
2021 5 月に知ってから苦節 4 年。
遂に 藤堂八座屋敷跡 を訪ねることが出来た。
在りし日の八座屋敷跡はこちらのページで見ることができる。

とはいえ普通の住宅であるから あまりマジマジと観るものでは無いが やはり興奮は一塩だ。
昭和の書物などによれば かつては久居にも幾つか江戸時代そのままの武家屋敷が遺されていたという。いや全く惜しいものだが 時代の流れや住環境の変化は致し方ない。

在りし日は重厚な武家屋敷といった趣であったようだが 先にも触れた県道の整備によって喪われたようだ。何とか想像力を以てして補うほかないが 往時ここに今西孫三郎から藤堂大蔵 八座たちが暮らし 日々の出勤 江戸への行き帰りに今自分が立つ道を歩んでいた。
そう思ってみると 静かな住宅街にも風情が生まれるというものだ。

新たな目的地

この時点で時刻は 15 25 分。名古屋には遅くとも 19 時前には入っていれば良い。久居から名古屋は一時間と少しで着くから もう 2 時間ぐらいは暇である。
フィールドワークに際して地図を作る中で 奈良街道も気になっていたが この時点で未訪問なのは 子午ときの鐘。そして先生のお話を伺う中で 行ってみたくなった 見性寺 が新たな目的地となる。

屋敷跡を出発し久居保育園を左折する。少しばかり県道に沿って歩くと 街道との交差点に行き当たるので ここを右折。東へ奈良街道を往く。
鐘まで距離にして数百メートルであるが 屋敷地の道のような完全な直線では無く クランクが一つある。
そしてこの数百メートルだけでも 趣ある建物を見ることが出来るのは素晴らしい。大溝の町でもそうだったが 風情ある旧街道を遺していてくれるのは頭が下がる。
道なりに行くと T 字路にぶつかる。街道は北に折れるが 南に曲がると屋敷地に繋がる道だ。この辺りが絵図に見える カラ門 久居古図 幸町御門 久居絵図 だろうか。

子午の鐘と見性寺

子午の鐘 はこの T 字路から入ることができる。
元文元年(1736)に作られた鐘は 元々大手町にあったようだが寛政元年(1789)に現在地に移されたようだ。昭和の大戦で金属供出の憂き目に遭うも 溶かされることは無く戻ってきた。この鐘が 永久鎮居 の街の精神的象徴なのかもしれない。
こうした鐘を見ると ついつい鳴らしてみたくなるのだが 何も書かれていないので大人しく見守るに留めた。

その後見性寺へ向かい 藤堂源助一族の墓を拝見した。

文学館再訪

まだ 16 時前。
蔵を見たあたりで時間を勘案してみたところ そうだ司書の方が言っていた 古文書の目録 を読んでいくか となった。
そうして 15 50 分頃に文学館に戻った。
古文書とは 大庄屋信藤家文書 目録 である。

久居駅へ

目録 だいたいの目当てを付け文学館を後にすると ちょうど久居駅行きの三重交通バス ポンチョが信号待ちしていた。久居駅ぐらいは自分の脚でも余裕だが 既にふくらはぎが限界に達していた私は 乗り遅れたら大変だと最後の気力でアルスプラザ前のバス停へ駆ける。
三交バスは幼い頃 伊勢に住んでいた祖父の車中で良く見ていたし名古屋駅でも見たことがある。津に引っ越してからは 父が仕事で居ない日の移動はもっぱら三交バスであり 母親の素晴らしい教育方針もあって低学年ながら一人で乗る機会も多かった。私は三交バスを勝手に親しみを込めて友達みたいなもんと思っているが 疲れた脚を癒やしてくれるところもまた友達らしい。

帰路

有り難いことに このバスに乗ったおかげで 16 29 分発の急行名古屋行きに乗車することが出来た。
18 時前には名古屋に着く。それでは味気ないから 当初はどこか途中の駅で普通や準急 後から来る急行に乗り継いでいくのもアリだなあと考えていた。
しかしこれは遅れた際のリスクがあるし 正直ダイヤがわかっていない。そうしたモヤモヤがあるなかで 脚も疲労困憊 朝も早かった。正直名古屋でゆっくりするのも手だ。特に帰りの夕食 EX 旅の特典電子クーポンを利用出来る店がわからないから探すのに時間が掛かるだろう。

名古屋行き急行

そうしたところでやってきた急行は名古屋方が VW33 伊勢方が X11 という組み合わせ。既に入線する場面で 奇天烈な姿にリニューアルされてしまった 1430 系を見て吹き出してしまったが 更に後ろの 2610 4 両の数字を検索すると つい先日まで大阪線で活躍していた X11 編成であることが判明。
転換クロスシートの快適な 5200 系とのトレードの報せを聞いた時は また名古屋線はボロばかりになるなと呆れ果てたものだが 実際に乗ってみるとラッキーと思うので我ながらマニア心は自分勝手なものだと思う。

年代差をみると VW33 1990 転換クロスシートの快適な 5200 系が 1988 X11 1972 年の出である。
こう見ると近鉄は倹約家の印象を受けるが しっかりと整備 改装に手をかけているからこそ 1970 年代の車が長持ちして元気に走っている。
X11 編成のロングシートに腰掛けていると 津市を出たあたりで眠たさが出てきた。そこから四日市までの記憶は断片的である。
そうなると四日市で連絡している普通に乗り換える気力も薄れる。急行が停車しない富吉から準急 また 30 分待つと来る始発の準急に乗ってみたくもあったが 疲れているから仕方が無い。それにこれからラッシュ時で 旅に出てまでラッシュを体感するのはしんどい。

春雷

四日市に到着すると雨が降っていた。この雨が乗り継ぎを断念させたわけだが 四日市を出ると正面山側の雲はおどろおどろしい黒色であった。
実は旅に出る前 三重県の天気予報8には若干の降水確率があった。久居を歩いている時 八座屋敷跡を見物した直後に空から水滴が落ちてきて 予報通りだなあと思っていた。だが目の前に映る真っ黒の雲は 想定以上の降雨量を想起させる。

春の嵐は富田を出た辺りで急行を襲う。
雷の音と共に急行の天井に激しく打ち付ける雨音は それまで長閑だった車内を騒然とさせる。
愛用しているヤフーの雨雲レーダーを見ると どうにも雨雲は急行と共に北上し 18 時過ぎには名古屋に到達するらしい。

桑名駅に着くと凄い雨で 乗り降りするのも大変そうであった。そんな雨の中 賢島からの観光特急しまかぜが通過し 下りホームには賢島行きの特急伊勢志摩ライナー<デビューしたばかりのミュジュマル塗装>が入線してくる。青系の色には この春の嵐は良いのかもしれない。
この辺りで<かつて Twitter と称していた奇妙な SNS>を用いて情報を収集したところ 雹であったり北勢地域を覆う雨雲とは別に名古屋市内にも雨雲があるらしいことを把握した。

気象台によりますと 東海地方には上空に流れ込んでいる寒気や高気圧の縁をまわって流れ込む暖かく湿った空気の影響で 大気の状態が非常に不安定になっていて ところによって強い雨が降っています。愛知 岐阜 三重の3県には24日午後 一時竜巻注意情報が発表されたところもあり 気象台が 雷や急な風の変化 ひょう など 積乱雲が近づく兆しがある場合は突風に十分注意するよう 呼びかけていました。
NHK から東海 NEWS WEB 25日明け方にかけ 大気が非常に不安定 激しい突風など注意 03 24 20 40 分。3 28 日閲覧

その後木曽三川を渡り弥富 蟹江を経て名古屋市に入ると 少し落ち着いたように見えた。

名駅散策

17 50 名古屋に到着。新幹線は 19 12 分なので時間がある。
乗り鉄 は叶わなかったが もう一つのプランとして 近鉄パッセ 近鉄百貨店 の改札を見ていくというものがあった。ちょうど 17 日の日経新聞に 2026 年春に閉店することが出ていたからだ。ちなみに正式発表は翌 25 日にあった。
昔伊勢へ行く際に 一度パッセから入ったことがあるが なかなかの異空間な趣を感じたことを覚えている。それもその筈で このパッセは十代から二十代の女子向けファッションビルとしての機能もあった。そして何より坂倉準三の建築でもある。

せっかくの夕方という時間帯 外から見た風景を撮ろうと思い外に出ると……。そこは雨の名古屋であった。
仕方なくバッグの底から折りたたみ傘を掘り出し 通行人の邪魔にならぬよう歩く。

広角レンズではないので 向かい側の車線から撮りたいが信号は遠い。しかしそこは大都会名古屋なだけあって 地下街を抜けると向かい側に出ることができる。近鉄パッセとも隣接する名鉄百貨店も 建て替えが決まっているのでついでに記録。
ここから新幹線まで 雨も降っていることだし地下街を散策した。正直自分が何処を歩いているか まったくわからないのだけれど 時間もあるし彷徨うのも面白い。
気がつくと桜通口に辿り着いていた。

乗車するのぞみ 448 号までは 40 分ほど時間がある。その間に EX 旅特典の 1000 円電子チケットで晩飯の調達を考えた。しかし何処で使えるのか 全く判然とせず 新幹線コンコースからホームのあらゆる店という店を探し回って ようやく上りホームの売店で見つけ ひれ味噌かつ重を購入した。事前に問い合わせてもみたが もう少しわかりやすく掲示してほしいし 各駅の使える売店一覧ぐらい欲しくなる。

のぞみ448号

のぞみ 448 号は N700S J12 編成。自分自身 N700S に乗るのは 2 年ぶりである。
ともかく疲れているので ひれ味噌かつを食す。殻付きの半熟卵を割って投入するのは初体験。新幹線で卵の殻を割る日が来るとは思わなかった。味もボリュームも大満足。お昼に戴いたパンもあったが それを食べるまでもなかった。
食後は再びヘッドホンとスマホを接続し 往路の続きを視聴する。夜の新幹線は景色が見えないし かといって寝ると帰宅後の睡眠にも関わる。音楽を聴いたり動画を見るのが丁度良いのかもしれない。
ライブ映像を見終わると 熱海を通過したところだった。何だか往路よりも速い気がする。所要時間としては変わりないが N700S の加速性能に依るのだろうか。

こうして日帰り旅行を終えた。

行きも帰りも新幹線は空いていて良かった。義務教育の子どもたちが春休みに入る前 ギリギリ年度末の引っ越しシーズンが始まる前 連休明けなのが良かったのだろうか。
EX 日帰り旅では 19 時以降の便しか予約出来ないのが不便であったが JR としては埋まりにくい時間帯の乗車率を上げる目的があるのかもしれない。まあ往復で二万円 今後値上げする可能性9を考えると有り難いものだ。

終わりに

久居フィールドワークは予想以上に良かった。久居の街は私が想像していた以上に大変魅力的で ここまで残っているものが残っているとは思わず 書いている今も興奮が隠せない。まさに百聞は一見にしかず 靴底をすり減らさないとわからないことが多いが その通りであった。
様々な発見があったこの旅であるが 一番は松尾芭蕉要素が濃いということだ。何度か久居を訪ねたことがあるらしい。
これは自分が藤堂八座家にしか興味が無かったということであるが 藩祖藤堂高通が俳諧にも精通して芭蕉の師北村季吟と交流を持っていたことを帰ってきてから知った。

変わらんもの

2004 年春に津を出て以来 何度か三重県や津市は訪れている。だが 久居のように未踏の地を訪ねるのは今回が初めて。
思えば津のホームに降り立った時も これは七年ぶりぐらいだったが その変わりのなさに安心感を覚えた。そして自分にとって違和感の無い空気感というものは これが帰ってきたということなのだろうとも感じた。

まだ学生だった頃 津の街を歩いたことがある。今回のように写真を撮って歩いていると 老婆に話しかけられた。そして老婆に 自分がその十年前に住んでいたこと 久しぶりに訪れたことを話すと彼女は

そんな変わらんでしょう

と答えた。私は いやそれでも変わってますよ と答え老婆からは怪訝そうな顔をされたが それからまた十年経ってみると老婆の言わんとしたことが何となくわかる。

久居という街は江戸時代の街開き 大火後の姿以来 変わらぬ姿 を見せると共に 昭和以降の現代の改変という 変わったところ も並んでいる。
住む人にとっては変わりゆくことで便利になるので 現代人としては良いことである。
歴史にロマンを感じる者としては 街開き以来また大火以来の変わらぬ姿は大変にありがたい。10

再訪計画

すっかり久居の虜になってしまった私は 早くも秋以降の再訪を企んでいる。
第一に文学館で資料 箕浦家文書 を閲覧すること。箕浦家は元々北郡と中郡の境目に出た一族であるが その系図によって元亀争乱頃の動向がわかればと考えている。
第二に雲出井の見学と 崖の下から見た久居陣屋の様子を眺めてみたい。
第三に自転車で走りたい!
この三つである。その際はここまで濃密に書けるかわからないが 今回同様に楽しんでみたいものである。

生き方として

それにしても帰りの名古屋駅は毎回寂しい気分になる。
もしも自分の人生が違うものであったのならば ここまで寂しい思いをしなくても済んだんじゃないかと思うことが多い。
だが 寂しい思いをしてきたからこそ 今の自分がある訳で それを考えると悪いものでは無い。
当分は今まで通り東国に住みながら 心は中部地方といった生き方をしていこうと思う。

最後になりますが 久居ふるさと文学館の司書さんには突然の訪問にも関わらず 資料の案内から蔵書閲覧 複写について懇切丁寧に対応して戴きました。更に久居ふるさと郷土会の今井代表には 藤堂八座のことをはじめ久居藩のこと 陣屋と町割りそして痕跡に加え 調べる上での参考となる文献 調べ方について大変有益なアドバイスを戴き大変お世話になりました。


  1. 祖父の死から暫くしてシクラメンも力尽きてしまった訳だが

  2. 調べていたら榊原方面行きのバスで陣屋域内にアクセスが可能だったことを知った。

  3. 緒方佑奈さんはオリファン的に憎き?カープの名将緒方孝市とかなこさんの御令嬢 稗田寧々さんはシグルリ。他に内山悠里菜さんはフォロワさんが推していた。あと皆さん CUE に出ていたりする。

  4. I my me mind MAHOROBA-Deli うしみつあっパレイド やばきゅん♡シューベルト は初めて聴いた曲だが なかなか洒落てるなあと思った

  5. 帰宅後に今昔地図を見ると正解だった

  6. 図でいくと中大手町という

  7. クレアドールでの食後に NOBENO こども園の近くで道標を見たが判別不能だった。今昔地図を見ても古い街道でも無さそうだし 一体何だったのだろうか。

  8. ちなみに折からの気温上昇で 念のため持って行った防寒着は必要なかった。防寒着のために 30L を用いたのもある。さらに新幹線や特急の車内では上から着ていたトレーナーも厚くて脱ぐほどだった。久居は曇り空で微かに風があったが そこまで体調に関わる程では無かった。この時期の着るものは難しい。/20250330 追記

  9. 新年度早特サービスが値上げする。今年度までは早特サービスで 28 日前に予約するとのぞみの東京名古屋が 9800 円最安だったのが 一万円を超える値段になる。従って EX 日帰り旅が最安となるが 天下の JR 東海が安さ据え置きにする訳が無かろう。

  10. 車窓で眺めていると田畑であったところが荒れていたり 太陽光発電として活用されているところがあった。この辺りは二十年で変わったところ と言えるだろうか。二十年前と比べるとちょっと寂しくなる。