永正四年(1507)二月 乱世の雄多賀新左衛門尉経家は敗死した。
そして永正七年(1510)二月の御内書を最後に 多賀豊後入道の動向は途切れる。

彼らの後継者として現れる人間こそ本稿の主役である 多賀豊後守貞隆 である。
貞隆の出自は明らかでは無い。しかし 彼こそ近世多賀氏の祖となる人物である。
本稿では貞隆の人生を追いながら 戦国時代中頃の動乱を見ていくことと相成る。

多賀豊後守貞隆年表

さて貞隆について 史料を中心に調べた結果を表にすると以下の通り。

月日動向 出典
1520永正十七年
4/6多賀長童子宛細川高國書状 大日
1535天文三年
8/20浅井備前守宿所饗応記の国人衆に多賀豊後守 続類
1536天文五年
12/十二月分米 豊後殿若衆上下
1538天文七年
3/27二階堂小四郎宛定頼感状に多賀豊後守申候
1544天文十三年
1?/多賀豊後守殿年始樽一荷代 百文 同肴之代 五十文
10/多賀豊後守 宗牧をもてなす 東紀
1547天文十六年
1/24将軍足利義藤を警護するべく上洛
10/16内野合戦で細川国慶迎撃に成功
1555天文二十四年
9/20多賀大社梵鐘銘文
1557弘治三年
??豊後殿中間衆年始之礼
??多賀豊後殿 年始之樽之代
??年不詳
1/10多賀豊後守 京極浅井に攻められる
1/12貞隆 今井 島宛の書状を発行
4/22多賀長童子宛六角定頼礼状
5/17多賀豊後宛宗意書状
10/22多賀豊後守宛細川高國書状
日古日本古文書ユニオンカタログ
古フ古文フルテキストデータベース
大日大日本史料データベース
金剛輪寺下倉米銭下用帳
続類続群書類従
戦國遺文六角氏編
彦根市史
嶋記録
北野社家日記
東紀東国紀行
東浅井郡志 2,4
言継卿記

多賀長童子の登場

永正十七年(1520)四月六日 細川高國から書状が送られた多賀氏が存在する。多賀豊後入道が御内書の近江衆に名を連ねてから十年の事である。
その宛名は 多賀長童子。後の貞隆とされる人物である。なお年次比定については 東浅井郡志四巻に見る同書状端裏書 永正十七卯十六 山上より細川殿御書案。長童子殿へ に依るようだ。
またこの書状は片岡文書の として載るが この後に触れる佐々木尼子殿宛書状が となる。

就出張合力事 中書江申候 以馳走被相調候者 可爲喜悦候 猶寺町三郎左衛門尉可申候 恐々謹言
四月六日 高國
多賀長童子殿
大日本史料データベース 東浅井郡志より片岡文書

この頃の細川高國は争乱の渦中にあり 形勢逆転を狙い近江衆の増援を乞うた。
中書 とは 中務 を指す言葉で この文脈に見合う 中務 とは 佐々木中務少輔京極高清 の事と見え 高國は長童子に対して高清への取次を頼んだと考えられる。
また多賀長童子自体も誘引したのだろう。実のところ高國は二月二十二日に 佐々木尼子殿 へも高清の介入を求める書状を送っている。

結果として高國は五月に兵を率い入京 見事に敵対する勢力 三好ら に逆転勝利を遂げる。
大日本史料によるところ 永正十七年記 厳助往年記 の五月三日条に 両佐々木合力 と記されており 高清も遂に兵を出したと見て取れよう。そうなれば高清と高國を取り持ち 長童子が天下の趨勢に寄与したと考えられる。

一方東浅井郡志では 拾芥記 の記述から六角武将の存在に着目し 京極兵は 少許 と断じている。
こればかりは わからないことである。

境界線上の長童子

この書状から 長童子は高清と取り次ぐ立場にあったと思われる。同時に 彼は細川高國という有力者から書状を受け取る立場にもあった。
長童子宛の書状はもう一点。
某年四月二十二日に六角定頼から送られた書状で或る。

為祝儀太刀一腰 光忠 馬一疋 鹿毛 給候 祝着之至尤令喜悦候 委細平井兵衛尉可申候 恐々謹言
四月廿二日 定頼 花押
多賀長童子殿
戦國遺文六角氏編

近江蒲生郡志 では年次を永正十五年(1518)と比定している。
つまりは兄氏綱の没後に家督を継いだ定頼に対して太刀と馬を長童子が贈ったことへの礼状 となる。確かに辻褄合う解釈である。

京極の重臣家でありながら 六角の新当主と和を結ぶ点は一見不可解にも思えるだろうが 多賀豊後守家の本拠地は六角支配下との境界線に近い。そうしたところでは合理的な判断と言えよう。

長童子は誰の子か

長童子の親は誰なのだろう。
自然なのは処刑された 新左衛門尉経家の遺児 とする説だろうか。
それであれば経家亡き後に 豊後入道 が宛名に来るのは 経家廃嫡後に遺児が稚いために後見 名代として振る舞っていたのだろうか。

また 経家を廃嫡させ 弟の長童子 に家督を継がせたと考える事も出来る。しかし そうすると豊後入道という宛名及び年齢の問題が生じる。
永正四年(1507)時点で長童子が家督を継いだのであれば その宛名は 多賀長童子 になるのではないか。更に長童子という名前は少なくとも永正十七年(1520)まで名乗っているが 十三年も幼名を名乗ることは有り得ぬものと見ゆる。

経家の子息ならば 例えば父の没年と同年を生年と仮定すると 永正十五年(1518)で十二歳 永正十七年(1520)で十四歳と幼名を名乗るには都合が良さそうである。
ただ平均的に十五歳で元服すると言われているので 父の没年以前に生を受けると高國から書状を受け取った時点で元服する年齢に達してしまう。
遺児説は一見自然に感じられるが このように今一つの部分があり結論には至らない。

こうした状態であれば 長童子とは経家没後に迎え入れられた 養子 と考える事も出来そうだ。
年齢の件からすると養子説が辻褄が合うようにも思える。
ただ此方は何方から養子を迎え入れたのかという問題がある。

当然ながら加賀藩多賀家は秀種以前の記録を逸していたようで 彼らの系図群に 豊後入道 長童子 の名前を見ることは出来ない。
それでも猶 今回考察を試みたのである。

多賀豊後守の登場

大永年間に入ると江州北郡では 京極高清の跡目を巡った争乱が発生した。争乱に多賀氏の名は見られない為に割愛するが その中で台頭したのが浅井亮政である。
大永三年(1523)の争乱では 浅見貞則を盟主に六角氏の力を借りつつ京極高清 上坂信光を追放。大永五年(1525)には 逆に浅井と上坂が手を結び浅見を追放することによって 高清の近江復帰が行われた。
その際 六角定頼は大に怒り朝倉の援軍と共に小谷城を攻撃したが 遂に落とすことは出来なかった。それでも紆余曲折を経て定頼は高清と亮政の追放に成功している。

そのようにして迎えた大永七年(1527) 近江に避難していた将軍足利義晴は 管領細川高國と共に 六角と京極の 和輿 を画策した。
これは東浅井郡志二巻第四章 内保合戦 第二項 将軍義晴南北の和睦を図る に依る。

まず七月十三日 義晴は 右京大夫入道 に宛て 當國南北和輿之事 から始まる御内書を発行した。
この年次比定は史料編纂所データベース 日本古文書ユニオンカタログ にて 大永七年(1527)とされている。
さりながら無一途候間 と見られる点から 大永七年以前から義晴は南北和輿を画策していた可能性もあろう。

しかし南北の和睦は上手くいかなかった と東浅井郡志にはある。

頼られる男・多賀豊後守

十月二十二日 細川高國は多賀豊後守に対して 次のような書状を送った。

當國南北鉾楯事 不可然候。和輿之儀被相調候者 可爲本望候。濃州申談候。猶召帆軒可被申候。恐々謹言。
 十月廿二日 大永七年と比定   高 國
   多賀豊後守殿

これが 多賀豊後守 の初見文書である。同書は東浅井郡志二巻にも載るが 四巻の片岡文書 細川高國書状案より引用を行った。
文章中で興味深いのが 濃州申談候 との箇所である。
この部分に対応する内容が 同日高國が佐々木中務少輔に宛てた書状に見られる。

近年南郡と鉾楯事 不可然候。土岐美濃守申談 多賀豐後守申遣候 早々和與候者 可爲本望候。猶召帆軒可被申候。恐々謹言。
 十月廿二日                     高 國
   佐々木中務少輔殿
         進之候

こちらも同じ片岡文書で 掲載順から言えば此方が先の となる。

細川高國は 土岐美濃守 多賀豊後守 を介し 南北の和睦を図ったようである。
土岐美濃守 に関しては専門外なので解説を省く。

高國は七年前に 多賀長童子 へ書状を送っている。そこから考えると 高國と親しい多賀豊後守であれば自ずと 長童子 の成長した姿と捉えることが出来ようか。

結果として南北和輿は実現せず 享禄元年(1528)八月には高延勢は内保河原に於いて 京極高慶と上坂信光の連合軍と衝突。多賀四郎右衛門政忠を失う激戦となりながら 勝利を収めた。この高慶勢の背後には六角定頼の存在があったと伝わる。
斯様にして六角定頼は浅井亮政を対手とする近江戦略へと取り掛かるのであった。

この間多賀氏の名は 政忠の死するところ以外で名前は見られない。六角定頼が頻繁に北上している点を見ると 京極に属しながらも広く佐々木の旗下としての地位を利用して六角に属し戦った事も考えられようかか。

多賀の本拠地

ところで此の頃の多賀豊後守は何処を拠点としていたのだろう。
一般的に多賀氏は下之郷を本拠としていた と伝わる。
しかし嶋記録の天文四年正月に関する条文には 豊州の城は古く 八ツ尾 勝楽寺 であったと記されている。
また 京極遺跡群ブックレット 米原市教育委員会 によれば 大永三年(1523)に浅井亮政ら京極高延 六郎 を擁する北郡衆に攻められ落城した上平寺城を描いた絵図には 多賀 の屋敷が存在したと伝わる。

恐らく此の頃の豊後守が居たのは 中郡の下之郷もしくは八ツ尾山や勝楽寺である可能性が高い。
考えられるのは幼い日 長童子の頃は上平寺にて同族雲州家に保護され その落城に伴い独立し中郡へ入った可能性も有り得るだろうか。

何れにせよ この時代の豊後守が貞隆である事を示す史料は見つからない。
しかしながら 六角や細川高國から頼りにされる 多賀豊後守 後年波乱を巻き起こした 多賀豊後守貞隆 と同一人物である事を疑う余地も また無いことである。

天文三年小谷饗応

多賀豊後守貞隆は血筋の通り京極の重臣である。
天文三年(1534)夏 亮政が京極親子をもてなした 浅井備前守宿所饗応記 には 国人衆 多賀豊後守 として名が残る。席次は備前守 亮政 の右隣で或る。

多賀貞隆の登場と下之郷の戦い

ここまで大永七年(1527)に多賀豊後守が登場してから 七年間に二度の動向を見ることが出来た。
何れも諱は不詳である。

しかし天文年間になると 貞隆 という諱を見ることができる。

下之郷の戦い

某年一月十日。京極高清の子 六郎 高延 高広 と浅井亮政の軍勢は 中郡を攻めた。多賀貞隆を誅するべく その本拠地である下之郷に攻め寄せたのである。
もちろん上に記したように 貞隆の本拠地が下之郷である確証は得られていない。しかしここでは 通説に従いたい。

なぜ六郎は貞隆征伐に動いたのだろうか。
通説では貞隆が六角定頼に鞍替えしたことが理由となる。しかし大永五年(1525) 享禄四年(1531)の二度にわたり 六角定頼は中郡を越え北郡に攻め込んでいる。そうした中 中郡に堂々と座す貞隆もまた 南郡の兵に加わったと考えるは自然なことである。それでもなお 貞隆は饗応に参じた。紆余曲折はあるも京極派として数えるに 十分ではないか。

さて 多賀町史 によれば 犬上川を挟んで東側の地域は概ね北郡派の影響力を受けたようだ。例をあげると高宮宿と多賀大社の中間地域 土田の馬場氏の家伝は 一貫して高清 高延といった具合で 恰も反六角を誇ったようにも見える。
同地域で盟主たる存在は高宮氏であり 馬場氏はその配下にあったとも考えられようか。
その一方で同地域より更に東 多賀大社の東側となる地域に根付いた久徳氏は多賀氏の一門と伝わる存在である。その出自から考えると そこまで北郡派との関連は薄いと考えられる。

何か攻める理由を探すと こうした犬上川対岸との間で争論が発生し 六郎と亮政はそれに乗じた。この様に考えることも出来よう。

嶋記録に見る戦い

攻める北郡勢 守る多賀勢 その兵数は定かでは無い。どうやら貞隆は敏満寺に居た今井勢の救援により難を逃れた と東浅井郡志には記されている。

嶋記録 には この戦いで活躍したとみられる 今井忠兵衛 島四郎左衛門 宛の書状が収まる。その差出人署名は 多賀豊後守貞隆 であり ここに時の豊後守家当主が 貞隆 である事を知るのである。勿論 この書状が彼の初見となる。

一昨夜者 不存寄儀に 被懸御意候 御懇之至難申盡 畏入候 依御出仕すまし候 千萬に本望候 向後可得御扶持候 御入魂所仰候
昨日早々人遣之候處 御歸無由候 爲御禮以使者申候 昨日可遣之を 田付市 田付市郎右衞門尉 一段くたびれられ候而 延引候 非如才候。御次而候はゞ 尺夜叉殿へも可預御心得候 御人數被下候通 觀音寺へ則申遣候 恐々謹言  尙々重而得御意可申付候 御入魂賴存候 雖輕微之至候 兩種一荷進之候 給書信候
 正月十二日                 多賀豐後守
                          貞 隆判
  今井忠兵衛尉殿
  島四郞左衞門尉殿
東浅井郡志二巻より

また次の書状には 確信的な内容が記されている。

今度御合戰 御名譽無比類存候
我等式迄 大慶過御察候 猶以六郞殿樣 淺井自身御責候之間 大事御合戰に候處 數多被打捕 殊海善 雨彌討死由候 數多手負 惣かちの御合戰と存候 悉皆御手前可爲御意見候 私滿足無極候 仍鯛一折 荒卷御酒一荷致進上候 可然樣御披露奉願候 次貴所ヘ貳拾疋進之候 恐々謹言
  正月十二日            葛岡入道
                     宗 三判
   島四郞左衞門尉殿

葛岡入道宗三なる人物は 近江神崎郡志稿上巻 にて 六角氏の配下と知ることが出来る。彼の書状を読むに この戦で 海善 及び 雨彌 が討たれたようだ。それぞれ浅井の将たる 海北善右衛門 雨森弥兵衛 の事と考えられている。

年次について

この戦いは通説として天文四年(1535)に比定されている。ただその論拠には若干の疑問がある。
特に天文四年(1535)時点では 浅井は六角と共に美濃へ兵を出していたとされている。それを踏まえて絞り込むと天文五年(1536)から天文七年(1538)までの間に発生したと考えるのが妥当ではないだろうか。

さて 言継卿記 によれば 通説として語られる天文四年(1535)の正月十日から十二日にかけて洛中は雪に見舞われたらしい。
そこから類推するに 当時近江も降雪に見舞われた可能性が高い。実際現代でも京都で雪を観測すると 彦根の降雪は倍近くを観測している事が気象データから読み取ることが出来る。
フォロワ氏によれば 日本海側から寒気が吹き込んでくる ためという。

つまり京極六郎 浅井亮政率いる北郡勢は 雪の降るなかで兵を進めた可能性が考えられる。
そして雪降る中 敗れ去ったのである。

北郡御陣

この戦を 北郡御陣 と呼ぶそうで ここに六角と京極浅井の戦端が再び開かれた。つまり貞隆は歴史を動かした男であるとも言えるのだ。

六角定頼は勝機に乗じ多賀畑や平野館を焼かせる。
嶋記録によれば定頼は十八日の尺夜叉宛書状にて 来る廿日可及一戦 とあり 二十一日の今井藤兵衛尉宛書状で件の焼き働きを賞している。
平野館は佐和山城の北方に位置することから 東浅井郡志では佐和山城は六角方に収まったと結論付けるが これは定かではない。

豊後殿若衆

さて金剛輪寺下倉米銭下用帳を読むと 天文五年の十二月分米として次のように記される。

豊後殿若衆上下九人山上へ御使 参候日暮候間宿と被申めい王くと申候へ共

具体的に多賀氏か定かでは無いものの この時代に豊後を名乗り金剛輪寺と縁がありそうな有力者とは多賀豊後守貞隆に他ならないと考える。

京極高清の死と貞隆

彦根市史の史料集には興味深い書状が掲載されている。
内容は 病気の見舞いと出仕を促すもので 某年五月十七日に京極宗意 高清 から多賀豊後に宛てて出されたようだ。
高清は天文七年(1538)に亡くなったとされ この書状はそれまでに発行されたものである。
思い返してみれば豊後守家と高清は騒乱で敵対していた関係にある。しかし高清が実質的な勝利を収めても 豊後守家が滅んだようには見えない。恐らく豊後守家の存続は高清の存在が大きかったのだろう。

だがしかし 高清の意と恩を知ってか知らずか 貞隆は子息後裔を敵に回した。恩知らずと言われても仕方がないが 豊後守家の本拠地が六角と京極の緩衝帯に位置するから 此方もまた仕方の無い事なのだろう。

それにしても隠居の身である宗意高清が 出仕を求めるというのは如何なる事なのか。人情から考えてみると
自分が生きているうちに 倅と豊後守の和睦を見届けたい
と思いつく。
実際のところはわからない。

大日本史料データベースによれば 天文七年(1534)の三月末に京極高慶 六角定頼と兄高延 高広 浅井亮政の間で諍いが発生した。こうして佐和山城の合戦となる訳だが それは後で述べる。
ここで重要なのは 父高清の喪に乗じ とある事で つまり京極高清は天文七年(1538)の三月末までに亡くなったようだ。

佐和山城攻撃

さて 高清が亡くなって暫くした天文七年(1538)三月二十七日 京極高慶は六角の援助を受け 兄高延 高広 浅井亮政に与した佐和山城を攻めた。
この戦で二階堂小四郎という男が若宮弥左衛門という敵を討ち取り 六角定頼より感状を賜るが 委細多賀豊後守可申候也 と結ばれている。こうしたところから 坂田郡志 では 二階堂を多賀の配下としている。
そうなると貞隆は ここでも六角方として機能していたと考えられる。

彦根市史によると 定頼は城代に百々三河守を据えた とある。
つまり百々氏は以降 永禄年間まで佐和山城の城代を務めた家柄となる訳だ。

多賀豊後守殿年始樽一荷代

金剛輪寺下倉米銭下用帳にて天文十三年(1544)

二百卅二文 多賀豊後守殿年始樽一荷代 百文 同肴之代 五十文 同時奏者へ樽之肴之代

とある。
その時期は一月若しくは二月と考えられるが やはり 年始 とあれば一月の記録と判断した。

宗牧の東国紀行

同年の十月 東下りの連歌師 宗牧が近江を訪れた。
十月四日に観音寺で六角定頼 義賢親子に会うと それからしばらく滞在。池田宮内卿や平井右兵衛尉らと親交を深めた。

その後宗牧は高宮を訪れ興行を催した。
参河守は高宮三河守を指し 右京兆所 とは高宮右京を指すのだろうか。

高宮に一両日滞在すると 多賀豊後守を御社 このつゐで法樂の事 と記される。
何処かで宗牧と貞隆が会ったという事だ。さてはて紀行を読むと 十月晦日比 伊勢しろせといふ里まで下りし とある。
伊勢しろせ とは 今のいなべ市で藤原工業団地に近い 白瀬城 の周辺地域と思われる。
恐らく鞍掛越か白瀬越で国境を越えたものと考えられ 高宮からの道を踏まえるとその道中に 多賀大社 が鎮座している。御社 とあるのは 貞隆と多賀大社で連歌や法楽を催したとの意味合いも考えられよう。

しかし 法楽 は仏教でも用いられる。それを踏まえると同じ街道筋の 敏満寺 である可能性も考えられよう。特に貞隆は敏満寺に落ち延びていた今井家の増援で助かったように 縁ある寺院である事は確かだ。

さて紀行は 此會に 北部碧洞齋來りて逢ひたり と続く。
この 碧洞齋 が如何なる人物か定かではない。しかし見覚えはある。そう 天文三年浅井備前守宿所饗応記 に見られる 碧澗齋 だ。
実際に東浅井郡志では同一人物として 柳營婦女傳系所收の淺井系圖に 藏人入道壁閑とある人にや と記している。
郡志の系図を読むと どうやら彼も浅井一族らしい。余談ながら後に藤堂家に仕える浅井盛政と養子喜之助賢政 可政 親子は同族で 更に喜之助の実父浅井賢政は碧澗齋の甥に当たるようだ さらに後年浅井久政の側近を務めた浅井福寿庵は 碧澗齋の弟であるようだ。
その彼が これから峠を越えようとしている旅の連歌師に会いに来るというのは 浅井一門で外交的な役割を担っていたと考えられよう。

そして思い出して欲しい。
かつて諸士に先駆け亮政に挑んだのは貞隆その人である。その彼が催した会に 浅井の一門である碧澗齋が駆けつけた。これは両者の関係が伺えるものではないだろうか。
実はこの二年前の天文十一年(1542) 貞隆の仇敵 浅井亮政はこの世を去った。
そして最近の研究では 亡くなる前には北郡も定頼の軍門に降っていたと考えられているそうだ。

先に見た高宮氏も 浅井一門の碧澗齋も 誰も彼も六角定頼の威光のもとにあったと見るべきだろうか。

貞隆の上洛

清渓外集 には彼の二十七回忌で 洛陽十萬兵甲。屢奏官軍凱旋。戦必勝攻必取 と故人を偲んでいる。
生前の武威や 上洛といった活動を匂わせる内容である。

調べてみると 多賀豊後守が洛中に所在した事例は二例存在したので紹介しよう。

細川高國亡き後も畿内の動乱は続き 天文十五年(1546)頃になると高國残党の首魁細川氏綱がその勢力を増していた。あまりの勢いに天文十五年(1546)の十月頃には 彼を管領にする噂が流れたという。
その間に六角定頼は着実に勢力を伸ばした。北郡を概ね屈服させ 細川晴元と土岐頼芸に娘を嫁がせ 更に足利義晴より 管領代 を与えられ 義藤の烏帽子親を務めたほどだ。

貞隆もまた 定頼の影響を受けた存在である。明確に六角氏の家臣かは定かではないものの 長童子以来の付き合いである。
近江国内での活動に終始していた貞隆は 定頼により洛中に足を踏み入れる事となった。

貞隆の上洛は 言継卿記 に見ることが出来る。天文十六年(1547)正月二十四日条にて

自江州上洛 多賀 高野瀬 上坂人敷三千人計有之 云々 各甲冑 云々 又辻堅進藤山城守也 小太刀人敷七百計 云々

と記されている。

この上洛について村井祐樹氏は 六角定頼 武門の棟梁 天下を平定す にて 将軍足利義藤 義輝 の上洛を警護するものであると示した。
なお上洛警護に定頼 義賢親子は不参加である。そして言継は 高野瀬を差し置き多賀を筆頭に記した。
そのため警護の大将が 多賀貞隆である事を示すものと考える。

果たして貞隆は これが初の上洛なのであろうか。
かつて大源高忠 新左衛門尉経家 豊後入道宗悦といった父祖は 洛中で堂々と活動していた。
同じ多賀の姓を持つ貞隆にとって 将軍を警護する大役を任じられての上洛は 如何ばかりのものであったろうか。
目を閉じれば 貞隆の堂々たる姿が目に浮かぶ。

細川国慶

貞隆が洛中に所在した事例の二つ目は 同じ年の秋の出来事である。

先に細川氏綱方が勢力を増していた と述べた。
氏綱に代わり京都を支配していた人物こそ 本稿で述べる 細川玄番頭国慶 である。

ここでまず流れを確認しよう。
前年天文十五年(1546)九月 国慶は丹波より入京すると正月まで支配を行った。
正月になると彼は国境の高雄へ出奔している。

三月二十九日 将軍親子は突如打倒晴元を掲げ 北白川城に籠もった。これは氏綱方を支持する行動である。
細川晴元は四月一日に東山に布陣し将軍親子を囲んだが 元々摂津の氏綱方を攻めていた事もあり すぐに摂津へ戻った。

この時期の国慶は 高雄より更に北に位置する葛野郡小野にて 晴元や四国勢の動きを見定めていた。これは四月二十九日付今村慶満書状 大徳寺文書 から伺い知ることが出来るが 今村は国慶に代わり京都支配を担当していた人物である。

晴元が将軍攻めを再開したのは摂津が一段落ついた七月で 十二日に相国寺に布陣した。その際 六角勢も東山に陣取ったが これは将軍親子と晴元の和睦を仲介する為である。
七月十五日 定頼は晴元に対し将軍親子に関する申し入れを行い 十九日に親子は北白川を退城し坂本へ下向した。
この退去が和睦では無い。
二十一日 晴元方の三好勢は舎利寺にて氏綱方の遊佐勢に大勝した。この戦いが三好長慶の武名を知らしめる一戦となる。

この舎利寺の大勝を以て将軍親子と晴元は 二十九日に和睦を果たす。

閏七月三日 晴元は国慶の高雄を攻め 五日に攻め落とした。国慶は丹波へ逃走したという。
厳助往年記 によれば 六角勢の合力があり兵力は二万余りになったと記されている。
援軍の将も具体的に示され 進藤 長原 永原 三雲 蒲生 青地と 六角定頼の主力部隊が出陣したことになる。
高雄の山城には神護寺という寺が連なるが 彼らは寺にも火をかけた。

国慶は落ち延びた先の丹波でも追討を受けるが どうにかやり過ごし八月には再び京都へ舞い戻った。しかし長く続かず 再び丹波へ逃亡した。
洛中のことを内衆の今村氏 小泉氏に任せて 丹波へ向かった。

内野合戦

十月 細川国慶は京都復帰を賭け 丹波を出た。

一次史料に見る

長享年後畿内兵乱記 史籍 には次のように記される。

同十月五日 上野玄番河島城攻 同六日至大将軍討死

上野玄番とは国慶の事だ。彼の祖父元治が 上野玄番頭 を名乗ったため 国慶もそう表現されるようだ。
十月五日 国慶は物集女の北隣に位置する河島城 革島 革嶋 川島 を攻めた。
そして翌六日 国慶は大将軍で討死した。この戦いを 内野合戦 と呼ぶ。
東寺過去帳に依れば 国慶と共に弟の左馬助も討ち取られたようだ。

また 大徳寺文書 に収まる 弥首座禅師宛半隠軒宗三十月九日付書状 二二五三 の文中には次のように記されている。

随而去六日京都合戦 上玄者外小泉 今村數多討死之由候 然者悉令落居 京都静謐之条 誠以珍重候

つまり 上玄=国慶 をはじめ 小泉 今村といった内衆が数多く討死するか 京より落ち延びた為 京都に静謐が訪れた。斯様な一節となろうか。
ところで差出人の 半隠軒宗三 とは 細川晴元の内衆 三好政長 の法体で 宛名の 弥首座禅師 とは史料編纂所データベース 日本古文書ユニオンカタログ に依ると 藤林左介 綱政 なる人物のようだ。
宗三は京都静謐の次なる話題として 河州表 について記し 近日一揆が起こりそうであるとの懸念を報告している。恐らく宗三は晴元の内衆として 河内方面で六日の合戦について耳にしたのでは無いか。

蒲生郡志 には この戦いに関して細川晴元が発行した感状が収録されている。

去六日於西京大将軍口合戦時 被官人比留田彌六太刀頸一討捕 其功無比類段誠感悅不斜候也 恐々謹言
 十月十一日                 晴元
    永原太郎左衛門尉殿

永原太郎左衛門の被官比留田彌六なる人物が 大功を挙げたらしい。

以上が天文十六年(1547)の動乱および一次史料に見る内野合戦の概要である。

軍記に見る

さて ここまで見てくると本稿の主人公多賀豊後守貞隆は出て来ない。一次史料をもとにすると 六角定頼の家臣永原太郎左衛門勢が国慶を討ち取ったこととになる。
彼が登場するのは 後年に記された二つの軍記である。

細川両家記 群書
同十月五日 イ六 に山城國の内野西の京にて 氏綱方玄番頭 細川国慶 と晴元方合力に渡合候て 合戦しけるが 玄番頭終に切負て討死之。近江衆に多賀豊後守一戦有と申。

足利季世記 蒲生郡志九巻
同年十月六日山城國内野西ノ京ヱ細川次郎氏綱ノ養子ノ舎弟細川玄番頭國慶ヲ大将トシテ河内衆手合ノ爲ニ三百餘人出張ス 近江衆六角衆晴元ノ味方トシテ多賀豊後守豊高二百餘人ニテ馳向 一矢射ルトヒトシクヌキ連テカ`カリケレハ 國慶方ニモ太刀ヲヌキ切先ヨリ火ヲ出シ終日戦ヒ 多賀打勝テ玄番頭ヲ打取ケリ然レハ晴元方ハキヲヒ河内方モ氏綱御兄弟モ力ヲ落シ給ヒケル サレトモ高屋要害ヨクレハ安ク攻落サル` コトモナシ 日々ニ足軽ヲ出シタカヒニイトミ戦ヒ其年ハクレヌ

その成立は細川両家記が元亀から天正頃で 足利季世記は慶長年間と前者が早い。
足利季世記には 多賀豊後守豊高 とあるが こうした軍記によくある人名の揺れであるから 気にすることは無い。
天文年間の多賀豊後守とは 明らかに本稿の主人公 多賀豊後守貞隆 なのだから。

戦の流れ

丹波を出た国慶は 真っ先に 河島城 を攻めた。
これにより国慶が 山陰街道より進軍したことが伺えるが これは夏に高雄を攻め落とされていた事に依るのだろう。
また馬部隆弘氏は河島城周辺 つまり桂川沿いに内衆が所在していたと説く。具体的には 後年今村氏が拠点とした勝龍寺 物集女 小泉氏が拠点とした西院といった桂川流域の地域である。また西岡の渡辺氏も国慶に与していたようだ。

河島城を抜いた国慶は桂川を渡河し洛中へ兵を進めた。
そして国慶勢と六角勢は 内野 西の京 にて激突する。果たして貞隆が率いる六角勢二百余が迎え撃ったのか 遭遇戦であったのか定かでは無い。

内野 とは 細川両家記 足利季世記 の後年の軍記にのみ現れる。当時の記録と書状に則すと 西京 大将軍口 が戦場となる。
現代の地図と照らし合わせると 山陰本線の二条駅や円町駅 京福北野線の北野白梅町駅周辺で行われたとするのが妥当であろうか。

兵数などは足利季世記が詳しく 国慶勢が三百余 六角勢が二百余と貞隆たちは不利であった。
同記に従えば古式ゆかしい 矢合わせ から始まった戦は 次第に太刀を用いた乱戦と相成る。
六角勢は兵数をものともせず 遂に国慶勢を大将軍口へ押し出し 玄番頭国慶と弟左馬助は討ち取られてしまった。

件の晴元感状に従えば 何れを討ち取ったのは貞隆隊ではなく 永原隊の 比留田彌六 と考えることが出来よう。
六角氏の重臣である永原は閏七月の高雄攻めでも援軍の将に名を連ねている。永原の身分と 外様である貞隆の関係を比べると この戦いで永原は軍監としての側面もあったのではないか。

このようにして細川晴元は氏綱方に勝利を収めた。しかし天下の趨勢というのは そう上手くは行かないものである。
晴元方で活躍していた三好長慶が離反し 氏綱方へ奔ったのである。以降のことは 近年三好長慶人気の高まりで 天野忠幸氏をはじめとした諸先生方が様々な媒体で論じておられるから わざわざ触れるまでも無かろう。

系図に見る

さて史料編纂所に収まる多賀系図各種では どのように記されているのか簡単に見ていこう。

  1. 北野合戦 寛文六年 正雄氏版多賀文書
  2. 小野合戦 多賀源介版 慶應初期 義高氏版多賀文書
  3. 小野合戦 多賀氏世系 文化年間か 義高氏版多賀文書

この中では目を引くのは 寛文六年(1666)に制作された系図にある 北野合戦 という記述である。大将軍は北野一帯にあるため 最も正確であろうと思われる記述と言えよう。
小野合戦 北野が転じて小野になったのだろう。

その他の上洛

貞隆の上洛は以上の二件以外には見当たらない。
しかし定頼や六角勢は幾度か上洛している。

面白いところから挙げると天文十七年(1548)四月には 妻を伴って春日参詣の為に大和を訪れている。
また二年後の天文十八年(1549)六月 三好長慶と同政長 細川晴元間で発生した 江口の戦い に於いて 六角義賢が一万の援軍を率い出陣している。
これは細川晴元が定頼の婿である事に依る。
十萬兵甲 とは程遠い数字だが 貞隆も従軍していた可能性も考えられよう。

多賀大社銘文

天文二十四年(1555)九月に造られた多賀大社の梵鐘銘文にて多賀豊後守の名前が記されている。
やはり貞隆のことだろう。
この銘文に犬上の主立った名前を見ることが出来る。この時代も六角氏が同地域を支配していた 確かな証拠となろう。

豊後守の次に 多賀輿九郎左衛門 という名前が来る。また離れたところには 多賀與一 という名がある。
何方が貞隆の子息なのだろう。
既に述べたように 豊後守高忠の子息には 與一 を名乗った人物が居た。そう考えると梵鐘にある 多賀與一 こそ貞隆の子息と考える事が出来るだろう。
ただ他に史料が無く 末裔に当たる加賀藩多賀家の系図史料にも子息の幼名は記されていない為に 確証を掴むまでには至らない。

多賀豊後守の死

煕春竜喜の門弟が記したとされる 清渓外集 には 次のような記述が見られる。

天正九年獵月廿日 勝楽寺にて前豊州太守功寂宗忠禅定門二十七回忌之辰。大功徳主中原朝臣貞能。
就于本寺。中略
共惟 前豊州太守功寂宗忠禅定門。君臣有道。文武兼全。江州廿四人才。丕興曾祖家業。洛陽十萬兵甲。屢奏官軍凱旋。戦必勝攻必取。

天正九年(1581)の十二月廿日に 勝楽寺で 前豊州太守功寂宗忠禅定門 の二十七回忌が行われ 亡き人が如何なる人であったかを紹介している
施主に当たる功徳主は 中原朝臣貞能 であるが これは多賀貞能の事で動向記録としては最古となるだろう。そうなると 宗忠 なる人物は貞能の縁者と考えられる。また二十七回忌という事であれば その没年は天文二十四年 弘治元年(1555)となる。

時に旗本多賀家の末裔多賀高朗氏が著者の 多賀家物語 では 多賀貞隆が永禄三年(1560)に 宗忠 と号したと記されている。この内容を鵜呑みにするのであれば 前豊州太守功寂宗忠禅定門 とは多賀貞隆の事と相成るだろう。
つまり梵鐘の銘文は貞隆の最晩年を伝える貴重なものとなるだろうか。

貞隆の生涯については以上の通りである。その活動時期は永正七年(1510)から天正二十四年(1555)の四十五年に及ぶ。

異説か、その後の多賀豊後

貞隆以降 多賀氏で豊後守を名乗る人物は存在しない。
しかし件の金剛輪寺下倉米銭下用帳には気になる記述が見られる。

三斗 豊後殿中間衆年始之礼 来候時飯酒 二斗 豊後殿中間衆年始之礼之時十人之飲酒 二百卅二文月日不詳 多賀豊後殿 年始之樽之代

これは弘治三年(1557)の月日不詳記録である。
上で清渓外集を参考に貞隆の没年を弘治元年(1555)と説いたが なんとその二年後に 多賀豊後 が存在したのである。
ひょっとすると清渓外集の記述には誤りがあるやもしれぬ。しかしそれを立証する手立ても無く ここでは貞隆の遺臣と後継者を指す意味としての 多賀豊後 と考えて仕舞いとする。