永禄年間・浅井長政と高島

ここまで浅井亮政 久政と高島について見てきた。
本稿では永禄年間の浅井長政と高島の関わりを纏めてみたい。

永禄初期・賢政期

まず高島郡の北端海津地域と浅井氏というのは初代亮政の時代から関わりが深い。
最たる例が 嫡女の婿である海津衆 田屋新三郎であろう。

それ以外でも天文七年(1538)九月には 六角定頼の浅井亮政征討 國友河原 に示し合わせたように海津攻めが行われ 海津は定頼の支配下に収められた。
天文十一年(1542)正月に亮政が没すると 生前に発生した 京極六郎の乱 は活性化を見せ その勢力 北郡牢人 は高島郡にまで及ぶ。
天文十五年(1546)七月になって 浅井久政は海津を攻め落とすが これは恐らく定頼の命を受け同地に根を張った敵対勢力を退治した出来事であろう。

また年次不明であるが定頼期の某年五月に 北衆 音羽表 を攻め 林三郎左衛門がこれを撃退した事に対する感状が存在するが この 北衆 が六郎の 北郡牢人 を指すのか 浅井亮政もしくは久政を指すのか定かでは無い。

梅原の戦い

さて長政が高島郡に手を出した時期は定かではないが 東浅井郡志二巻を読むと賢政時代の某年二月九日に雨森次右衛門へ 西路梅原 にて発生した合戦での戦功を賞した書状を送っている。

今度西路梅原被及合戦 太刀疵三ヶ所 被負御手剰頸一相討候御沙汰之段 誠以御名誉之至 無是非次第 不得申義候 併御高名共 御手柄候 委曲磯野丹波守可有傳述候 恐々謹言
 二月九日            賢政 花押
   雨森次右衛門尉殿
          御宿所
東浅井郡志 松江雨森文書 浅井賢政感状
※なお 傳述 の部分に関しては 浅井氏三代文書集 を参考にした

梅原という土地

この 西路梅原 というのは 西近江路が通る高島郡の梅原を意味する。
高島郡の 梅原 とは即ち 今津町の梅原と思われる。当時の呼び方では 河上庄 に入るそうだ。
ただ梅原というのは西近江路や若狭街道といった主要街道から外れた土地にあるため 何か奪い合う要衝であるようには思えない。
滋賀県中世城郭分布調査.8 高島郡の城 城郭関係地名一覧 を読むと 大字梅ノ原にある小字向川原が 大床屋敷 小字荒谷が ジヤノス馬場 とある。
すると今津の梅原に 何らかの軍事施設があったように感じられる。

また高島郡誌を読むも 同地に鎮座する日吉神社が燃えたなどと云う伝承も見受けられない為に その勝敗やそもそも誰と戦ったのか不詳である。参考に東浅井郡志は菅浦文書の一〇三号から一〇九号までを挙げて 新保の罪を問い糺せるもの という可能性を記している。

時期の推定

その署名は 賢政 であるから 永禄の早い時期までの書状であろう という事がわかる。
彼の諱について 浅井氏三代文書集 を参考にすると 彼の初見は永禄三年(1560)十月十九日の若宮藤三郎宛書状で 浅井新九郎賢政。永禄四年(1561)二月十四日の総持寺宛書状では 浅井備前守賢政 であった。この間に祖父亮政の受領名を継いだものと思われる。
また 長政 に改名した時期は 永禄四年(1561)四月二十五日から六月二十日の事とされる。つまり六月二十日の垣見助左衛門宛書状にて 浅井備前守長政 を確認することが出来る。

ここまでで この書状が永禄四年(1561)までの書状と理解できる。さて文末には 委曲磯野丹波守 とある。彼が磯野員昌であるかどうか 伊藤信吉氏の 磯野員昌と神社 皇學館論叢 を参考に見ていこう。
まず伊藤氏は 兼右卿記 の永禄二年(1559)一月十七日条に見られる 磯野八郎三郎 後年の吉田親子と員昌の親交から員昌本人であると推測しておられる。
次に永禄三年(1560)十二月十四日付若宮藤三郎宛感状 四木表の戦いに関するもの には 磯野善兵衛尉員昌 とある。よく知られる 磯野丹波守員昌 は永禄四年(1561)に比定される七月五日付今井衆宛書状 島記録 が初見とされている。

すなわち 賢政 磯野丹波守 が被る時期というのは 曖昧な島記録を抜いても(1)永禄四年(1561)以外に他ならないのである。

20240727 もも→も

新保闘争

梅原での合戦に際し 東浅井郡志は四巻所収の 菅浦文書一〇三号~一〇九号 を示して 新保の罪を問い糾せるもの とする。
この解説は第二十二章 浅井長政の湖西経略 第一節 梅原の合戦 に依るもので 先に見た梅原攻めとの関連を見ている。
当該の菅浦文書を全て紹介するのは長くなるので割愛する。

しかし第三十四章 死後の浅井長政及其人物 第二節 浅井長政の人物 第三項 浅井長政の性格 には この新保にまつわる菅浦文書の中で第一〇六号を引用し 彼の性格を 寛大 と示す。
紹介された第一〇六号というのは 某年二月二十一日に小谷城の乳母民部卿局から中間 五郎右へうへ へ送られた書状で 年次は永禄四年(1561)と比定されている。

その内容は 新保より 御詫び があり 久政の妻小野殿の口添えにより 備前どの 当時は賢政 自ら新保の罪を許した旨を 小野殿の侍女と思しき民部卿局が伝えたものとなる。
宛所の中間とは 史料の性質を踏まえれば菅浦惣の中間だろうか。

つまり菅浦と新保の間で何かしらの事件が勃発し 同地を支配する浅井家が介入した事となる。前史菅浦は惣村であるため 自検断 を行っていたが 裁判権をはじめとする自主性は浅井氏の伸長によって奪い取られている。この騒動で浅井氏が出張ってきたのも その為である。
菅浦文書を眺めると 事件は永禄三年(1560)十二月から翌永禄四年(1561)の閏三月にまで及んだらしい。

その点で各文書を具に読むと 幾つかの書状に不穏な内容が記されていることがわかる。
第一〇五号の正月二十九日付菅浦惣中御宿所宛長信 上坂 書状には 殊各衆打死候 第一〇七号の二月二十二日付菅浦惣庄中宛熊谷次郎左衛門尉直儀書状には 仍其方喧嘩之由 落居専一候 第一〇八号の同日付菅浦惣庄宛木村孫六廣忠返報状には 其方上使喧嘩之由承候 使被申分者 無事二相果候由候 其方兵衛討死之由承候 第一〇九号の閏三月六日付菅浦惣中宛某安一返報状には 万一破行付てハ 上より討手衆 其外人数合力あるべき由 このような具合である。

時期でいけば正月二十九日から 二月九日付書状に見える 西路梅原 での合戦というのは日が浅く 何やら関連付けることも出来そうだが 明確な史料では無いため避けたい。

しかしながら永禄四年(1561)の正月には死者の出る 喧嘩 が勃発し 二月に浅井家が主体となり調停を行い 二月二十一日までに新保側が小谷城を訪れ 全面謝罪でその矛を収めた事は どうやら事実である。
その最中に梅原で戦が発生したのである。

新保氏

西島太郎氏によれば 寬正から文明の時代に幕府重臣蜷川親賢の頼子に海津衆饗庭 田屋と並び 新保 の名が見られるそうだ。室町幕府と在地領主 第二章近江国湖西の在地領主と室町幕府 第一節寛正~文明期における伊勢氏と湖西の在地領主より

彼らも海津衆で 新保氏 となるのだろうが 彼らの名前は 十六世紀の湖西に於いて一度見られる。大永二年(1522)五月 河上の桂田孫次郞が保坂の小林国家知行 保坂関務一方公文分 を押坊した際に 越中 田中 朽木 永田 能登 山崎の外様衆に加え 饗庭 田屋 新保に押坊停止を命じている。
これ以外ではでは見られない新保氏であるが 小谷城で平謝りをした 新保 というのは彼らの可能性が考えられよう。

マキノ町誌によれば この新保には真宗寺院は見られないため 海津地域に根付いた一揆 三浦講 の関わりは薄そうである。

新保と梅原

新保は旧マキノ町域に位置する集落だ。
この地には西近江路が通る。

新保と梅原の関係性は定かでは無い。しかし地図を見ると新保から南に約三キロの今津 桂から 西に日置前と梅原集落の東側を経て若狭街道 九里半街道 へと抜ける道が存在する。この道は陸軍測量図を参考にすると明治から大正の時代には 梅原集落を通っているように見える。
強引に解釈をすると 新保から梅原へは今津の中心部に近い弘川を通らずに 西近江路から若狭街道へショートカットする道筋に位置するのである。その分岐は日置前で 平ヶ崎交差点と呼ばれる地域だ。

そのような視座を取ると 新保と菅浦の間で西近江路と若狭街道への側道を巡り争論が発生 遂には一戦及んだ事になるのではないか。
浅井氏としても若狭街道の権益確保は重要であったらしいというのは 永禄九年(1566)四月の饗庭三坊への約定に 保坂関 が見え 更に永禄十一年(1568)十二月には朽木弥五郎に対し 保坂役所 を安堵している事から理解できる。
この保坂という地は 今津よりの若狭街道が東から 大原 朽木よりの 鯖街道 が南からそれぞれ合流する地点で 当地より北西に小浜へ辿り着く交通の要所である。
これは自説であるが 湖北を制する浅井氏 久政 賢政 は流通に重きを置いていたように思える。
既に彼ら北国街道で敦賀 越前への道の権益を確保していたと思われ そこから西路 若狭街道への権益確保に動くことで商圏の拡大と 湖上交通の権益獲得を計ったのだろうか。

なお湖上交通権益については 永禄八年(1565)には堅田衆を引き入れることで獲得している。

長政期の高島

ここからは永禄四年(1561)六月以降の浅井長政と高島郡の関わりを見ていきたい。

西庄陣具

最初に東浅井郡志の菅浦文書第一一三号に見られる 菅浦惣中書状案 に触れたい。
これは年次も月日も不明の書状案であるが 長政さま御折紙御座候 とある事から 永禄四年(1561)六月以降であることが理解されよう。
その内容の特筆すべき点は 仍於西庄陣具取ニ めしつかわるべきよし被仰候 と記される点だ。
当時の 西庄 とはマキノ町誌によれば現在の 西浜 から西の地域で 具体的な地域は西浜 知内 開田 牧野 石庭 森西 蛭口 中庄 新保の一帯である。

この地域は西近江路が通る。
牧野より北には 栗柄越 で若狭三方 美浜へ抜けることが出来る。西浜から東へ西近江路を道なり隣の海津 東浜 東庄 を通過し 更に北方敦賀へと抜けることが出来る。その道中 小荒路から東へは 万路 饅頭 をの峠越しで大浦へ出る。更に東へ八田部に進めば 岩熊坂 を越えて塩津にまで出ることが出来る。塩津から木之本へも出ようと思えば 険しいが陸路でも可能である。一般的に日本海側から険しい山道を越えた荷物は 塩津浜 大浦 海津 今津で湖上の舟に積み替えることが出来る。逆も然りで 舟から陸路に変わるのが海津である。
このように海津 西庄は高島郡の出入口として 交通の要所であったのである。

近現代では 西庄村 が存在したが その村域は 海津衆饗庭氏の城があったとされる蛭口から寺久保 下開田 上開田 石庭 牧野 白谷の一帯である。
また近代ではマキノスキー場 メタセコイア並木の名高い地域も 西庄 である。

つまり永禄四年(1561)六月以降に浅井の兵は この海津 西庄に駐留していた事が 西庄陣具 として記されるのだろう。
同地は海津衆の筆頭と言える田屋氏が強く またマキノ町誌によれば石庭に伝わったとされる文書にて田屋氏と並び饗庭氏の存在が示唆されているそうだ。
とはいえ東浅井郡志もマキノ町誌も 何のために浅井の兵が西庄に来ていたのか明らかにすることは出来なかった。こればかりは致し方のないことで これ以上の解説は困難である。

長政の不出馬

ただ東浅井郡志の菅浦文書の一本前 第一一二号卯月二十四日付菅浦惣中宛浅井木工助井伴書状は永禄七年(1564)とされるが その内容は備州 長政 はじめ家臣の出陣が定まらない事を告げたものである。

具体的に何処へ出陣するのかさえも定かでは無いが 東浅井郡志は高島方面へ関連付けている。しかしその論拠も定かでは無い。

渡辺甚助への宛行

さて永禄七年(1564)の長政の動向は僅かである。
その僅か一件が 十一月二十七日 渡辺甚助 西野次郎右衛門に五分の一易地として善積 河上 酒波寺領のうち渡辺に六石 西野に二石五斗を宛がったものである。(1)
易地とは即ち 替地 を指すものだ。

為五分一易地 善積 河上並酒波寺領を以 六石進之候 然者毎年応高頭 以有米自代官可被請取候 酒波寺領之事者 惣別五分一被遂算用 直に可為相所務候 恐々謹言
  永禄七            備前守
    十一月廿七日       長政 花押
     渡辺甚助殿
         御宿所
渡辺文書 東浅井郡志 浅井氏三代文書長政 二十七

善積と河上は現在の今津町に当たる。問題は 酒波寺領 であるが これはよくわからない。ただ両地が今津町内であることを踏まえると 寺領も同地区であろうと推察される。

この書状からわかる点は 永禄七年(1564)の秋には浅井が高島北部の権益を確保していた点である。この前年十月には観音寺騒動により 高島に大きな影響力を及ぼしてきた六角氏が没落している。その隙を逃すことなく 高島北部の権益を確保したのだろう。

(1) 加筆。それに伴い 渡辺は を追加。出典は 大阪城天守閣紀要(48)/2024.3 近江浅井氏旧臣西野家文書 1741 /20240831

酒波寺と浅井家

酒波寺は今津町を代表する真言宗の伝統的寺院である。その立地は今津の中心部から北西に位置し 赤坂山の麓に鎮座する。
同寺は元亀年間に焼かれ没落したと伝わるが 何やら浅井家との縁があるようだ。

高島郡誌 によれば 浅井長政は弘治二年(1556)に 磯野丹波守 を奉行として 酒波寺を修復し寺領として千八百石を寄進したとある。
これは 近江国輿地史略 にも同様の旨が記される。

その信憑性に疑問はあれど 弘治二年(1556)では父久政の時代であるし 当時の磯野氏というのは丹波守員昌ではなく その前代では無いだろうか。最も磯野員昌の前代に関しては 無学につきよくわからないので言及は避ける。

弘治年間であれば 六角義賢は弘治四年(1558)から湖上の米止めを行い 臨戦態勢を整えている。その原因は浅井長政の蹶起と関連付けられているが 具体的に浅井が何をしたのか定かでは無い。
しかし六角勢力下にあった高島に於いて 浅井が酒波寺への寺領寄進を行う事は 越度 と言えるかもしれない。

ただ実際に浅井長政に関する一次史料に登場する 酒波寺 上に記した渡辺甚助宛書状のみで或り このような伝承を一次史料で立証する事が現状不可能である。

浅井長政の湖上権益の獲得

某年二月七日 中島宗左衛門直親と磯野丹波守員昌は諸浦地下人中に対し 先例の如く堅田衆に役儀を沙汰すべし と命じている。諸浦に高島郡の海津 今津が入るか定かではないが こうした書状から浅井長政は湖上交通の権益を目的に高島郡へ手を伸ばした可能性を見ることが出来る。

東浅井郡志ではその年次を永禄八年(1565)とする。その論拠は参考として示す沖島共有文書だ。
四巻にて本文を読むと 永禄八年(1565)の十二月二十日に長政から沖島惣中へ宛てられた沙汰状であるらしい。浅井氏三代文書集の年表によると 沖島に矢銭を課す代わりに船の上下を免許する内容のようだ。
つまり長政は永禄八年(1565)の十二月までに 沖島の権益を獲得していた事がわかる。

船木掌握

後世 十八世紀の正徳五年(1715)以降に 船木の材木座が記されたとされる由来書 従諸侯頭載之御証文数通 新古御検地帖面座役米年用無地高訳并諸手形諸書物其外船木材木座仲間由緒書載之写 山本家文書 には 以下のような書状が記されている。

元亀四年卯月廿二日付備前守長政御判あり
其郡寸別年領之事
去月永禄拾三年当年迄之
分相済候 但貫数両度二七百
本并米三石相越候 雖為少
種々就理如此也 委曲
中嶋又助可申候 謹言
  元亀四     備前守
    卯月廿二日     長政御判
        高嶋
          材木屋中
右者 足利高氏十五代目足利義昭天下之時 浅井三代目之長政
江州之内を知行し沢山に御居城ス 高嶌郡も領地之由

居城 沢山 小谷城 の誤りと思われるものの 浅井長政が高島も領地としていた旨が記されている。
その本文は元亀争乱終盤に発給された書状で 永禄十三年(1570)には既に浅井長政が高島の材木座 船木の湊を掌握していた事が窺える。

饗庭三坊調略

永禄九年(1566)卯月十八日 長政は饗庭の西林坊 定林坊 宝光坊に対し次のような書状を発行した。

浅井長政宛行状
当郡門自然相破 於宮立者 木津一円諸入免共 進之置候 但山門江運上分之儀者 可為如前々候 向後別而可被抽御忠節事管要候 恐々謹言
 永禄九           浅井備前守
  卯月十八日           長政 花押
   西林坊
   定林坊
   宝光坊
     御宿所
管要は東浅井郡志より 浅井氏三代文書では簡要。正しくは肝要でしょう

浅井長政宛行状
就今度合保坂役所 万木正覚寺跡 河上六代官之内朽木殿分 善積八坂名 進之置候 向後別而御忠節管要候 恐々謹言
 永禄九           浅井備前守
  卯月十八日           長政 花押
   西林坊
   定林坊
   宝光坊
     御宿所

浅井長政安堵状
就知行方之儀 最前多胡方迄 御両人以起請文 被仰合由候 此方深長申談之條 多上自然雖違変候 達而異見可申候 不可有踈略候 恐々謹言
 永禄九           浅井備前守
  卯月十八日           長政 花押
   西林坊
   宝光坊
     御宿所

また長政は 千手坊 に対しても書状を発行している。千手坊は東浅井郡志によれば 山徒 であるらしいが その文面から 上の三坊調略に携わったらしいことが分かる。

浅井長政充行状今度三坊申談儀付而 種々御馳走 本望候 仍河上六代官之内田中殿分 進之候 向後彌御忠節管要候 恐々謹言
 永禄九           浅井備前守
  卯月十八日           長政 花押
   千手坊
     御宿所

西林坊 定林坊 宝光坊とは 俗に 饗庭三坊 と言われる面々である。
饗庭は今津の南にある地域で 彼ら三名は山門領の代官として高い地位にあったと解説される。謂わば饗庭の実力者である。
西林坊 宝光坊については明確な史料は見られないものの 定林坊は東浅井郡志に 饗庭家書上 を以下のように掲載する。

先祖饗庭定林坊と申者 高島郡山門領之時分 御奉行職仕 霜降村知行申 郡代罷在候

つまり定林坊は霜降を基盤とした者であることが分かる。

誘引の条件

長政はそんな彼らに対し 味方についた場合 保坂役所 万木の正覚寺跡 河上庄六代官のうち朽木殿分 善積庄八坂名 を条件に勧誘を行った。
これは千手坊が使となったようで の書状にて長政は千手坊にも 河上六代官之内田中殿分 を約している。
また西林坊と宝光坊に宛てた 書状では 両者と長政が起請文を交わしていることが理解される。
このなかで 多胡方迄 とか 多上 といった文字が見える。西島太郎氏は多胡氏も誘われていたと解釈し 東浅井郡志では 多上 多胡上野介 としている。
恐らく千手坊と共に 多胡氏が三坊誘引の窓口にあったようにも受け取られる。

時に多胡氏では元亀争乱に活躍した多胡宗右衛門が思い浮かぶが 彼は永禄四年(1561)十二月に一族多胡権助が善積の竹生島領を押領したことを咎められている。あまり六角氏との関係が良好であるとは言えない。その一方で宗右衛門と浅井長政には 現状残る資料によれば元亀争乱でも繋がりが見られない。

西佐々木七人の地

このうち保坂役所は既に述べたように 若狭街道と鯖街道の合流する関である。
また河上庄六代官とは 俗に 高島七頭 西佐々木七人 と呼ばれる高島の有力者 実は幕臣 彼らが今津河上庄を支配していた事にも因むのだろう。
具体的なところは西島太郎氏によって 越中氏が河上庄殿下渡領 田中氏が河上庄歓喜寺名の代官 朽木氏が河上庄地頭 領家 永田庶流 六角配下 が河上庄鴨野下新田をそれぞれ支配したことが示されている。
三坊は 朽木殿分 であるから河上庄の地頭と領家 千手坊は 田中殿分 であるから歓喜寺名の代官をそれぞれ与えることを約されたのだろう。

寺社領

善積八坂名とは 善積庄内に 八坂神社 の領地が存在したことを示唆するのだろうか。
万木正覚寺跡は定かでは無いが 万木とは安曇川町の中心部の地域である。果たして同地にあった 正覚寺 の跡地を宛がうものであるのか 別の地域にあった 万木正覚寺 の領地 跡職 を宛がうものであるのか二つに分かれる。
さてはて万木正覚寺跡以外は 保坂 河上庄 善積の三ヶ所共に今津町域に位置する事を踏まえると 万木正覚寺跡も同地に存在した可能性が高いようにも思える。

調略の結果

果たして こうした長政の 高島の有力者である三坊や多胡氏に何処まで効いたのか定かでは無い。
しかし の書状にて 西林坊 宝光坊相手に起請文を交わしている事から 長政の誘引は成功していたとなろう。更には誘引の場に多胡氏も居たのである。
一方で定林坊は誘いに乗らなかったようだ。

視点を変えると 長政の行為は明らかに西佐々木七人に対する 押領 であり 西佐々木七人との関係が良好では無かったことを示すものとなろう。
更に河上 善積が中心となっている事を踏まえると 高島に於ける浅井の実行支配域が今津周辺にまで留まっていたと言えよう。

打下表の戦い

先に永禄四年(1561)以前に浅井方が高島郡で合戦を起こしていたことを見たが 同年以降にも浅井は高島郡で何やら事を構えたことが東浅井郡志には記されている。

昨日八日於打下表 林内 河原崎彌太郎首被討捕候 御高名之至 難尽書紙候 猶以珍重候 彌御忠節簡要候 仍太刀一腰 馬一疋進之候 喜入候 恐々謹言
             浅井備前守
  二月十日           長政 花押
   伊藤當菊殿
       御宿所        浅井氏三代文書より。脱字内は早々御注進か

某年二月九日 浅井長政が前日に打下表で発生した合戦にて 林内 の河原崎弥太郎を討ち取った伊藤当菊の戦功を賞し 太刀一腰と馬一疋を褒美として与える旨が記された感状である。
この感状は 伊藤家古記録所収文書 滋賀郡小松村伊藤友三郎蔵 である事から 高名の伊藤当菊とは志賀郡小松 大津市 の伊藤氏と見られている。
小松の伊藤氏 伊藤友三郎氏で調べると 近江蒲生郡志 にて幾つか見ることが出来た。その先祖は白鬚神社の祠官であったらしい。小松の有力者であるようだ。新行紀一氏によれば 天文元年(1532)の山科本願寺焼亡の際に 小松衆が堅田へつめた とあり 同地に於ける一揆の存在が匂わされている。
また戦国遺文佐々木六角氏編には 伊藤晋氏所蔵文書 が幾つか収められているが 伊藤友三郎氏の後裔であろう。

打下の林とは やはり同地の有力者で後に 林与次左衛門 の名前が残る林氏であろう。
果たして 打下表 というのは 大溝城を囲う砂州の上にある 打下集落 を指すのだろうか。全く定かでは無いが 小松の伊藤氏に伝わる性質から踏まえると 彼らは南から北へ攻め込むわけであるから 砂州の根元を攻めたと考えるのが自然だろうか。

元亀争乱下の出来事と見る可能性

確かに小松庄と打下は古く 鵜川 を巡り争いを繰り広げてきた。戦国時代の争論は定かでは無いものの 湖西にも影響力を及ぼそうとする長政が介入することは想像が出来る。
だが小松伊藤は永禄七年(1564)に六角氏の重臣池田忠知から書状を受け取り 更に元亀争乱下と思しき時期に承禎から指示も受けているなど六角氏との関わりが深い為 浅井長政に介入する余地は無いように思われる。

そうなると この書状が元亀争乱下である可能性が浮上する。明確に小松伊藤と打下が敵対した時期 浅井が介入できる時期が元亀争乱下のみである事が大きい。
ご存じのように元亀二年(1571)二月 磯野員昌は佐和山城を明け渡し高島へ渡る。その際に移送の名目を兼ねて 林から一揆まで打下の全てが織田方に降る。一方で上記のように小松伊藤は六角承禎の指示を受けていたように思われ そこから考えると鵜川を取り合う以上に 明確な敵対が考えられる。論理を飛躍させると 織田方は鵜川の安堵を以て打下衆を招降せしめた可能性も考えられよう。

また永禄年間 浅井長政は六角承禎に敵対姿勢を見せていたが 両者が結ばれたのも元亀争乱下の事である。
更に新行紀一氏は 石山合戦期の湖西一向一揆 親鸞聖人と真宗 第三章真宗教団の推移二 のなかで 小松の伊藤氏も長政に呼応したと述べている。この説はそこまで荒唐無稽という訳でもないのだ。
そうなると小松と打下は鵜川を巡り争うなかで 元亀争乱に遂に武力衝突に発展したという線が考えられるのである。

朽木弥五郎への起請文

永禄十一年(1568)秋 六角氏は南郡を追われた。そして将軍足利義昭と織田信長による政権が生まれる。その際 高島からも 高島衆 が神楽岡まで出陣したと言経卿記には見られる。この 高島衆 とは 高島の将軍に仕え奉る面々と言えるから 俗に 高島七頭 西佐々木七人 であったり本稿で 河上庄六代官 と紹介した面々であろう。

浅井長政 久政親子が 西佐々木七人の朽木弥五郎 元綱 に起請文を提出したのは その冬の出来事である。
その内容は 高島郡内に新知千石を 空所が出来次第進む こと 人質を差し出すこと 本知は別儀無いこと 保坂役所は双方今まで通りであること。そして朽木谷は 往古守護不入 である事を確認している。

既に述べたように この二年前時点で浅井長政が朽木領を押領していた可能性が存在する。ここで新知千石をちらつかせるのは 或る意味で替地を意味するのだろうか。
結論とすれば この起請文は浅井と朽木の同盟を示すものである。

同時に疑問も生じる。こうした書状は朽木氏だけに送られたものだろうか。
他の越中氏をはじめとする七佐々木にも送られても然るべきであるが 残念ながら書状は伝わっていない為に判断の材料が存在しない。
しかし後に発生した出来事から考えると 朽木以外の七佐々木に起請文が送られた可能性は十二分に考えられよう。

浅井長政、湖西を支配する

かくして浅井長政は永禄年間に凡そ十年ほどかけて高島郡をはじめ湖西を掌握した。
しかし縁戚の海津衆田屋 渡辺らに宛行した酒波寺領をはじめとする今津町域以外は 彼が実効支配していたとは言い難い。概ね饗庭三坊や多胡氏 西佐々木七人のうち朽木 商人中といった既存権力 勢力の追認という形に留まっていたようである。

ところで今津の平ヶ崎には 松本姓 が多いと西島太郎氏は示す。この時代 あるところで活躍を見せた 松本氏 が存在する。
それは 菅浦文書 菅浦に米や銭を貸す松本氏である。
永禄六年(1563)から永禄七年(1564)に松本新左衛門 永禄十一年(1568)に三郎左衛門 永禄十三年(1570)に松本新兵衛が 元亀元年(1570)五月には松本新右衛門が米五石を貸している。
果たして今津の有徳人 松本氏が菅浦に貸し付ける事に 浅井長政の介在はあったのだろうか。確かに永禄六年(1563)頃というのは 今津に手を出して暫くした頃であるから 有り得そうにも思える。一方で菅浦が今津の有徳人から米銭を借りていた事は 今津の存在感と集積地としての規模感を感じるものだ。

さて足利義昭の将軍就任は 近江の歪みを際立たせることになる。その歪みとは まさしく高島郡に於ける浅井長政の行いであった。
そして元亀争乱 戦禍は高島にやってきた。