永禄六年・永禄七年の混乱

date: 2023-04-17

永禄六年(1563)の争乱

この年 近江が大きく動いた。動かしたのは六角義弼の突発的な行動と それに対する反発であった。
最初に述べるのはこの永禄六年(1563)という年は 事が起きるまでは至極平穏な年であったと思われる。それは浅井も六角も そうした争乱に纏わる史料が存在しないことに依る。

秋までの出来事

争乱に纏わる史料が少ないだけで 東浅井郡志には少ないながらも当年秋までの書状などを見ることが出来る。
早速東浅井郡志から逸れて恐縮ではあるが 三月七日に六角の奉行平井定武 能登忠行から多賀大社不動院へ 諸国へ勧進のために下るものの中に違乱に及ぶ輩がある件につき 不動院に糾察を求める奉書が発給されている。遺文八八六

四月四日には東野弥三郎政行から郷伊豆入道に対し長岡郷鏡新田に関する書状 郷野文書 が発給されている。
八月九日には浅井井伴が菅浦惣中へ請取状 菅浦文書 を発給している。
また五月十九日には久政生母 馨庵寿松が竹生島の麻蘇多神社に鉄灯籠を寄進しているようだ。
具体的な時期は定かでは無いが菅浦文書に依れば 今津の有徳人松本新兵衛はこの年から菅浦に貸し付けを行っている。西島太郎 戦国期室町幕府と在地領主

余談ではあるが寛永十九年(1642)頃に 藤堂の歴史を藩士たちに述べたという在士の無足人陌間太郎右衛門は 当時八十歳ということで逆算すると当年頃の生まれと相成る。なお玉置覚書に見られる陌間の記述には違和感があり この人物の実在自体もやや怪しい部分があるから読まれる際は注意が必要だ。

観音寺騒動に関する浅井長政の動き

永禄六年(1563)の近江の出来事は何よりも 観音寺騒動 である。
十月一日 六角義弼は重臣後藤賢豊親子を観音寺城で殺害した。
吉田兼右は自記に 今日江州観音寺ニテ 後藤父子為右衛門督義弼生害了 然間其一味衆 各令自焼引退了 不慮之次第也 と記す。
厳助往年記 江州観音寺滅却及大乱 と記している。
本稿では浅井長政の動きを中心にして 遺文も参考に観音寺騒動の行く末を追っていこう。

浅井長政の反応

長政が観音寺騒動の報せに接したのは 比較的早く二日か三日頃と思われる。十月四日に某へ騒動の実否を究明している。文書が伝わったのは速水の柴辻家ということで 阿閉や渡辺周辺か 文面を見ると鎌刃の堀周辺何れかへ宛てたものと推察される。なお東浅井郡志は磯野員昌もしくは若宮藤三郎を示し 後者へ宛てた可能性が高いとする。

南之儀 不慮之次第候 仍高宮江御状被遣可然候 彼依存分 何様ニも可申談候 路次之儀 鎌刃江御案内候者 不可有異議候間 早々可被御遣候 御油断有間敷候 片時も御急簡要候 為其令啓候 恐々謹言
  十月四日     長政 花押

浅井長政の犬上出兵

二日後の十月六日 長政は明照寺の知行などを安堵する書状 保勝会所蔵文書 を発給した。明照寺は現在彦根市平田にあるが 慶長四年(1599)に移転するまでは山之脇村 現在は町 彦根口駅のそば に存在した寺である。
この地域は佐和山城の南にあり 高宮からは西北に位置する。東浅井郡志では 長享年後畿内兵乱記 を参考に六日時点で高宮に入っていたものとするが 概ね頷ける説である。尤も佐和山城に入っていた可能性もあるだろうが 何れにせよ実のところは定かでは無い。

このようなところで六角承禎もしくは義弼 または六角親子も城を出たらしい。後述するように斎藤 一色 龍興は 帰城 の報告を受けているが 誰が帰城したかについては定かでは無い。
そして浅井長政が犬上出兵中に行ったのは 清水寺成就院への 佛前常燈 の寄進 八日 成就院文書 大原観音寺への陣僧二名の要求 九日 観音寺文書 多賀大社及び町衆中への禁制 十三日 多賀大社文書 などである。

騒動の収束

六角遺文では 浅井長政が多賀大社へ禁制を発給した三日後の十月十六日に 高野瀬備前守へ宛てて美濃の一色 斎藤 義龍から書状 遺文八八八 が発給されていることになるが そもそも義龍は永禄四年(1561)に亡くなっているため当年の書状ではない。観音寺御父子 無事之儀 からはじまる文面からして これは永禄三年(1560)のものではないか。
実際にこの時美濃の一色 斎藤 から送られた書状としては 十月二十三日に龍興から蒲生左兵衛大夫 賢秀 へ宛てた書状が見える。遺文九〇一 これは帰城したことを最勝院から報告を受けたことについて珍重 また太刀を給わったことに感謝を述べ 氏家常陸介 述永備中守可申候と結んでいる。
つまり二十三日までには騒動は一応の収束を見せていたようである。一説に蒲生定秀の調停があったとするが史料的裏付けに乏しい。

十月二十五日に長政は勝楽寺へ宛て境内山林 寄進保五町地頭職 甲良三郷内に散在する田畑 浄江院領を安堵する書状を発給している。この書状は明確に 永禄六 と記している。甲良三郷は尼子の本拠地にして藤堂のある甲良郷 上之郷 多賀の本拠地下之郷を総称するもので ここにはじめて高虎と浅井長政の接点が生まれるが 果たしてこのとき浅井の支配というもの どの程度の効力があったのか定かでは無い。
好意的に捉えると浅井方に高宮や山脇といった犬上川北岸 芹川流域の国人を引き込み 高宮を前線とした点は評価出来ようか。

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東浅井郡志は翌二十六日に承禎から多賀大社へ 四郎 義弼 の帰城について両種一荷が到来したことは祝着である と謝意を示した書状 多賀大社文書 遺文八八九 が発給されていることから 十月二十日前後に講和したとする見解を示す。しかしこの年次も 先の八八八号文書同様に永禄三年(1560)の騒動とすることも出来るから注意が必要であろう。何より 光源院殿御代当参衆幷足軽以下衆覚 によれば当年五月時点で義弼は 右衛門督 を称しており この多賀大社宛文書は永禄三年(1560)のものであろう。遺文八四六によれば永禄四年八月二十日には右衛門督 なお御湯殿上日記は永禄五年五月十八日に四郎としている

六角義弼は後 十二月十六日 大徳寺へ 就当国錯乱芳間 から始まる書状を発給している。永禄年間の閏月を踏まえると この年次比定には何ら疑問もない。
この数日前には進藤賢盛から饗庭の定林坊へ 人質儀 に関する書状 遺文八九三 饗庭昌威氏所蔵文書 が発給されている。

就人質之儀以折紙申候処 御返事拝見候 菟角被仰候つる事不可然候 早々可有御儀候 何角と被軽候へハ外聞不可然候 皆々与力衆へも申聞候 是非共可被相儀候 不可有御油断候 来廿日より必待申候 恐々謹言
    後十二月十三日    賢盛書判
   定林坊
      御報

その内容から察するに饗庭三坊の定林坊が六角方の人質要請に難色を示したところ 進藤賢盛がどうにか受け入れて欲しいと求めているように思われる。
恐らく六角側は彼ら饗庭三坊が浅井方に傾むくことを危惧しているのだろうが 彼らが浅井方に従うのはこれから三年後のことであった。独立志向が高かったのだろうか

観音寺騒動と浅井長政

斯くして浅井長政は六角義弼の自滅によって 中郡のうち坂田犬上両郡を手中に収めることが出来た。一般的にこのように思われている。しかしながらこうも安直に考えて良いのだろうか。確かに長政は高宮を最前線に多賀大社へ禁制 勝楽寺へは寺領の安堵状を発給した。ただこれは両寺社が戦火を免れるために求めたとも考えられるため これを以て浅井長政の中郡支配開始と捉えるのは早計に思える。

浅井が犬上郡に影響力を及ぼしていることを示す確固たる初見史料は 永禄八年(1565)正月十一日に磯野員昌が多賀大社の神官たちに発給した 置目 であろう。つまり現状では 磯野員昌は永禄八年(1565)の正月までには佐和山城へ入城し 中郡の支配を開始していたと考えられる。
つまり 永禄七年(1564)に何かが起きていたのだ。

永禄七年(1564)の出来事

この年の出来事として大きいの争乱による永源寺 飯高六ヶ寺の焼亡である。他方で三好長慶が七月に没している。

永源寺炎上

三月十六日 義弼は速水勘解由左衛門に対し感状 遺文八九九 西田文書 を発給した。

注進旨得其心候 和南山 神崎郡 ニ小倉源兵衛其外数多討捕由 尤以高名無比類候 重而以書状可申候 委曲大河原蕳介入道可申也 謹言
    三月十六日      義弼 花押
   速水勘解由左衛門尉殿

速水は千草越えの近江側出入口に当たる甲津畑を治めた土豪である。彼は北西至近の和南山を攻め 小倉源兵衛等を討ち取ったようだ。

争乱は五月まで続いたらしい。遺文一二一二は某年五月三日に義弼が寺倉吉六に発給した書状であるが 蒲生郡志 では これを当年のものとしている。内容は被官園城式部丞が一日に発生した左久良表での戦いでの功を讃えるものである。
左久良は現在の日野町佐久良とみられるが 三月の舞台となった和南から見ると南西に五キロと近い。東桜谷志 は寺倉吉六を佐久良に近い鳥居平城 被官園城式部丞を佐久良川の更に上流にあたる園城の城主であるとする。同志によれば寺倉氏もまた蒲生一族であるらしい。

そして一連の争乱により六角氏が帰依する永源寺等 飯高六ヶ寺 は甚大な被害を受けた。

就今度翁劇 当寺諸伽藍 各庵共以焼失 無是非次第候 此儘可及退転儀不可然之条 各以馳走再興肝要候 急度以衆力可令起立候 猶池田新三郎可申候 恐々謹言
    七月九日      義弼 花押
 飯高六ヶ寺
    諸各庵中

伽藍 庵が焼失してしまったという。

小倉家の内紛説

一連の争乱を蒲生郡志などは小倉氏の内紛 小倉右近大夫の内乱 小倉兵乱 としている。しかし史料的裏付けに欠ける。
愛智郡志 によれば前年の十月二十五日に小倉右近大夫が永源寺にほど近い永安寺を放火。更に小倉右近大夫は三月二十三日 五月二十三日の三度にわたり永源寺一帯を放火して廻ったという。

そも小倉右近大夫とは如何なる人物であるのか。遺文八八四は永禄五年(1562)十二月二十六日に能登忠行 平井定武から飯高諸寺庵中 永源寺 へ宛てて出された奉書であるが 小倉右近大夫が江雲寺殿 定頼 の御書で勘料を申し懸けたので 元々の通り諸役免除を通知したものである。不穏分子であったのは確かであろうか。
中世の寺社焼きは相論の手段として行われることもあり 永源寺 飯高六ヶ寺の焼亡は合戦に巻き込まれたのか 相論の帰結として焼かれたのか 何れかであろう。

また郡志などによれば三月和南山の戦いにて 小倉三河守実隆 が討死したとあるが これも一次史料には見られない。

結果的にこの争乱がどのように収拾したのか定かでは無い。一説には蒲生氏が介入したとされる。八日市市史 が掲載する軍記 氏郷記は 蒲生賢秀の妻と小倉右近大夫の妻は姉妹であるとする。蒲生家にとっても一族の争いと相成るためか 上手いこと蒲生下野入道定秀が重鎮として収めたのだろうか。

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小倉のその後

意外にも小倉右近大夫は許され 生き残っているようだ。遺文一二五五は某年十二月二十六日に 六角義治 義弼のこと から小倉右近大夫へ 山門仏陀院領 の年貢について問い合わせを行っている。義弼が諱を義治へ改めるのは永禄八年(1565)なので それ以降のものである。ここでも小倉右近大夫は緩怠か企み 良からぬ動きを見せていた。

永禄十一年(1568)十一月晦日には 和南中納言忠長 小倉越前守実隆 から蒲生下野入道 定秀 隠岐右近大夫へ宛てた書状 遺文九六四 がある。彼らは前年に発行されたばかりの 六角式目 を早速用いて 定秀たちに訴え事を起こしていた。
和南忠長は争乱時に和南山を守っていたのか 争乱の後に和南山を守ったのか定かでは無いが 何れにせよ和南を称している点は興味深く和南山城との関連は濃厚であるように見える。
さて 小倉越前守実隆 も気になる人物だ。彼は 討死した筈の小倉実隆 と同じ諱を持つが 同一人物で 生きていた小倉実隆 実隆の諱を継いだ 二代目小倉実隆 の可能性もあろう。

元亀元年(1570)五月十五日に蒲生賢秀 忠三郎親子は信長から五千五百石を宛がわれているが 氏郷記収載文書 増訂信長文書の研究二三一号 その中には 小倉越前守分 同右近大夫分共二 とある二千石も含まれている。どうやら小倉越前守実隆も右近大夫も 共に六角親子の地下潜伏活動に馳せ参じたと見られる。

また天正十二年(1584)十一月十三日には 野屋氏に伊勢国内のうち百貫を宛がう 小倉豊前守実隆 も大日本史料に見える。恐らく蒲生氏郷家中の者であろう。栗太郡志によれば小倉豊前守実隆の娘は青地四郎左衛門に嫁いだというが 青地の父は賢秀の弟茂綱であり 彼は氏郷の従弟に当たる。

このように反旗を翻した小倉右近大夫も高野瀬 後年の池田新三郎も揃って帰参をしており 六角家は懐が広いと言える。もちろん彼らが持つ力を承禎 義弼 義治 親子が認識していたから 帰参を許さざるを得ないところもあったかもしれない。

池田家の内訌

以前記事にした遺文一二〇九号 上坂宗菊宛義弼書状は 年次不明の三月八日に発給された感状である。多賀新左衛門の配下にあった上坂宗菊の父菅忍が浅小井で討ち死したことに関する感状で 猶新左衛門尉可申候也 としている。
上坂氏は坂田郡の姉川南岸を拠点とした京極の有力家臣の家柄として名高い。天文年間には六角の外様国衆として史料に見られるが 浅井台頭後の動静は史料に乏しい。

以前その年次を永禄四年(1561)頃と推定してみたが 正直なところ根拠に乏しい。
今回当年の稿で述べるのは 義弼が 北郡知行分 を約することが出来る下限となる年が永禄七年(1564)であろうと考えた結果による。
正直なところその下限は永禄六年(1563)の可能性が高いが それでも浅井家が同年中郡に支配を及ぼした形跡 確証は史料から得ることは難しく 便宜上永禄七年(1564)の項に置く。永禄六年の三月であれば池田家の内紛が観音寺騒動へと繋がった可能性も考えられ この年の三月であれば和南山での小倉家の内紛と時を同じくして 池田家に於いても内紛が発生していたことと相成る。
このような年次未詳史料は 他の史料から年次を推測することが出来る。

承禎の愚痴・浅井氏との講和?

このようなところで承禎は何を考えていたのだろうか。
某年五月二十二日に承禎が胸の内を木村筑後守に述べた書状がある。遺文一一五七

今度右衛門督向顔儀 各不足之由尤候 然処対北人質渡 誓書遣儀 義弼及迷惑既捨一命走入候へ者 不及了簡候 其様子難尽紙面候 菟ニ角頼入外無他候 今更浅井ニ可繋馬事当方恥辱候 伊予守以来忠功之儀候間 此度当家可取立覚悟可為神妙候 池田一家存分次第二遂本意儀候 領知方之儀申含為 新村差越候 猶三雲新左衛門 賢持 栖雲軒可 三上士忠 可申候 謹言
    五月廿二日      承偵 花押
   木村筑後守

年次を考える

さてはて此の年次は何時頃なのであろう。蒲生郡志 東浅井郡志の何れも永禄十年(1567)頃の書状としている。
しかしその年次比定は文中の 義弼 によって 若干の疑問が生じる。
それまで義弼は 四郎 を名乗っており 永禄三年(1560)の親子不和の際には承禎も 四郎 と名指ししていた。しかし何時頃か彼は 右衛門督 となる。
六角遺文を探すと永禄四年八月廿日付けの蒲生下野入道定秀書状 遺文八四六 十六本山会合用書類 にて 貴礼畏存候 仍右衛門督出張之儀付 とある。これは同年の上洛の最中に出されたもので 上洛前後で名乗りを改めたのだろうと思われる。この 右衛門督 は官名もであるが 残念ながら義弼が叙任されたとの記録は 歴名土代 には見られない。
一年間も京都に居れば叙任されていてもおかしくはないと思われるが 宮中女官の記録 御湯殿上日記 には翌永禄五年(1562)五月十八日条に 左きやうの大夫 おなしく四郎おやこより と記されており 公式な名乗りでは無い事は確かであろう。

さてここまでで年次は永禄四年(1561)以降とすることが出来る。次に諱から年次を考えてみたい。
単刀直入に述べると永禄八年(1565)五月十一日 遺文九〇四 望月吉棟宛 までに義弼は諱を 義治 へ改めている。
つまり この承禎の書状は永禄四年(1561)から永禄七年(1565)までの書状と相成る。
この中で文意に沿う年は何時になろう。次に文の内容を考えてみたい。

今更浅井ニ可繋馬事当方恥辱候

今度右衛門督向顔儀 各不足之由尤候 然処対北人質渡 誓書遣儀 義弼及迷惑既捨一命走入候へ者 不及了簡候 其様子難尽紙面候 菟ニ角頼入外無他候 今更浅井ニ可繋馬事当方恥辱候

まず承禎はここで 義弼が北つまり浅井長政へ人質を渡し誓書を遣わす と記す。そして 義弼及迷惑既捨一命走入候へ者 了簡に及ばず つまり 義弼が迷惑 一命を捨てて走り入る 降伏を意味する ことは 耐えられない 考えるまでも無い とする。そして 其様子は書くに書けない 書き尽くすことができない。とにかく頼み入る他ないが 今更浅井に馬を繋ぐことは 私にとって恥辱である と結ぶ。
またしても隠居したはずの承禎が義弼の行動にケチをつけている。父定頼以来北郡の始末に追われ 何とか自分の代で平定 従属せしめた承禎にとって 今度は逆に北郡に主導権を奪われる事は文字通り恥辱に他ならない。
反対に浅井長政や北郡勢力の視点に立てば 古の京極支配域復興のためには嘗て京極勢力の中心であった犬上坂田両郡にまで勢力を伸ばす六角は邪魔である。義弼の思惑は定かでは無いが 彼は東方の動静よりも畿内洛中の情勢を重視した可能性がある。ただし祖父や父の軍事行動というものは こうした東方を上手く丸め込み 平らげた上での行動であったために そうした視野の狭さは義弼の若さであったのかも知れない。

長くなった。ここから年次推定を確定していきたい。
まず永禄四年(1561)から永禄六年(1563)の十月まで ここまで見てきたとおり情勢は六角方が有利であり 浅井方はいたずらに失敗を積み重ねるばかりであった。
つまり永禄七年(1564)五月二十二日に他ならないと思われる。三月の和南山の戦いから二ヶ月の頃合いである。

果たして義弼が浅井との人質と誓紙を伴う講和 和睦を選んだのは何故なのだろうか。考えられるのは和南山の一件で 未だ 自分が撒いた種であるのに 家中に火種が燻ることから 浅井との戦いに本腰を入れることは不可能であると捉え 敢えて放棄したのだろうか。

池田一家存分次第二遂本意儀候

永禄七年(1564)に出されたと推定されると 他の文にも興味が湧く。
伊予守以来忠功之儀候間 此度当家可取立覚悟可為神妙候 とあるが 東浅井郡志によると伊予守は 重春 と注釈があり 宛名の木村筑後守は 重存 とあるから 筑後守の父や祖先とみられる。此度~ とあることから これは代替わりに知行などを安堵する書状と言えようか。
そして 池田一家存分次第二遂本意儀候 と続き 領知方之儀申含為~ と結ばれているから これは木村筑後守の跡目相続を認め 安堵 する書状の中に 承禎が愚痴を書き散らした興味深い書状となろう。全く混ぜるのもいい加減にして欲しいのであるが この木村筑後守は義弼に近い立場の人間であった可能性も考えられよう。

さて承禎のライブ感が伝わる本書状には 池田一家存分次第二遂本意儀候 とも記されている。
つまり永禄七年(1564)時点で 池田一家の存分次第に本意を遂げた 出来事があった。
それこそ多賀新左衛門が浅小井を攻め 配下の上坂菅忍が討死し 三月七日に 池田生害 で幕を閉じた事件では無かろうか。三月以降 池田一家が存分次第に本意を遂げるまで交渉が行われたのだろうか。

高島方面

既に浅井長政と高島で触れたが この年の十一月二十七日に渡辺甚助と西野次郎右衛門は五分の一易地として 渡辺は善積 河上 酒波寺領のうち六石 西野は二石五斗を宛がわれている。<sup(1)
恐らく同地はこの講和 和睦で 六角方から北郡へ割譲されたのではないか。
そうなると東浅井郡志が当年四月の出来事と説く浅井長政の不出馬 菅浦文書第一一二号 卯月二十四日付菅浦惣中宛浅井木工助井伴書状 この義弼の行動によって取り止めになったと考えることが出来るかもしれない。
義弼は北郡勢力の攻撃を察知 家中領内で火種燻る状況に講和 和睦を選ばざるを得なかったのだろうか。

(1) 西野について加筆 それに伴い 渡辺は を追加。出典は 大阪城天守閣紀要(48)/2024.3 近江浅井氏旧臣西野家文書 1741 による。/20240831

近江の行く末

斯くして浅井長政と六角親子の間で発生した南北争乱は思わぬかたちで一端幕を閉じた。
しかし課題は残る。何よりも講和 和睦で重要なのは境目の設定である。特に京極高吉を義兄弟として舵を取る浅井長政にとって 京極勢力の中心となる坂田 犬上両郡の確保は重要であると見える。
一方で犬上の国人は高宮のように早くから浅井に従う者 尼子 多賀のように六角方に従う者で二分されていた。特に多賀氏は 豊後守貞隆が京極高清 六郎との義絶以降 六角氏に尽くしてきたのである。更に言えば尼子賢誉などは六角義賢によって 宮内少輔の名乗りと地域における権力を手にした。更に言えば上坂宗菊は父の死と引き換えに北郡知行を約されている。
義弼の行いは こうした六角に尽くした国人を見捨て 更には約束をも反故にするものである。このように列挙している私でさえも 難尽紙面候 といった気分であるのだから そうした義弼の矛盾 父や祖父の否定を見抜いた承禎の怒りは想像を絶するものである。

さりとて境目の話ではあるが高虎少年が住まう甲良の地は 犬上川の向こう岸に浅井と親しい高宮 南には六角の重臣に名を連ねる目賀田 高野瀬が存在し 北郡と六角の勢力に挟まれた境目中の境目。それも最前線になってしまったのである。
果たして甲良武士はどのように過ごしたのか史料的裏付けに乏しい。某年九月二十一日 藤堂九郎左衛門が浅井長政よりが内存を評され私領を安堵された書状 養源院文書 が唯一である。

内存申入通 御内心本望候 然上者 蚊野常学坊跡 安食弾正跡 御内将監入道跡職申談候 可有御私領候 乍恐八幡大菩薩不可有異議候 随分御忠節肝要候 恐々謹言
  九月二十一日         浅井備前守
                  長政 花押
   藤堂九郎左衛門尉殿
           御宿所

永禄七年(1564)は斯様に推移した。多くがわからないことばかりで骨が折れる。しかし近江 六角家を取り巻く情勢は大きく変わろうとしていたのである。
一年後には六角家に大きな出来事が 二年後には北郡勢力が歴史的な軍事行動を起こすこととなる。