久居藩重臣藤堂八座家のすべて

本稿は藤堂八座家の解説を試みたものである。

さて永禄以降 公家侍としての藤堂氏の活動は見られなくなる。
それは広橋家自体の記録が乏しいことによるだろう。

藤堂景久

歴名土代 を見ると 天正に藤堂氏の叙位を見ることが出来る。
天正五年(1577)十二月十日に 藤堂景久 が従五位下に叙されたと記されている。
しかし群書類従版では 年次が天正九年(1581)となっているので要注意である。

その官名は後裔が残した 久居付藤堂左平太先祖左之通 によると 駿河守 のようだが 歴名土代で確認できない以上は 定かでは無いとする他ない。
また年譜略系図に依れば 景任の息子で景豊の弟と相成るが これも定かではない。むしろ弘治二年(1556)に叙された景豊の弟と考えるのは些か不自然で在り 久居市史所収 八座家系図 の通り景豊の後裔が景久とするのが自然に見える。

景久の記録はこの叙位のみで その活動が如何なるものも定かではない。

さて年譜略の系図には 景久の隣に 子平介景政系有後巻 と記されている。どうやら彼の後裔に纏わる記録が どうやら藤堂家に残っていたようだ。しかし 後巻 が今に伝わる事はなかった。
しかしながら この記述だけでも景久もしくは子の平介景政が武家の藤堂高虎に仕えていた事を見出せる。

注意したいのは 久居藩藤堂八座家は景久の後衛を主張するのみで傍証はないという点だ。本稿ではあくまでも 八座家の累代に敬意を表して その系図を全面的に信用して解説を行うことを予め了承いただきたい。

武家に転身した公家侍

高虎に仕えた家臣を編年体で知る事が出来る史料として 功臣年表 という史料が存在する。
文禄二年(1593)の条を見ると月日に 藤堂平助 なる人物が見える。彼について次の様に記されている。

子大蔵 今西ト改ム。子孫久居藤堂八座

藤堂平助景政

藤堂平助こそ 先に述べた藤堂景久の息にあたるとされる人物だ。

公室年譜略 の慶安元年(1648)条には次のように記述が見られる。

私ニ曰祖父藤堂平助ハ文禄二巳紀州粉川ニ於テ故新七郎良勝取次ニテ 高山公二召出サレ弐百石ヲ賜フ所々ノ軍陣ニ従ヒ奉リ武功アレ

藤堂高虎家臣辞典増補 佐伯朗氏 によると 平介景政 は文禄二年(1593)に高虎の重臣新七郎良勝の肝入りで仕えたようだ。
同年の藤堂家は 秋頃まで文禄の役に出ていた為 果たして彼は高虎との目通りが叶ったのか気になるところだ。
その後彼は 慶長の役に出陣したとある。

関ヶ原の合戦の際には大坂屋敷の留守居をしていた。出典は 高山公実録 大坂留守居の記録が残る後裔家譜を紹介する中に 平助家乗 も列記されている。

その後慶長十一(1606)年に大坂屋敷で亡くなったとあるので 彼は大坂詰めの家臣として活動していたと思われる。

さて 築城の名手藤堂高虎 福井健二/戎光祥出版 には 板島普請に関する慶長四年(1599)十月一日書状が紹介されている。
同書状には普請に携わる新七郎組の侍たちが並ぶが その中に藤堂平介の名前が見られる。その石高は二百石だ。
これは平助が新七郎組であったことを示すのだろうか。確かに新七郎の肝入りで仕えたことを考えると自然である。
そうなると翌年 新七郎組から大坂留守居に選ばれたと考えることも出来る。

ところで久居市史の系図では 兵助 とあり 粉川で二〇〇石と記されている。
石高は正確であるものの名は誤りであるが 読みがヘイスケであることがわかる。

さて 公室年譜略 には平助について面白い逸話が記されている。

高山公二召出サレ弐百石ヲ賜フ所々ノ軍陣ニ従ヒ奉リ武功アレ共スネ者故高禄ヲ好マス加増ナシ慶長十一年病死ス

どうやら喜田村が年譜略を編纂した頃 平助は すね者 であったから高禄を好まず 加増がなかった そのような噂があったらしい。喜田村が久居藩で直接末裔から聞いたかも知れない。
なお 所々の軍陣 に従って 武功 があったと述べるが 彼が参戦したのは慶長の役程度であろう。少々誇大に紹介している。
実のところは定かでは無いが 縁があると思われる公家 広橋家の石高は一千石に満たぬそうだから 公家侍時代の名残であろうか。

藤堂大蔵もしくは、今西孫右衛門景時

景政の跡を継いだのが藤堂大蔵である。功臣年表には慶長十一年(1606)条に次のように登場する。

平蔵ノ子 二百石 後改今西孫右衛門 後改藤堂姓。子孫久居家中。藤堂八座

夏の陣での活躍

大蔵は大坂夏の陣で首を取っている。

まず冬の陣での動向が定かではないことを前置きしよう。
大坂夏の陣では 藤堂高清の与力として名張留守居を務める事になっていた。しかし与力親である高清が無断参陣をしたので 大蔵も従ったらしい。
これは公室年譜略の首帳の一つ 久居附帳面 に依るもので 今西孫右衛門の名で記録が遺されている。曰く二つの首を獲た模様だ。

また高山公実録には藤堂家の戦いを纏めた 元和先鋒録 からの引用として 次の様に記されている。

与力藤堂太郎兵衛藤堂大蔵森八次甲首取申候由申伝候得とも場所不分明候

田丸在番

無断参陣を遂げた藤堂高清 正高兄弟 それに高虎側室の兄長氏は戦後に 禄を没収の上に逼塞という厳重な処罰を受けている。
しかしどうやら高清の与力達は特に処断される事はなかったようで 家臣辞典には元和三年(1617)田丸城詰めになったとある。その出典とされる 視聴混雑録 には そのような記述は見られない。
だが実録の元和三年(1617)九月条 高虎の田丸巡覧に関する項目には確かに 藤堂大蔵 の名前を見ることが出来る。
その出典は 馬淵八十兵衛蔵書 元は同年十月十六日の高虎書状であるらしい。内容形態は指示を述べた条書で末には御印とある。
この中で 一日一夜つゝ番替可仕候 として 本丸番衆三組が記され その筆頭に見えるのが 藤堂大蔵 である。

まず元和三年(1617)五月に藤堂高虎は田丸五万石の加増を受けた。これにより田丸城に津藩の人間が詰めることになったが 夏の陣無断参陣で名高い細井主殿 姓を賜り藤堂主殿 を城代とし 詰の中核を主が謹慎中の高清組が担ったようだ。
大蔵の他に南部藤兵衛 藤堂太郎左衛門 加納藤左衛門 赤林少蔵 森八蔵 が名を連ねる。南部 太郎左衛門 加納 赤林は番衆ではなく前二名が本丸 後二名が二之丸に詰めた。
南部と藤堂太郎左衛門の下にあったと見られるのが 三組十七名から成る本丸番衆なのであろう。
津藩による田丸支配は元和五年(1619)七月に徳川頼宣が紀州に封じられると その領地として五十五万石に加えられ 高虎には替地として山城大和 城和 五万石が与えられた。引き渡しは七月から八月にかけ行われたことが 高山公実録に収まる主殿 加納藤左衛門宛の書状四通から理解出来る。

津附采女組と改名

寛永七年(1630)の分限には津附 采女組の中に 平助子二代目今西孫右衛門 の名が確認できる。その石高は二百石である。
津藩の田丸支配が終了した元和五年(1619)に津附 采女組に編入したと見るのが自然であろうか。
時に彼は 今西孫右衛門 を名乗っている。元和三年(1617)以降に改名していた。明確な時期と改名した理由は不明である。

そうした部分で 公室年譜略 の慶安元年(1648)条に見られる記述は興味深い。

嫡子大蔵へ跡目相違ナク賜フ先年大坂城石塁普請ノ砌其役ヲ勤ム其節故有テ今西孫三郎ト姓名共ニ改ムルト云々

どうやら大阪城再建に携わった縁で改名をしたという。その詳しいところは定かでは無い。

その後の一族

さて大蔵 今西孫右衛門 から先の一族はどのように連なっていくのだろうか。
これは久居市史所収の 八座家系図 が詳しい。
ところで同系図は基本的には年譜略系図を踏襲しているが 景任~景豊~景久~景政と連なっている。景豊の後裔に景久が来ることが特徴的で或る。また同系図が年譜略に記される 子平介景政系有後巻 の可能性が高い。

まず大蔵 今西孫右衛門 の諱である。
彼は 景時 と藤堂氏累代の字を用いている。また系図によると彼は正保四年(1647)九月に没したとある。
子は景冬と景由の二人である。

公室年譜略 は翌年の項に次のように述べる。

慶安元年
此歳 今西孫三郎去年病死ニ依テ嫡子忌明ノ上跡目相違ナク弐百石ヲ賜フ

ここで 今西孫三郎 とあるが これは誤記 誤植であろう。
景冬が喪中を経て跡を継いだのは やはり公家侍出身らしい点と言えようか。

今西孫右衛門景冬について

景冬は父と同じく今西孫右衛門を名乗るも寛文六年(1666)三月に惜しくも早世したと系図にはある。
この事から 慶安四年(1651)の分限にて津附 四郎右衛門組にある今西孫右衛門とは景冬の事となろう。

さて父景時が亡くなる七年前の寛永十七年(1640) 伊賀上野城代を務めていた藤堂高清が亡くなった。
後任の城代には伊賀にルーツを持つ藤堂采女が選ばれたが 息景冬がそのまま津に残っている事から考えると 父は采女に従う事なく津に残ったと推測される。

なお景冬が属す藤堂四郎右衛門とは家老の藤堂宗綱の事で その父は高虎側室 高次生母の義兄弟橋本氏である。
その縁もあり 少年の頃から高次に仕えると その子息である高久や高通の養育係を務めた人物である。
すなわち采女の伊賀転出に伴い 宗綱が采女組を引き継いだと推測される。

どうやら景冬に子息は無かったようで 跡目は弟が継いでいる。

今西孫三郎景由

景冬は寛文六年(1666)三月に没した。子の無い景冬の跡を継いだのは弟の孫三郎景由である。以降は彼の家系が幕末まで続く。
久居市史によれば景由もまた 父と同じように 大蔵 を名乗ったとあるが定かではない。

景由の家系が続く事もあり 系図には禄や久居藩内での役職変遷についてが記されている。
例えば景由は承応二年(1653)に 大小姓 とある。これは寛文九年(1669)の久居藩立ち上げ以前の記録となるが これが高次と高久と高通 三者のうち何方の大小姓であるかまでは不詳だ。
まだこの時代は高次の隠居前なので 高次の小姓を務めていたと考えるのが自然だろう。

久居藩の立ち上げ時の分限には 染井より附属の者のなかに 今西孫三郎 なる人物が記されている。この彼が景由の事と推察される。
染井とは藤堂家の下屋敷で 景由が大小姓となった八年後の万治元年(1658)に成立した。駒込図書館さくらデジタルコレクションより

兄景冬が属した藤堂宗綱は慶安四年(1651)に六十四歳で亡くなっているが その生前に江戸家老も務めていた事から 景由と江戸の屋敷は縁が深いものと推測できる。
また久居藩立ち上げ時に彼が高通附に転じた事には高次の推挙もあったとも考えられるが 実際のところは不明である。

久居藩でのはたらき

久居藩は何時から始まったのだろうか。
これは寛文九年(1669)の高次隠居に伴う代替わりと分知 寛文十年(1670)の城下整備の開始 そして寛文十一年(1671)七月十七日の高通久居入城の三段階に分ける事が出来るが 二〇二一年が 久居三五〇周年 と銘打たれている事を鑑みると 高通の久居入城がスタートとなるのだろう。

久居藩の今西景由と目付考察

さて久居藩に転じた景由はどのような立ち位置にあったのだろう。
まず戦前に梅原三千翁が記した藩史 藤影記 には 寛文九年(1669)閏十月七日 高通が青地市兵衛に持たせた書面には 今西孫三郎と疋田勘左衛門の両名が目付を務めたことが記されている。
しかし系図には延宝五年(1677)に 郡奉行代官 を務めた旨が記されているのみである。これは一体どういったことなのだろう。

久居市史には久居藩の職制図が掲載されている。これは百五十年後の文政年間の職制図であるから あくまでも参考程度だ。
同図を見ると 郡代官職はナンバー三にあたる惣〆から加判~郡奉行~郡奉行代官と連なる。およそナンバー六となるが その下には郡代官に町年寄や大庄屋が連なり いわば久居藩の民を督する重役となろう。
ただ同職制図には 目付 を見る事は出来ない。
参考に三重県史サイトの質問コーナーにある寛延四年(1751)津藩の職制図を見てみると 郡奉行の下に代官と同じくして 郡目付 が存在し 更に普請奉行の下に歩目付などの目付職が存在するが 果たして藤影記には 目付 としか記されていないために断定する事は出来ない。

その後 景由は元禄七年(1694)に没した。その石高は百八十石であった。

藤堂大蔵とその復姓

跡を継いだのは大蔵であるが 姓は今西では無く藤堂に復姓している。
藤影記には父景由が生前に復姓していたと記されているが この復姓について 藤堂御家譜并雑書 所収の 久居付藤堂左平太先祖左之通 には次の様に記されている。

右の後高睦公御代先祖の名被仰付 藤堂大蔵に御改め被成候 紋酸梁也 それより代々藤堂を名乗

高睦とは高久 高通の末弟で 兄の没後に嗣子として津藩の四代目藩主となった人物である。
そして 藤堂左平太 とは大蔵の子だ。
つまり高睦の御代とは 景由が没した九年後の元禄十六年(1703)からであり 大蔵の時代と重なる。すなわち藤影記の記述と 久居付藤堂左平太先祖左之通 は合致しない事がわかる。
確かと言えるのは 大蔵の代に藤堂に復姓した事だろう。

さて大蔵の職歴は次の通りである。
彼は享保二年(1717)に御槍奉行 享保十年(1725)に御用人とある。
その石高は享保十一年(1726)に二百石と 父景由が久居では二百石から百八十石へ微減していた事を踏まえると 見事に回復したどころか武家に転じて以来初めて加増された人物と言えようか。
系図には寛延二年(1749)に没したとある。父景由が亡くなった年月を考えると 大蔵は長生きしたのではないか。

功臣・藤堂八座家

久居市史の系図を読むと 高虎に仕えた景政が初代となり 景時が二代目 景冬が三代目 景由が四代目と連なる。その後は五代目大蔵 六代目左平太と連なる。

藤堂左平太

左平太は享保十二年(1727)に大小姓御刀番 寛保二年(1742)に御扈従頭 寛保三年(1743)に御用人 寛保四年(1744)には二百八十石となり 宝暦五年(1755)に没した。
左平太が大小姓御刀番となったのは四代藩主高治の頃であるが その翌年に高治が津藩の六代藩主となっている。つまり左平太は高治の養嗣子 高豊 後の高朗 に仕えたが 享保二十年(1735)に高治が倒れた為に高豊が津藩の七代藩主となる。
そうなると寛保二年(1742)に御扈従頭として仕えたのは 八代藩主である高雅の事になろう。彼は高治の嫡男である。

また高雅が久居藩を継いだのは若干九歳であるから 恐らく藩主を指南した一人に左平太が居たのではないかと思われる。

七代目・藤堂八座の略歴

さて この家系で最も高名なのが七代目の八座である。彼は藩の救済制度 義倉 を運用する 義倉方 の創設者の一人として名が残る。

まず彼の略歴から述べていこう。
宝暦五年(1755)に父左平太の死に伴い家を継ぐと 宝暦八年(1758)に御刀番を勤める。
四年後に高雅が没すると 七代藩主高敦 高豊の子である に仕え 宝暦十三年(1763)に御槍奉行となり 更に宗旨奉行 元〆御用人と経験を積む。
明和七年(1770)に高敦が津藩を継ぐと 八代藩主高朶 に仕える。
その後 高興 高衡 高矗と藩主の早逝を見届けながら 寛政三年 一七九一 にはその禄が三百石となる。その時代は十二代藩主高兌の頃である。
父左平太は寛保四年 一七四四 に二八十石と系図には記されているので 二十石の加増となろう。

このように出世を重ねた八座は 八代藩主高朶の代に 義倉制度 の調査立案に携わると 十二代藩主高兌の代でようやく義倉方として本格運用に務める事となった。寛政九年 一七九七 の事である。

義倉と七代目八座

義倉制度 とは幕府の普請や天災凶作 更には藩主の宗家相続などに伴う相次ぐ代替わりの余波で 困窮した藩財政を建て直す為に行われた積立金制度である。積立金は藩の事業資金 貸付金に充てられ 以降廃藩置県の頃まで百年続き 久居藩を代表する財政施策として今も語り継がれている。

試験運用から本格運用までに時間を要している事について 藤影記では財用意ならず見合わせ と記されている。それでも高朶は隠居先の巽岡にて 所属の侍共を使い小規模の義倉積立を試験はしているようだ。
また運用開始まで時間を要した理由の一つには 藩主の相次ぐ代替わりの余波も考えられるだろう。
安永四年 一七七五 に隠居した高朶の弟高興が二年後に二十歳という若さで病死 更に従弟の高衡は相続の四年後に十八歳で その弟高矗は九年の在位も寛政二年 一七九〇 に二十歳の若さで亡くなっている。高朶の甥高兌が十二代藩主として家を継いだのは 彼が九歳の時であった。

義倉方・服部竹介

義倉方として運用に携わった久居藩重臣は七代目八座だけではない。藤影記によれば 義倉の調査立案に携わったのは八座をはじめとする五人とある。
久居市史には 服部竹介 なる人物も記されている。彼の先祖は藤堂高虎の側近として天正前半に仕えると その生涯ほぼ全ての合戦に従い 数多の武功を挙げ更には四国攻めの折には高虎から肘撃ちを喰らい 奥歯を折ったというエピソードが残る功臣服部保久である。

彼を初代竹助とすると 公室年譜略の寛文九年(1669)高通附属にある 服部竹介 とは 保久の後継者で二代目と考えるべきだろう。その後 寛文十一年(1671)七月十七日の高通久居入府の際には 馬廻り七人衆に名を連ねると御館留守居にまで出世を遂げた。
また享保 元文年間には用人に名前が見える。なお 知久助 との表記であるため この一族は ちくすけ と読む可能性がある。

義倉方としての服部竹介が何代目であるかは定かでは無い。しかしこれより後の時代には 家老や中老 番頭を輩出している事が 様々な史料等から読み取る事が出来る。
文化三年(1806)に高兌の宗家相続に伴い藩を継いだ弟高邁 彼の娘を娶った服部竹助も存在するが その婿こそ家老を務めた服部竹助ではないだろうか。

その後の七代目

話を七代目の八座に戻そう。
彼は寛政十年(1798)十二月十三日 藩主高兌から御小袖一枚 白銀二枚を賜っている。
享和二年(1802)には久居を離れ江戸詰となり 文化五年(1808)に没した。

八代目八座の項目には 文化二年(1805)相続と記されているので 七代目八座は同年に隠居したようだ。その活動期間は五十年と長きにわたる。

時に久居藩には 佐野酉山という優れた学者が居た。
久居市史には 佐野に学んだ藩士として藤堂八座を挙げるが その生きた時代に合致する八座はまさしく七代目八座である。
彼は 藤堂寛斎 として秀才の名を得たという。景盛系藤堂氏の誉れである。

その後の八座家

八代目の八座は初めの頃に大蔵を名乗っていたようだ。
文化二年(1805)に父から家を継ぐと 文化五年(1808)に御刀番 そして文化八年(1811)には父と同じく義倉方の職に就く。しかしそれも一年限りのようで 文化九年(1812)に江戸で御歩士頭 文化十一年(1814)には御用人とキャリアを積み重ねていった。このあたりは現代のキャリアパスと重なるところがある。
幹部候補として様々な部門で経験を積んだ彼は文政元年(1818)に御中老となり その禄は三百五十石 更に文政三年(1820)には四百五十石にまで加増された。

九代目八座が天保十二年(1841)に御用人となった事が記されている事から 八代目八座は同年頃に隠居 もしくは亡くなったものと思われる。

久居市史には久居藩の歴代家中要職が掲載されているが 弘化四年(1847)の用人 文久二年(1862)の家老に見られる八座というのは この九代目八座の事であろう。
また明治元年の家老に見られる八座は明治二年に士隊長を務めたと系図に記された 十代目八座の事となろう。

しかし系図には二人が家老職にあったとは記されていない。
九代目八座は 天保十二年(1841)に御用人 弘化二年(1845)に江戸へ 弘化四年(1847)に中老と記される。あくまでも 中老 であり家中要職の 家老 とは異なる点が生じている。

こうしたところでは藩史藤影記に 高兌と高邁の弟にあたる十四代藩主高秭の代から 最後の藩主となる十六代高邦の代まで藤堂大蔵が家老職にあったと記されている。年次に表すと文政元年 一八一八 から明治四年 一八七一 までとなり 更なる混乱を誘う。

とにもかくにも藤堂一族は幕末 明治期を上手く乗り越えた。
系図によれば 十代目は士隊長を務めた後に かつて久居藩領であった高岡村の村長を務める。また彼の子息大蔵は日之出汽船の社長を務めたとある。

このように室町時代広橋家の侍として活躍した藤堂氏は 時を超えて久居藩の功臣藤堂八座として活躍 その名を今に残したのである。

課題としての疑義

しかしながら 平助が駿河守景久である点や 景久が駿河守であったとする内容は 八座家の伝承に基づく内容で客観的かつ一次史料的な裏付けに欠ける。
今回 藤堂高虎前史の制作に於いて私は一次史料からの検証を試みた。そうした中で本稿に限っては ほぼ全てを二次史料となる系図伝に頼らざるを得なかったことは非常に心苦しい。

こうした部分を解消するためには やはり守光以降の戦国期広橋家の記録発掘が待たれる。
また 家系 の問題点については 別稿に纏めてみたい。