あとがき・私と多賀氏

私が Twitter で多賀秀種について初めて触れたのは平成二十九年(2017)夏の事だった。その次に多賀家に触れたのは翌年二月に公室年譜略や高山公実録を借りて読んでいる時だ。
ただ秀種に関して言えばもっと早く 高虎について深く調べて居た時で秀長家臣団について調べていた頃だと記憶している。学生時代なので平成二十八年(2016)頃だろうか。その二月に軽くツイート群を纏めたのが 非常に拙い内容で全てが薄っぺらい。今は消してしまった 令和二年十月追記

発想の転換から

二年後の今年(2019)一月。先年より 与吉少年は何故命を狙われたのか という疑問を持っていた私は 何かヒントは無いだろかと県立図書館で借りた二冊を読みあさり その日も通院の待合室でも読んでいた。そうして私は西島留書の多賀に関する内容と出会った 私にとって 押領 という言葉は非常に刺激的で 大発見であった。そこから私の脳味噌はフル回転を始めた。
今回のコラムはツイートたちが元々である。しかし気がつくと膨大な量となり グーグルキープに移すと学生時代のレポートのようになってしまった。ホームページを立ち上げようと考えた理由の一つも この藤堂家と多賀家の関係について纏めたものを公開したいと考えたからだ。

多賀姓抽出からの発見

また同じ二月末 私はいつものように借りた公室年譜略と高山公実録で面白い試みをした。いつもは夏の陣までしか読んでいなかったものを このときは高次が亡くなるまで きっちり最後まで読もうと。そうしていくと幾度となく多賀姓が目に止まる。これは何かあるぞ? と考え今度は多賀姓の抽出を試みた。
多賀姓の抽出に関しては別の機会に別ページを立ち上げ 公開するがその中で運命的な発見を果たす。
明暦三年(1657)八月二十三日 茶人多賀左近逝去 家臣でもないのに いきなり出てきたのだ。これには私も驚いた。貴方は一体誰なのだ。
調べてみると桑山重晴の三男に師事した茶人で 諱を常長と云う。

彼については縁の刀があると云う事で名刀幻想辞典さんのサイトが詳しい。常則の息子常直について没年と年齢が書かれており生年を推定するのにとても役立ち 更にその旨をツイートするとデジタルアーカイブの寛政重脩諸家譜を紹介して頂いた。改めてこの場を借りて御礼申し上げる。

寛政重脩諸家譜という史料は国会図書館のデジタル版もあるが 地元さいたま中央図書館にはデジタル化されていない全巻が揃っており作業スピードが加速したのは言うまでも無い。
令四二月追記。後に索引サイトの存在を知り重宝している

また本で行くと信長ファンの父が昔購入した 歴史群像シリーズ激震織田信長/二〇〇一年 の中にある谷口克弘氏の信長軍団変遷 ここには常則が旗本に存在しており非常に役立った。そして新人物往来社の 浅井長政のすべて/小和田哲男編 も役立った。

多賀と藤堂は同族なのか

さて此処からは補足と行きたい。
藤堂ト多賀氏トハ代々同族タリ とは公室年譜略の西島留書からの引用だが これには二つばかり証拠がある。

まず一つが 多賀常則系も藤堂家も中原氏流を称している事である。
二つ目が家紋が同じ事である。藤堂家は高虎の代で蔦の家紋に変更しているが それ以前は多賀家と同じ酸漿の家紋を使用していた。

もちろん疑問もある。
高山公実録下巻 御系譜考 という章には 藤堂氏について二種類ほどの系図が掲載されている。その中に 多賀高忠が無理矢理記されているのだ。ひょっとすると この荒唐無稽な系図を受けて 代々同族タリ としたのではないか。そのような疑義が生じる。
ただ藤堂村の至近には多賀豊後守家の下之郷が存在する。同族で無いにしろ 代々緊密な関係にあったと考えて良いだろう。

康正二年(1456)七月二十六日の足利義政拝賀の列には 佐々木中務少輔京極勝秀隊中に多賀氏数名と共に藤堂九郎左衛門の名前を見ることが出来る。
更に文明十八年(1486)七月二十五日には藤堂備前と多賀新左衛門 経家 が今井蔵人と共に政経材宗の室町出仕に同道としていることが 蔭涼軒日録 には記されている。
また永正七年(1510)二月二十二日の御内書内 近江衆 に見える多賀豊後入道と藤堂九郎郎兵衛尉。
天文三年(1534)八月二十日の小谷城饗応には多賀豊後守が列し 藤堂備中守が進物を披露している。

このように多賀氏と藤堂氏は室町時代以来から 近郷の族という点で非常に密な関係を持っていたと察せられる。

そうした関係の中から誕生したのが 藤堂高虎と玄蕃 新七朗なのであろう。

虎高の出自

高虎の父で婿養子になった虎高。彼の出自も少し見ていこう。

下之郷のサイト 高虎が放浪中に父の実家川並家に寄ると主の川並高儀と兄弟のように親しくなり 契りを結んだ とある。つまり 源助は川並家という下之郷城多賀氏の家老を務めた家の出身 という話だ。

しかし藤堂家の系図伝では 三井出羽守 の子とあるので 江戸時代から現在に至るまで三井氏出身説が通説である。
ただ三井家の系図には やや曖昧な系図があり 虎高の三井氏説というのも安易に信じて良い物か判断に迷うところだ。

また毛利高政と源助 その妻が縁戚とする系図があるそうだが 源助はともかく妻は多賀氏の出であると説明してきた。後妻がその妻である可能性も考えられるが 浅井の養女 とあるから おとらの事だろう。そうなるとこの系図は信じに足らぬ。
勿論 下之郷の話も逸話の類いだから同様だ。

しかし高山公実録には気になる記述が見られる
藤堂源介殿生れハかハらの横関と申候年寄ども申候とあり
つまり源助を横関村出身とする説である。しかしこの記述以外に彼を横関出身とする説は見られず これ以上話を拡げることは出来ない。

ともあれ六角勢力と北郡勢力の境目に暮らす藤堂氏が 六角勢力の源助虎高を婿に迎えることは合理的ではある。
また諱の という字も興味深い。永禄以前であれば六角と敵対した三好に の字を諱に用いた人物も存在するが 何か関連はあるのだろうか。

消えた出雲守家考察

応仁の乱 そして京極騒乱で豊後守多賀高忠が活躍 槍玉に上がったのは既に述べたとおり。一方で 豊後守高忠と激しく争った多賀出雲守家について 知る人は少ない。

多賀清直

まず清直と高忠夫人の父が 多賀高直 という人物で 坂田郡志には 出雲守高直入道昌宗 と記されている事を示す。
なお二木謙一氏は 中世武家儀礼の研究 清直の父は 四郎右衛門 と示している。

つまり高忠はその騒乱で 義兄弟と甥を相手に戦ったという訳だ。当初は京極孫童子丸を政経 材宗らと推す高忠 高清を推す清直という構図であった。
清直は騒乱の最中 文明十一年(1479)に亡くなったとされるが 坂田郡志 では翌文明十二年に 四郎右衛門清直 という名が見られるので 没年は同年以降だろう。

多賀宗直

清直の息子は兵衛四郎宗直である。
坂田郡志では彼と揉めた 興一 を兄弟としているが 二木謙一氏は 中世武家儀礼の研究 興一は高忠子息 との見解を 東寺執行記 の文明十七年八月二十六日条 豊後守子息与一 を引用して示している。

両者は文明十三年三月二十九日 伊勢貞弘の仲介により和解をしたと 坂田郡志は 親元日記 を出典に記している。
伊勢とは室町殿の重臣として名高い伊勢氏の人間だろう。

その名前の通り 彼は何処かのタイミングで敵対していた政経 材宗と和睦したらしく の字は偏諱との説がある。

騒乱の終焉と両多賀の最期

文明十八年(1486)八月 豊後守高忠が没す。

さて多賀高忠の死については 些か不穏な説がある。

松江市史 には 京極政経 材宗 と宗直が高忠を自害に追い込んだとある。
全く以てややこしい話だが この少し前に京極高清が家督と相成り 高忠は大人しく高清に従ったのだろう。

一方で 出雲守家の宗直は父の代より高忠と敵対しているので 逆に政経 材宗派へ変わったと考えられよう。
それなら 彼らが高忠を死なせるのは理解が出来る。

しかし 京極家の菩提寺 徳源院の住職が監修した 佐々木京極氏と近江清瀧寺 サンライズ出版/2015 話がかなり違ってくる。

文明十八年(1486)八月十七日に京極政経等と通じた多賀宗直が 敏満寺に居た京極秀綱 高清 を打倒すべく挙兵。これは前月末に挙行された足利義尚の右大将拝賀で国内が手薄になった隙を狙ったもの。
多賀高忠も材宗の命で宗直軍に加わるも 負傷して自害。秀綱は甲賀へ逃亡した 意訳

以上のように記されている。
秀綱 高清 派に居た宗直が突如として政経派へ転じると 高忠を麾下に加えて秀綱を攻撃したというのだ。
これは本当に意味がわからない。

そうなると高忠を死なせた宗直が騒乱の勝者なのだろうか。否 彼もまた一年経たずして破滅することになる。
翌長享元年(1487)五月一日 出雲守宗直と京極高清は国友河原で再び戦った。
そして宗直は見事に敗れ 本拠地である月瀬にて自害を遂げた。大日本史料データベース

一般的に 多賀出雲守家はこの日に滅んだ。

出雲守家の復活?

このように通説では 長享元年(1488)五月一日で多賀出雲守家は滅び去ったとされてきた。
しかし二十年後の永正七年(1510)二月二十二日 義澄追討を命じる義稙の御内書に気になる名前が登場する。
この御内書は 多賀豊後入道 藤堂九郎兵衛尉 という名前が登場する為に 記事やブログ^で紹介してきたが まだ気になる部分はあった。

多賀四郎右衛門とのへ

そう 清直と同じ名前の人物がこの年に登場するのである。
坂田郡志 では 彼の諱を 勝直 としている。
確かに 四郎右衛門 の字を見るに 彼を出雲守家の後裔と捉えるのは自然な事だろう。ならば出雲守家というのは宗直の死を以て滅んだ とするのは誤りで その後も続いていた可能性が考えられるという訳だ。

参考となるのは 江北記 大成兵衛四郞 於月瀨生害 その次代が 正雲四郞右衛門 と記されている。恐らく坂田郡志も この記述を参考としたのだろう。

さて東浅井郡志四巻に収まる竹生島文書には 大永八年(1528)六月八日付の 多賀政忠書状 九十六 が載る。
これは竹生島の都久夫須麻社の諸役を免除する内容である。
竹生島神領並諸役免除之事。親候者勝直任成敗之旨 仰出候也。恐々謹言不可有相違之儀候也。恐々謹言

なんと 親候者勝直 と記されているのである。そうなると政忠なる人物は 勝直の子息である可能性が考えられる。ここに 多賀勝直 の存在が確認される。
なお この文書に関して大日本史料データベースでは享禄元年としているが 六月当時であればまだ大永の頃である。

さて二ヶ月後の八月 内保河原で京極氏の内乱そして浅井氏と上坂氏の覇権争いとなる戦いが行われた。
江北記 によれば八月十三日に 正雲四郎右衛門 の次代 四郎右衛門 が討死と記されている。
この四郎右衛門親子の記述は 竹生島文書でも裏付けが取れるため 自ずと政忠が内保河原で命を落とした事がわかるだろう。

^:打ち消し線追加/20240511

高清の菩提を弔う

更に三十年近く経った天文七年(1538)九月十六日 その年の一月九日に亡くなった京極高清を弔う旨を記した書状が 黒田宗清と沙彌昌運の連署で発行されている。上平寺文書
この沙彌昌運というのは注釈に多賀と付くから 多賀昌運と見ることが出来る。^2
彼が江北記に見られる 正雲四郎衛門 なのだろう。

坂田郡志では 彼を 多賀勝直入道昌運 としているので それを踏まえると高清の死を受けて剃髪 入道を号したと考えられる。
実際に 沙彌 という言葉には 未熟な僧 という意味があるので コトバンク 精選版 日本国語大辞典 この見立ては我ながら正しいと思われる。

そして忘れてはならないのが 清直の父である多賀高直という人は 高直入道昌宗 と坂田郡志に記されている事だ。
昌運 昌宗 とてもよく似ている。やはり 彼は出雲守家の人間として考えてしまう。
そして残念ながら勝直入道昌運の動向は これで途切れてしまう。

^:北村圭弘氏はこうした 坂田郡志 の記述を否定して 昌運 正雲 でもなく 勝直 でもない との見解を示している。正雲 四郎右衛門 勝直 子息政忠という部分は変わらない。滋賀県立琵琶湖文化館研究紀要第四十号 多賀氏の系譜と動向 /20240511

出雲守家として

昌運と清直 宗直親子の関係性は定かでは無い。しかしこのように 四郎右衛門 出雲守家代々の名乗りを使っているのは 実に興味深い。

さらに面白いのは 高清の菩提を出雲守家と思しき人物が弔っている点だ。
やはり宗直も最期は敵対したとは言え 多賀出雲守家は高清を盛り立ててきた。
京極高清はそうした出雲守家の献身に報いるべく 勝直を許したのだろう。

なお 多賀出雲守 という名乗りは 天正十六年(1588)頃に復活を遂げた ^
最も安土桃山時代の多賀出雲守というのは皮肉なことに 豊後守家を継いだ政勝 秀種 だというのは歴史の面白いところだ。

^:北村圭弘氏は秀種が出雲守家所縁の地を宛がわれている点に着目し 出雲守家を継承したとの見解を示している。滋賀県立琵琶湖文化館研究紀要第四十号 多賀氏の系譜と動向

他の多賀氏

多賀氏は豊州家と雲州家だけではない。

例えば次のような多賀氏を見ることが出来る。

多賀内介

まず 彦根市史 史料編第五巻 古代中世 多賀内介貞親 を見ることが出来る。
これは天文十一年(1542)三月十一日の 多賀大社勧進坊主修理所定等写 六三八 に見られるものである。
その諱から同時代の豊州家当主 貞隆との関連が考えられる。

内介は 戦國遺文佐々木六角氏編 にも見ることが出来る。
これは天文二十二年(1553)七月十一日付けの 多賀内介 河瀬藤兵衛尉殿御宿所宛高野瀬承垣書状 746 である。その内容は 犬上百姓が勝手に名字を名乗り 侍と偽ることで多賀大社の神事役を怠っている という不法を停止させる為の内容である。
高野瀬承垣は六角の奉行であるから この書状は実質的に義賢からの命と考えても良さそうだ。

多賀氏と多賀大社は関連が薄く むしろ大社と関係を持つのは河瀬藤兵衛の河瀬氏で 多賀大社叢書 は河瀬氏を 神官 と解説するほどである。
そうしたところで内介は多賀氏にあって 唯一多賀大社と関係を持った事が一次史料から確認される人物と見て良いだろう。

さて多賀内介は意外なところでも見ることが出来る。
それが天正十三年(1585)六月十一日付の 丹羽長秀充行状 である。
何と多賀内介が越前国内に三千石も宛がわれている。

この内介は貞親の後裔と考えられ 恐らく佐和山時代から丹羽長秀に従っていたものと考えられる。近江時代の所領は 犬上郡に同規模有していたのだろうか。
その後丹羽家は改易の憂き目となるが 果たして内介はどうなったのか定かではない。

なお長重の次に越前を治めたのが堀秀政であるが 彼が弟の多賀源介 後の秀種 に宛がった所領の中には内介に宛がわれた 坂井郡長畝郷伊井村 も含まれている。最も内介は伊井村吉田くみを本知 源介は伊井村内と 厳密には差異が生じている。

多賀三郎右衛門尉公清

永禄三年(1560)十二月二十六日には多賀三郎右衛門尉公清から瑠林坊宛に書状が送られている。これは東浅井郡志四巻の竹生島文書 一二六 に収まるので 瑠林坊は竹生島の関係者とみられる。
彼は 賢政公事 とある事から 浅井に従った多賀氏なのだろう。^

^:北村圭弘氏は秀種が出雲守家庶子家との見解を示している。同時に政経の頃に存在した 多賀三郎右衛門 と父子との可能性も示している。滋賀県立琵琶湖文化館研究紀要第四十号 多賀氏の系譜と動向

多賀備中守

さて太田浩司氏は浅井長政から多賀備中守へ宛てられた書状を紹介した。浅井長政と姉川合戦 : その繁栄と滅亡への軌跡 増補版
この多賀備中は 虎御前山図 佐々木南北諸士帳 に見られる人物である。しかし後者の史料的な評価を踏まえると実際のところは定かでは無い。
北村氏は浅井郡の多賀氏の一例としてこの 多賀備中守 を示す。滋賀県立琵琶湖文化館研究紀要第四十号 多賀氏の系譜と動向

実際の史料では鳥取城落城後に高草郡吉岡城に入れられた 多賀備中 が存在する。鳥取県史ブックレット 1 織田 VS 毛利―鳥取をめぐる攻防
これは天正九年(1581)に秀吉が宮部継潤へ宛てた書状に見えるもので 多賀備中 吉岡ニ可被置候 とある。この備中守が浅井長政から書状を受け取った人物と同人物か定かでは無い。
ただ宮部配下なら浅井郡の備中が従うことに蓋然性はある。
また長享年間には出雲に 備中守信忠 が存在したようで 大日本地誌大系 彼らの末との可能性もあるだろうか。^

^:多賀備中項の更新日注釈入れ忘れに気がつく。一応 0519 更新分より反映されているが 記したのは 0511 か/20240526

久法軒多賀常陸入道

永禄五年(1562)三月十日 久法軒多賀常陸入道宛てに後藤賢豊より 義賢条書写 遺文八六〇 送られる。^
内容を読むと 常陸入道が坂田小野庄の人間と見える。この書状は十三日には常陸から米原平内兵衛へ転送されている。

淡海温故録 多賀常陸守 多賀常陸入道以仙 の息が 新左衛門賢長 と記すが実のところは定かでは無い。^

^:リンク追加/20240511
^: 淡海温故録 の記述について加筆/20240511

結びとして

結局のところ 常則や少兵衛の出自も貞能の半生も 多賀良氏の出自生涯は一切不明である。
彼らは突然犬上に現れると 乱世を愉しみ 乱世に消えた。
唯一 名を残しているのは大したものだ。
そして彼らの縁が産んだのが藤堂高虎である。

令和元年五月三日
微修正と移転 令和二年五月二十五日
加筆修正 令和二年十月二日
加筆修正 分離など 令和三年二月五日
加筆修正 移動など 令和四年三月十六日
アドレス変更 令和四年九月二十九日
令和 6 年(2024)5 11 日から脚注で対応