藤堂高虎前史
藤堂氏の出自や、 高虎の先祖が如何の事績についての研究や論文は僅かで、 中世史を専門とする榎原雅治先生が平成二十三年(2011)五月に 『歴史書通信』 へ寄稿した 『藤堂家始祖 「三河守景盛」 の素顔』 のみだろう。
しかし、 この論文がその後の藤堂家研究を深化させたのもまた事実である。この論文に強く影響を受けたのが、 当代の藤堂高虎研究の大家たる藤田達生先生である。
有力領主藤堂氏
藤田先生は、 それ以降に刊行された伊賀市史や著書 『藤堂高虎論初期藩政史』 の研究内 「補論藤堂藩の誕生」 に於いて、 同論文を引用し次のように記した。
「近年の研究によって、 家祖藤堂三河守景盛が公家広橋家に仕える重臣であったことが明らかにされている。公家侍藤堂氏は、 古記録にしばしば登場しており、 京都にも拠点を持つ有力領主であったと見るべきである」
私は最近まで、 藤田先生の同著書をざっくりと読んだ中で 「どうやら、 藤堂家はそれなりの家のようだ」 という認識を持っていた。
広橋家の家僕
そして迎えた令和二年(2020)七月、 浅井氏台頭前後に出てくる 「藤堂氏」 を調べている中で、 偶然に 「戦国期摂津国における近衛家領 (鶴崎裕雄、 湯川敏治)」 という論文を見つけると、 「広橋家の家僕藤堂豊後守」 という文字列に出会う。
榎原先生の論文を見つけたのは、 その直後の事であった。
古記録から探る藤堂氏の活動実態、そして藤堂高虎へ
この二つの論文との出会いは衝撃的で、 私を室町時代の古記録へと導いた。
夏から秋にかけて、 私は 『公室年譜略』 と 『高山公実録』 を読み直し、 更に 『歴名土代』、 『兼宣公記』 や 『守光公記』 を読み漁り、 可能な限り藤堂高虎の先祖たちの動向を収拾した。
藤堂高虎の出自に関しては、 令和元年(2019)に母系多賀氏についての考察を行っているが、 今回は父系である藤堂氏を、 その祖とされる景盛から順に考察を行う。
その概略
有力公家広橋家に仕えた藤堂氏
ここで重要となるのが藤堂氏は広橋家に仕えていたという点である。
藤堂家編纂史料では 「足利将軍に仕え」 と記されるが、 そうではなく景盛から代々広橋家という有力公家に仕えていた事を最初に記す。
広橋家とは、 が、 でという家で応永から永禄頃まで藤堂氏は活動していた事が古記録から読み取ることが出来るのである。
広橋家に仕えていない藤堂氏
一方で、 広橋家に仕えていない藤堂氏が存在したことも重要である。
彼らの出自は不詳で、 広橋家に仕えた藤堂氏、 特に景盛系統との関係もわからない。
しかしながら、 京極氏の隊下に加わり上洛に従った藤堂氏、 室町幕府から中郡の有力者として頼りにされた藤堂氏、 浅井氏の台頭に顔を出す藤堂氏などバリエーション豊かな藤堂氏も、 古記録にその存在を見ることが出来る。
高虎の先祖とは
先に結論を述べると、 藤堂高虎と広橋家に交流があったとされる記録は遺っていない。また高虎の祖父や曾祖父もまた謎が多い。
特に曾祖父の高信は景盛の後裔 (景富系統) とされるが、 その存在および出自が不自然である。
そうした部分も累代解説で考察を行おう。
藤堂氏累代解説
→藤堂氏は景盛(応永年間1400~)以来、有力公家・広橋家に仕えていた
→長享年間に一族が自害・横死する事件が起こった
→藤堂氏の娘が山科家の家司大沢氏や広橋家の同僚速水氏に嫁いでいた可能性
→広橋兼勝の代に藤堂氏は存在を消し、一族の中から高虎に仕える者が出た(後に久居藩重臣藤堂八座家となる)
→公家侍藤堂氏とは別に、在地と考えられる藤堂氏が居た(高虎の先祖異説)
→幕末の広橋家で活躍した藤堂氏が存在した
藤堂氏の系図を考える
室町時代古記録に見られる藤堂氏全目録
附論・藤堂氏と名前が並ぶ京極氏被官について
附論・伊勢御師上部家記録「願祝簿」に登場する藤堂氏
未完の研究
これより熟々と解説を行うが、 これが全てでは無い事を示す。
今後の史料の発見や、 また翻刻史料の充実により毎年毎年のアップデートを欠かさず行いたい所存で或る。
特に今現在史料編纂所に於いて 『綱光公記』 の翻刻が行われ、 また 『兼宣公記』 も未翻刻の部分が或る。更に 『守光公記』 に付随すると思われる 『守光公雑記』 (未翻刻) には 『明金日記』 なるものが存在するようで全容解明が待たれる。
藤堂高虎研究
藤堂高虎は人気なのに、 高虎以前の藤堂氏について調べる人は皆無である。
例えば 「藤堂高虎」 「先祖」 と調べてみると、 概ね高虎の末裔に関する記述が大半で、 どうやら人は 「藤堂高虎の先祖」 「藤堂氏」 には興味がないらしい。そんなものだから近年まで高虎の出自について 「没落した地侍の家に生まれた」 だの 「ほぼ農民の家に生まれた」 と解説される事が多かった。
結論からいくと、 この説明では不十分と言わざるを得ない。
この藤堂高虎前史は、 そうしたモヤモヤを解決する為に書き上げた高虎研究 ・ 藤堂氏研究の最前線である。
真に藤堂高虎とその先祖を知りたい意気或る御仁に読んで戴きたい。
さてはて幕末から明治にかけて、 「藤堂家は藩祖の教えがしっかりと受け継がれておりますな」 などと誹りを受けたらしいが、 何も高虎がはじめたのではない。
室町以来の御家を守る為、 権力と権力の狭間を上手く乗り越えた武家 ・ 領主の本懐を幕末まで守り抜いた津藩藤堂家の勝利なので誇ったほうが良いぞ。
家系図
以下に系図を示す。
留意して戴きたい点は、 景俊以降は久居市史所収の 「藤堂八座家系図」 を全面的に信用した点、 祖父や曾祖父の曖昧さから藤堂高虎に至らないという二点である。
多くは 『歴名土代』 による。陽専坊興憲が景能の子息との論拠は 『三会一定記』、 景安孫娘の嫁ぎ先 ・ 綱守母については 『尊卑分脈』 を参考とするが、 その傍証は 『言継卿記』 に於ける 「掃部いとこなり」 による。これは藤堂又五郎も同様で、 彼は 「掃部いとこ又三郎子」 によって比定した。
広橋侍藤堂家及び久居藩重臣藤堂八座家系図
藤堂景盛
┣景能
┃ ┗陽専坊興憲
┣景富
┃ ┣景持
┃ ┗景隆
┣景勝
┃┣景敦
┃┃ ┣某
┃┃ ┗景俊
┃┃ ┗景任
┃┃ ┗景豊
┃┃ ┗景久
┃┃ ┗平介景政
┃┃ ┗大蔵景時 (今西孫右衛門)
┃┃ ┣今西孫右衛門景冬
┃┃ ┗今西孫三郎景由
┃┃ ┗大蔵
┃┃ ┗左平太
┃┃ ┗八座
┃┃ ┗八座 (大蔵)
┃┃ ┗八座
┃┃ ┗八座 (大蔵)
┃┗景安
┃ ┗某
┃ ┣山科侍大沢重敏 (綱家) 室 (綱守、 重成母)
┃ ┗又三郎
┃ ┗又五郎
┗景長
福寿院由来記による備前守系図
藤堂備前守
┣某
┣某
┗ 正受坊秀仙 (敏満寺福寿院三代目住持)